(十三分間のカタスリプスィ)
(夏の盛りは少し過ぎていたと思う。その日王都にそそいだほんの十三分間の夕立を、涼の恵みとよろこんだものと鬱屈した煩わしさを覚えたもののどちらが多かったかなんて当然知りやしない。男が此度の任を受けたのは、この雨音を壁向こうに聞きながらとなった。唇に笑みを宿したまま片眉は上がってしまって、了解をいらえるまでに間が数拍。直截に問わない“なぜ”に、同じく直截ではない曖昧な様相だけ感じ取って、男は目を眇める。ともあれ「承りました。」はわざとらしく粛々とした一礼で紡いで、実際に姫に相見えたのは先方の都合に合わせた幾日か先。――随分と小柄な姫だとまず思った。細い手足、外郭をぼやけさせる柔らかい髪。その瞬間の彼女が座していたにしろ佇んでいたにしろ、男は片膝を折って眼差しを重ねんとした。姫と相対するひととき、男の面持ちには常に笑みがあったが、眼前に存在する者の内実を探るに似た瞳の色は強いて隠し立てもしない。別に相手が曰く付きの姫だからじゃない。誰に対してもこのような男だ。華奢なお姫様の付き人なんて、歳の近さを差し引いてもとても向きそうにない自覚があればこそ、その所以を彼女のほうに見い出そうとする無意識があったのは事実だった。果たして和やかと称せるような雰囲気になったかは男の認識からは何とも言えないが、ひとまず大きな悶着は起こさずにその一幕を終え、次に彼女のもとへ向かうのは翌日となる。昨日と同じ、乳白色を基調とした騎士団服の正装。背の中ほどまで垂れる髪はそのまま流していた。城内、王室のどなたかがいらっしゃる区画までの佩剣も当の貴人就きなれば認められる。出入りを止められぬ程度に場のほうが男の顔を認知していても、男のほうは今現在己の向かうべき先の仔細を良く知らんので、)末の姫はどちらだ。(問いは恐らく、日頃からこの辺りの警備に就いている兵士か、彼女が擁する使用人の誰かを掴まえて向けた。問うのが一度で済んだか複数に渡ったかは単に彼女次第。一定の調子でブーツを鳴らし、いかな道行きを辿らされたとて、改めて姫の所在に現れる折りの男は昨日となんら変わりない。)――ロクサーヌ姫、(硬さも柔さも無い呼びかけもきっと。名で呼ぶなと、既に言われていたかは失念したが。)
* 2022/10/16 (Sun) 00:56 * No.2
(『焔のような御方だったわ。』ふたりでひとつの寝台の上。やわらかな手を握り、ひたいを寄せ合いながら天上の星よりも緩慢な速度で瞬きを落とした。同じ色をしている筈なのに妹よりもうつくしく見える姉のひとみを覗きながら、雨垂れのようにぽつりぽつりと紡がれる邂逅の記憶に対する相槌も、いつしか忘れてしまっていた。今更、はんぶんと揶揄されるわたしたちに特定の騎士を抱えさせる意図の不審さ。血のつながりの薄い兄姉も知らない、双つのいのちを分けて育つ国最大の生ける秘めごと。姉は妹よりも清らで純粋で、歳の近い外の住人に対して早々に親しみの感情を抱いたらしい。砂糖菓子のような柔頬は上気して、妹の知らない色をしている。息継ぎの合間で妹はくちびるの端に笑みを繕い、絡めた指先に力をこめた。)ねえおねえさま、明日は私が外へ出ても良い?私も是非、その騎士様にお会いしてみたいわ。(姉に纏わる明確な理由がなければ表に出ることのない妹の我儘に驚きを見せていた姉だったけれど、やがては朗らかに笑んで繋いだ手を揺すられる。『あなたもきっと気に入るわ。』含みのない同類の詞さえ、まろいこころに不必要な棘をつくった。――そうして。真白の衣裳に身を包み、早朝の折より城内を巡った。とはいえ妹の居場所なぞ限られる。人目に触れる機会の少ない書庫、礼拝堂、薔薇庭園。此度は後者。生々しい花の匂いが占める庭園の隅、花に紛れるように影を落として彼の騎士を待っていた。)あなたは花に興味がお有りですか?――……バートラム。(折りたたむように重なる花弁の数をかぞえていた思考をひとつの瞬きで散らし、振り返っては胡乱な視線を持ち上げる。記憶に馴染みのない声。恐らく彼で間違いはない。随分と上背がある逞しい体躯、小綺麗な相貌、こころのうちがわを見透かすような双玉。――成程、姉が称した焔の心証も判らないでもなかった。長く垂れる前髪のはざまより値踏みするかのような不躾な一瞥を向け、起伏に乏しい声音を擲つ。)スタンバーグ侯爵家のご令息だそうですね。わざわざ遣わされる側に回らずとも、他の途なぞ幾らでもあったでしょうに。しかも曰く付きのわたしの子守りだなんて、不名誉極まりないのでは?(ロクサーヌと彼の対面は恐らく和やかに終えた筈だ。姉は過ちは犯さない。だからこそ妹は早い段階に推し量りたかった。侵入者の素性、本質、――姉の傍を仕えるに相応しい男であるのか如何か。)
* 2022/10/16 (Sun) 17:16 * No.11
