終幕の半分


成り損ないの姫、処分の責を負う騎士、双子が禁忌とされる閉ざされた国、魔法の存在も絡んだ西洋ファンタジーなんて魅力てんこ盛りの「half of breath」様へ初めてお邪魔した日のことは未だ鮮明に思い出すことが出来ます。双子というのは兎角不思議なもので、全然違う場所に居るのに急に同じ歌を歌い始めたり、全く同じタイミングで同じことを言い始めたり、その神秘性は仕事柄子どもに触れる機会のある背後からしても日々痛感しているものですから、なかなかキャラレスでは動かす機会の少ない双子を思う存分楽しみたい(自PCをもうこれでもかと愛でてみよう……)と姫サイドでの応募を果たし、末席に加えて頂けることとなりました。専ら男子PCを動かす方が気が楽なのですが「half of breath」様に於かれましては、どれだけペア様が自死を求められようと絶対に殺せない……と泣き喚く未来が見えていましたので、手探りにキャラメイクを始めた秋の始まり。西洋ファンタジーは大好物なものの、背後があまりに無知なものでこれまで敷居の高さを勝手に感じていたものですから、恐る恐る……と期日ぎりぎりに願書を提出した過日は酷く遠い昔のことのように思います。1ヶ月半の間、バートラムさん背後様に手を引いて頂くばかりかおんぶにだっこ状態で、多大なるご迷惑をお掛けしながらもこうして無事本編を駆け抜けることが叶いました。バートラムさんなくしては今のロクサーヌは存在しませんし、恐らく終章にて死亡エンドを迎えていたものと思います。
願書応募時点と申しますか、活動風景をご覧下さった方には明白やも判りませんが、ロクサーヌに関しましてはキャラメイクの時点より自死を希求するばかりのキャラクターとなっておりました。ペアアンケートにおきましても「処分されたい(=姉を正真正銘のひとりのロクサーヌとして幸せにしたい)」が基本姿勢であり、死亡に絡むエンディング以外が迎えられるのか……と記載していたくらいで、1ヶ月半を経てこんなにも手放しにハッピーエンドを迎えられることになるとは全く想定もしておりませんでした。本当に終章に向かうまで(何なら終章のスレ立てが姫サイドからであったなら、初っ端から尖塔でアイリスに肩を齧られているところから開始しようと思っていました……笑)妹は死んでも可笑しくない=死んでも物語が成立するよう意識しながら活動を行っていた心算でした。
それがこうも命を繋ぐこととなりましたのは、それもこれもバートラムさんがあまりに魅力的な所為……とついつい責任転嫁をしてしまいたくなる程、それはもう!バートラムさんとんでもない沼でした!!ペアアンケートで背後がバートラムさんを高順位に挙げてしまったことで、3億円の宝くじが当たるよりも天文学的確率でバートラムさんのペアの座を勝ち取ってしまった訳なのですが、ペア以外の交流が一切なかったのでひとりで悶々とするしかなかったものですから(時代についていけない老害PLなので壁打ちの概念が……ありませんでした……)このラスアンが最後と開き直りやんややんやと騒ぎますけれど、バートラムさんもうとんでもないイケメン過ぎやしないですか……!?まさかペアのご縁を頂けるとは夢にも思っていませんで、ペアが決定した際はスマホからチェックしたものですから「わあ~ケヴィンさんアメリアさん可愛い×可愛いが過ぎるペア……!」「エリックさんとアナスタシアさんがペアなんて予想通りすぎる!!」「リューヌさんとアルシノエさんだなんてとんでもないお耽美ペア……」「シリルさんとレティーシャさんの年の差ペア絶対萌える!」「シャルルさんとマグリットさん、アイコンからしてシンクロが過ぎる……」「ジルベルトさんとレイチェルさん是非剣で戦って欲しい……!」「アルバートさんのペアはサラヴィリーナさんだと思っていました……!」などなどテンション爆上げしながらスクロールしていたのですが(瀬見様のペア組みが神がかっていて、思わず画面の向こうで崇めていた程でした……)(瀬見様の日誌を気持ち悪いくらいにストーキングしていたのはこの私です)ロクサーヌの隣に並ぶバートラムさんのアイコンには目が点になるどころか息の根が止まりましたよね……。今や髪が長い男性を見るとつい振り返ってしまう程、バートラムさんに人生を狂わされたと申し上げても過言ではないくらいPCにとってもそして背後にとっても掛け替えのない存在でありました。
飄々とされていながらどこまでも実直で、豪胆でありながらもやわらかなお心をお持ちのバートラムさん。ロクサーヌがあまりに好き勝手をしてしまった所為でバートラムさんが目指した展開に、そして背後様が心より活動を楽しむ未来と成り得たのか、如何か今でも不安は尽きないところではございます。特にエピローグは蛇足でしかなかったと思うのですけれど、それでもたくさんのお気持ちを注いで下さったバートラムさんに、ロクサーヌは好きも何も伝えられていないのでは……!?と背後が余計なお節介をした結果が此度の激甘展開となりました。解釈違いでしたらもう本当に本当に申し訳ありません……。あれでも文字数のあれこれですとか、ちょっと引かれる程に愛が重いのでは……と正気に返った結果(しかし好きなシーン抜き出しは最早あんな量を提出して良かったのか……と今更ながらに気持ち悪さに震えておりますが……)泣く泣く削ったエピソードもちらほら御座いました。例えば妹が自室に閉じこもっていた期間に読み漁っていた文献より仕入れた知識を活用し薬草や毒草の仕分けないし宝石の目利きの仕事をしてみたりだとか、ロクサーヌよりも随分と幼い(けれど身長はロクサーヌよりも高い)女の子に「あんたの子守りの所為でバートラムさんが自由になれないのよ」みたいなちっちゃな修羅場展開に化した時に「あげない」「バートラムは私のだから」なんて言ってみたりだとか、子どもを産んだ姉がまことに幸いかを確かめてほしいとバートラムさんを彼の国に送り出したりだとか(何処かの世界線ではその隙を狙って姿を眩ませようかとも考えたのですが、今のロクサーヌにそんなことは到底無理な話で、大人しく帰りを待っていると思います)そんな小さなエピソードも何処かの世界の端くれにはあるのかも知れない……とこの場をお借りして供養させて下さい……。ちなみにエピローグで現パロ!?高校生ってことですか?!とテンション爆上がりしたのは何を隠そうこの私です……。バートラムさんは絶対ブレザーで、制服着崩して色々な女の子を侍らせているイメージしかないんですけどどうですか……。ただそうなると妹との接点は皆無になるだろうと思うので、心の二次創作に留めました……(笑)
バートラムさん背後様の綴られる、現役作家の先生方も真っ青となるであろう華やかで麗しい表現の数々、巧みな言葉の言い回し、ロクサーヌの名前より推測して下さったのか(此方はネットのギリシャ辞典を頼って生きていた知ったかPLですが……)耳馴染みの少ないながらも美しい音で紡がれるスレッドタイトル、結果的にどこまでも忠誠を誓って下さったバートラムさんと背後様の存在があってこそ、忌み子であったロクサーヌは命の価値と愛の意味を知り得たのだと思います。海の向こうで姉も健やかな生活を送っていることと信じ(姉もバートラムさんのことを恋い慕っていたのではないかなあと想定はしておりますが)バートラムさんのお心が許す限り、妹を傍に置いてやって頂ければそれ以上に望むものなど何一つとしてありません。今となってはバートラムさんの幸いこそがロクサーヌの幸いとなっているでしょうし、衒いなく我儘を告げて手を伸ばして愛を乞うて傍に居て欲しいと希っていることと思います。本当に重い荷物となってしまう日も遠くはなく、バートラムさんが愉快に思って下さっていた棘もいずれは剥がれ落ちてしまうやも知れませんが、閉じた円環から焔のように眩い円環に移り変わった先で生まれる祝福をふたりで迎えることが叶いましたら、思い残すものはありません。ロクサーヌの明けなかった夜を照らして下さったバートラムさん、そしてバートラムさんをこの世界に生み出して下さった背後様。どれだけ言葉を尽くしても伝えられないことが歯がゆくて仕方ありませんが、バートラムさんとご縁を結んで頂けましたこと、最期の最期までご一緒に物語を紡いで下さいましたこと、ただひたすらに感謝の気持ちでいっぱいです。いついつまでも大好きです!有難う御座いました!
はんぶんの世界が終わりを迎えることは寂しくて仕方がありませんが、それぞれの世界に、そして瀬見様や参加者の皆様のもとへ幸いの花びらが降り注ぐことを心よりお祈り申し上げております。これより厳しい寒さが続いて参りますのでどうかご自愛され、また違う何処かの世界でお目に掛かれましたら幸甚に存じます。重ね重ねにはなりますが、瀬見様、そして参加者の皆々様、本当に有難う御座いました!
