(双剣と盾)
なにかの、間違いでは……。(呆然とつぶやく男の手によこされたのは、新しいサーコートのひと揃いだった。いつの間に仕立てられたものか、騎士団の紋章を縫いとる糸でさえ、ひと目で上等とわかるしろものである。命じられるがままに袖を通し、引きずられるように連れられて――そうして行われた顔合わせは、おおむね滞りなく過ぎたと言ってよいだろう。風の噂で耳にした「たいそうお元気で」やら、「少々お戯れが……」やらといった姫ぎみの性情を確かめるだけの余裕が、男にあったかどうか。礼節を欠くことこそなかったものの、儀礼にのっとってどうにか宣誓を終えると、逃げるようにその場を下がったのだった。騎士というより気味の悪い墓守のような男だ、と居合わせた使用人たちの間でしきりにささやかれた――かまでは男の知るところではなかったが、なにはともあれ。騎士がふたたび姫ぎみのもとへ赴くのは、そのあくる日のこと。)――もうし、おたずねしたいのですが……、(気配の薄い呼びかけに、よほど驚いたのだろう。侍女とおぼしき娘は振り向くや飛びあがり、死霊に出くわしたような悲鳴をあげて駆け去ってしまった。「ああ」と手を伸ばしかけ、残された男はひとり肩を落とす。申しわけのないことをした。闖入者と思われたのでなければよいが、と腰の剣帯に触れる。王城においても貴きおかたがおわすところとなれば、道は奥へ進むほど複雑に曲がりくねり、異物の侵入を阻む。下命を拝する身とはいえ、当然、ゆるしがなければ立ち入れぬ一角もあった。ほとほと困りはてた様子で順路を逸れ、陽光のもとへと歩み出す。あてなどなかったが、暗い回廊の奥より、目の前に広がる景色のほうが、かの姫ぎみにふさわしく感じられたために。芽吹きの春、寸分の狂いなく刈りこまれた低木の茂みは花をつけ、朝露を残したつぼみが揺れる。ひだまりは蜜の色をして、肺にとりこむ空気も心なしか甘い。地中から這い出たもぐらのように頼りのない足つきになったのは、見事に生えそろう芝を、革靴の底で踏んでよいものかわかりかねたからだった。ひとを探しているものとは到底思われない、俯きがちの視線をうろつかせ、木々の根もとや、植え込みの裏のほうばかりを見る。肩を流れる髪が柳の枝のように垂れ、男の面相を覆い隠していた。)どちらにおいでですか、姫さま……レイチェルさま……。(張りあげたつもりの声はひび割れ、亡者の呻きじみて風に乗る。)
(芽吹きの春、齢十七にもなって縁談のひとつも噂されぬ王家のお荷物に、ひとりの騎士が引き合わされた。顔合わせに出ると名乗りを上げたのは姉のほうで、妹のあずかり知らぬところでたいそうお洒落をしたそうな。上等な絹ブロケード地は春めくあけぼの色で、とりどりの糸で花束や花づな模様が縫いとられており、すべて共布の、ガウン、ペティコート、ストマッカーはリボンやフリルで華やかに。二段のパゴダ袖や、やや深めに開いた襟ぐりを縁どるのは繊細なレースだ。あるいはその刺繍のいずれかには、ダニエリで紡がれた糸が用いられていたのかもしれない。――さても、そういう盛装をわざわざ選んだものであるから、対面の初日は、末の姫付きの使用人たちも心なしかそわそわとしていただろう。ああ姫さまは、本日はいったいなにをお考えなのだ――と。こたびの「お戯れ」は、そんなかたちで発揮された。とはいえ、なにか褒め言葉だとか、称賛の辞を期待していたわけではない。くだんの騎士の出自が、代々続く紡績業で財を成した商家と耳にしたから。ただ、それだけ。“風の噂”からはおよそ懸け離れた出で立ちに、どのような反応を示されるだろうと、興味をいだくような、面白がるようなまなざしがつねづね窺っていたはず。結論からいえば、片割れは、度肝を抜かれたかのような周囲の目に、たいそうご満悦であったそうな。当の付き人そのひとについても、騎士というより気味の悪い墓守のような男だ――とこぼすことはなく、機嫌よく自室へと引き上げてゆく。同席した使用人たちにそれとなく尋ねてみても、今日という日を無事に終えられた安堵が聞かれるばかりで、肝心のひととなりが見えてこない。)いいわ。もう。レイったら。わたしにな~~んにも、教えてくれないつもりなのね。