(月影は君ありてこそ、谷間の姫百合に清明を知る。)
(旅立ってから新たな光が幾つ降り、ごく有り触れている筈の景に新たな美を幾つ見出したことだろうか。思えば初めて二人で迎えた夜明け方、大樹の下を通った折から。早暁の月影は地面にも馬上にもくっきりと花の形を映し、同じ路をゆく彼女の姿はその影と睦ぶようにも見えていた。その後初めに宿を取った地、海の香りを含む風が渡る街では、うつくしい暁の眸に一面の青と夕陽色を映せた充足を覚えて。川辺のナスタチウムとは未だ邂逅に至っていないが、土地によっては食卓にサラダの彩りとしても並ぶらしいとは道中の宿で行き会った旅人からの情報。愛でるばかりでない花の姿を知ったのは互いにとって新鮮な感覚で、いずれ迎えるであろう開花期の楽しみを増やしもした。己達もまた旅人として転々とする街々において、男は日雇いの労に勤しみ、愛する人と共に生き抜くための蓄えとしていた。ある時は力仕事を要する場、特に集落周辺の魔物を討伐する男手として。ある時は二十四年の生で蓄えた、読み書きを含む学の幾許かを幼き子らに教えて。最早囲われるばかりの姫に在らぬ彼女も同様、苦労知らずであった両手に料理を初めとする職を付け始めていたことだろう。優雅で軽やかな身のこなし、丁寧に手入れされてきたであろう艶やかな黒髪、そういった所作や見目の印象から高貴な生まれと察する者も恐らくは居た。だからと何を詮索するでもなく、全てを解せずとも受け容れる世界の寛容さに触れながら。伯爵家の御曹司と一国の姫、恵まれた環境で生まれ育ったが故の苦労は早くも数えきれぬ程に味わっている。同時に生家の存在あればこそ身に着けられた訓練や教養、そこから得る利をも実感しては遠く離れた父母に抱く謝意も計り知れず――由緒ある実家は、前後の状況に鑑みれば父方の優秀な従兄弟が継ぐであろうと推察される。決して軽からぬ役目を押しつけた事実に内心で詫びながら、その資格を持たぬと知るから心密かに幸いを願った。遠くへ残してきた人々に馳せる思いを、言葉無きままに連れ合いと分かち合う宵も屹度あろう。今までも、今後も。それでも後悔は粉雪一粒程もなく、代わりに図太くも生き抜く意を胸に置いて。気付けば一つ二つ、四季を経ようかという頃合いを迎えていた。)

ああ、エオス。お帰り。(宿の一室にて、常のよう名を呼んで出迎えた。居を構えずとも互いの存在を互いの還る家と定めてから、すっかりと舌にも慣れた挨拶と共に。後ろ手に小さな秘め事を持つ様はすぐに知れて、さらばこそ急かすでもなく見守る。世界を知ったばかりの純真さはいつ目にしても微笑ましく喜ばしい限りで、見つめ待つ時間も当然に幸福であった。実の所此度はさしたる待ち時間を要することもなく、無邪気な両の手が取っておきのまことを明かしてくれる。見覚えのある白が、記憶よりひときわ美しく咲き誇っていた。)鈴蘭……そうか、季節も一巡りしようとしているのか。(ふたとせ遡る春祭りにて、幼子から差し出された真白の鈴蘭。護衛中だからとやんわり退けた、鈴生りの純潔。聞く側まで心楽しさを覚える冒険譚の後、此方へと伸びる手には意を問うべくもなく。)ありがとう、とても綺麗だ。(今は騎士の任を持たぬ手ゆえに何の障りもなく、恋人の花を十指で大切に受け取った。在り来りの二言は飾り気がない分曇りなき事実、その手から贈られるだけで如何なる花々より麗しく映るのはこれも惚れた某だろうか。手元へ寄せて花の一つへ唇を触れさせる手前で止めれば、グリーンフローラルの香りが鼻腔を掠める。近しき未来への希望を語る声は、一つ二つと煌めいて無二の星座を結ぶ。地を移らずとも一足早い春を、暖かな日永を連れてくるようだった。)そうだな、君の好む花が一面に咲き乱れる場所へ。この街で見たいものを見終えたら、南風の吹く方へ向かおう。ネージュと共に。 夢の珠に次ぐ贈り物は、永遠の環であれば良いと思う。(日々の中で偶然目に留め、彼女へと手向けたものも幾らかあった。例えば願われて選び購入した、紫雲の色をした繻子織りのストール。繊手に荒れが見え始めた頃手に取った、外つ国の港町より渡来したというシアの樹の軟膏。いずれも彼女ならば品の価値を上回る感謝を伝えてくれたであろうが、男からすれば日常生活に溶け込むそれらは贈品の数にも数えられぬこととして納まっている。贈り物とは、その場の快諾や憂慮に留まらぬ想いを込めたものにこそ用いる表現であったから。先を想見して表明にも等しく空気へ零れた本音は、終の住処を見つけた先、詰まるところ一つ定められた着地点を意味する。何でも構わない、幸福の形を問いはしない――初冬に確固として述べた自らの言と、ともすれば矛盾する言葉であったやも知れない。されど声音は捧げられた君影草と同じ柔さで、何を強いることもなく優しい展望の一つとして描いていると伝わろうか。家族になること、確固たる約束を環に託すこと。長く続いてゆく旅路の先、彼女が此処と確信する地があれば喜んで選びたい形だった。可愛らしい強請りに応えて僅かに身を屈め、内緒事めく囁きにひとたび頷く。リボンと似通う色の一対を柔く、愛しげに細めて笑みの息を落とした。花を寝台傍のチェストへ静かに置き、空となった両腕を緩やかに差し伸べる。)伝えてくれてありがとう、エオス。音も言の葉も惜しみなく注いでくれる、我が君……掛け替えのない君。俺も、君を愛している。(立場を手放して解いた口調、そして呼び名。もう微塵の違和感も覚えない音を大切に編んで噛みしめた。伸べる手に応じてくれたなら、唯一の君を腕の中に閉じ込めてしまおう。壊れ物のよう丁重に、離すまいとする意は伝わるよう確りと。六花は解け、芽吹きの花に役割を譲る。春が来る。雪も花も星も、悠久のときを生きられはしない。されど絶えぬ幸福がここにあった。揃いの音韻を、気持ちを渡し合える至福。今後も決して離れることなく歩み続けられる多福。溢れんばかりの幸いを愛しき君へ、君にこそ贈り続けよう。)
リューヌ * 2022/12/11 (Sun) 04:25 * No.16