(夏の盛りは少し過ぎていたと思う。その日王都にそそいだほんの十三分間の夕立を、涼の恵みとよろこんだものと鬱屈した煩わしさを覚えたもののどちらが多かったかなんて当然知りやしない。[序章]
男が今測らんとしているのは、彼女がこちらに許す物理距離だった。緩慢な動作で歩みを再開して、もう幾らか詰めに掛かる距離は、彼女の眼差しに口唇に厭う気配を感じれば素直に止まって見せようし、ひとまず判断を任せられるようなら対話に順当な辺りまでは進もう。昨日と同じだ。そうして再び靴音が止んだところで、静かに片膝を折る。これは従順を示すためというより、こちらの耳の位置が高すぎると声が聞きづらいせい。)[序章]
そうですか、と挟んだ一言は正しく相槌でそれ以上の意を持たず、それから入れ違いのよう、向けられた問いで今度は男のほうが束の間の沈黙を作ってしまった。ゆっくりと瞬く双眸が、まだ彼女の様相を探っている。)……、(唇の笑みは崩れなかった。少し頭が傾いで、遅れて焔色の髪が肩を滑る。)何せあちらがオレをうまく使えねぇもんでね。駻馬の類らしいですよ。――切り札が、ある、と申し上げたら、即時切って見せろとおっしゃる? 我が姫は。[序章]
本気かと問い返すような面持ちではあるが、無論引っ込めていただきたいわけでもなく。細く息を吐いて、立てた膝に置いてあった利き手を起こし頬杖を付いた。仕草としてはそれこそ、誰が見ても無礼に当たりそうな。)素直に光栄ですが、これで喜んでもらえたのは初めてですよ。[序章]
――どこまでも、を実際に尽くせるかは、姫が今しがた口になさった。あんたがオレの手綱を取れるかどうか次第だ。(姫と騎士という、立場の輪郭線だけで忠義を諳んじて見せる途は、怠慢を絵にしたように捨てた。粗暴な男がはんぶんの姫を仰いで、今度こそ試すように声を和らげる。)御身に全て懸ける意義を見い出した暁には、陛下の前でこの手を振り払って見せましょう。それまでは適宜、この駻馬の出来の悪さを数えておいてください。(献身の証で離反を捧げる矛盾もまた、こんな不届きの騎士は要らぬと父王に泣きついて見せる材料にしてみればいい。笑う男が伸べた手が大人しく待つ様相を見せたのはそうやって言葉を紡ぐ間くらいで、後は自分のほうから彼女の嫋やかな手を求め掬い上げんとしよう。意図して避けられるなら無理やり掴みかかったりはしないし、取ることが叶うなら要らん負荷を掛けたりはせず支えるばかりではある。[序章]
此処に身分の上下があるのも彼女が確かに姫君であることも何ら変わりはしない話であるくせ、一呼吸前の景色よりも何だか、年頃の少女に見えた。右手のひらに乗せた顎をゆると傾がせて、ふはと気安い呼気を弾けさせる。)なァに、見たところ四肢はきっちり一人分だ――大きさは確かにオレの半分くらいに見えますけどね。鞭だか人参だかを持つこともできましょうよ。(五指も、双眸も、それぞれの数は十二分。現状の見解としては動作に難も見られない、となれば、はんぶん呼ばわりが目に見えた要因でないことも明瞭なことか。伸べた手は彼女の体熱を知ることなく、掻き混ぜられた薔薇の香りの中に留まった。[序章]
最終的にオレがオレ自身を蹴らんといけねぇ事態に陥りそうだ。露払いも虫除けも楽しくやりますがね、この無骨な男が繊細な姫君のお出掛け気分を察知できるとお思いで? 早速難題を下さる。(わざとらしく首振る仕草は軽やかなまんま。紡ぐ言葉や呼気を途切れさせることもなく、男の腕も扉へ伸びよう。彼女の側頭を抜ける折りに「失礼、」と儀礼的なひとこと掛けて、開扉の負荷を引き受けんとした。叶えば男の腕には然程の難も感じさせないだろう。[序章]
彼女の歩みにささめきが連なる後ろで男は気息を揺らした。これもまた要らぬ視線を受ける一つとなったのだろう。弾けた呼気も。)っははは! お姫さんがオレを何だと思っているかよぉくわかりました。浮き名のある男のほうがお好みで。(呵々と笑いながら扉を開いたものだから、尾ひれは礼拝堂にまで入り込む。十字架が滲ませる静謐が男の態度を咎めたがっていたとしても、細めた双眸が向くのは同じ場に居る人のほう。[序章]
国の端でだって彼女の存在は囁かれるだろう。約十七年前に生まれ得なかった、末の更に下の姫のいのちに纏わる残忍な希求と共に。其処にはんぶんを遺したとかたる少女の唇が、過分と紡いだ。多彩のひかりを浴びる姿は男の瞳にしかと映り込んでいたから、視覚と聴覚がほんの刹那の齟齬を起こす。)ふぅん?(相槌に大した意味はない。露骨な語尾上がりを見せて浅く頭を傾いでも、既にいらえた是を覆しはしないとも。ステンドグラスを通るひかりの波を漫然と眺める時間、静謐を厭わず信徒席に身を落ち着けていた男は、寛げ気味に組んでいた脚を下ろしながら目を眇めた。[序章]
さァてどっちが手強いやら。(見定めたいのはこちらも同じ。斯くして兄王子たちは、粗暴と噂された割りに存外に折り目正しく堂に入った、侯爵家出身騎士との“和やかな”昼の一幕を知るだろう。男の振る舞いに憂いは無い。たいそう善い御縁が出来たなんて報告は明日の姫に語ろうか。真偽の判断はお任せするが、多くの怠慢に意識的な狡猾を重ねる付き人は、気儘に王城中へ焔の気配を巡らせてゆく。曰くの姫をしてこの騎士あり、暗がりのうちにも火種は多い。)[序章]
(この王室内政治を楽しめる性質であったなら、我が身の順当な途とやらをまっすぐに歩んでいたかも知れない。末の姫の騎士という看板は焔色の髪にすぐに絡まって、就任から程無く貴人にも勤め人にも広く認知された。)[一章]
(呼び立てに遅刻をかまして主を焦らしても、衣装を仕立て直すからと言われた日に姿を晦まして針子を天手古舞に叩き落しても、彼女以外の王族には一線を越えず礼を払ったし、末の姫を取り囲む小さな輪、より外の予定を狂わせるような悪戯はしない。騎士団での訓練に変わらず励み、かと思えばその日程には縛られずに城下町に繰り出て行く。そうして市井にあった他愛も無い与太話や流行り物を土産と称して、末の姫に語り、渡すような日常だったろう。薔薇の花弁に囲まれて本を捲る姫君の傍にただしゃがむように膝をつき、ひょいと渡す菓子やくるくる色彩を変える魔法仕掛けのスノードームが彼女の嗜好に合ったなら、それなりに相互心安い一幕だったんだろうし、困らせるだけならその顔を見て笑ってしまうような男だった。そうして少女が、いや姫が零す言の葉がどのようなものであれ――ふと静寂の夜半に出くわすようなことがあれば。「今度は子守唄でも仕入れてきましょうか」なんて、揶揄るように紡いだこともあったろうか。吐き出したその音吐が、男自身でもすこし意外な柔さを含んでいた由は措いておく。[一章]
私室にお迎えに上がっておいて大欠伸もかました騎士は、どうやら王国一大行事を目前に棘を纏っていらっしゃる我が姫を見てまた笑い、先行く姫の斜め後ろを緩く大きな歩幅で歩んでいる。適宜下を向く目差しは彼女と視線を重ねるためでもあるし、その足下に歩みを妨げるものが無いかを確かめるためでもある。不真面目を気取ってはいるが、彼女の身を護るものとしての役割を逸脱する気は欠けらも無かった。必要に応じてそれとなく声を掛け、壁になり、手を取らんとする振る舞いも当たり前だったろう。現状、排すべき難は物理面とは少し違ったところにあるよう見受けたものだけれど。)[一章]
(斜陽から黎明までの空を描くスノードーム、ねじ巻きで光を撒く掌大のフェリスウィール、天候に合わせて開閉する薔薇の水中花、星屑が宙まで踊るインク――手遊びめいて差し出す品々は子ども騙しめく魔法仕掛けの玩具たち。単に枯れどきを待つ生花や、舌の上ですぐに溶ける砂糖菓子もあったろう。反応を窺うときこそ悪巧みする童子のような顔をして、いくらか日付が進んだ後にふと思い出したようにその後の処遇を問うてみることがある。男の認識する限り、姫が“はんぶん”と噂されるほどの記憶齟齬を起こしていることは無い。波があるのは記憶保持よりも情緒の印象である。まろやかな、絹のような花弁のような淑やかさの奥から極ごく偶に覗く小さな棘は、だからひどく印象深い。常は秘されている、あるいは少女当人にも無意識の箇所にしか存在しないのだろう激情を探り当てるような感覚。男が意図して姫と騎士の悪評を忍ばせる行為と全く別の箇所、恐らくはこころと称されるような部分で、確かに積もるものがあった。そして今日、久方ぶりにその一面と相対している、気がする。[一章]