(踏み込んだ場は芳しい。かの姫なればと言葉の転がった先が此処だ。巡らせる視線は記憶に新しい小柄な人影を探すためのものだったはずが、つい、慣れぬ景色そのものに意識を取られたていで溢れんばかりの薔薇たちを辿る。手入れの行き届いた花のための空間は、他所より幾らか涼やかに保たれているように感じた。なめらかな花弁の陰には棘があることをひととき忘れるような、豪奢で繊細な一角に、果たして姫の姿はあった。未だ東にある陽が猫毛をふちどって、振り返る仕草ひとつをひかりで浮き上がらせる。その奥に見えた瞳に男はすっと双眸を細めて、薔薇の隙間に鳴らしていた靴音を一時止めた。)お生憎、目で楽しむものより腹に溜まるもんのほうが好きですねェ。酒があればまた別ですが。(男の頬も声も笑った。朗らかというより不遜に傾ぐ猛々しさで軽口を叩いて、ゆったりと片腕を広げて見せる。連ねる語調も同様だった。)出身で一番順当な途は兄の小間使いなもんで。我らがキュクロス王室の姫君に“我が騎士”と呼んでいただける可能性があるなら、名誉はこちらのほうが上だな。ご心配なく。(――交わる眼差しの気配がつい昨日と異なる気配であることを、認識しないわけではない。同じ人物の側面だという大前提で思考を通せば、近しい使用人らの前では披露する気が無かったのだろうと判ぜられるこの棘は、わざわざ怯むようなものでも心外を唱える話でもなかった。何せ不透明の多い事態だ、一国の姫の警戒心など強いに越したことはない。眇めた視線が探り合う。不躾なら立場が下のほうが濃い。男が今測らんとしているのは、彼女がこちらに許す物理距離だった。緩慢な動作で歩みを再開して、もう幾らか詰めに掛かる距離は、彼女の眼差しに口唇に厭う気配を感じれば素直に止まって見せようし、ひとまず判断を任せられるようなら対話に順当な辺りまでは進もう。昨日と同じだ。そうして再び靴音が止んだところで、静かに片膝を折る。これは従順を示すためというより、こちらの耳の位置が高すぎると声が聞きづらいせい。それぞれの膝に手のひらを置いて、男は改めて彼女の面持ちを見遣る。)我が姫におかれましては早朝よりご健勝そうで、何より。そちらは花がお好きでいらっしゃる?(言葉繰りに表裏は無い。機嫌を取る素振りも、肯否のどちらかを期待する響きも持たずに。花は好きか。――細めた視界で映すものとして、似合うとは思った。)
* 2022/10/16 (Sun) 23:06 * No.21
(薔薇の背丈をも超してしまいそうな偉丈夫を前に、姉は委縮することはなかったのだろうか。高い位置で陽光を浴び、より赤々と燃えるように輝く髪色は確かに目を惹く鮮やかさである。しかし純真な快活さばかりがその相貌や声音に含まれている訳でないと知れ、掌握は難しい相手だろうと嘆息は些か深みを帯びた。歳の差はたった1つと云えど、然して不自由もないであろう地位を有す生まれの家を出て、遥々騎士団に入団し世界を広げる選択を掴み取った彼と。城の中で姉とふたりきりの円環に閉じ込められる選択を自ら選び取った妹と。並ぶものも比ぶるものもなく、諦念の滲んだ声音が現状の共有を探るべく色の薄いくちびるを割る。)残念ながら、あなたをそうと呼ばずに済む選択権がわたしの手許にはないのです。あなたの手許にはまだ残っていらっしゃる?わたしがあなたの我が姫とならずに終える、切り札が。(しかし訊ねておきながら、ほとほと期待の薄い問いだった。頭上より注ぐ影が濃くなろうものなら探るような眼差しを向けるが、制止を命ずることはなかった。限られた空間において、姉以外の他者とふたりきりになる機会は少ない。余程ひとりぽっちの方が慣れていて、だからこそ、妹の目線と重なったひとみの奥を真っ直ぐに覗き込む。髪と似た焔の色を宿したそこに、妹の知らぬ感情や思惑を、探すため。)あなたも着任早々勤勉ですね。大層立派ではありますが、もう少し怠慢が過ぎても構いませんよ。付き人を必要とする程、立派な公務に従事している訳でもないのですから。(結局、翻る期待の薄そうな呼名は受け入れざるを得なかった。多分に吐息含ませて綴る返答には自嘲すらも含まれない、異国語でもなぞるかのような情感の薄さ。ただ寄越された問いには、幾許かの沈黙が満ちた。)………そうですね。人並み程度には。(姉ならば、それこそ花のように朗らに笑みを咲かせていらえたのだろう。そればかりか好む花の種類を幾つでも諳んじたかも知れない。けれど妹には然して感慨はなかった。花に、この世の姉以外のいきものに、特別な好悪をいだく必要性も感じず、けれど極端な返答では明日以降の姉が困るから、せめてもの無難な肯定を手繰るだけ。少なくとも彼のなぞる音吐に必要以上の色が重ねられていないことだけは気安く、傍らの薔薇に視線巡らせ、ふと疑問符を転がした。)ご令兄に遣われるのは、あなたにとってはつまらないこと?
