(春陽のモノエナ)
(山を越えたら寒かった。それはまあ、そうだな、と我が身が得心するのは早かったが、問題は箱入り生まれの荷である。――国境はいたく堂々と、スタンバーグ侯爵領から抜けた。脳裏にいくつか案はあったが、腕に抱えた荷と道連れになった魔物の存在を思うと結局のところ一番安全なのは此処であったと思う。古い従者に連絡を取って、兄や父とは顔を合わせぬまま、王の密命のうちにあるとして馬上のまま通り抜けた。どうせいずれか足は付くだろうが、小さな人ひとりの存在は外套の中にすっぽりと隠してしまったし、従者の目には魔物の処分先を探しているようにでも見えたろうから、断片的な情報を兄と国王がどう判ずるかは任せておく。兄は弟を死んだとは思ってくれないだろうが、思い描いた全てを叶えるのは難しい。王に報告が上がっても追手が来ないなら清廉潔白な使いの途中と見て、捕り物のていを得るならそのまま身分を失ったものとして、諦めてはくれよう。背にした山が屋敷の明かりをすっかり遮ってしまった頃に、細く吐いた白い息の端にだけ、もう一たび兄のことを思う。それで終いにした。連日歩ませても依然にして健やかたる軍馬の速度を落とし、外套の前を寛げて、中に収めていた荷――もとい、攫ってきた少女の頭を外に出してやる。さてこの扱いが彼女に不服だったなら、また刺々しい面持ちでも見られるだろうか。覗き込む男のほうは、どうあれまず笑ってしまうけれど。)雪降ってるぜ。(穏やかな語気が白く吐息をくぐもらせる間にも、天よりそそぐ花弁雪は知れたやも。夕空は雲に覆われて暗い。相応に寒さも感じるだろうが、道中に増やした冬支度は彼女の身に足りているだろうか。暖気の類を得る魔法具は男には扱いやすいものだから、こうして身を寄せている間はとりあえず凍える懸念など無いと思いたいけれども。ある意味では同じく箱入りの魔物のほうが心配かも知れない。雪化粧の中で金眼の気配も辿りつつ、笑う男はやっぱり軽やかに。)とりあえず海岸線とやら行きだな。気長でいろよ。(考えるべき多くを順当に先送りにして、憂いも無さげに手綱を取る。その動作の途中に一度彼女の肩を緩やかに撫ぜて、男は柔い側頭部に自身の頬を寄せたがった。戯れのように擦り寄って、雪を踏む歩みは進む。宵と呼ばれる時間帯までには隣国領に差し掛かるはずだし、本日までがそうだったように、彼女を屋根の無い場所で寝かせられるとは思っちゃいない。逃亡劇にしては安穏と緩やかに、きっと離れるためでなく何処かへ向かうために、変わらずこの身の熱はあった。)
(何かと人を言いくるめることに躊躇いの無い性質をしていてよかったと思う。旅の共には一見してそぐわない寡黙な少女を背に連ねるに際し、関係を問われれば、)これはオレのお姫ぃさん。(と、笑ってまっすぐのたまった。真実として受け止められれば微笑ましがられたし、冗句ではぐらかしたと思われれば呆れ笑いを頂いた。当面はひとところに留まるつもりは無かったから、穏やかに表層を撫ぜ合いつつ擦れ違う対人交渉ばかりを苦も無く増やしている。行商の護衛に雑用にと、適当な職を摘まむことを男は開き直って楽しみ、道中で彼女には何を促すことも、止めることもなかった。彼女の眠りが未だ安寧と同義でなくとも、他人を遠巻きにしたままでも、男が勝手に焦りはしない。様子を見て、必要であれば当たり前に手を伸べる。それが出来ると思っている辺りが相変わらず男の不遜であったし、――何だかんだともう暫し、自分にだけ接触をゆるす唯一の有り様を味わっていたい気持ちも否めない。夜ごとその細い肢体を腕に閉じ込めたがる折りには、特に。)エナム、(柔い髪に唇を押し当てて、低く囁く音吐を外で紡がぬことにさしたる意図は無かった。ただ我ながら甘ったるいばかりの、焦がれるような音の連なりが、きっと小っ恥ずかしかっただけだ。暗がりに瞼を落とせば、男もまた夢を見る。いつかと希う、この声音のような夢を。)
