(雪解けを緩う六花は君影映す花弁に宿り。)
(キュクロスの末の姫の婚約の報は円かな祝福を受ける大地から離れた分だけ細くなって聞こえた。報に付随する噂話も離れた地では扇情的な要素も薄れ、それを聞く人々の顔も長閑なものだった。雪の白に刻む足跡が徐々に薄くなり、谷間に清水が細く流れる音が密やかに奏でられ始める。山は遅い春を開花させようとしていた。)……あら、(ヴェールを捨てた娘はそれでも何も無いのは落ち着かぬとストールを手離すことはなかった。最初の街で欲しがったのは身に纏うものよりもそれで、長年の習慣は簡単には抜けないものだと気付かされる。多くのことを知った。多くのことを学んだ。指先が少し堅くなった分だけ娘は世界に触れた。共に見る夜明けの眩さ。陽が昇る前の静けさ。身に受ける雨雪の冷たさ。それから冬の終わりの風の柔らかさ。)ひとつ、頂けるかしら?(物を買うことも覚えた。こんなことになるのならば路銀の足しになるような物をひとつでも持って来ればよかったと気付いたのは、円環の太陽が降る土地が山に隠され振り返れど見ることも叶わなくなってからであった。外套や寝衣も売ればそれなりの値段になろうが彼はそれを求めることはしなかっただろうしその必要もなかった。一人で外を出歩くことには勇気が要ったが近頃は宿の周りをそろりと見て回る小さな冒険を試みることが増えた。今日もまたそんな小さな冒険の道中である。)お代は要らないの?(山に程近い街道沿いの集落には住人の数より旅人の数が多い。男と女の二人旅などありふれていて幼い子どものいる一団もあった。時折土砂崩れや魔物の出現という事件はあったがそれでも人々の歩みは止まることはなかった。キュクロスとその周辺国の積み重ねた努力をこうして肌に感じる日が来るとはほんの数ヶ月前は想像もしていなかった。山はまだ白を纏っていたが、この集落より先では一足早く春が訪れているらしく雪を見られるのはもうあと数日の内だけだろうということだった。大地の色が覗き始めたのを合図に集落はそこかしこを、一足早く春を迎えた地方から取り寄せた花と布で飾って、春の到来を祝っていた。春の風がこうして目に見える形で山を登ってゆくのだと知らない曙の眼差しは目を輝かせるばかりで宿の窓からも集落を眺めていた。さて此度娘が足を止めたのは宿に面した噴水広場で行商人が広げた露店の前であった。人の良い商人夫妻は旅慣れていて、一目で娘が世間から少々浮いた存在であることに気付いたが何を言うわけでもなかった。娘が欲したのは店先にあったある物で、この店で物を買った人々が皆手にして帰っていた。)お祭りだから皆に配っているの? そう。ありがとう。(ある物を手にした娘の旅の苦労を未だ知らぬ満面の笑みに、夫妻は何を思ったか誰かにあげるのかと訊ねる。すると娘はより一層笑みを咲かせて大きく頷いた。)そうよ。一等大切な人にあげるの。だって春を迎えた祭りでは贈り合うのだとその人が教えてくれたのだもの。私もね、先の春には頂いたのよ。 ……そう、頂いたのだけれど、 全部、置いてきてしまったわ。(他人と話すことに浮かれた娘は言葉を連ね、眼裏に出逢った春を映した。されどそれは不意に消え失せる。唐突に浮かんだ切なさは初めてもらった物が手元にないという事実に対して。きっと姉が大切にして来れてはいるのだろうが。表情を曇らせる娘に婦人の方が「今年もきっと貰えますよ」と優しく声をかけてくれたものだから、娘は瞬きをはらりと落とし、ストールを口元に寄せて表情を隠しながら再び笑みを浮かべた。)ふふっ。ありがとう。そうね。(そんな娘を手招きし、「それに……」と婦人が娘の耳にひとつの物語を授ける。娘は少しだけ驚いて、それから「素敵ね」と笑った。婦人は最後に銀灰色のリボンをそれに結び、「お代は要りませんよ」と笑顔で送り出してくれた。)