* 2022/10/17 (Mon) 07:47 * No.25
(箱入りの姫だ――という認知はある。ご公務での活躍よりも尾ひれはひれの付いていそうな噂話のほうがよほど聞くが、要するに実態は不明瞭ということだ。成年を目前にして未だ公式の婚約も無いらしい姫君の、有り様を理解した気になるには知見が浅い。それでもどこか得心を覚える心地はあった。緩やかに目線の高低を入れ替え、男の眼差しが彼女を仰ぐ。濃淡のある重たげな前髪と睫毛の向こう、瞳が湛える色を控えず覗き、芳香の隙間にたゆたう諦念を嗅ぎながら吐き出す息は喉奥で笑う。敢えて答えを求められたとも感じなかったから、この瞬間はそういう呼気ばかりになった。用いた呼称の受け止めかたもそのまま他人事めいた気配を知って、耳に入った表層にそのまま肯く。)お褒めの言葉として頂きますよ。こちらの怠慢を理由にオレの首を切るという切り札を得たい、というご相談なら前向きに考えます。比喩でなく落とされるような途はご勘弁願いてぇもんですが。(実際に怠慢を披露したところで、彼女以外の名から相応の罰則は賜っても平和な解任は見込めないと感じてはいる。だから所詮はこれも軽口だ。男のほうが取り縋って宥めるような殊勝さも、公務を励ますような真面目さも持ち合わせなく、空想事の一手扱いを脱さずに自身の首筋に手刀を当てて見せた。滑らせても男の素手が皮膚を裂いたりはしない。挙措の緩やかなまま元の姿勢に戻って、彼女が生む沈黙は大人しく薔薇の香りばかりに浸っている。不快感までは無くも、男には馴染まない空気だ。彼女が此処で時を過ごすことに抵抗を感じないのなら、成る程人並みには好意的なのだろう。そうですか、と挟んだ一言は正しく相槌でそれ以上の意を持たず、それから入れ違いのよう、向けられた問いで今度は男のほうが束の間の沈黙を作ってしまった。ゆっくりと瞬く双眸が、まだ彼女の様相を探っている。)……、(唇の笑みは崩れなかった。少し頭が傾いで、遅れて焔色の髪が肩を滑る。)何せあちらがオレをうまく使えねぇもんでね。駻馬の類らしいですよ。――切り札が、ある、と申し上げたら、即時切って見せろとおっしゃる? 我が姫は。(恐らくは、王室直々と察するには充分な特命を知って、この言葉繰りはまた不遜が過ぎただろうか。実の無い例え話のつもりも無く、これまた言葉通りに意を問う。どこか面白がってるような気配は拭えないものだけれど。)
* 2022/10/18 (Tue) 01:18 * No.38
(重たげに、宛ら蝶が花の上で休息を取るように。羽根の如くかぶさる上下の睫毛を鼓動より速い速度で重ね合わせるのは、彼の言葉が些か意表を突いた類であったからだ。成程、手許に切り札を手繰り寄せる為には然様な手段もあったのか。自らの掌を双つ這わせても足りないであろう径の首筋を見遣ったそのひとみは、初めて微かに撓みを帯びた。過日彼を初めて認めた姉の様相を思えば、余程ちっぽけな変化だっただろう。しかし寄り添われるでも突き放されるでもない、一定の距離を保たれた傍観者めいた姿勢はこの場に咲き誇る薔薇に等しい。それが妹が初めて彼に許したほんの微かな隙であり、円環の継ぎ目でもあった。)前向きに検討してくださるなら早速明日から実行するように。精々落とされぬ程度に気を付けてください。あなたはその類の調整も容易に見えますし、我が騎士に値する器なら造作もないことでしょう?(されども彼へ手放しに信頼を寄せる程、愚かな身の上ではなく。例えば明朝早々彼の首が床に転がろうとも、その程度の力量であったと一瞥に留める未来図ばかりは易く描けた。