……――うん?(ざく、と砂を踏む音の隙間に小さな問い返しが挟まれた。振り向く仕草に付随して、朝焼けを浴びた髪が揺れる。伸ばしっぱなしを一つ結いにした焔の色は何も無くとも淡い濃淡を描いて波打った。数える日々はまるく巡り続け、海辺の散策というものに逐一はしゃぐこともなくなった春うらら。潮騒の向こうより響く機微に呼吸ほどの平時ごととして耳を欹てながら、街の一角にある住居を家と呼ぶようになってそれなりに経つように思う。相変わらず皮膚の硬い男の手のひらに、彼女の手はいつまでも細く柔くて触れれば擽ったさを感じるわけだから、時の流れというものは不可思議だ。見付けた面持ちと挙措とに片眉を上げた男は、彼女の動作を遮らぬままにゆったりと向き合う姿勢を取る。そうしてすぐに、双眸を瞬いた。)ハ? ……おう、…………そうか。(途中に、何の話だ、と問い返さなかったのもたぶん、この男の相変わらずなのだろう。過分だとか、煽ててんのかとか、そういった殊勝など浮かびやしないでいる。ゆるゆると鈍く両の瞼を上下して、しんと身に馴染んでいる角度を見下ろすまま曖昧に唇を引き結んで。眇めた瞳の上で眉尻はやんわり下がったから、頬が弛むのを不必要に耐えたものだとは滲みそう。――引かれた腕のまま身が傾いだのは、勿論男自身が意図したものだった。頬に感じる柔らかな接触の後に、わざとらしい溜め息をひとつ挟んでから、)……おまえなあ……(ほとほと参ったような語気が小さく零れる。やんわりと眦が熱くなる心地の景色は、いつか焦がれた夢に似ていた。ひらけた世界に笑う彼女がこちらを見ている。なれば触れ合える距離に忌憚無く、男のほうから唇を重ねんとする仕草も叶うだろうか。どうにも気安い接触を取り繕わないまま、両腕はおもむろに彼女の腰に回って、一度ひょいと持ち上げた。見上げる位置まで掲げて、潮風に淡色の猫毛が広がるのを仰ぐ一瞬は戯れが十割。すぐに抱き寄せ直しては、背筋を伸ばした己と目線の高さを同じくさせつつ笑みを深める。)オレもだよ、かわいいお姫ぃさん。(軽やかに紡ぎ、それから胸を合わせて強く抱き締めてしまいたい。その束の間ばかり、呼吸がしづらかったかも知れない。就眠の際、身の危険が迫らぬ限りは中途覚醒の兆しを見せない男はきっと彼女の秘密を聞けないままでいる。だからこれは単に男の我欲だった。湧き上がる熱に彼女も巻き込んでしまいたくて、自分がそうしたかっただけ。なあ、と掠れささやく一言も。)――あいしてる。(それで醒めない今に降ろせば、砂は人ふたりの靴跡を刻むんだろう。)
(砕け崩れ燃え尽きた端から、飽かずめぐる日々に芽吹くものがある。新たな祝福だとか。)
(何かと人を言いくるめることに躊躇いの無い性質をしていてよかったと思う。旅の共には一見してそぐわない寡黙な少女を背に連ねるに際し、関係を問われれば、)これはオレのお姫ぃさん。(と、笑ってまっすぐのたまった。真実として受け止められれば微笑ましがられたし、冗句ではぐらかしたと思われれば呆れ笑いを頂いた。当面はひとところに留まるつもりは無かったから、穏やかに表層を撫ぜ合いつつ擦れ違う対人交渉ばかりを苦も無く増やしている。