兄は――(笑み型の唇が言葉を紡ぐ、途中に途切れたのはその発声だけ。全身の動作としては淀み無く、姿勢を正しながら片腕が伸びた。前方不注意、思考の散漫、けれど身に危険はない。傍らに居るのが己だからだ。カツと踵を鳴らして横合いへ進み、それから腕が背を回り逆側の肩を支えんとする。距離も長さも悠然と足りるから、後は手のひらが彼女の細い肩を軽く覆ったときに、接触への拒絶があるか否かだけが次の足取りを左右する。男としてはそのまま元の進路に持ち直してくれればと。)[一章]
針子が熱を入れて語るとおり、末の姫によく似合うだろう。緩慢に顎を引いて衣裳を見下ろす佇まいは、小さな円環にはノイズであったろうか。今この瞬間、彼女の様相が男の想定したものでなかった点から逆算すれば、自分自身にそうだった。ふいと違和を拾って振り向いた先で、髪より少し明るい色の双眸が瞬く。)――姫。(呼び名未満の声は平たい。針子との温度差を目の当たりに動じるほどの可愛げは無く、眼差しと語気に載ったのは短い思案だ。これが“はんぶん”の記憶齟齬か情緒不安定かなんて細かいところの判断は己には追い付かないし、その手の取り成しは歴の長い乳母のほうが適任だろう。気に掛かるのは単に、)……今宵でないならまた別の機に、オレのために着てくださるんで?(自身の顎に軽く拳を添えて、まず唇を衝いたのはまた軽口だった。これが姫の快不快どちらに触れるかは知れないが、どちらかといえば直線の不躾で針子のほうの気を逸らしたい。その上で、全身振り返った男は姫のほうへ距離を詰めゆこう。すいと馴染んだ所作で身を屈めて、先よりも近しくまた手を伸べる。無骨な五指は彼女の顎を掬おうとした。)顔色が悪い。これじゃ確かに負ける。さっきも転びかけた。今日はもう少し大人しい色味でいい、陛下にお目見えしたらすぐに退出する。(多少の誇張になったとしても、姫が“赤が良い”と――そう告げた過日よりは実際に、血色は落ちたように思う。異変を体調のそれに擦り変えた物言いを真顔で連ねるうちに、彼女が身を引くなら追いはしない。主が如何に催しに対する不礼儀色を纏おうと、その過程に棘が鋭利を増そうと減点上等の身にはどうでもいいが、彼女自身が痛みを得るのは困る。衣裳どころか舞踏会での予定まで断じたら、)それでよろしければ、お着換えの間は大人しく扉の外に居りますが。(形式だけ問うた。異論があるなら貴人が召し替える間も居座ってやろうかという言い様である。)[一章]
こちとら宦官じゃねぇんだ、順調にオレの首を飛ばす材料を集めていらっしゃる? ……着付けはできねえが、ダンスのお相手はできますよ。騎士団じゃなく侯爵家仕込みだがな。(幼かろうと肉付き薄かろうと忌み子であろうと、姫は姫だ。自分で言っておいて呆れた響きを向けた後に、拍置いて連ねた後半は含みの無い微笑。――胸に手のひらを添う一礼はいっそ仰々しい素振りで為して、代わりの衣裳を抱え彼女の傍へ寄る乳母たちと入れ違うように、男は素直に踵を返そう。[一章]
(親しんだ語調をして、我ながら捻りなく細心した。緩慢に腕を下げた男は彼女の傍らに歩みを進め、そうして片膝を折る。目線の位置が見仰ぐものとなっても、求むる瞳はヴェールの陰ではあろう。構わずに覗く。)すっかり涼しかなったが、もうこの駻馬の手綱を取れたつもりですかね、お姫さん。両陛下の御前だろうが、祝いに参じた諸侯の着目があろうが、未だ翻して差し上げるにゃ足りねぇよ。だから、……オレは今宵もあんたの騎士ですよ。我が姫。御身安全は保証する。(男の口振りは一貫して軽薄めいて、いっそ揺るがなかった。いつかのように彼女の手を取らんと此方から差し出した手から彼女が逃れたいのなら、躊躇わずそうしてしまえるように。そのくせ、)仮面でも時間でも、要するものはこの手に揃えて見せましょう。(大言壮語を叩いたつもりもやはり無い。我が姫の願いなら、己が叶えたかった。)[一章]
可愛らしい曲者だと思ってますよ。(語気は賛辞でも悪態でもない。並べた言葉はどちらも彼女への形容句だ。可愛らしい主だ。厄介な女だ。それらは或いは、別の存在を見てそれぞれ抱いた印象であったのかも知れないが。真っ直ぐ眼差しを注ぐ視界を泳ぐ少女の嫋やかな手指を避ける素振りも一切見せずに、大人しく呼吸を繰り返している。髪は色味に反してそれそのものに温度は無いけれど、地肌付近は当たり前に体熱の影響があって、指先の冷たさを耳元に感じた。)我が姫の退屈凌ぎになるなら、喜んで。[一章]
姫、(向ける笑みは平素通りである。すいと上向ける手のひらが引き続きの歩みを促して、)スタンバーグ侯の子息がご挨拶に。お疲れのところ申し訳ございませんが、こちらへどうぞ。(軽やかな口振りが返答を待たない。意向を確認されないのもいっそ慣れていらっしゃるだろうか。躊躇いが見られそうならその背に手のひらを添えて、いっそ見世物上等に抱え上げてでも連れ出そうという圧は感じたものだろう。要らぬ衆目を浴びる気は一応、そんなに無いのだけれど。謁見が終わればすぐに退出する、その宣言を果たすべく。斯くして重たいとばりをくぐり、風通りの良いテラスへ出て行くのは程無くだ。布地が空間を遮ったら、ざわめきは少しだけ遠くなった。)――なんか摘まめるもん持ってきたらよかったな。何か要るか? 飲み物でも?(一応のよう振り返った先にも、広がる庭園の景色にも、スタンバーグの嫡子は居ない。風音がする中で、男は改めて彼女を見下ろした。)ちなみにご指名かました子息はオレだ。兄上に会いたきゃ呼んでくるがどうする。別に今と明日と両方呼びつけたって構いませんよ。[一章]
(少し、想定を外れた解だった。気息に感じた柔さも、要された一つきりも、それに伴った彼女の仕草も。条件反射で片腕が宙に浮いて、止まって、それから緩慢に彼女の側頭部へ寄ってゆく。どうせ日頃が無礼千万を貫いているのだった。それでも触れたなんて称するには淡いばかり、こちらもヴェールの表層をやんわりとくすぐる程度の、指先の硬さも髪の柔さも互いに認知できないようなくらいだ。きっとこの小さな身体に刺さった棘を抜くには値しないと、解っていても、生じたはずの罅を探りたかった。「うん、」欠けら零された疲労を聞き留める音吐が拙い。同調や理解を示すには薄っぺらさが際立つだろう、血縁との仲に不足無い男は、ただ少女の内情と今の距離を受け止める以上の何も持たなかった。この存在は己に何を望み何を言ったって構わない。ただそれを示すように、)御意に。(告げられた次の要望にも躊躇わずにいらえた。彼女の秘したいものを男から暴く気も無ければ、そうされて失望するような性質でもないとも。[一章]
背に焔色を揺らす男は、明るい大広間への帳をくぐって同じ色を持つ縁者を探しに向かう。口にした一切は守った。程無く戻った男はおよそ自分のためにカクテルグラスふたつと一口大の軽食を載せた盆を持って、彼女の口に合いそうなら差し渡したし、要らぬようなら気にせず己で消化した。兄とは明日改めて顔を合わせて、柔くほころぶ“可愛らしい主”と歓談のひとときがあるんだろう。その席でも、後に連なる日常にも、今宵交わした何も掘り返しはしない。――陰に迎合したつもりなど無かった。眼差しも手指も足取りも、向かう先は自分で選べる。)[一章]
……この辺の奴ら、今時分は繁殖期明けで小せぇのがごろごろ増えてんじゃねぇのか? どいつもハラ減ってんだろうし見境無いだろ、時機が悪いな。(低く漏らしたのは、末の姫の外出任務を聞き及んだ折り。目的と経路を確認し、卓上に王領地図を広げて道中の谷をなぞった男は億劫そうに目を眇めた。話し相手は彼女の乳母であったと思う。そのときに姫当人が同席していたかはあまり意識していない。殊更の危険があるかと問われれば「別に」とあっさり首を振った。実際に不安は無い。ただ、――こう顕著な外敵というものがある際、常日頃やわらかな花弁ばかりを愛でさせてくれる我が姫はまた棘を覗かせるのだろうかと、詮無き物思いがあったくらいで。く、と喉を鳴らして笑う男のさまは相も変わらず不遜で、不真面目そうなものだったろう。[二章]