磨かれた回廊に散らばる髪も、斯様にうつくしく映えるのか。これまでかろやかに紡がれていた言の葉の切れ目を訝るように、彼の許へと戻された視線の先。乳白色の生地を滑るなめらかな焔の名残を追いながら、幾分か意外そうにちいさなあたまが彼と鏡合わせのように揺らいだ。)わたしがあなたの手綱を十分に握れるとでも?それとも一思いに踏み付け噛み砕く好機を、今も刻々と窺われているのでしょうか。――ならば、バートラム。あなたはわたしの命令には何でも是と応えてくださる?どこまでも忠誠を誓ってくれますか。(国王の血を引いてるとは云え、末の娘の不出来さと愚かしさ、はんぶんにしか満たぬ姫としての素養は彼とて重々承知の筈。差し伸べた指先は手綱の代わり、光を集めて煌めく焔の色した髪の先を払った。切り札を切るか否かのいらえは既にこの手中にある。けれど彼がその一枚を隠し持っていると仮定するならば。齎される答えが双つの未来を懸けるか否かの判断材料になるやも判らない。判らぬからこそ、問う価値は花びらひとひらほどにはあっただろう。)
* 2022/10/18 (Tue) 10:08 * No.43
(不躾を貫いてまっすぐに仰ぐ目差しは、そのささやかな変容を目に留めた。初見の記憶に重なる部分と、それゆえに感じる齟齬と。城内に満ちる噂話を脳裏に浚い、差し出した案が掬われた事態には思わず片眉くらいは上がった。本気かと問い返すような面持ちではあるが、無論引っ込めていただきたいわけでもなく。細く息を吐いて、立てた膝に置いてあった利き手を起こし頬杖を付いた。仕草としてはそれこそ、誰が見ても無礼に当たりそうな。)素直に光栄ですが、これで喜んでもらえたのは初めてですよ。(本来もっと丁重な礼節を払うべき対象への振る舞いは、身分社会の常識に則って苦言を呈された記憶しかない。しかし名誉と称した“我が騎士”たる響きも、露骨な口ばかりなれば態度を改める由は無いわけで。こちらの紡いだ“我が姫”も現状似たり寄ったりの薄さに終始するから不満は無し、く、と低く喉の深くを鳴らして男は笑みを深めた。癖の無い焔髪は彼女の手指から逃げる素振りを見せず、朝のひかりの中で軽やかに弾かれる。重力に従う髪先はそれから、恙無く胴とつながった頭部が起きるのに連動してまた揺れた。同時に男のほうが手のひらを差し出して、)――どこまでも、を実際に尽くせるかは、姫が今しがた口になさった。あんたがオレの手綱を取れるかどうか次第だ。(姫と騎士という、立場の輪郭線だけで忠義を諳んじて見せる途は、怠慢を絵にしたように捨てた。粗暴な男がはんぶんの姫を仰いで、今度こそ試すように声を和らげる。)御身に全て懸ける意義を見い出した暁には、陛下の前でこの手を振り払って見せましょう。それまでは適宜、この駻馬の出来の悪さを数えておいてください。(献身の証で離反を捧げる矛盾もまた、こんな不届きの騎士は要らぬと父王に泣きついて見せる材料にしてみればいい。笑う男が伸べた手が大人しく待つ様相を見せたのはそうやって言葉を紡ぐ間くらいで、後は自分のほうから彼女の嫋やかな手を求め掬い上げんとしよう。意図して避けられるなら無理やり掴みかかったりはしないし、取ることが叶うなら要らん負荷を掛けたりはせず支えるばかりではある。どうあれ連ねる次の句は、開き直りに近しく我が身の無礼を散らばしてゆくもの。)差し当たっては、今日は姫の気に入りの案内でもしてほしいところですね。なんせ平素に怠慢してても有事には駆けつけにゃならん、日頃いらっしゃる第一はこの辺りで合ってんのか?