(斯くして、ぷいとそっぽを向き、住まいのひとかどから封じの魔法にまもられた扉を抜け、ずんずんとはや足で出てきたのが先ほどのこと。あたかも死霊にでも出くわしたような青い顔をして、駆け去る侍女とすれ違った。)……、(声をかけるいとまもなく見送って、しばらく。春を告げるコマドリの腹のような、灰色がかった青みのコート、ウエストコート、ブリーチズ。白い膝丈の絹靴下に覆われた男装の足もとも、見事に生えそろう芝の上へと踏み出した。まなざしの先、探しものをしているとおぼしき、ひとりの背姿を見とめたがゆえ。)もし。そこなおかた。なにかをお探しですか。落としものでも?(よもやおのれを探されているとはつゆ知らず、小姓然としたなりで呼びかける。昨日の今日――たしかに見目は同じでも、その装いも髪型も、雰囲気も、なにもかもが異なろう。ご親切のつもりで加勢するべく、そばまで歩み寄ろうとした。)
(花のさかり、なにを添えずとも輝かんばかりのひとを飾るのだから、丹念に織りあげられた糸ものはいっそう艶めく。誰もが心に描く春の日を、そのままに写しとったかのような粧い。鮮やかな衣裳を目もあやに着こなしてみせる貴人に、伝え聞く噂の片鱗などどこにも窺えない。戸惑い、というよりはいくらか張りつめた気配が、姫ぎみのもとまで伝わっていただろうか。もっとも、男が始終落ちつかぬ様子でいたのは、突然に大役を仰せつかった身の上をいぶかしんでいたせいでもある。なにか気の利いたひとことを伝えられたならよかったが、詩歌の才があれば、という以前の問題で、うながされて誓いの文言をのべたあとは彫像のようになり、ひたすら顔を伏せるのみだった。――そうしてすぐ地に視線を這わせるくせのある男のこと、救いの手をのべられたときも、まず目に入ったのはこちらへ向かう脚衣だ。)ああ、よかった……。末の姫さまを、レイチェルさまを探しているのです。どちらにいらっしゃるものか、ご存じで……いえ、その、俺は……あやしいものではなく……。(くぐもった声で聞かれもしない言い開きを並べかけ、そこでようやく視線は渡り、その瞳を見る。蒼穹よりもなお澄みわたるブルー。)――あ……レイチェルさま……?(額から頰へかけて落ちる髪の合間に三白眼がのぞき、まぶしげに細まって、すぐさままぶたの陰に隠された。やわらかな芝にぎこちなく片膝をつき、男は深くこうべを垂れる。)……ご無礼を……どうかおゆるしください、姫さま。(空がいく度となく色を変えるように、世のご婦人がたは心向きひとつで姿をさまざまに彩るもの。そう知りながらも、姫ぎみの変容は男を少なからず驚かせた。少年めいた姿は、昨日の華やかなそれとまるで違う。つぼみほころぶ季節の訪れを知らせてまわり、よろこびを歌に変えてさえずる。そういった野の鳥が生まれ持つ、人びとの顔をうれしげにあお向かせるような、可憐な佇まい。なにか悪い冗談のように見えていたまっさらなサーコートの白が、青灰のもとに並ぶと、そのためにあつらえたかのごとく誇らしげに映る。)……本日は……お出かけなさる、のでしょうか。私も、ともにお連れくださいますか。(お忍びで城下町にでも繰り出されるのだろうか、と考えた。ゆえに、民びとに溶けこもうとする装いをしておられるのかと。姫ぎみが常日ごろよりかろやかな装束をまとうことも、王城に人知れず培われてきたふた振りの剣のことも、いまだなにも知らない。跪いたまま身じろぎもせず、胸もとにかかる長髪の奥より訥々と伺いを立てた。)
(扉の外に出てしまえば、ここはもはや、ふたりでひとりを装わねばならぬ王城のひとかど。気をとりなおすように深く息を吸い込めば、甘く香る花のかぐわしさに、ささくれ立っていた心も少しずつ、慰められては落ち着いてゆこう。暗い回廊の奥よりも、光ふる庭のほうが好きだった。蜜の色をしたひだまりに、この手足がすっかり浸ってぬくもるころには、かっかしていたやり場のない気持ちというのも、ずいぶんと上向くきざしを見せはじめて、だから、)……んんっ?(探しものではなく、探しびとであったかと認識をあらためられたまではよい。ただ、呼びかけにこたえて、いらえる声はこう告げる。「末の姫さま」「レイチェルさま」。はっとして空気を呑み込んだ拍子に、喉が咳払いじみた音を立ててしまった。