ね、リューヌ。(部屋に戻り、彼と眼差しを重ねる。手を背に回して冒険の成果を隠す顔は無邪気な悪戯と無垢な歓びに溢れていた。早く成果を披露したくて仕方のない幼子は、それでも数秒勿体振るように間を置いてそれから二人の間にそっと手を出した。)見て、鈴蘭よ。 春なのよ。(そう露店で手に入れたのは銀灰色のリボンを纏った一輪の鈴蘭。キュクロスの周辺では鈴蘭を贈り合う風習があると知った店の計らいであった。この時期はたっぷり用意して店を開くとおまけとして鈴蘭を配っても売り上げが上がるとか。)ここより先では咲いていて、そこから運んで来ているのですって。春だから、それぞれの店で違う花を配っているそうよ。(嬉々として冒険の成果を語る娘に彼は何を思うか。いずれにせよ曙の眸は一粒の星を抱いて輝く。そうして楽しげに冒険譚を語った後にそっとその胸元に捧げるように腕を伸ばす。)……私からも贈りたかったの。春の喜び、貴方と冬を越えた喜び、貴方と共に夏へ迎える喜び。 私達が出会ってひとつ季節が巡るのよ。(出逢いの日も、あの庭も、二度とは戻れない。それでもいつまでも記憶の中であの日は鮮やかなままだ。どれほどに時を重ねてもきっと色褪せることはないのだろう。)次はジャカランダが咲く場所へ行って、それから夢の珠が鳴る場所へ行きましょうね。 どこかにずっと此処に居たいと思える私達の場所が見つかるかしら。(花を追って春の向こうへ、それから夏の夢が強く香る土地へ、まだ見ぬ場所を求めて。娘と娘の愛しい人の道はまだ続く。)……ね、お店の方が教えてくれたのだけど。(聞いて聞いてと、婦人が娘にしてくれたように娘も彼へと耳をこちらに寄せるように強請る。「お店の方の地方では愛する人に鈴蘭を贈るのですって」とこっそりその耳に忍び込ませて同じ唇で笑みを描く。)リューヌ、愛してるわ。(そのまま耳へと捧ぐ言の葉は名付けて間も無い響き。淡く消えれど人の心に残り続ける白の色、雪の色、鈴蘭の色のような人々が忘れえぬ言葉。太陽の下、月の下、幾度もその言葉を重ねられることを願い、鈴蘭の花を愛しき君へ贈ろう。)
ね、リューヌ。(部屋に戻り、彼と眼差しを重ねる。手を背に回して冒険の成果を隠す顔は無邪気な悪戯と無垢な歓びに溢れていた。早く成果を披露したくて仕方のない幼子は、それでも数秒勿体振るように間を置いてそれから二人の間にそっと手を出した。)見て、鈴蘭よ。 春なのよ。(そう露店で手に入れたのは銀灰色のリボンを纏った一輪の鈴蘭。キュクロスの周辺では鈴蘭を贈り合う風習があると知った店の計らいであった。この時期はたっぷり用意して店を開くとおまけとして鈴蘭を配っても売り上げが上がるとか。)ここより先では咲いていて、そこから運んで来ているのですって。春だから、それぞれの店で違う花を配っているそうよ。(嬉々として冒険の成果を語る娘に彼は何を思うか。いずれにせよ曙の眸は一粒の星を抱いて輝く。そうして楽しげに冒険譚を語った後にそっとその胸元に捧げるように腕を伸ばす。)……私からも贈りたかったの。春の喜び、貴方と冬を越えた喜び、貴方と共に夏へ迎える喜び。 私達が出会ってひとつ季節が巡るのよ。(出逢いの日も、あの庭も、二度とは戻れない。それでもいつまでも記憶の中であの日は鮮やかなままだ。どれほどに時を重ねてもきっと色褪せることはないのだろう。)次はジャカランダが咲く場所へ行って、それから夢の珠が鳴る場所へ行きましょうね。 どこかにずっと此処に居たいと思える私達の場所が見つかるかしら。(花を追って春の向こうへ、それから夏の夢が強く香る土地へ、まだ見ぬ場所を求めて。娘と娘の愛しい人の道はまだ続く。)……ね、お店の方が教えてくれたのだけど。(聞いて聞いてと、婦人が娘にしてくれたように娘も彼へと耳をこちらに寄せるように強請る。「お店の方の地方では愛する人に鈴蘭を贈るのですって」とこっそりその耳に忍び込ませて同じ唇で笑みを描く。)リューヌ、愛してるわ。(そのまま耳へと捧ぐ言の葉は名付けて間も無い響き。淡く消えれど人の心に残り続ける白の色、雪の色、鈴蘭の色のような人々が忘れえぬ言葉。太陽の下、月の下、幾度もその言葉を重ねられることを願い、鈴蘭の花を愛しき君へ贈ろう。)
エオス * 2022/12/10 (Sat) 12:06 * No.10