腰に佩いた得物を抜きつつ重心を下げ、男が笑う間にも魔物の頭数が増えた。右手に構えた剣は、細い剣身に黒の文様が刻まれている。片手で操れるそれにまず左手を添えて双眸を細め、)“疾く解き熔かせ”(文様に熱と赤色が走った。低く囁く言の葉は詠唱には満たず、まじないに似る。視覚化する密度の魔力が剣を覆って、副産物のうちに男の髪にも熱とひかりを宿らせた。飛び掛かってくる魔物の牙を避けて、返す剣は躊躇なくその口腔内に叩き込む。岩の毛皮を熔かすにはまだ火力が足りない。蓄積型の熱が貯まるまでは防護の薄い口と腹を狙って、谷間に響くのは獣の呻りと悲鳴。騎士らが状況と連携を確認するための声もありはしたが、それらには急いた調子は入らなかった。男の体捌きは遠目にもまだらに燃ゆるような焔髪が伝えて、剣筋が発火する。火力の充填と親狼の顔出しが有利に重なったから、自身の身の丈にも近い個体を往なすのも大した手間は掛からなかった。前脚の付け根から振り上げる焔の剣が、魔物の毛皮から肉と骨まで裂いて火柱を上げる。断末魔もすぐに燃えた。その一声は前線慣れした身にも耳障りであったが、さて馬車まではどの程度届いたものか。[二章]
どうにも狭苦しさを得る馬車の天井に手のひらを当てて、姫君の様相をほとんど頭上から覗き込むような姿勢を取った。)[二章]
んなことは無い。最優先が誰の頭にもはっきりしてる任務は遣りやすいほうだ。――そういう意味では、あんたには遣りづらいほうのお仕事なんですかね、今日のお出掛けは。(なめらかに唇を開くうちに、男の目線が緩慢に低くなる。不敬を改めない騎士は、胴を捻って彼女が佇む床に腰掛ける姿勢を取りながら、また右半身を向けるかたちで身を落ち着けんとする。[二章]
抱いた興味は個人的な興味の域を出ないまま、けれど彼女の双眸を覗いて聞こえた次の言葉には、感情以外の多くから一度唇を噤んだ。微笑は変わらない。否定は浮かばなかったが、積極的に肯定もしないで、)護られるのはお嫌いか。(此度も不行儀を重ねるよう問いで返す。語尾の上がらぬ語気は得心も含んで、細い吐息が連なる。無音の気息は彼女の言葉を遮るような圧は持たず、寧ろひとまず我が身の思案を流すような気配をして、男の声はすぐに軽やかさを取り戻した。)[二章]
腹芸も交渉事も経営も、生家に置き去りにした多くとてほんとうは別に嫌いじゃない。面倒ではあるが。そのくせ何ゆえ此処に居るのかと自問したときの、自答の一つを今し方彼女の声で耳にしておきながら、笑み型の唇は結ばれたままだ。急かぬ意識で少女の紡ぐ言の葉を拾いながら、浅く傾いだ頭を緩慢に戻して小さく首を引いた。)では、“それ”を護るあんたがオレに護られない道理は無ぇな。――褒美は持ち帰っていただくほどのことじゃない。朝いちばんに言葉で褒めてくだされば、それで。(入れ子構造の先は、今の流れには追究しない。そうやって揶揄の欠けらも滲ませなかったことも、思い出したように話を混ぜ返したことも、彼女にはまた煩わしさを感じさせるだろうか。帰城の前を指定したことに、当然ながら他意は無く。暁を越せば彼女が見せるはんぶんというものは面を移ろわせると思っているのだ。花弁をおもてにする日になら、それこそ笑って叶えてもらえると自惚れてはいて、嗜好に得られた答えにも軽やかな是を返す。[二章]
恭順よりも不躾の気安さが表立つなりを違えずにいても、目的地到着に合わせて外部の人間の目に晒される折りには、外連を気取ったりはせず姫の手を預かろう。上着は血の付いていないものを着込み直して、傷痕はしばし袖の内側に伏せたまま。王城からの順路に魔物と遣り合うことは此方でも周知のことだろうから、殊更に無傷を装いも露骨に見せびらかすこともせずに、ただ晩餐への招きをにこやかに受けて話の種にはした。ついでのようにこの辺りの警備体制に騎士たちのほうから話を及ばせたのも、何ら不協和の生じる様相ではなかったろう。その間における王室の姫が、何かを語るよりも食するほうにその口の多くを用いていたとしても。――周囲から目立たぬ範囲として、彼女自身はそれなりに、男の視線は感じたかも知れない。[二章]
(型に収まっていない自覚はある。それでも、或いはそれゆえに、“はんぶん”の少女は焔の瞳には常に一人だった。こうして見慣れぬ景色で夜を明かした後にも。早朝のうちに身支度を整え、大柄の身体をぐっと伸ばして息をする。[二章]
貴人の客間を求めて進んだ先で、暁のひかりを浴びた人影と向き合うに至ったら、はたと呼気詰める感覚は一瞬未満。足は止まらずに彼女との距離を削った。男の歩幅と、少女が駆け寄る速度がきっとちょうど同じくらい。それを甚く馴染んだ視覚情報として、男の口角が上がる。)――ああ、おはようございます。お姫さん?(いらえる語気がつい昨日より幾らか和らいだのは、無意識だ。無自覚ではない。花弁の振る舞いに釣られたようなものだったが、これもどうせ常の事だ。ほろりと零れる息が笑って、左腕を差し出す所作も気構えの無いものになった。躊躇いを覗かせる彼女の手へ、こちらから強いて接触を求めたりはしないけれど、お好きにどうぞと謂わんばかり。[二章]
(今更この男が遠慮するとも思われちゃいないだろう。ねだった通りに慰労と賛辞を言葉で得られたら、笑みに語気に含む上機嫌は素直なものだ。そういう気安さにあって猶――男は、常日頃接する花弁と今目の前にいる存在を区別しない。当たり前に同じ人間として扱って、逡巡の欠けらも見せずにその手を取った。指先に感じていたくすぐったさを広い掌に収めて、「御意に。」穏やかな一言が少女とつま先を揃えて屋外を目指す。[二章]
いざなう手は紳士が女性を導くものではなく、従者が主に添わるものとして、雑踏に踏み込んでも小さな身が人波に揉まれることはない。背も肩も自然に庇う位置取りをして、向く先はお任せしよう。――その中途に、)なあお姫さん。(やや身を屈めてそそぐ声は届いたろうか。別に、誰とも知れぬ声に呑まれても構いやしない程度だったけれど。)あんたの護りたいものってなんだ。……それはオレがあんたに就いてるより、離してやったほうが叶う話なのか?(雑談のように掘り返した話、棘を見せる時分より花弁を纏う折りのほうが御しやすいと判じた打算を取り繕う気も無い。軽んじた心積もりもない、とも、いっそ透けていてほしいところだが。)[二章]
(衣服越しの指先は妙にくすぐったい。実際に肌で覚える感触としてというより、いとけなさで擽られたのは胸裏のほうである気もする。今唇が引き結ばれたのはむず痒さを抑えるためで、傍目としてはまた要らぬ苦味を含んだようであったかも知れない。[二章]
……。(見下ろす双眸が細められた。笑みに似はして、そればかりともない、含んだ躊躇いは彼女が見せたものときっと近しい。皮膚の厚い手の中にやんわりと彼女のそれを取ったまま、唇が吐く息はかろく。)ああ。(気安い響きが朝市に溶ける。御意に、と答えて差し上げるべきだったのかも知れない。けれど男は騎士としてそう応えてしまったら、実際にそうする自分自身をよく知っていたから、軽口の域で肯いたのは抜け道みたいなものだった。そぞろ歩きに実りを求めぬ他愛無さで言葉を交わしながら、忘れることも考えないこともきっと出来ない。少女を囲う円環に感じた曖昧な綻びを、変わらず探るように見据えている。熱でなぞる亀裂を。)[二章]
(向ける目差しは接触に満たないものなのに、ぴりと小さな刺激を浴びた気がした。まろく柔い猫っ毛の輪郭線に見合わず覗く不可視の棘。また幾らかぶりに感じた気配に思わず唇を引き結んだのは、王室中から忌まれるそれに圧されたせいではない。寧ろその逆、悪戯を知ったように笑いそうになる口唇を曖昧に留めて、男は小さく首を竦めた。)[三章]
それでも継ぐ一音を唇の裏に躊躇わせるのは一瞬に満たない。)――死んで見せようと思っていた。(手のひら、硬い皮膚に嫋やかな細い感触を覚える。触覚がそれを辿りつつ、眼差しは暁色の瞳を覗いていた。男の声は平坦に穏やかで、重々しさも軽薄さも無い。少女の指の背にやんわりと被せる親指は、捕捉に至らず触れるだけ。言葉を切ったことに他意は無いが、結果として束の間ばかり彼女の様相を窺う間に似たろうか。緩やかな瞬き一つ挟んでから、男は唇の笑みを深める。)[三章]
笑う男が切れる札は、言うなれば単に己が身の全てであった。身分も血縁も惜しむ素振り無く、全て置き去りに円環の外へ逃れるだけ。決して冗句ではないが、いっそ穏当なほど落ち着いた響きになったのは、別に今これが彼女にとっての“切り札”に成り得るとは自分で期待していないからだ。ただ、)オレはあんた一人なら攫える。(足した言葉も飾りではない。直前まで、別にこんな一言を続けるつもりはなかった。音吐が転げ落ちたのは今だからだ。伏せるように細めた視界に映るのが、未だ得体の知れない棘を持つほうの彼女だからだ。[三章]
