(シェリル)
(高き峰のふもと、辺境の町に吹きくだる風は、山頂を白く際立たせる、溶けることのない雪の冷たさを思わせた。あの向こうでは、王国で取り沙汰される様々なものごとも遠く、嘘か誠かの脚色を交えながら、書物から千切りとられた頁めいて断片的に舞い聞こえるようになるのかもしれない。思いを馳せれば気も急くが、道は慎重に定めなくてはならない。しばし身を潜めてから、行商に紛れて国境へ向かうのがよいだろう、ということで、ひとまず商人が扱うには立派すぎる馬を替える手筈となった――のだが、これがひと仕事だった。よそ者のまとう空気というものは、目立たぬ衣で覆ったとて隠せるものではないらしい。いかにも訳ありといったふうの、旅慣れない風体だ。厄介ごとを持ち込まれては困る、と、行く先々で渋い顔を向けられる。信用に足る身分がなければ取引ひとつ満足にこなせぬ、おのれの未熟さを眼前に突きつけられて、男ひとりの旅路であったなら、とても立ちゆかなかったろう。常に隣りに寄り添ってくれるひとの機転に、朗らかさに、どれほど助けられたか知れなかった。)――――、(ひとつの名を呼んで、腕のなかへ招く。質素な、けれど宿の夫人の手によって清潔に整えられた一室だ。年代物の寝台はふたりで腰かけるとひどく軋んだが、この世の終わりのようなその音にもじきに慣れよう。馬の背に乗るときのように、おのれの脚のあいだに座らせて、不揃いの髪を撫でた。つましい道中、手持ちの貯えと剣を振るって稼ぐ日銭があれば、当面の路銀を賄える。姉姫の心遣いをうれしく思いながらも、数少ない故郷の品を手放すには及ばないと、贈られた細工物の使い道は傍らにあるひとへ委ねていた。この夜、男が手にしたのは、そうした餞別のひとつであったかもしれない。無骨な指に握られた小さな櫛が、燭台の灯をこがね色に弾く。見下ろすつむじから、後ろ頭の丸みを通ってうなじまで、やわらかな髪をすくい上げてやさしく梳ると、あたたかな光の輪が広がった。短く断ち切られ、結うにも足らぬ絹糸が、ふたたび豊かに背へ流れ、うららかな陽を浴びて輝くころ。長き旅路の先に、新たな道がひらけているといい。花の一輪を贈る代わり、最後に指の腹でこめかみの産毛をくすぐって、もう一度呼ぶ。ゆいいつの。そして最愛の。そっとささやくたび、こうして触れあうたび、この身は焦がれている。やがて狂おしく育ちきる情が、胸のうちに息を潜めているのがわかる。――けれど、今はまだ。腕を回し、ぬくもりを抱きしめて、祝福の仕草で髪の根もとへ口づけた。)
ジルベルト * 2022/12/11 (Sun) 04:46 * No.17