(フォギーローズへの誓い。)
(山を、夜を、森を、海を、朝を、海を越えた先。国を出て幾日経ったろうか、定かでは無い。祖国とは異なり海に面する一国の南端、港街は出入りする商船や漁船、客船で賑わう水の都と呼ばれているらしい。異国から流れ入る人間も少なく無く、溶け込むまでは早かった。酒屋で情報を集め斡旋所へ赴き、主に魔物の討伐を主として稼ぎを得れば街の片隅の小さな空家を借りるまでそう時間も掛からず。二人と二頭が静かに暮らすぐらいは容易だろう。連れ立ってきた彼女の方は如何だろうか。学びたいと言われようと、働きたいと言われようと、止めることはせずその背を押す心算ではある。――「知ってるか?この前隣国へ嫁いだキュクロスの姫様って不思議な色の目をしてるらしいぜ」夕刻、斡旋所の受付にて。書類に落とす視線は感情を見せないまま、近くの掲示を眺めながら交わされる会話を耳にする。「婚約自体は前々から噂になってたしな。でも情勢は変わらないだろう?」不思議な程にかみ合わない会話にさして興味も無く、報酬を受け取るなり紙上へ手早くサインを走らせた。「シリル、今度キュクロスまで行かないか?報酬が多い分手が要りそうなんだ、お前がいてくれると助かるんだが」掲示を見上げていた大柄な男が視線を寄越すも、赤の男は肩を竦めるばかり。)誘いは有難いがそこまで遠出する気はねェよ、他を当たってくれ。(一瞥をくれながらあっさりと突っ撥ねれば扉へと向かう。「彼女がいるからか?可愛いよなあの子!」腕はあるが女癖が悪いと有名な細身の男の楽観的な声には足を止め振り返る羽目になった。)あいつに手ェ出すなよ、うっかり手が滑って剣がお前に向かってすっ飛ぶかもしれねェからな。(室内の温度を下げるかのような冷え切った声音を吐き出せば周囲の空気が重くなるが知ったことではない。受付嬢が硬直した気配に悪いと思いはするも、最後まで態度には出せずに終わるだろう。冗談だと両手を挙げる男から視線を引き剥がし、苛立ちを霧散させるように息を吐けば背を向けて扉を開いた。靴底が木製の床を叩く音は、すぐに石畳を叩く音へと変化を遂げる。潮風に変わらない赤を揺らしながら見上げた紅に染まった空は、祖国の向こう側まで続いているだろう。追手の陰は終ぞ現れること無く、国を跨いで指名手配をされることも無く平穏な日常が続いていた。輝く水面へと背を向け、街の中心部から逸れる頃には心は落ち着きを取り戻して。)…ただいま。(扉を開けば、未だに不慣れな挨拶を唇から細く紡ぎ出した。すぐに彼女の姿を目にすることが叶えば扉の近くへと剣を立てかけ、手にしていた袋を机上へと。両手を包む黒を外せばその指先は彼女を求めて伸ばされるだろう。華奢な肩へと届けば引き寄せるまでそうは掛からない筈。)ローズ。(――それは、赤の男が彼女へと与えた名前。いつかの夜に預かり、この街へ辿り着いたその日の夜に返したもの。彼女に棘があるとは思わないが、美しい花は彼女に良く似合うと思ったから。月も、光も、太陽も、自由も、詩も似合いではあるが――何より、燃えるような赤を彼女へと刻みたいと願ったが故のもの。ただいまよりも数多く紡いだその名を口にすることにも、彼女が外の世界で光を受けて輝く姿を目にすることにも慣れはした。不満があるとするのならば彼女がその見目故に、またその可愛らしい声故に、度々目を向けられていることだろう。気に掛けられる機会もきっとそう少なくは無い。初めて二人で朝を迎えたあの時に見た笑顔、言葉にされた想い。あれを他の人間が受け取るような機会など絶対に作らせない。あってはならない。癒しを得るように、または世界から隠すかのように小さな体躯を腕の中へと閉じ込めれば柔らかな髪へと頬を寄せよう。伝わる温もりに表情を少しだけ和らげたのなら、)…今度指輪買いに行こうぜ、揃いで。(穏やかな低音を彼女の耳元へと落とし、肩から腕のラインをなぞり落ちて行く指先は左手の薬指を捕えようと。動揺が見えるようならその姿を暫しの間楽しむ心算でいるが、彼女が見せてくれる感情の色は一体どのようなものだろう。胸の内に小さく燃える独占欲を形にすることを否定されることがなければ僥倖だ。感情を言葉にすることに不慣れではあるものの、今この腕の中にある小さな温もりを感じながらであれば綺麗に淀み無く音へと変えられる気がして――。)愛してる。(好きだと伝えたことは幾度かあっただろうけれど、愛を伝えるのは初めてであった。思うよりもすらりと口に出来たことに内心驚きがあったと同時に、ふと腑に落ちた感覚も得る。胸の内にてあの日から燻り続けている感情は、今後も決して消えることは無い。仕事でも同情でも無く、シリル個人が彼女を求めてその隣を望むのだと。恋にも愛にも不慣れ且つ不器用な男は短な言葉に全てを詰めて、この世で初めて愛しいと思った存在へと言の葉を紡いだ。腕の力を緩めれば片手を柔らかな頬へと滑らせ、切れ長の双眸が美しく揺れる色の瞳を覗きながら緩やかに口角を持ち上げる。其処に映る己の存在を確かめた後、額へと唇を落とすだろう。そうか、これが愛すると言うこと。)

(言葉を重ね、相手を知り、歩み寄ることの難しさと尊さ。結果己も彼女も失ったものは多々あるが、この世で最も大切な輝きが傍に在ればそれだけで良いと確かに思える。恋も愛も知らず、国に仕え、自由のままに剣に生き、剣に死ぬ筈であった一人の騎士は二人の姫君と出会い真実を知ることで一つの答えへと行き着いた。)
シリル * 2022/12/9 (Fri) 23:36 * No.8