知らない顔。そも、王室のお荷物たる末の姫君に、これまで侍女以外の付き人がついたためしはない。陽を受けるまっさらなサーコート。縫いとられているのは騎士団の紋章だ。状況から鑑みて、この青年が、くだんの「騎士」であることは明白である。まさか、さっそく鉢合わせるとは。こちらに気がついたのだろう、ふたたび名を呼ばれるあいだも、固まったまま、めまぐるしく思考をめぐらせて。)――……いいえ。無礼などとは。呼びかけたのは、こちらのほう。それでもあなたが気に病むなら、こうしましょう。……ゆるしますよ。ジルベルト。(昨日に、相手がどう呼ばれていたかもわからない。とんだ難題。なるべく当たり障りのないよう意識して、すぐさま伏せられてしまった瞳を思った。蒼穹にというよりは、輝石にあらわれるような彩。これが姉であれば、まあからかい甲斐があると話の種のひとつにでもしたのだろうが、妹のほうは、おもむろにふっと肩の力を抜くと、追いかけるようみずからも膝をかかえてしゃがみ込む。)「お出かけ」? ……お出かけ。いえ……あまりそういうことを考えずに飛び出してきてしまったのだけれど、よい案ですね。きっとあなたを連れていれば、騎士団の鍛錬なども堂々と見学できるのでしょう。(片割れが、よもや貴婦人らしくドレスをまとい顔合わせに臨んだことなど知る由もない。みずからの“常”についても、すでに承知しているのだろうとはや合点をしていた。楽しげに続けて、ふと、)ああでも、そういえば――春の祝祭、花祭りに向けて、そろそろ剣舞の稽古もはじまるのでしたっけ。今年の模擬試合の掉尾を飾るロナン翁には、いっとき、師事していたこともあるんですよ。(一線を退いてひさしい、剣技にすぐれた老騎士。とりわけ舞の名手とも謳われるその御仁を、知りえているかどうかは量りかねたが、ほんの少しでもまなざしが持ち上がることを期待している。)
(求められることを、そして与えることを知るひと、と思う。あるいは、王族という立場に、おのれが勝手な理想を見いだしているに過ぎぬのか。男をゆるし、名を呼ぶ声にもっと注意を払っていれば、昨日はたしかに表れていたはずの、興がるような抑揚が薄れていることに気づけたのかもしれなかった。今は近づく距離を畏れおおいと感じて、それどころではない。縦に伸びた図体ゆえ、姿勢を同じくすれば姫ぎみを見下ろす形となるのが、なんとも身の置きどころのないように感じる。謝辞をのべるあいだ、さらに低頭しようとすると、剣帯に吊るす得物の先が芝をえぐりかけるので、どうにも進退窮まっていた。)……ぜひ、おいでください。姫さまにご覧いただけるとなれば……みな、いっそう励むことでしょう。(貴人が時おり稽古場を訪れては、前線に立つ者に声をかけ、士気を高める。そういう機会のことを指しているのだと安易にとらえて、そう答えた、のだが。うららかな陽に誘われ、気の小さな生きものが巣穴から顔をのぞかせるように、そろとまぶたが上がり、まなざしが交わる。男の胸に寄せる静かな波は、感情の読みとりにくい面構えではなく、まっすぐに正す背筋のほうに先ぶれとなって表れた。)……城に上がった年、夏のあいだ、彼のもとで学びました。彼の剣筋は、ほんとうに……ほんとうにうつくしい。迷いも、一点のくもりもなく……研ぎ澄まされた唯一のたましいが、あの切っ先には宿るのです。いつか私もこの手に、と……そう夢想もしますが、ああ、まだとても……。(薄い唇の端が不恰好に持ち上がり、笑みらしきものを形づくった。使い慣れない顔の筋を呼び覚ましたせいで、頰が細かに引き攣れる。普段なら、誰に明かすのもためらう胸のうち。同じ師の門人に出会えたうれしさが、男の口をなめらかにしていた。老騎士の教えを受けて、彼女はどんな剣を操るのだろう。空翔る翼の鋭い一閃。それとも吹き巻く春風の身軽さで。はたまた――と、そこまで想像をめぐらせて、やっと。)……姫さまは、剣術を……?(かような身なりをなさっておいでとはいえ、年ごろの令嬢である。海彼には女人が騎士をつとめる国があるとも聞くけれど、しかしキュクロスにおいては。なるほど、耳にする評はこのことか、と腑に落ちる。)……驚き、ました。昨日お目にかかったときは、そのようには……。あのお召しものも、よくお似合いでしたが……人びとに祝福をさずける、春のおとめのようで。(花の精になぞらえて着飾り、輿に揺られてゆく祝祭の娘たち。年ごと賑わいを見せる情景に姫ぎみの姿を重ね、なかばひとりごとのようにこぼした。)
