(クリストローゼへ捧ぐ。)
(海を渡り降り立った異国の港町は祖国の王都よりも賑やかかつ華やかだった。三分の一が異国人だと云い多くの言語が飛び交うなか、内陸国であるキュクロスは他の国々よりも縁遠いように想われるのは郷愁が理由だろうか。貿易で築かれる財は大きく、港町における商人たちの発言権は爵位を持たないにも関わらず決して低いものではないという。一代で名を上げた大商人も異国の市民だというから、やはりキュクロスとは遠い国だった。小料理屋に入れば女性の給仕を受け、年端もいかない子どもたちが露店や漁船で荷解きを手伝うのを目にしたから仕事の選択肢も無数にあっただろう。雪が降らないという季節の移ろいも、騎士王を頂かない国の成り立ちも、多くが異なったけれど、魔物を脅威とする事柄は共通事項であり、彼が魔物討伐へと出向くのは当然の成り行きだっただろうか。剣があればいいと少年の面影をみせたひとから剣を奪おうとは思わなかった。けれど、少女が無条件に賛同できた訳ではない。致し方ないと納得もできなかった。『その日のうちに帰ってくること、怪我は隠さないこと、場合によっては痛みだけでなく傷も委ねること。』と約束を求め、聞き入れられないのであれば一緒に行くと言って彼の剣を抱きしめて放さなかった。独りでは眠れないから一緒に眠って、上手くできないから髪を結んで、寒いから抱きしめて、そんな風に本音も言い訳も曖昧にして船旅の数日ですっかり彼に甘えていたから本当はひと時だって離れたくなかった。あっという間とはいえ、城を出て確かな日数が経っていたにも関わらず、少女が一人でできるようになったのは馬の世話だけ。大人しく留守番はできたけれど、一緒に暮らすからには役に立ちたいと彼が出掛けるのを見送ってすぐ、腰下まであった髪を肩甲骨程まで切って売り払った。正面から見た時に印象が変わらないようにしたのは、彼に触れてもらう理由をなくしたくなかったから。髪を売って得た金銭は食卓いっぱいに並べた料理と愛馬たちの果物に変わり、一日で使い切ってしまった。そうやって始まった生活での少女の成長は、掃除はまずまず、洗濯はまだまだ、炊事はまったく、というところで伸び悩み、近所の子どもや女性に刺繍やレース編み、読み書きを教える代わりに、食事のお裾分けをしてもらうところで落ち着いている。その縁から、翻訳や通訳の仕事が舞い込むようになったけれど、空いた時間を埋める程度にしか取り組んでいなかった。収入を得るよりも、周囲に住まう人々との時間を大事にしたいとは贅沢な願いだろう。そろそろ帰ってくる頃だろうとテーブルに料理を並べ終え、手持無沙汰に服の上から首からさげた姉の贈り物をなぞっていると鍵の回る音がして、)――おかえりなさい!シリル。今日はパンを、(帰ってきた慕わしいひとに笑顔を向け、手を伸べる。今日は一緒にパンを焼いただとか新しい知り合いが増えただとか容姿を褒めてもらっただとかあれこれとお喋りを始めようとした唇は、抱きしめられ耳に落とされた己の名にぴたりと封じられた。未だに慣れず、面映ゆさで言葉を忘れてしまう。真っ赤に顔を染め上げて大人しく腕のなかに納まった。――名付けるという行為に重きを置いていたから、かたちは何でも良かった。強いて言えば、彼が呼びやすいものが良いとは思っていたけれど、呼ばれずとも構わなかった。適当につけたくないと云う意味すら考えていなかったから、美しい花の名前を渡された夜はお礼を言う前に泣いてしまった。少女にとって、多くの花弁を持つ凛然とした花は“愛”の象徴だった。小説や絵画を彩るモチーフというだけでなく、姉を喩える特別な花だった。どういう意図があったのか教えてもらったわけではないけれど、彼のものに、彼が美しいと想えるものに、なれた気がした。)…明日、ううん、今すぐ、行きたい。あなたの気が変わらないうちに…。(名前を呼ばれるだけで、その瞳に映るだけで、しあわせだと想っていたけれど、欲にはやはり際限がない。彼と肩を並べるひとたちや彼の心を奪うかもしれないひとたちを知りたくて斡旋所へ彼を迎えに行ったことがある。市に二人で出掛けた時に彼と一緒に戦うというひとに出逢ったこともある。そのどちらもに彼があまりいいかおをしなかったから、面倒事の多い同居人の存在を隠しておきたいのだと思っていた。致し方ないと納得していたけれど、お揃いで指輪を着けてくれるという。――購入するだけかもしれないとこっそり予防線を張る。けれど。)……わたしも、愛してる。(せっかく張ったものを彼は容易く越えた。同情でも誤解でも何でも良かった。彼が傍にいてくれるのであれば。好意を、大事にしてくれるこころを疑ったことはなかった。ただ、感情に名を付けるのが怖かった。“愛”はもっと美しいものだと思っていたから。とおく離れようとしあわせを祈り、願えるような純粋なものだとおもっていた。見返りを求めずに捧げるものだと。“恋”と名付けるのも不吉だった。裏切られ破れるものだと想っていた。盲目に破滅を迎えるものだと。それでも、彼が名を付けるのであれば、傍にいたいと望み、現在と未来を指輪で繋ぐものを愛と呼ぶのであれば、愛と呼ぶことを赦してもらえるのであれば、ずっと、伝えたかった。)…シリル。(ほろほろと溢れる想いは涙へとかわり、浮かぶのは微笑みだった。好きも嫌いもお揃いにしていた“レティーシャ”の例外であり、唯一のひと。姉に遺したいと願うことすら“わたし”にとって初めてのことだった。“わたし”の名前を呼んでほしくて、“わたし”だけを見つめてほしい。額に熱を与えられ、喜びに胸にひろがる。そうして次にはまた、欲が生まれる。左手の一本一本の指を絡ませ合って、右手は彼の頬に触れたがった。目を瞑るから、どうか、唇に。)あなたといると、しあわせが膨らむの。…あなたにも、伝わりますように。(際限なく求めて、おなじだけ、彼をしあわせにしたいと望んでいる。ずっと、笑いあって生きていけますように。)
ローズ * 2022/12/11 (Sun) 02:10 * No.15