(望まるるは夢の典礼、円環の永遠性への讃歌なり。)
(”私”なんて初めからいなかったのよ。――結界の先へ赴く際、不可思議に反響した日中の声。梢のざわめきに似て覚える胸騒ぎが、気の所為であれば良かった。一種の密告めいて、手の内に渡った魔方陣の一枚。一縷の怪訝も呈さず拝謁した御前で受け取る声、表面上は今明かされた形となる秘匿事項にも顔色ひとつ変えず。後者に関しては驚愕の振りでもすべきであったか解らぬが、生憎と演技の心得はない。騎士はいつなりとも騎士として、敷かれた道を真っ直ぐに進むしか能わなかった。心身の両面で学びを深め続けた昔日も、付き人として侍る命を受けた朝も。跪く姿勢のまま新たに下った命を聴覚が捉え、俯けた双眸をごく静かに瞠る今も。額面通りの勅命か、立場上直截な表現を選れなかった君主による某かの比喩か。噛み砕けば如何様にも解釈しうるその真意を、更に問う真似はしなかった。否、出来なかった。面を上げよと赦しを得て仰いだ尊顔に、父親の表情を垣間見たから。定めへの憐憫、決断への悔恨、行いへの罪悪感。器用さには欠けれど確かに注ぎ続けてきたであろう、血を分けた子らへの愛念。単純に、人間としての後ろ暗さも孕んでいたか。或いは感じ取ったそれら全てが、希望的観測を透かす色眼鏡であったやも知れぬ。十七年にわたり構築された父と娘の関係など存ぜぬ月輪が、父に母に真っ当な幸いを注がれ育った若輩の我が身が、ただの一瞥で全てを悟れたなどと思い上がれはしない。ゆえに詰る権利も持たず、そも考えが及ぶ時点で不遜だと自覚して。膝上に置いた手の片方に、戒めのよう爪を立てた。)――…御意に。(かそやかなれど明確な是の音が、静謐の空間に響く。慇懃に垂れた亜麻色のこうべは、王の信頼を賜るに相応しき所作と看做されたろうか。微かに届いたかの御方の一息が、安堵か嗟嘆か将又別の何かかも察せられぬというのに。成る程確かに恐ろしい。双ツ首に擬えられる二子ではなく、擬えさせる円環が。ただ一度の誕生で罅入らせる異分子より、際疾い均衡を保ちながら連綿と続いてきた平穏が。全ては偶然の産物に過ぎぬと、誰一人声を上げることも侭ならず罷り通ってきた常識の基盤が。そこに月光の一片ほどの疑問も抱かず、曲がりも捻れもせず二十有余年を過ごしてきた己自身が。一人螺旋階段を下って場を辞しては、振り向き様に仰ぐ尖塔越しの夜空。高くも閉塞した濃紺は、斯くも空々しき色をしていたろうか。満天に散る星さえも無残に砕かれ、骸と化した光の成れの果てが如く見える。湖の畔で二人仰いだ星空は、彼女の眸に映ることを誉れとするよう澄み渡っていたというのに。あの夜から季節を一つ経るばかりだというのに、同じ天が似ても似つかぬ見え方をするとは可笑しなもの。種明かしを受ければ実の所、皮肉にも腑に落ちる部分が多少あった。代々王室に忠誠を誓う伯爵家の子息、とりわけ堅物に育った男が王命に背くとは早々考えられず。粛々と任務を遂行した上で、決して口を割らぬとは誰の目にも明白であったろう。その手で人を処したなどと、命令とはいえ人倫と比せば到底誇れぬ事実。国家最大の秘め事諸共、騎士自身の墓場まで持ってゆくに違いないと。合点がいくと共に沸々と湧き上がる昏き思い、そこに名を付けることは放棄した。王立騎士団に宛がわれた御立派な宿舎へ戻るまで、時刻も時刻であるからか誰とも行き会わなかったのは幸い。今は人に見せられる顔も、交わすべき言葉も持ち得てはいなかったろうから。自室へと至った時、腰に帯びたレイピアが厭に涼やかな音を鳴らしたように思う。狭苦しくなった脳裡に、家の訓戒を一つ反復させる。剣の腕は徒に命を奪うために非ず、護るべきを護るべく磨き続けるもの。時に敵や獣を屠りもすれど、全ては掲げた誇りと信念の下に。世の人蔑ろにせしとも、己が信ずる道のままに。)……かのお命は、敵や獣のそれと同じだと。(省みる教えに、独り言つ自問。誰に聞かれることもない声は一切の取り繕いを要せず、美しからぬ自嘲や矛先を失った侮蔑も多分に含まれていよう。この状況が条理か不条理か、それすらも今は判然としない。睫を伏せて鎖す視界の中、浮かぶは見紛いようもなき唯ひとりの笑顔。未知へと思いを馳せて煌めく暁の星光。その輝きが揺らいで朧になる時、消え失せぬようにと手を尽くしたがる心はいつから芽生えたものだったか。ただ一輪の鈴蘭を手に、至上の喜びを知ったが如く咲き綻んだ顔。“もう半分の姫君”を自然に装う日々の中で、時折儚く惑う姿。無邪気に跳ねる声が悪戯っぽさを滲ませる瞬間は、ひとたび立場を離れたが如く普通の少女の瑞々しさを纏っていた。園庭でも見られるナスタチウムの姿を一途に探し、せわしく外界を舞い飛ぶ視線。眸も心も刺したであろう戦いの残滓を前に、気丈さを保つ気高い声。硝子一枚を隔てて注がれた、曇り無き慈しみの優しさ。夢の珠を転がす音色に、心も耳も傾け続ける澄み切った存在。涙混じりの本音。無垢な望み。疾うに分かり切っていた、笑顔のみならず何もかもが、 ――)

(静かな宵だった。一人の男の胸中で、何かが静かに瓦解する音など誰にも聞こえやしない。各々の思惑ごと深沈たる夜気に包まれ、有るか無きかに溶けてゆく。夜更けに白鳩が一羽、城下町の方向へと羽ばたいてゆく。これもまた、終わりの始まりを綴じた一日。民には至極有り触れて平穏な、冬月のひと日に過ぎなかった。)
* 2022/11/20 (Sun) 03:02 * No.14