* 2022/10/19 (Wed) 01:33 * No.53
(ロクサーヌと縁遠い従者が薔薇の隙間より斯様な光景を認めようものなら、大層な騒ぎになろう不敬振り。けれど妹の行き先は大抵が人の気配の薄い場所であり、代わりにひとならざるいのちが多く芽吹く場所でもあった。それこそ瑞々しい薔薇がそのひとつであり、即ち彼の非礼を咎める者は此処にない。それどころか頬杖を付くすがたは彼と年嵩が幾つも変わらないことを思い起こされ、ますます愉快そうにくちびるが上弦に似た撓みを描いた。言動は焔のように捉えどころがなく、けれど指先にはやわらかな感触が残る。体温も神経も走っていやしないのに、朝日に照らされた髪はほんのりといのちと似た温度をしている。低い温度で炙られ傷でも負ったかのように、じくりと疼いた指先が微かに震える。我が騎士となりゆく男を見下ろし、頬には淡く陰が落ちた。痛むのは、表層ではなかったかもしれない。)駻馬の調教を担うのがはんぶんのにんげんだなんて、全く先が思い遣られますね。何年掛かることか。(それでも。そのくらいが、その程度が、確かにきっと心地良かった。全幅の信頼や忠誠をそそがれるには、やさしい姉の荷が重すぎる。かろやかな羽で、たとえ限られた檻のなかであろうともせめてその空間だけは自由に羽ばたいていてほしかった。ひかりが強くなれば等しく影も濃いものとなる。明確な切り札を持たぬてのひらは彼の指先が触れる直前、はなびらに残る朝露の如きほんのわずかな逡巡を振り払い、のがれるように自らの身体へ引き寄せられた。伏した睫毛を震わせて、小さく吐息を落とす。その手を取るのは、私ではない。)残念ながら、わたしは覚えが悪いのです。あなたとてわたしの噂はご存知でしょう。――………だから、明日も同じに伝えて。またわたしに、まったく同じに、手を差し出して。(その時はきっとロクサーヌはすべてを許し、すべてを受け入れ、我らが騎士に手を差し伸べることだろう。両の手を背後に回して、みずからの指先同士を浅く絡める。妹が知るのは、自らと姉の体温だけで充分だった。)……そうですね。日がな一日此処で過ごすことも多いですが。人目に触れるところは好みませんので、後は書庫か礼拝堂か。公務がなければ自室に。(再びと彼にひとみを合わせたのは、寄せられた問いの答えを辿った頃。彼を伴えば道中少なからず視線を集めることだろう。庭園からの退室に辟易としながらも、少しずつ流れる雲が淡い闇を降り注ぐ。)新馬のお披露目に行きますか?明日からあなたが怠慢の限りを尽くせる隠れ家を探しに行くでも構いませんが。
* 2022/10/19 (Wed) 18:08 * No.58
(さて本日のところは余分な衆目が無くて幸い、であったろうけれど、お陰様でこれ以降は常識的なお咎めがある個所でも憚らぬ態度になりそう。此処に身分の上下があるのも彼女が確かに姫君であることも何ら変わりはしない話であるくせ、一呼吸前の景色よりも何だか、年頃の少女に見えた。右手のひらに乗せた顎をゆると傾がせて、ふはと気安い呼気を弾けさせる。)なァに、見たところ四肢はきっちり一人分だ――大きさは確かにオレの半分くらいに見えますけどね。鞭だか人参だかを持つこともできましょうよ。(五指も、双眸も、それぞれの数は十二分。現状の見解としては動作に難も見られない、となれば、はんぶん呼ばわりが目に見えた要因でないことも明瞭なことか。伸べた手は彼女の体熱を知ることなく、掻き混ぜられた薔薇の香りの中に留まった。ゆるやかな瞬き二つ分、やはり純然と只今の意を窺うように静かに姫を見仰いで、彼女自身が語る“はんぶん”の所以にわざとらしく瞬く。)おや、明日は出てきてよろしい?(早速さぼってやろうと思ったのだが、なんて言わんばかりの語尾上がり。語調が駄々洩れにした通りただの揶揄だから、引っ込めた手をすぐに胸に当てて、)御意に。(明確な約束として肯いた。男のほうの記憶もまあ一人分の範囲内で適当なものだから、一言一句違わずとはゆかないかも知れないけれど。意としてはきっちり同じものを宿して、所作ごと繰り返すだろう。そのとき求め与えられる手が今と同じそれだと、当たり前に前提して。――ともあれそれは明日のこと。次の呼吸はまだ此処で相対するひとりとの空間にあって、男の眼差しは彼女と再び重なるまで逸れなかった。そこに不歓迎の気配を感じ取ったうえで、やはり深めた笑みは悪戯気なふうにも見えようか。)