( Like a diamond. )
(――金木犀のにおいがする。洗濯籠を胸に抱えながら、エメはふと足を止めた。風に運ばれ届く甘いかおりは、どこの木からのものだろう。この町に辿りついて二度目の、そして彼、アルバートと出会ってからは三度目の秋になる。付き人の話を聞いたときは、こんなに長い時間、それも国を離れてまで彼と共に在ることになるなんて思わなかった。夢みたいだと今も思う。――ちいさな町のちいさな家でふたりきり、おだやかな暮らし。豪奢なドレスも宝石も天蓋付きのベッドだってないけれど、どれも身に余る贅沢だったのだと、離れてよくわかった。ぜんぶいらない。代わりに、たったひとつだけを望んでいる。それらすべてを差し出しても足りない贅沢を、ひとつだけ。わたしは、 )った、……ちょっと。 待ちなさい。(そこで現実にかえるのは、馬の尾のようにひとつに束ねた髪をぐい、と引かれたから。だれの仕業か、見なくともわかる。なるだけ恐そうな顔をつくってゆっくりと振り返ったなら、やはり犯人はこの孤児院でいちばんの悪戯っ子だった。もうすぐ九つ、なまいき盛りだ。)危ないから引っぱっちゃだめって、わたし、何度も言ったわね。(膝を折って目線をあわせると、彼の目をまっすぐ見て問う。初めはどうしたらよいか分からず困るばかりだったエメだけれど、1年も働けばさすがに悪戯にも慣れるというもので。じ、と無言で見つめたあと、ふっと含みのある笑みを浮かべ、)…そんなにわたしのことが好き?(古株の女性に教わった“とっておき”で撃退してみせよう。効果はてきめん、少年はみるみる顔を赤くし逃げ去った。走りながらもぶつけられる悪態に「前見ないと転ぶわよ」と応じ、持ち場へと戻ってゆく。)

(自分で自分の道を選んで生きてゆく、権利と責任。あの夜に彼がくれたこの言葉が、エメはとても好きだった。シスターの営むちいさな孤児院を手伝おうと思ったのも、ギルドや自警団で自身の能力を発揮している彼のように、自分もなにかしたい、しなければと“責任”を感じたからだ。旅先で見るうつくしい景色にはもちろん心が洗われたが、からだを動かし、子どもらと話し、彼と暮らす家に帰る日々も、おなじだけ幸福だった。この町は――この町も、星がたくさん降って、きれいだ。)……えっ、テレンスが? どうしたのかしら。次に院に来るのは来週って聞いていたと思うけど……(もう主従ではないのだからそろそろ敬語もはずしてほしいけれど、まあ無理させることでもないし、とエメもそのままにしている。受けとったカップを両手で包み、ストールをかけてくれる気遣いに「ありがとう」と笑ったあと。出し抜けに話題にのぼった名前にきょとんと小首をかしげた。若く優秀な医者である彼は、子どもが熱を出したときなどに世話になる機会も多く、内気なエメが気後れせず話せる数少ないひとでもある。まめに孤児院に顔を出し、自分のような余所者にも声をかけてくれる好青年だけど――告げられた来訪の目的は、もちろん予想だにしない。おどろいて、彼のほうを向く。)……、 結婚? テレンスが、わっ……わたしと?(夜目にもはっきり見えるほど赤くなるのは単純な羞恥心で、そこに浮きたつ心や青年への好意は含まれていない。とにかく驚いてしまって、二の句も継げずにいたのだけれど――星原を見上げながらぽつりぽつりと彼が言葉を続けるうち、おどろき以外の感情がこころを重く満たしゆくのだった。)……。(反対はしてくれないのね、と、お門違いに失望する。七つも違えば論外かしら、と、歯がゆくて悲しくなる。たしかにエメは知らなかったけれど、彼だって知らないままだ。町長の警護のあいだずっと、エメがやきもきしていたこと。素敵な“お兄さん”ねと言われるたび、胸がちくりと痛むこと。自分が医者の青年と結ばれて、そうしたら彼はどうする? 剣と盾の役目を終えて――あるいは今度は、真に愛するひとのそれになるのだろうか。気がつけば、彼の端正な横顔をじっと睨めつけていた。その碧のまなざしが揺らいだのは、おのれの気持ちと彼の声とが、ぴったり重なったからだ。)……え? …アルバート、今……なんて、(聞き返すよりすこしだけ早く、ごめんなさいと謝られる。飴色の虹彩に吸いこまれ、まばたきさえもできなかった。――ドレスもご馳走もぜんぶいらない。代わりに、たったひとつだけ。なにより贅沢な願いごと。このひとに、そばにいてほしい。春も冬も。明日も十年後も、 …叶わないと、思っていたのに、)っ、あ、アルバート……っ(そのとき見た星のまたたきはきっと、生涯忘れられない。一生、俺が大切に。ひたむきな言葉と、焦がれてやまぬ体温で伝えられる愛。あんまりしあわせで、信じられなくて、どうしたらいいかわからなくて、エメは声をあげて泣いた。きっとこれまで生きてきたなかで、いちばん素直に、我慢せず。)わたし…っ……、…わたしも、あなたが好き……すきだったの……キュクロスを出る前から……あのときから、ずっと、(広い背中に両手を這わせ、涙声で懸命に伝う。やがてどちらともなく抱擁ほどき、まなざしを重ねたなら。濡れた睫毛をやわらかくふるわせ、そっと笑って、うたおう。)わたしもう、とっくにあなたのものよ。――愛してるわ。アルバート。

(あなたはいったい、なにものなの? あどけない声が聞こえる。鏡に向かって飽かずくり返した、サラだったわたしの声。――わたしは、エメよ。彼だけの光。愛するひとに愛された、とびきり幸福な成りそこない。)
エメ * 2022/12/9 (Fri) 23:30 * No.7