(いらえの前半が、あからさまな社交辞令に聞こえたわけではなかったが、どう受けとめたものかと考えあぐねて、あいまいなほほ笑みで受け流すことしかできなかった。いくら貴人の端くれとはいえ、こうも珍妙ななりでは、騎士たちも励むというよりは気になって落ち着かぬだろうと、そんなふうに捉えていたこともある。しかし。ほんの思いつきで続けた話題に、そろ、とまぶたの上がるきざし。まるで、警戒心の強い野の生きものの、なにげない営みを、ふいの拍子に垣間見ることがかなったような、そういうささやかなよろこびが胸に湧こう。ぱあっと、呼応してこちらも表情を明るくさせれば――膝をかかえていた腕をほどき、顔の前で、両の指先を押し合わせる。)まあ。まあっ! ……では、わたしたちは、同門の徒、ということになる?(そう、口づかせるさまもうれしげだ。額から垂れる彼の長い髪が、まるで面紗のごとくおもての大半を覆ってしまうのだとしても、このまなざしは、たしかに、ややぎこちなくも弓なりを描く青年の口唇の端を見とめている。それは、まごうことなき笑みであった。)熟達した騎士同士の打ち合いは、「剣で会話をするのだ」と、教わったわ。剣戟のひとつひとつにたましいが宿り、呼吸をするように得物を振るう。魔物を仕留める一撃必殺の剣技とはまた異なる、剣の舞というのもまた、その神髄のひとつであると。(いまの世にあって、主に貴族の子弟が作法として修めることの多い剣術のひとつ。――王祖のような、双ツ首の竜を打ち倒した騎士のようになりたいのだと、不満もあらわな幼子に向け、老翁はそう諭しては、皺の目立つ掌でやさしく頭を撫でてくれたものだ。なつかしい。)あなたは、よい弟子だったのね。(彼がどうこう、自分がどうこう、という話ではない。夢みるような回想の紡ぎかたに、いだいた純然たる称賛であった、のだが。)…………ぇ……、(なぜか、ここで噛み合わぬ齟齬。ひょんなめぐりあわせをうれしがって、すっかり油断をしていたこの背中に、冷や水を浴びせられた心地でいる。)そ、……そう? ……あのね、ちなみに……参考までに聞かせてもらえるとうれしいのだけれど、昨日の“わたし”の、どんなところを見て、そのぅ……「春のおとめのよう」だと?(ああ。これでは、褒め言葉を強いているようではないか。そぐわぬ形容をむず痒く思いつつも、めかし込むことに熱心な年ごろのふりをして、探りを入れてみたのだった。そして、)あなたがた、まことの騎士には遠く及ばないけれど。双ツ首の竜を打ち倒した騎士の血は――この身体にも流れている、から。(理由のような、違うような。ここでようよう帯びる細剣の存在を示すよう、ちらと上半身をひねってみせて。)
(小鳥がさえずるのに似て、姫ぎみが声づかいを跳ねさせる。心くすぐられるようなその音を聞きながら、男は彼女の、重ね合わされた両手を見ていた。ちらりと見えた手のひら。指の形。おそらくは、一年や二年でそうなったものではない。長い歳月を重ねて、少しずつ鎧われた皮膚。)……はい。すぐれた者ほど、その剣筋をもって、雄弁に語るものだ、と……。振るう一手で、相手の来しかたに触れ、おのれの信条をあらわす。そういった剣の道を追い求めるのは……、(たのしい、と。そう大っぴらに口にするのは憚られ、結びを曖昧にふやかした。騎士のありかたというものを、いまだ測りかねている。よい弟子、との言葉に、そうであれたらいい、と飾ることなく望む気持ちもたしかにあって、唇は慣れぬ形を繋ぎとめたまま。)……お召しの、織地が……春の雲を染める、朝やけの色と……そう思ったので……。(蒼空を思わせる瞳からの連想だった。聞かれるままに記憶をたぐり寄せ、頭をわずかに横へと傾ける。)胸もとに、裳裾に、たくさんの刺繍が咲いて……御髪も……花冠を編むような、こみ入った形になさって……とてもおきれい、でした。(追従を並べようというのではなく、照れるふうでもない。