折角なんで見せびらかしていただきましょう。ついでに隠れ家と抜け道探しには勝手に励みますよ。(急かず立ち上がれば、上背の差は顕著。細身を見るに、彼女ふたりぶんくらい纏めて担げそうだななんて感慨も何の気なく脳裏に焼きつつ、後の歩みは彼女の後ろへ連ねることとしよう。自然と普段の歩調より遅くなれば、彼女に案内の意図があろうが無かろうが、道行きや周辺施設を意識に入れる余裕は取れそうだから。合間に落とす語気も軽やかに、)あとお出掛けなさるときはどうぞしっかりお呼び立てください。察して就いて来なかったから減点だ、はさすがに査定として理不尽ですからね。……人目がおきらいなのと、新しい付き人が要らんのは同じ話で?(問いは思い付きのような響きをした。)
* 2022/10/20 (Thu) 04:24 * No.66
(下肢を折りたたんでようやくと視線の合わさる位置は、確かに彼のはんぶんと揶揄されても仕方の無い体躯の差ではあった。ただ流石に大袈裟が過ぎると倦厭するように長い前髪の下で眉を潜めたのも束の間。笑みの気配の含まれる吐息がかたどった言葉に、知れず視線は検分するかのようにみずからの身体に落ちていた。確かに五体に不足はない。足りぬとすれば、重量がひとよりかろいとされる脳髄くらいかと、顎先掬えば彼を不遜に見下ろした。)母の胎内にもうはんぶんを置いて来ましたから。今頃わたしの遺したはんぶんを抱えて、呑気に土の中で眠っているのでしょう。けれど背丈は高すぎても不自由そうですね。必要以上に世界が見えすぎる。(ひとしく双つのいのちをはんぶんに分けたことがそもそもの誤りであり、本来そうでなければならなかった仮定こそがこの国の正史である。忌避するような嘲るような口振りは、流布された与太話に対してと彼が取り違えてくれているなら良いけれど。しかし自らのはんぶん以上背丈のある身を羨むでもないのは、人と均ざるものが得てして生き辛いことを承知している為でもあった。平素の無に還りかけた表情も、彼の口吻には厭忌の気配をひとみに灯したことだろう。)………明日は日が傾く頃にいらしたら。父には早速騎士が寝坊したと言付けておきます。(太陽の目覚めを2回ほど巻き戻せば、彼の居ない日々こそが当たり前の日常であり。未だみずから以外の存在が姉の傍らに佇む日々を上手く思い描けぬ儘、こうして彼の垂れるこうべを見下ろす様が当たり前になるのかと心底不思議な思いがした。いずれも真のロクサーヌに預けるとなれば、日が傾くまでの時間は妹が引き受けるしかないらしい。「お好きにどうぞ」彼が城内に秘密を抱えるならば暴く心算はないけれど、悪童を見遣るような煩わしげな視線は此方への不要なもらい火を懸念してのことである。)それにしても、あなたは立っているだけで目立ちますね。従者たちがわたしに余計な手間を掛けるようなら、馬に蹴り飛ばされると周知して回りましょう。(背後に人を従えることなど、ただでさえ公に躍り出ることのない妹にとっては経験が少ない。それも伸びた影によって光を遮られ風を避けられ。眉を顰めながら背後を仰ぐも、嘆息ひとつを残して城の内部をおざなりに巡っていく。必要ならば言葉少なながらにしつらえられた部屋の意図を伝えただろうし、手向けられた言葉をそのまま回廊に転がしておくこともなかった筈だ。)馬ならば人間よりも余程鼻が効くのでは?わたしの機微を十二分に推し量って来るように。………まったくひとしくはありませんが。わたしには必要がないだけです。(すっかり馬としての扱いが定着し得る頃。歩幅の小さな影がまたひとつ踵の音を響かせ、礼拝堂の重い扉を抉じ開ける。あらわれる十字架を情感に乏しいひとみで見上げて暫し、静寂に似た声が落ちた。)時にバートラム。これから私のことは名前ではなく姫と呼ぶように。たがえぬよう、その頭に刻み込んでおいて下さいね。
* 2022/10/20 (Thu) 21:23 * No.74