それで今は、何に困っていらっしゃる?(少し身が屈むのは、物理に生じる距離を厭うてその瞳の奥を探りたいゆえ。他者の気配が無い空間で声は僅かに低くなった。変事を迎えた今日まで、存外に心安いまま付き人の立場にあったが――自分が彼女個人を何も知らないという事実くらいは自覚している。)[三章]
生きていると、兄上がオレを諦めてくれない。(平坦な声に、恐らくも初めてぎこちなさが過ぎった。自身の手から離れゆく彼女の手を留めるために手指が動いたのも初めてだったかも知れない。痛みを与えぬよう加減はするけれど、ほどく途中の所作を邪魔して、体熱を感じていた左手が緩やかに五指を折り込む。目差しを遮るほうの手には触れずにおくが、男の視線はその柔手も貫かん風情で逸らさない。)[三章]
(――順当に歩めば兄の小間使い。に、真実おさまれるならきっと構わなかった。実態はいずれ引っ繰り返る。あの嫡子は有能ではあるが些か柔らかすぎるのだ、此処で日頃見る花弁のように。舌が歯切れの悪さを含んだところで、己があの“可愛らしい主”に兄を重ねていることに思い至った。唇が笑ったまま少し眉根が寄って苦笑が滲む。それに並行する思考がもう一つあって、ゆると首を振った。あの、と思い巡らせるのはそぐわない、彼女は事実眼前に居る。わかっていても、時折別のもののように見做したがる感覚を横に除けて、意識を戻すために目を眇めた。厄介な女を其処に映したまま。)期待したより解任が早そうなもんでね。平穏無事にあんたを見送っても、こちらの悩みは変わらんわけだ。オレはあれの居場所を喰いたかねぇんだよ。(わざとらしい溜め息は、常の調子を取り戻してきたと謂える。独白に近い調子の言葉尻を紡ぐころ、右手も彼女の手元へ伸びた。目許を遮る手のひらへ、つい、と硬い指先を滑らせんとするのは不躾な戯れのよう。他者との婚礼が決まった女人に向けるにはそぐわない、いやそれ以前に王室の姫に対して許されるべきでない、一片の情を含めて。)[三章]
(喉の奥が低く笑ってしまった。難儀とは。成る程相応な響きが存外に優しく聞こえたのは己の耳の都合だったろうか。外聞だとか、慣例だとか、建前だとか、そういったものの一切を切り捨てられぬ家名というものは個人が気儘に生きるにはなかなかに難がある。うつくしく世話の施された庭園を始め、手抜かりなくととのう王城の柱の彫り一つにすら数多の舞台裏があるのだろうから、果たして王国全土には如何程の難儀が溢れているものか。裏を何も見ぬで良いなら、伸ばした指先一つ、なめらかな皮膚を撫ぜて体熱を感じることも甚く容易いばかりだった。騎士が扱う剣よりよほど柔く、相手取る魔物の毛皮より脆く、自身が魔力で生む焔ほど熱くもない。そういう小さな存在が少しだけ己の指先を痺れさせたことに、男はゆったりと双眸を細めた。重なる視線を何処かおかしがるふうでもあって、零す呼気が柔く。)[三章]
己が行く末に、彼女の立場からの口添えは心強いものではあるが――それに是非のどちらを唱えるより先に、男の手はまた緩やかに持ち上がる。柔手を捕えた左は解かぬまま、感じた微細な圧へゆったりと力を籠め返す。一度は下がった右手が再び彼女のかんばせに近付いて、遮るもののない今はその頬へ指の背を滑らせようとした。叶えば今少し彼女を上向かせる促しも含もう手付きは、男が見下ろす角度を深めてその視界に影を深めようか。)オレはあんたのほうに訊きたいんだがね……我が姫。(焔色の髪が肩を滑る間に、声量は囁きに近く落とされた。他に拾う者も無い場でなら、まっすぐ彼女の耳まで落ちるだろう。)名を持たぬあんたは何処へゆく。王族の娘としてのあんたに、この十七年を取り返すほどのさいわいは順当な途の先では見込めないか。……手放した先がそんなんなら、離してやる義理がねェよ。(“遺す”と聞こえたそれが、まるで国境の峰よりも遥かな隔壁を得るように思えたものだから。懸念は少しずつ箍を緩める。彼女が意図して秘めたいものがあるならば、それを無理に暴く気は今とて無い。ただ触れたい個所に熱を添わせる過程にそれがあるのなら、探る指先は遠慮も持たずにいよう。)[三章]
とくべつなその一人が手の内から体温を抜き去ってしまう折り、少しだけ力を籠めたのは頑是ない餓鬼の振る舞いに似ただろう。我ながら意図的な悪ふざけなれば、一度宥めていただければ十二分とばかり解いて――瞳の動きだけが細い手指を追う。茎の手折れる青いにおいに、鉄の気配が交じらないかは気になった。運ばれる柔い色味は武骨な男には似合わぬだろうに、その所作の狙うところを察しても動きはしない。男のほうが身を屈めてやらないのは、さて彼女の目には不敬に映るところだったろうか。)[三章]
呼気を転がすまま目を眇めて、男は緩やかに片膝を折る。焔に差し込まれた一輪が零れ落ちない動作で、仕える者の位置取りを目線の高さで示して見せよう。眉根を寄せたのは束の間、面持ちは瞬く間に不遜を取り戻す。)御意に、我が姫。――……ロクサーヌ、(刹那未満に空を食み、ふたりきりの距離でも聞き取られるか淡いような声量で、囁きは確かに眼前のひとを呼びたかった。男は我が身の愚かを知らない。自身が手段も権利も持たぬままにあることを知らないから、眼差しの先と受け取る暁色の擦れ違いも正しく解してはいない。淡い違和感のようなものは、“はんぶん”の彼女が持つ特質の一つとして未だ浚われぬまま落ちていくんだろう。[三章]
――そりゃあどうも。光栄です、我が姫。(細めた双眸がやんわりと撓る。飾り気無く喜色を見せたその声音と面持ちと、今ひとたび伸べかけて、曖昧に宙を撫ぜた五指の有り様が飽かず矛盾した。うっかりでもそのまま転げてしまいそうならまた手中に収めたがるところではあるが、そうではないものと、意識的に止まって。靴音はやがて遠ざかるんだろう。小柄な少女に見合うその調べが芳香の空間に溶けてゆくのを、男は黙したまま聞くことになる。身動ぎを厭って衣擦れ音も纏わぬまま、それからやがて息を吐いた。ゆる、と首を回す動作に付随する髪の流れがどこかに引っ掛かって、思い出したように片手が自身の耳元を辿る。手に取れた一輪は自己評価としては己に似合いそうもなかったけれど、その不釣り合いさに呼気は笑ってしまって、溜め息代わりに鼻先に寄せた。息を吐くでなく細く吸って、視界を伏せるは束の間。)……――先が長ぇな、(零すひとことはまた誰の耳に届くものでもなかった。静かに立ち上がれば、男もやがて場を辞そう。年明けにはきっと、王国中が喜びを見せる。いつかの十三分間を塗りなおすように、別れを奏でて。)[三章]
(付き人に任ぜられる前から住居は替えていない。寮舎に戻るのが順当だったろう歩みは途中で逸れた。星明りの下を歩んだのは束の間で、靴音は回廊に刻まれる。やがて辿り着いた重たい扉を男は両手で押し開けた。人影の無い礼拝堂には静穏がある。ステンドグラスは夜空の光を通していない。色彩が今は暗がりに沈むままであるのを、確かめるでもなく単に視界に入れて、信徒席の最後列に足を運んだ。座しはせず、ただ少し凭れる。緩やかに瞬く双眸が、幾許間を置いてから下向いたものとなり、)……ふ、ッハハハハ(ややして震える肩と同じ拍をして、呼気が笑ってしまった。呆れを色濃くした響きが暫し、他の誰の耳に入るでもないまま響いて、温度の変わらぬ溜め息で一つ区切りを迎える。)嗚呼――……バカかオレは。……(自嘲だとか、自罰だとか、そういった念が全く無いわけではないけれど、単に苦笑に近かった。片手を信徒席の背凭れに置き、もう片手を自身の腰に当ててまた静けさばかりに身を浸す。[四章]