問われた草花の名を教えるような調子で答えた。こうして近くに座していると、昨日もそそがれていたまなざしが、今と同じ、あたたかな春陽の温度をもってそこにあったのだと知れる。そういったことも含め、おのれの錆びついた声で言葉にしたのではうまく伝わらぬのではないかと危ぶんで、そっと様子を窺う矢先。)…………。(ほかならぬ姫ぎみの唇がつむいだことに、少しも驚かなかったと言えば嘘になる。双ツ首の竜と騎士。謂れを知らぬ者は、きっといないだろう。王城のいたるところ、円柱の陰で、回廊の隅で、絶えずささやき交わされるのは、末姫が持つ奔放な気風についての噂ばかりではない。――半分の姫。騎士の英雄譚と起源を同じくして、明暗わかつさだめ。いにしえの地、竜の今際に吐かれた息の緒が、はるかな時をこえてなお、この国に絡みついている。――視線は下りて、細剣に縫い留まる。口を開く代わりに、害心はない、と知らせるゆるやかな動作でおのれの剣帯に手をかけ、得物を鞘ごと外し、彼女の前に横たえた。魔物相手に構えるものとは違う、片手に振るうことのできる長剣。)……レイチェルさま。手合わせの機会を、私にくださいませんか。(褒められた話ではない。近侍を命じられたばかりの身で、ものをねだるなど。まして、刃を交えたがるとは。ともすれば、叛意と捉えられてもしかたのないふるまいでもあろう。暗く影がさす男の面にあって唯一、光を帯びる両の目が、落ちる髪の紗幕を透かし、揺らぐことなく一対の蒼穹を見つめる。)
(昨日には、貴婦人の装いに合わせ、およそ手首までの丈のレースの手袋に覆われていたであろう指先。深窓の姫君がもつ繊手にはありえぬ張り詰めた皮膚に、ふしくれだつ関節のかたちを、しかし双子のいずれも恥じたことはついぞなかった。われらが、わが、生のあかし。――さて、目の前の青年というのは、どちらかといえば物静かな性質なのだろうという印象をいだいていたのだけれど、こんなふうに、なめらかな口ぶりで剣の道のなんたるかについて語り合えているということは、なんという望外のえにしであろうか。曖昧にふやかされたその結びについても、不思議とわかるような気がしたが――代わりに引き受けて言葉にする、という勝手はもちろんながら憚られ、ただ、同意を示すようにほほ笑んでいた。)……、……そうだったの……。(まあ、レイったら。片割れに眉を顰めてみせたのは内心のみで、不用意な発言をして墓穴を掘る羽目に陥らなかった幸運を、母なる大地に感謝する。ここで、あえての嘘を述べてこちらの出かたを窺うという、こずるい腹芸をやってのける人物には思えない。姉の――あの、顔合わせの顛末を尋ねてもけして教えてくれようとはしなかった、悪戯なまなざしの意図を悟ることがかなえば、そこではじめて、贈られた事実とその形容とに気が向けられた。いまさら、おべっかを使うような相手でもないだろう。ただ、聞かれたから答えたのだという、飾ることのない素朴な響き。どうしてだろう。かえってそれが胸をあたため、頬をほのかに上気させる血色となってあらわれる。)あ、りが、とう……。うれしい。……とても。気合いを入れて、おめかしをした甲斐があったというものね。(照れたように、様子を窺われるとぱっとまなざしを伏せただろう。それから。)――……ぇ……?(まずはぽかんと呆けたような顔をさらし、細剣に落としていた視線をそろりと持ち上げる。レイピアをもう少しだけ小さく、軽くしたような、女人の手でも扱うことのできる、刺突を旨とする武器。あるいは柄に施された宝飾によって、ドレスソードと呼ばれることもあったかもしれない。)……いいの……?(可否を問うような言いかたではなかった。おそれるのでもない。まず期待にも似たひかりがその瞳にあらわれて、みるみる、表情いっぱいにうれしげな笑みが広がってゆく。)もちろんよ。もちろん。きっと……おしゃべりをするよりたくさん、あなたを知ることができるわね。(先の会話を引いて、おのれはそんなふうに解釈をしていた。)……あっ、でも、こういうとき……得物はそろえたほうがいいのかしら。もし違っても構わないのなら、次は場所ね。(勘案しつつ、待ちきれないとでも言いたげに、ひと足先に立ち上がっては掌を伸べたい。)さあ、ジルベルト。いきましょう!(彼がこの手をとってくれるのなら、引っ張り上げるのもやぶさかでない、くらいのつもりで。)
