(いずれ温かな家庭を。)
(海を臨む小さな住まいで、駆け落ちした二人はそれなりに上手く暮らしていただろう。己は甲斐甲斐しく彼女の世話を焼きたがり、新しい仕事にも慣れてきたころ。付き人をしていたときには気付かなかったが、紅茶を何度か淹れていれば彼女の好みが何となく分かってくるのは面白かった。あまり時間を置きすぎないように、渋くならないように、彼女好みの程よい具合を見計らうのは紅茶を淹れる際のささやかな楽しみになった。紅茶と少しの菓子を用意して、愛しい人を窓辺に置いたテーブルに招く。ごく自然に椅子を引いて彼女が掛けたあと、己は向かいへと腰を下ろす。)今日は特別な話をしましょうか。(小さな紅い石が飾られているシルバーリングを徐に取り出して、テーブルの真ん中に置いた。いつぞや姫の小指にはめられた大きさのまま、可愛らしい形を保っている。長年染みついた丁寧な言葉遣いは変えられないが、敬語はなるべく使わないようにして会話の距離感を狭めようと努力している真っ最中だ。)これは、私が拾われたときに身に付けていた物でした。今の大きさではルーペがないと見えづらいのですが、内側に名前と日付が刻印されています。私の『エリック』という名前は、そこに彫られている名前なんですよ。それから、私の誕生日はその日付ということになっています。どうやら院長先生は、両親が私のために作った指輪だと思ったらしいです。(まるで他人事のように、わだかまりなく穏やかに語ったものの、一旦言葉を切れば僅かに陰りを見せる。心の機微のまま素直な表情を浮かべられるのは、目の前の彼女だからこそだった。)この指輪は、私と何の関係のない代物かもしれない。私の名前も誕生日も、もしかしたら誰かのものを借りているだけなのかもしれない。そんな風に考えて落ち込んだこともありました。……でも今は、この名前がとても好きです。あなたがたくさん呼んでくれるからですよ。(理不尽な扱いを良しとしない彼女が、もし己の分まで憤りを感じてくれたとしたら、その必要はないのだと朗らかに笑みを浮かべた。)あなたに祝ってもらえたら、ただ数えるだけだった誕生日も好きになれると思います。(珍しく望みを口にしてみたが、どうするかは彼女次第である。盛大に祝ってほしいわけでも、何か贈り物が欲しいわけでもない。たった一言、愛する彼女から祝いの言葉が貰えれば満ち足りる。身の上話をするためだけに指輪を出したのではなく、本題はここからだ。不思議と心は凪いでいて、熱い思いだけが己を突き動かしていく。)誓いを立てる彼の国の大地は遠すぎるので、あなたに誓います。共に考え、共に生きる愛しいナーシャ。どうか私と結婚してください。私の命をあなたに預けますので、どうぞ大事にしてくださいね。その指輪は、婚約の証に差し上げます。(一世一代の求婚を断られるとは露程も思っていないが、さて指輪の方はどうだろうか。付き返されたなら大人しく片付けるつもりでいるが、受け取ってもらえるのならば細い指に着けさせてもらおうか。指輪の紅い石は、彼女の可愛らしさを一層引き立てる差し色となるだろう。彼女の小さな手を求めては、忠誠と愛しさを込めたキスを手の甲に捧ぐ。)結婚指輪はちゃんと用意しますので、もう暫く待っていていください。それまでは恋人の時間を楽しみましょう。(恋人と夫婦に何か違いはあるのか、関係性の呼び方が変わるだけなのか。それは彼女と過ごしながら、少しずつ知っていくのだろう。)
エリック * 2022/12/7 (Wed) 23:40 * No.4