思考の整理を試みてはいたが、あまり上手くは行っていなかった。取り留めも無いことばかりが脳裏に巡っている。――禁忌の双ツ子、秘されたひとりと、装うひとり。どこに境があっただとか、なぜ知らされていなかっただとか、そんなことは今以て問う気にならない。一度吐き出した嘘とは貫くべきものだ。民を治める国主も、あの可愛らしい主も厄介な女も、そうして己も。バートラム・カイ・スタンバーグという騎士がそのための駒であることに異論は無い。ついでを並べるなら、無茶振りされることは純然と好む性質でもあった。それくらい熟せるだろうと信を置かれて悪い気はしない。しないがしかし、)全部はちと厳しいなァ……同じ血が揃えて好き勝手言いやがる。面倒くせえな、(低音は舌打ち交じり。身体がぎこちなさを帯びたのは、顔を上げようとした刹那だけ。動き始めてしまえば滑らかに背筋を正して、男は頬に落ちた髪を掻き上げた。五指で梳いて後ろに流し、短く吐く息が口唇に笑みの余韻を残す。空にして下がった手は腰に佩いた剣に乗った。握り慣れた柄を軽くなぞって、剣身は鞘のうちに伏せたまますぐに離れる。幾重も矛盾を絡めた建前と真相をすべて揃えるには、男の腕も頭も記憶も一つでは足りそうにないけれど、如何せんこの身ははんぶんに裂けそうにはない。殊更にどうしようもないのは心だった。カツと小さく靴底を鳴らして、男は間も無く踵を返す。向かう先は疾うに決まっていて、焔が何に届くかはどうせあの棘次第だ。)[四章]
――裂けぬ心のはんぶんの。発火に至らない熱だけを蓄えるもうはんぶんから、思い付いたような言葉が紡がれるのは、彼女の婚約を知らされて半月ほどは経った頃合い。)[終章]
お姫さん、今夜月見しようぜ。――以前に陛下から聞いた場所、オレも入れてくれるって言っただろ? 先に行ってる。(共有した記憶を語る口振りに、当然覚えなど無いはずの彼女は疑問を呈すだろうか。了承以外が返るなら「お忘れで?」なんて軽やかに片眉を上げるところ。仔細の説明はしない。細かなことが噛み合わないのは“半分の姫”の平素だろうから、覚えがないならもう一人との話だと考えてくれればそれで良かった。もう一人のほうだって当たり前に知らない話だけど、国王陛下のご指定、待ち合わせはこれで充分のはず。きっとこちらが何を聞き及んだかも伝わる。そういう時期であるはずだった。[終章]
だからその夜、男はかの尖塔に居た。纏うは日常をそのまま持ち込む騎士団制服、腰に佩いた一振りの剣も変わらない。最上階までの階段は細身の姫には少し負担があったろうか。思いはすれど迎えに下りもせず、天に開けた露台で一足先に寛いでいる。太い手摺りに腰掛けて、見仰ぐ先には薄曇りの隙間の丸い月。真円ではない。満月はもう少し先だったはずだ。月見には甚く中途半端な天体から、眼差しを塔の階段のほうに向けるまで、さてどの程度時間を要しただろう。)よう、我が姫。ご機嫌麗しゅう。(待ちぼうけでも一方に構いやしなかったから、男の笑みは軽いばかりだ。)[終章]
今宵に宴会の真似事は出来そうにない。月のかたちも、他者の気配が一筋も無い静けさに響く常のような笑い調子も。この場は何もかもがいびつで調和に程遠い。自覚の上で、男は利き手を緩やかに彼女のほうへ伸べた。闇夜に蕩けるような黒一色を手招いて見せる。日中に見た相手と、同じ顔、同じ声。表情や声調など誰しも時と場合で異なるもので、目的も望みも倫理観だって状況に拠る。そういうものだと、思うことにしていた。男にはそれが誠意だったからだ。前提の崩れた今には節穴の笑い話だろうか。別に、男の唇に自嘲が載るような可愛げは無いのだけれど。)[終章]
お姫さん。あんたはいつから自分の行く末を知っていた?(――穏やかに紡いだ問いは未だ核心を避けている。男の手の内を晒しきるより先に、今少し彼女のことを探りたがった。あたかも互い同じ“行く末”を描いているかの口振りに、実際はどうだかなど知りはしない。彼女の歩みがどうあれ、男はひとまず手摺りに身を落ち着けたまま、ただ静かに露台側へ脚を下ろして胴の正面が向き合うことにはしよう。距離が詰まる様子が無いのなら、手もまた程無く下げておくことにするが。唇が笑みを保ったまま、けれど細めた双眸は和らいだゆえではなく、どこか温度の低さを含んでもいよう。)[終章]
ッハハハ。夢で毎夜お会いしてます、くらいの物足りなさじゃねえか、それは。(姫と騎士との、日々の表層をなぞり続ける言葉繰りにはただ可笑しげに笑った。毎日が示すものを否定する口振りではないけれど、下心の求める先としては偶像でしかない。花弁に例えた可愛らしい主、日中に見たあの少女に向ける一種の忠義は現状に至って翻ったものではないが、眼前の存在とは明確に切り離された。[終章]
無意味なもしもへ思考を流していても、耳はひとつ気配を拾った。す、と眇めた瞳が彼女の視線を追い掛ける。月明りの届かぬ影の中、人間と異なる生き物のかたちを即時明瞭に捉えられはしないけれど、左手が腰の剣鍔に掛かったのは条件反射の域だ。彼女に近付く気配そのものは探る。敵愾心に転ずるかは、今宵の月より丸そうな金眼の移ろい次第となろうか。男の双眸は緩やかに彼女へ戻る。)別の話をする。――オレが攫ってもいいと思ったのはあんただ。もう一人のほうじゃない。それはご存じで?(静かな笑みのままで問う。断言に躊躇いは無かった。)[終章]
(安穏と高揚は別の感覚ゆえ否は唱えまい。それよりも意識が傾いたのは片割れが彼女の唇に“姉”と称されたことで、二人の姫の有り様が胸裏に実像を得た気がした。姉妹。母親の胎の中で二つに別たれ、順繰りに世に出でて、そしてそれが後だったほうの誕生は無かったことになった。元より幽鬼じみた存在に、惑わされている、と言われるならそれも否定はしがたいが。)[終章]
そうか。成る程。……知ってて誑かされたのかと少し腹を立ててたんだが、そこが違ったなら良かった。悪かったな。(笑い調子の言葉繰りこそ独白に相応なものだったろうに、出し抜けな謝罪はしかと彼女へ向けられた。場違いに穏やかな語調がが尾を引くまま、)[終章]
お姫さん、オレはな、命は主の為に使える。だが矜持はそうもいかねぇ。――あの可愛らしい我が姫、おまえが謂うところの“ロクサーヌ”のために死は厭わん。けどな、女を攫うのは騎士の矜持に反する。その命令は主からは聞かない。おまえが死んだら反故にするぞ。(柔らかな声でも毎度の不遜で、告げた言は彼女の未来図とは重ならない。掌を返したような心積もりも無かった。己がそれを約したのは今目の前にいる少女、存在し得なかったはずの双子の妹そのひとであるからだ。いびつな円環にこそ関わりを持った男にとって、今さら正しき理など知る由も無い。彼女を欠いて己は組み込まれている図が最良など、既に呑む気は無かった。[終章]
恐らくご推察通り、オレは陛下から“半分の姫”を“おひとり”に正せと命じられてきた。遂行の暁には叙爵を検討して下さるとのことだったが、華々しくも主は婚礼で国を出て、惚れた女が魔物の腹に収まるのなら、オレがこの国に残る理由もいよいよ無くなるなァ。(脅すつもりは欠けらも無い――と言えば多少は嘘になる。それでも声の軽やかさが変わらぬままで、男は彼女に手を伸ばした。彼女のほうが動かなければ、熱を含む右手はその顎を捉えて少し上向かせる所作を続けることになる。こちらからも少し身を屈めて、眼差しを合わせその面持ちを覗き込むために。)[終章]
知らされねえもんを敢えて暴く趣味はオレに無え。誰にだって訳のわからん二面性はある。大体、種明かしの後に“だと思ってた”なんて後付けは鬱陶しいだろう?(語尾上がりは返答を求めたものではなく、苦笑を帯びたそれは言い訳には似た。零す呼気が白く夜気に流れて散っていく。[終章]
よく考えたな。オレが家を出たがった条件は十全にクリアだ。いい根回しだったよ――ただ、(過日この最大の秘密を知らされる際に、国王から篤い信頼をわざわざ言葉にされたこと、目に見えた形での褒賞を示唆されたこと、愚鈍の皮を被っても何ら咎めを受けなかったことに。彼女の気配を感じたことは確かだ。いつか彼女が護りたがったものが何を示すかも、推察ながら合点がいった。賛辞は偽りなく彼女の発想と行動に向けられたが、ゆるりと白い顎を撫ぜる男の手指は解放の兆しは見せない。意識的に鈍い瞬きを挟んで、指先は彼女の唇を辿りたがった。歯列に巻き込まれた個所が傷を持つ前に、籠る力を逃がさせたくて。――半端に途切れた言葉の先はそれから、)おまえたちは別もんだ。同じじゃない。(瞳を覗き込んで囁いた。ひかりの下で暁色だと判じていた双眸は、男自身が月光を遮った暗がりではもっと宵に寄って見えた。恐らくもこの虹彩は差異にならない。それでも初めて知る色に意識を注ぎながら、水膜が睫毛に移ろうのを見ていた。[終章]
