(薔薇のプシュケ)
(最低限の警備を残し、使用人のいずれもが眠りに落ちた真夜中のこと。踵の平らな靴にちいさな足を滑り込ませ、月の光差し込む回廊をゆく。身体を覆う深い藍のケープの端が影をほんの少し大きく広げる。誰にも気づかれないように。誰にも見つからないように。自室で過ごす時間が増えたことは特段窮屈に思わないけれど、姉が寝静まったことを十二分に確認してから薔薇庭園に赴くあたらしい習慣はなかなか改められなかった。毎日では怪しまれる。以前に一度、姉の付き人たる騎士と廻り会った時には大層驚いたものだった。上手くその場を切り抜けられたか自信はなかったが、その夜以降姉から言及されることもなかったから、彼が特別疑問視していないのか、或いは、姉がその胸に秘めているのか。軽薄な振る舞いをしながらも、曰く付きとは云え、王族として庇護される対象となる娘に宛がわれるだけの才は認めなければならない。双つ子であることを覚られぬように。少しずつこころをほどきはじめている姉の蕾を不用意に摘み取ってしまうことのないように。妹の行動原理はすべて姉へと繋がっている。姉の幸い。願うのはただ、それだけだ。――花は夜も眠らない。多くの品種を掛け合わされた庭園は四季のいずれにおいてもうつくしい盛りを誇り、いつだっていのちの濃密な香りがする。迷路のような造りをした庭園を月の灯りのみを頼りに進み、人目の届かぬ奥底でしずかにゆびさきを伸ばした。そして妹はひとつのいのちを摘み捨てる。姉のひとみに似た朝焼けの色の薔薇を手折り、つぷりと皮膚に棘が刺さるのも構わず握り締めれば細い茎は容易に首を垂れた。重なるはなびらに鼻先をうずめ、くちびるに冷たい感触が触れる。鼻孔擽るのが甘い馨りなのか青臭い死の気配なのか、妹には最早判別が難しい。妹の顔の半分を覆う立派な花を咲かせたそれも、自らのような無力な人間によって簡単に命を絶たれてしまう。哀れだった。まるで何処かの誰かを見ているかのようで。膝を折って屈みこんでは、首だけになった花を土に串刺し、ケープの下で身じろぎ始めた愛獣を野に放つ。)――……アイリス、(幾つもの棘で血に濡れたてのひらを差し伸べる。湿った舌の感触が纏わり付き、伏せた睫毛が影を生む。)おまえはもっと大きくならなくちゃ。(いつしか冷たくなり始めた風が髪を、布を、花びらを散らす。長い髪が揺れ、知れず浮かんでいた妹の淡い笑みを月だけが、見つめていた。)
* 2022/10/24 (Mon) 00:16 * No.2