(――例えば身の丈が平均を超えると、超過分には不謹慎が詰め込まれるのかも知れない。だなんて、詮無い物思いは眼前で小柄な姫当人が自虐のような言の葉を連ねたことで霧散した。思わず双眸丸めたのも一拍未満、男は相好を崩して肩を震わせる。)ハハ。それでいくとオレぁ兄の養分を胎に宿る前から吸い取ったんでしょうよ。オレとあんたを足して二で割れるとちょうどよかったかも知れんですね、ロクサーヌ姫?(からからと笑う男の兄、スタンバーグの嫡子は人柄と能力こそ立場に申し分無くも、些か身体が脆弱である。とは、彼女が侯爵家のことを調べたなら容易に伝わっていようし、そうでなくともこう発した時点で不躾な冗句に過ぎない。年は離れた兄弟だ、末の姫が纏うような噂話とは無縁。単体で気儘を背負う男は、それでは明日は寝坊だか迷子だかに勤しむ計画を巡らせつつ城内を巡る。戦に遠い世の、武装の色が薄い回廊に対して自身が異質である気はした。騎士団の訓練場にあるむさ苦しさも、城下町の大通りにある活気も、彼女の背を見る景色からは妙に遠い。彼女の足が向きやすいところ、使用人らの集うところ、食事を取るところ――私室の位置は確認したが寝室への抜け方はさすがに問わない。厳かな円柱が佇む通りに伸びの異なる影を引きながら、女中とでも行き合えば、末の姫に礼を取るさなかに成る程こちらへの視線は感じるところか。動じず笑みで返して、それからひょいと首を竦める。)最終的にオレがオレ自身を蹴らんといけねぇ事態に陥りそうだ。露払いも虫除けも楽しくやりますがね、この無骨な男が繊細な姫君のお出掛け気分を察知できるとお思いで? 早速難題を下さる。(わざとらしく首振る仕草は軽やかなまんま。紡ぐ言葉や呼気を途切れさせることもなく、男の腕も扉へ伸びよう。彼女の側頭を抜ける折りに「失礼、」と儀礼的なひとこと掛けて、開扉の負荷を引き受けんとした。叶えば男の腕には然程の難も感じさせないだろう。向こう側がいかな空間かは彼女のほうが知り得ているはずだから、先導は変わらず取っていただくとして、続いて扉をくぐる男が遅れて十字架を見遣る。)ご命令であれば、御意に。(いらえる言葉は滑らかなものだ。口にしてから、眼差しは彼女を向くべく下がる。窓を通るひかりはそろそろ早くと呼ぶ時間帯のそれではなくなっていようが、彼女の頭髪が宿す淡い濃淡は未だ朝露を想起させた。)佳い響きだと思いますがね。日暮れよりも、夜明けにご挨拶してみたい程度には。それも姫にはご不要で?(笑う語気に含みは無い。姫の名の綴りを思い起こしながら、問うたのは勿論男の感慨などではなくて、名という識別について。彼女が振り返ってくれるなら、視線が重なるに合わせてまたすっと双眸は細まるだろう。見得るより奥を覗くように。)
* 2022/10/21 (Fri) 04:04 * No.80
(腫れ物に触るような返答など無論求めはしていなかった。遺された筈の妹は現にふてぶてしくいのちを繋いでいる。姉よりも他者の機微に鈍麻に。そして遥かに攻撃的に。快活に笑い飛ばす彼の血統については、付き人を遣わせるとの話を聞いた時分よりみずからの秘匿を知る者に詮索させていた。文面やら人語やらではひとの輪郭は描けない。けれど放たれる言の葉や表情が全てでもなかろうと、彼を見据えてひとみは俄かに眇められた。)ご令兄はあなたの為に敢えて遺しておいたのかも知れませんよ。ですからあなたはそのままで結構。身体も心も健やかでなければ、この城での生活は疲弊するでしょう。あなたくらいで都合が良かったのかも知れません。(彼と歩む城はいつもより閑かでいながら騒がしくもあった。それなりに人払いの役には立っているのかも知れないが、息を飲む音やら瞠目する気配やら、声音以外のささめきが鼓膜を悪戯に刺激する。使用人たちの動揺に反応なぞ示さず、敵襲の存在を遠く忘れた城を闊歩する。贅を尽くした先より続く王達のお戯れ。金の彫刻も垂れ下がるシャンデリアも歴史を束ねた国王達の肖像画も、妹にとっては無価値に等しく、視線すらも向かわない。彼がひとつ宝石を懐に隠したとて、恐らく気付きもしないだろう。)城下では余程浮名を流しているのかと思っていましたが、違いましたか?遊び足りなければ今の内ですよ。わたしに就くとなれば、あなたの顔も名も直ぐに知れ渡ることとなるでしょう。好きには息もし辛くなります。(隙あらば任務の返上を嗾けながらも、片方の肩を扉に預け、みずからの体重で以て力ずくに押し開けようとしていた扉がいとも簡単にほどかれようものなら思わず円くなったひとみが彼を見上げた。やがて不愉快そうに顰められた相貌は、助けを得たことと圧倒的な力の差を痛感しての幼子の癇癪に似ていたかも知れない。神の御前にしては穏やかならない心中を持て余し、ステンドグラスを透かして色の着いた陽の光に照らされた妹は緩慢に振り返る。)………私には過分な名ですから。