緩慢に一度身を屈める男は、剣から離した左手を彼女の身体へ伸べる。冷え切った壁から引き剥がすように腰へ腕を差し込んで、抱き寄せる所作は彼女が些少暴れたところで解けはしないはずだ。塔の闇に沈む魔物を含めた、隠し武器などが容赦なく向けられでもするなら別だろうか――腕と胸に抱き込んで姿勢を直す男は、ひとまず同じ高さに目線を重ねたい以上の意図や害意は無い。生来の体格差で見下ろすでも、膝を折って差し上げるでもなく。叶えば連ねる続きは同じだけ月光りを浴びるまま。)秘されてたことには、腹は立ってない。おまえがオレを見誤っていることには多少立っている。……不満はおまえの設計図におまえが居ねえことだ。オレが欲しいのはおまえ。姉のほうじゃない。(笑みの凪いだ真顔、努めて淡々とした口振りの中に、ふつふつと熱が灯る。根回しは良かったが、聡明、狡猾、どちらの評を捧げるにも彼女は一つ重要な点を見落としている。男の感情の起点は彼女自身だ。[終章]
(彼女は既に主たる立場でない、けれど呼ばう名を知らない。濡れた頬が月光を吸うのを見ながら、だからまた「おまえは、」と不躾な二人称だけ唇を衝いた。ささめきが揺れて独白に似る。)厄介な女。[終章]
やんわりと頬をくすぐる手指も戯れに近しく、右手はそれから緩慢に猫毛に回った。弛緩した小さな身体の重みを受けて、五指は宥めるようにその頭を撫でる。気安い手付きも不敬だろうが、この少女が真実ひとりの姫であるなら、騎士たる己が己に赦さなかった。所詮ずっと意図せぬまま、あの可愛らしい主とこの厄介な女が別であればいいと思っていたのだ。喉の奥で低く笑って、男は塔の暗がりへつま先を向ける。)[終章]
おまえにはこのまま不逞の騎士に攫われてもらう。陛下の要望は“半分の姫”がそうでなくなること、オレの目的はオレが兄上の円環から消えること、おまえの願いは姉君の危機にオレが動ける状態であることで、――我が姫には直截に訊き損ねたな。なんだったと思う?(此度の問いは、幾らか彼女を窺う色が交じった。下層へを歩みながらちらと近しい瞳へ視線が向く。)[終章]
国は出るが、ロクサーヌ姫のことは気に掛ける。何かあれば駆け付けてはやる。……我が姫はオレと、おまえを信じてくれると思うか?(己が大人しく王国の騎士に収まり続けたとして、嫁いだ先の主が遠い“切り札”を信じてくれる他無かったことは、彼女の未来図でも変わりはしなかったはずだ。なればこのまま姿を消しても、円環の外からでも、生き延びて我を貫き、忠誠を捧ぐ姫の心身が危ぶまれるようなら迎えに行く、その心積もりであることも同様に考えてくれるだろうか。最後らしい最後など何も演出しなかった。ただ当たり前のように、変わらず傍に居続けるかのように振る舞った身でいて、こればかりは男にも賭けでしかない。すこし調子を下げた語気が、地下層へ踏み入る靴音の中に紛れる。)[終章]
そうだな。(――確かめるすべを残さなかった騎士に、傍を離れる主の心持ちについては結局期待をするしかない。それでも相槌は純然と和らいだ。各人が描く多くの理想の、すべてを十全に叶えることは難しい。ただ密やかに思いと策を巡らせるばかりの果てに、あの花弁が恙無い幸いを得てくれたらいい。嫁いだ先で孤独を感じることがなく、元より不要な切り札だったと結論付いてくれることが何より望ましい話だ。主の残る地上への途を振り返らずに、男はやがて魔方陣に手を伸べた。利き手の掌に焔の魔力が籠って、真円の中心を緩やかに撫ぜる所作に合わせ壁にひずみが生じていく。)[終章]
言っておくがな。(男の手が光源になる暗がりで、紡いだ語調は可愛げも無く平素通りになった。すいと双眸が彼女を向く頃に、交わる視線はきっと僅かばかり。ちょうどその折で伏せられてしまったものを無理に追い掛けんとしないのも変わらぬ有り様で、ただ意識的に身を寄せはした。柔い髪に自身の唇を近付けて、低い声はその耳元へ。自分たちと金眼をした魔物の息遣い以外が無い中で、聞き零しようもなかろうとは承知の上ながら。)好きだぜ、お姫ぃさん。(男のほうも少し瞼を伏せて囁いた。血筋や地位を指し示した響きではない。例え話の一つのよう、それくらい貴く慈しむべきものを語るために市井の民が冗句で交わすような、柔らかで甘い呼称だった。――それからまたすぐに、眼差しと思考は魔方陣へ向き直る。)安心しろ、おまえ相手に勝手に命懸けにはならん。ひとりにはしねェよ。(生きる上でも、死ぬ上でもと。紡ぐ間に、壁だった個所に空間の歪みが整った。[終章]
オレはな、ひとまずおまえと春が見たい。……なあ、なんて呼ばれたい? 姉君と同じものは不本意なんだろう。何か考えておいてくれ。見分けくらい今後は付けてやるから、疲れたらまた“オレがいい”って言ってくれ。(連ねる要望にいらえを急かすふうは無い、けれど、出し抜けではあろうか。いつだか耳にした一言は、彼女が紡いだものだとは思っている。あるいはそれを寄る辺にして、濡れた頬を拭い慰める暇も無いまま何もかもを手放させて、この腕に攫ってしまいたいのだから。)[終章]
男の瞬きが鈍くなって、そこに微か丸みを帯びる。鍛えた身体に本日は難が無い。今後とて剣を振るうことは多くあるはずだし、相応に負傷することもあるだろう。怪我を彼女にまで及ばせない自負はあってこその決断ではあるが、慰撫と感じた仕草に自身で知らず喉が詰まったようだった。臓腑の浮くような感覚がガキめく高揚を伴って、吐く息が微かに震えた。鷹揚と身を返し、葦毛馬に背を預けて程無く彼女と視線が合う。右手も当たり前みたいに、その手を受け取った。掌の薄さも指の細さも、剣を握るような生業の男と比べずとも嫋やかで気に掛けずにいられない。誰ぞ相応しい身分の者へと渡す気になどならない、――触れれば離したくなくなることを知っていた。ひどく冷えたその肌へ皮膚の硬い手指を添わせて、男がその柔手を握り込むことに逡巡は無い。[終章]
……おまえの、(紡がれる声音は低い。何を抑え込んだつもりも無いけれど、思案交じりに連なるそれは拍の遅いものと鳴った。)記憶や想いにあるもんは、忘れたり消したりしなくていい。誰を赦さなくてもいいし、これまでを受け入れなくていい。どうせオレは自分に無理なもんは無理だとしか言わん。それで不本意をさせることもあるだろ、だから、……好きにしたらいい。(例えば。姉を想うことを止める必要も、父王への認識を変える必要もない。半分という環境に秘された事実や、そこからこうして攫われた今宵のことが疎ましく思ったままだっていい。それでも、なるべくなら穏やかな熱とひかりを浴びて生き続けてほしいと、望まずにもいられない。彼女自身がそれを、己を選んでくれたらとも。[終章]
一度静かに唇を噤んだ後で、男は少し目を伏せた。それでまた、唇をその耳朶まで寄せたがる。)オレが“エナム”と呼んだらおまえのことだ。おぼえておけ。(囁きが掠れる。我が身の一義、始まりのひとつ。――人には何かしら逃れられないものがあるはずだった。貴人であるなら猶更、数多の権利と引き換えに責は負わねばならない。その理すら焼き棄てよう我欲を火種にして、円環の外を目指すとしよう。顔を上げたらニィと口角を上げた。眦が年相応に淡い朱を宿したことが彼女の目に止まったかは知れない。[終章]
手のひらを彼女の腰に回し、改めて細い肢体を宙へ持ち上げたら、葦毛に括った鞍へ横向きに座させて。その背後へ自身もひらと身を乗り上げたら、視界は互い良好、背凭れに充分な身をして荷の一番外側にあった外套を彼女ごと被る。)アイリスは走れるか? こいつも外は馴染みねえか。まあゆっくり行こうぜ、どうせこの駻馬が即時収集に応じねぇのもいつものことだ。早々騒ぎにもならんだろうよ。――どこか行きたいとこ言うなら今のうちだぞ。(軽やかな問いのいらえがどこからあったにせよ、馬の足はまずは緩いばかり。楽天家を装って脳裏に幾重も行路を巡らせながら笑った。)[終章]
どうしたって叶わぬ何かを後ろ暗く抱えることを馬鹿らしいと知ってくれたら、それでよかった。だって生まれてからこれまでに、円環の内側を自ら塗り固めてきた多くが簡単に割り切れることはない。自分たちはたぶん、――そうやって兄に姉に、依存することに長けてきた。護りたくて力を纏い、孤立することで秘されたがった。それが何より賢いと事実として置く傍ら、歪を育てている自覚もあって。睫毛の影が窺える距離で、男も静かに瞬きを繰り返す。薄く開いた唇が、一度そのまま閉じられた。)……。(誰かの為なんて殊勝じゃなかった、随分好き勝手にしてきたさと、仮に彼女が言ったら己は虚勢だと受けて笑ってしまう。嘘ではないが満ちてもいない。だから自分でそれを言えなかった。かそく震えた呼気が、間を置いてまた、くつ、と可笑しげな揺れ方をする。明瞭に肯くような可愛げはやっぱり持ち合わせちゃいなかったけれど、腕に籠る力に、短く彼女だけを呼ばう音の連なりに、伝うといい。誰の代替でも擦り替えでもない、他ならぬ彼女が、男が己の為だけに連れ去りたい唯一であると。)[終章]