行商の護衛に雑用にと、適当な職を摘まむことを男は開き直って楽しみ、道中で彼女には何を促すことも、止めることもなかった。彼女の眠りが未だ安寧と同義でなくとも、他人を遠巻きにしたままでも、男が勝手に焦りはしない。様子を見て、必要であれば当たり前に手を伸べる。それが出来ると思っている辺りが相変わらず男の不遜であったし、――何だかんだともう暫し、自分にだけ接触をゆるす唯一の有り様を味わっていたい気持ちも否めない。夜ごとその細い肢体を腕に閉じ込めたがる折りには、特に。)エナム、(柔い髪に唇を押し当てて、低く囁く音吐を外で紡がぬことにさしたる意図は無かった。ただ我ながら甘ったるいばかりの、焦がれるような音の連なりが、きっと小っ恥ずかしかっただけだ。暗がりに瞼を落とせば、男もまた夢を見る。いつかと希う、この声音のような夢を。)
……――うん?(ざく、と砂を踏む音の隙間に小さな問い返しが挟まれた。振り向く仕草に付随して、朝焼けを浴びた髪が揺れる。伸ばしっぱなしを一つ結いにした焔の色は何も無くとも淡い濃淡を描いて波打った。数える日々はまるく巡り続け、海辺の散策というものに逐一はしゃぐこともなくなった春うらら。潮騒の向こうより響く機微に呼吸ほどの平時ごととして耳を欹てながら、街の一角にある住居を家と呼ぶようになってそれなりに経つように思う。相変わらず皮膚の硬い男の手のひらに、彼女の手はいつまでも細く柔くて触れれば擽ったさを感じるわけだから、時の流れというものは不可思議だ。見付けた面持ちと挙措とに片眉を上げた男は、彼女の動作を遮らぬままにゆったりと向き合う姿勢を取る。そうしてすぐに、双眸を瞬いた。)ハ? ……おう、…………そうか。(途中に、何の話だ、と問い返さなかったのもたぶん、この男の相変わらずなのだろう。過分だとか、煽ててんのかとか、そういった殊勝など浮かびやしないでいる。ゆるゆると鈍く両の瞼を上下して、しんと身に馴染んでいる角度を見下ろすまま曖昧に唇を引き結んで。眇めた瞳の上で眉尻はやんわり下がったから、頬が弛むのを不必要に耐えたものだとは滲みそう。――引かれた腕のまま身が傾いだのは、勿論男自身が意図したものだった。頬に感じる柔らかな接触の後に、わざとらしい溜め息をひとつ挟んでから、)……おまえなあ……(ほとほと参ったような語気が小さく零れる。やんわりと眦が熱くなる心地の景色は、いつか焦がれた夢に似ていた。ひらけた世界に笑う彼女がこちらを見ている。なれば触れ合える距離に忌憚無く、男のほうから唇を重ねんとする仕草も叶うだろうか。どうにも気安い接触を取り繕わないまま、両腕はおもむろに彼女の腰に回って、一度ひょいと持ち上げた。見上げる位置まで掲げて、潮風に淡色の猫毛が広がるのを仰ぐ一瞬は戯れが十割。すぐに抱き寄せ直しては、背筋を伸ばした己と目線の高さを同じくさせつつ笑みを深める。)オレもだよ、かわいいお姫ぃさん。(軽やかに紡ぎ、それから胸を合わせて強く抱き締めてしまいたい。その束の間ばかり、呼吸がしづらかったかも知れない。就眠の際、身の危険が迫らぬ限りは中途覚醒の兆しを見せない男はきっと彼女の秘密を聞けないままでいる。だからこれは単に男の我欲だった。湧き上がる熱に彼女も巻き込んでしまいたくて、自分がそうしたかっただけ。なあ、と掠れささやく一言も。)――あいしてる。(それで醒めない今に降ろせば、砂は人ふたりの靴跡を刻むんだろう。)
(砕け崩れ燃え尽きた端から、飽かずめぐる日々に芽吹くものがある。新たな祝福だとか。)
バートラム * 2022/12/7 (Wed) 19:40 * No.2