夜明けだろうと日の入りだろうと、わたしが許可するまでは今後一切呼ばぬように。(姉は気付いているのだろうか。その名を奏でる者がひとりまたひとりと口を噤んでいることに。母から与えられた最期の贈り物を土に埋める妹は、何食わぬ顔でひとつ瞬きを落として踵を返す。神の存在なぞ信じていやしなければ祈ることもない。太陽が頂点に達する頃、妹は億劫さを隠しもしない声音で重たい朱唇を引き剥がす。)お兄様方があなたの話を聞きたいと、着任を祝す昼餐会を催すと云って聞きません。諦めて参加されますか?それとも早速、隠れ場所でも探されますか。(兄達は見定めたいのだろう。彼を通して、白痴とも揶揄される末の妹の実情を。故に妹は自室に引き返し欠席の意向であるけれど、今より正直に打ち明ける程の愚か者ではない。何れにしても次に逢うその時は我が騎士になって久しくなっているであろう彼をひとみに映し、こころの端で別れを告げた。我が姉の騎士たる彼よ、それではいつか。花降る彼方の夜明けまで。)
* 2022/10/21 (Fri) 23:46 * No.90
(母の胎での記憶など無い。彼女の歩みにささめきが連なる後ろで男は気息を揺らした。これもまた要らぬ視線を受ける一つとなったのだろう。弾けた呼気も。)っははは! お姫さんがオレを何だと思っているかよぉくわかりました。浮き名のある男のほうがお好みで。(呵々と笑いながら扉を開いたものだから、尾ひれは礼拝堂にまで入り込む。十字架が滲ませる静謐が男の態度を咎めたがっていたとしても、細めた双眸が向くのは同じ場に居る人のほう。動作の途中、対話のための距離よりもう幾らか近しくなった隙に視線を下げたら、睫毛の影を避けるまるさをして暁色の一対を見た。さほどの間も要さず顰められる一連まで含めて、目差しを注ぐ男の口角には笑みが残っている。扉は二つの人影を呑み込ませた後に静かに閉ざした。――豪奢な城だ。財と贅を技巧で絡めて権威を形にし続ける、この大地を切り拓いた信仰の中央。一国を統べるものの住まいならこうでなくては困る。今しがた彼女に続いて歩みながら、直下にある騎士団のちからと城下町の豊かさを記憶で浚って、富の裾野たるどこか僻地の市井を思った。国の端でだって彼女の存在は囁かれるだろう。約十七年前に生まれ得なかった、末の更に下の姫のいのちに纏わる残忍な希求と共に。其処にはんぶんを遺したとかたる少女の唇が、過分と紡いだ。多彩のひかりを浴びる姿は男の瞳にしかと映り込んでいたから、視覚と聴覚がほんの刹那の齟齬を起こす。)ふぅん?(相槌に大した意味はない。露骨な語尾上がりを見せて浅く頭を傾いでも、既にいらえた是を覆しはしないとも。ステンドグラスを通るひかりの波を漫然と眺める時間、静謐を厭わず信徒席に身を落ち着けていた男は、寛げ気味に組んでいた脚を下ろしながら目を眇めた。お呼び立ては思いもよらぬ話ではあるが、吐く息はおかしげに揺れて、)そりゃあまた、……それこそ過分なお席で。いやまあ、切り札増やしだか減点集めだかに行ってきますよ。(自身の頬にゆるく拳を当て、思案は束の間。不遜な男は軽々しく肯いた。罷り間違って王子のどなたかに気に入られれば、引き抜きは正当な配置換えの理由になるだろう。今日のこの有り様を発揮して鼻白まれるなら、曰く付きとはいえ姫に添うには不相応という太鼓判のほうを貰えるかも知れない。つまりはどう思われたとて男の身には得しかないなと。緩慢に立ち上がってはまた開扉を引き受けさせていただいて、昼餐会とやらの場を尋ねてから後は恙無く見送ってしまうとしよう。)ごきげんよう、我が姫。(胸に手を添える丁重ぶった礼で彼女の傍を辞した後に、ガシと側頭部を掻いて、笑って、緩やかに焔髪を一つに束ねた。この不透明な配置の根底を、これから相見える殿下たちが知っているなんて期待もしないが――。)さァてどっちが手強いやら。(見定めたいのはこちらも同じ。斯くして兄王子たちは、粗暴と噂された割りに存外に折り目正しく堂に入った、侯爵家出身騎士との“和やかな”昼の一幕を知るだろう。男の振る舞いに憂いは無い。たいそう善い御縁が出来たなんて報告は明日の姫に語ろうか。真偽の判断はお任せするが、多くの怠慢に意識的な狡猾を重ねる付き人は、気儘に王城中へ焔の気配を巡らせてゆく。曰くの姫をしてこの騎士あり、暗がりのうちにも火種は多い。)
* 2022/10/22 (Sat) 05:25 * No.94