……そりゃあ考えたことがなかった。そうだな、そういうのも、あるか。(白い呼気が流れて、円環の綻びは小さな欠けらを散りばめて、思想の端に燃えてゆく。一国における厄災の象徴が、揺るぎない祝福である別の国。大地を治めるものとして、神話も王命もそういうものと受け止めてきたけれど、自分たちにはもうそれを定めとする理は無いのだ。ともすれば魔物が共存を叶えている土地だってあるかも知れないものと、同行の一頭へも束の間意識が流れよう。腹の底に生じる熱のせいで、吐く息のほうがどうしても白む。曖昧に弛む頬を唇を結んで少し耐え、単に笑みを深めた後に、)うん。(我ながら頑是ない一言で肯いた。そうしてこれまでの何もかもを置き去りに進む。憂いと祈りを数えた時間は、世界からは刹那に等しい。全てを崩した後にまた、飽かず重なってゆくだろう。花降る彼方の夜明けから。)[終章]
よう、兄上。ご機嫌麗しゅう。(王国の慶び、親愛なる王配陛下の生誕祭である舞踏会の一幕にある。傍目にも血を分けたと察するに容易い、焔色の短髪をした貴人に声を掛けると、顔を上げた相手は大きく双眸を瞬かせた。驚かせるだろうなとは知っていたから、掛けたほうの男は平然と笑っている。対峙するのと同じ色の瞳を丸めたスタンバーグ侯爵嫡子、兄も、そんな弟の有り様に慣れたようにすぐ笑った。すいと双眸を細めた目線の位置は己のほうが高い。[フリー]
男が王都の騎士団に入るべく家を出て以来に顔を合わせた。手紙の遣り取りはあったが、およそ己のほうが素気無くしていたし――今宵の来訪を知っても避けるつもりでいた。急遽予定をひるがえしたのはつい先刻である。[フリー]
呼吸と同じ軽やかさで立場を移ろわせる男は、生まれたときから兎角健康であった。もので、この頑丈さは先に生まれた兄の分まで持っているに違いないと、貶すでなく、呪うでなく、笑い話として紡がれた。そういう家だ。弟のほうが目覚ましい魔法素養を見せても、商談の類まで面白がれる性質を育てても、誰が誰を厭うこともなかった。だから、その分、囁かれたのだ。順番さえ逆であればと。――嫡子当人から言われるより先に逃げた。粗暴で気儘でとても人心掌握は出来ないと笑われるように振る舞った。護りたかったなどと謂うには幾重もいびつに、焔はひとときたり同じ形を保たない。ただ焼けた靴跡だけが残ればいい。向かう先に、今の自分の置き所を探している。)[フリー]
背にした山が屋敷の明かりをすっかり遮ってしまった頃に、細く吐いた白い息の端にだけ、もう一たび兄のことを思う。それで終いにした。連日歩ませても依然にして健やかたる軍馬の速度を落とし、外套の前を寛げて、中に収めていた荷――もとい、攫ってきた少女の頭を外に出してやる。さてこの扱いが彼女に不服だったなら、また刺々しい面持ちでも見られるだろうか。覗き込む男のほうは、どうあれまず笑ってしまうけれど。)雪降ってるぜ。[エピローグ]
(穏やかな語気が白く吐息をくぐもらせる間にも、天よりそそぐ花弁雪は知れたやも。夕空は雲に覆われて暗い。相応に寒さも感じるだろうが、道中に増やした冬支度は彼女の身に足りているだろうか。暖気の類を得る魔法具は男には扱いやすいものだから、こうして身を寄せている間はとりあえず凍える懸念など無いと思いたいけれども。ある意味では同じく箱入りの魔物のほうが心配かも知れない。雪化粧の中で金眼の気配も辿りつつ、笑う男はやっぱり軽やかに。)とりあえず海岸線とやら行きだな。気長でいろよ。(考えるべき多くを順当に先送りにして、憂いも無さげに手綱を取る。その動作の途中に一度彼女の肩を緩やかに撫ぜて、男は柔い側頭部に自身の頬を寄せたがった。戯れのように擦り寄って、雪を踏む歩みは進む。宵と呼ばれる時間帯までには隣国領に差し掛かるはずだし、本日までがそうだったように、彼女を屋根の無い場所で寝かせられるとは思っちゃいない。逃亡劇にしては安穏と緩やかに、きっと離れるためでなく何処かへ向かうために、変わらずこの身の熱はあった。)[エピローグ]
(何かと人を言いくるめることに躊躇いの無い性質をしていてよかったと思う。旅の共には一見してそぐわない寡黙な少女を背に連ねるに際し、関係を問われれば、)これはオレのお姫ぃさん。(と、笑ってまっすぐのたまった。真実として受け止められれば微笑ましがられたし、冗句ではぐらかしたと思われれば呆れ笑いを頂いた。当面はひとところに留まるつもりは無かったから、穏やかに表層を撫ぜ合いつつ擦れ違う対人交渉ばかりを苦も無く増やしている。行商の護衛に雑用にと、適当な職を摘まむことを男は開き直って楽しみ、道中で彼女には何を促すことも、止めることもなかった。彼女の眠りが未だ安寧と同義でなくとも、他人を遠巻きにしたままでも、男が勝手に焦りはしない。様子を見て、必要であれば当たり前に手を伸べる。それが出来ると思っている辺りが相変わらず男の不遜であったし、――何だかんだともう暫し、自分にだけ接触をゆるす唯一の有り様を味わっていたい気持ちも否めない。夜ごとその細い肢体を腕に閉じ込めたがる折りには、特に。)エナム、(柔い髪に唇を押し当てて、低く囁く音吐を外で紡がぬことにさしたる意図は無かった。ただ我ながら甘ったるいばかりの、焦がれるような音の連なりが、きっと小っ恥ずかしかっただけだ。暗がりに瞼を落とせば、男もまた夢を見る。いつかと希う、この声音のような夢を。)[エピローグ]
……――うん?(ざく、と砂を踏む音の隙間に小さな問い返しが挟まれた。振り向く仕草に付随して、朝焼けを浴びた髪が揺れる。伸ばしっぱなしを一つ結いにした焔の色は何も無くとも淡い濃淡を描いて波打った。数える日々はまるく巡り続け、海辺の散策というものに逐一はしゃぐこともなくなった春うらら。潮騒の向こうより響く機微に呼吸ほどの平時ごととして耳を欹てながら、街の一角にある住居を家と呼ぶようになってそれなりに経つように思う。相変わらず皮膚の硬い男の手のひらに、彼女の手はいつまでも細く柔くて触れれば擽ったさを感じるわけだから、時の流れというものは不可思議だ。[エピローグ]
ゆるゆると鈍く両の瞼を上下して、しんと身に馴染んでいる角度を見下ろすまま曖昧に唇を引き結んで。眇めた瞳の上で眉尻はやんわり下がったから、頬が弛むのを不必要に耐えたものだとは滲みそう。――引かれた腕のまま身が傾いだのは、勿論男自身が意図したものだった。頬に感じる柔らかな接触の後に、わざとらしい溜め息をひとつ挟んでから、)……おまえなあ……(ほとほと参ったような語気が小さく零れる。やんわりと眦が熱くなる心地の景色は、いつか焦がれた夢に似ていた。ひらけた世界に笑う彼女がこちらを見ている。なれば触れ合える距離に忌憚無く、男のほうから唇を重ねんとする仕草も叶うだろうか。[エピローグ]
どうにも気安い接触を取り繕わないまま、両腕はおもむろに彼女の腰に回って、一度ひょいと持ち上げた。見上げる位置まで掲げて、潮風に淡色の猫毛が広がるのを仰ぐ一瞬は戯れが十割。すぐに抱き寄せ直しては、背筋を伸ばした己と目線の高さを同じくさせつつ笑みを深める。)オレもだよ、かわいいお姫ぃさん。(軽やかに紡ぎ、それから胸を合わせて強く抱き締めてしまいたい。その束の間ばかり、呼吸がしづらかったかも知れない。就眠の際、身の危険が迫らぬ限りは中途覚醒の兆しを見せない男はきっと彼女の秘密を聞けないままでいる。だからこれは単に男の我欲だった。湧き上がる熱に彼女も巻き込んでしまいたくて、自分がそうしたかっただけ。なあ、と掠れささやく一言も。)――あいしてる。(それで醒めない今に降ろせば、砂は人ふたりの靴跡を刻むんだろう。)[エピローグ]
(砕け崩れ燃え尽きた端から、飽かずめぐる日々に芽吹くものがある。新たな祝福だとか。)[エピローグ]
これまでのように誰かの為にではなく、
あなたの為に、あなたの好きに、ちゃんと生きて。