(不思議なひとだ。衆目を集めることに慣れた貴人の姿であったかと思うと、あどけない少女の顔ではにかむ。その言いようが愛らしく、「……おめかし、なさったのですね」と、幼子に頷いてみせるような口ぶりで繰り返してしまった。レースの指先までていねいに彩られていた“おめかし”が、まさか顔合わせのためとは夢にも思わぬまま。やがて雲間から陽光が広がるように彼女が笑みこぼれると、男の瞳にも一瞬、強い輝きがよぎる。)……ありがたく、存じます。おそれながら、得物はこのひと振りを……どうか、おゆるし願いたく。(青草に寝かせた長剣を手の甲で撫ぜる。一介の騎士が王族に真剣を向けたとなれば、叱られる、では済まない。ことによっては文字の通りに首が飛ぶ。異なる得物を打ち合わせようというのも、彼女がそうした戦術を学ぶ機会がなかったのであれば、いたずらに戸惑わせるだけかもしれなかった。それでも。)……知って、ください。レイチェルさま。あなたの、騎士が……どんな剣を、どのようにして振るうのか。……俺も、あなたを知りたい。(紙やすりのようにざらついた、かたく冷たい指で、差し出された手のひらを包みこむ。おのれと比べて随分と小さい、と感じるが、その手ざわりは、やわらかに沈みこむ淑女の肌でもなければ、骨の太さを予感させる少年の肉づきでもない。たゆまぬ研鑽によって日ごと形づくられてきた、彼女の生のありかただ。)はい、姫さま。(しかと握り返して、立ち上がる。向かう先は、城内に通ずる彼女に任せるのがよいだろう。ひとけのないところにふたり、となれば不安の種にもなるだろうから、彼女と親しい誰か、話のわかる者に立ち会いをと望むのなら、もちろんその通りに。――そうして導かれたその場所で、騎士は姫ぎみと対峙する。どこにあっても暗鬱として、もの憂げな色が抜けきらない男の立ち姿は、剣を握ったとてそう印象を違えるものではない。長髪を高く結い上げて馬の尾のように垂らし、額にひとすじ、ふたすじ落ちかかる後れ毛の影に、ひっそりとしたまなざしをのぞかせた。踵を打ちつけて地面の硬さを確かめると、左足を軽く後ろへ引いて立つ。右手、下段に構える細身の刀身は、男の腕の付け根から指先までとほぼ同じ長さ。ふたりの間合いは大きく駆けて三歩ほどか。切っ先を斜めに下げ、まずは、彼女の一手を迎える姿勢にて待ち受けよう。かすかな頷きを開始の合図として、いざ尋常に――と、その直前。)――負けません。(相変わらず抑揚の薄い、けれど、気の昂りを抑えつけるような低い声。)
(おめかしをしたのは、姉だ。自分ではない。それでも、ふたりでひとりの末の姫君――“レイチェル”に向けられた「とてもおきれい、でした。」を、わかち合うように受けとろう。しかしながら。じきに成年を迎えようという割には、いくらか稚気な物言いをしてしまったかもしれない。含めるように繰り返されてしまえば、ますます気恥ずかしさがつのるから、しばし視線を伏せたままでそわそわとしていた。そうして、ほかならぬおのれの付き人により、ひょんな機会がもたらされたあと。)ゆるすわ。では、おたがいに、得物はいま帯びているものを。(片割れとも、兄君らとも、師とも。真剣を用いて打ち合う機会というのは、そうない。異なる得物というのも、そう。たとい端くれとはいえ、いやしくも王族の末席をけがす身の上ともなれば、たいていは万が一の可能性というものを取りはらわれながら生きるさだめであるからだ。あらためて、背筋の伸びる思いがする。)……、(――ああ。「あなたを知りたい」と、そんなふうに言われたのは、間違いなく生まれてはじめてのことだった。心がふるえ、昂揚してゆく。大きさのまるで異なる掌。されど、たしかに剣をとる同士の、かたい指先。)少し、ここで準備をさせてね。(斯くして、ときどき不思議そうに首をかしげてこちらを見送る侍女らとすれ違いつつ、回廊をいくつか抜けてたどり着いた先は、さびれた小さな空間であった。かつて、幼年の王子たちの修練のため闘技場を模してつくられた、四隅に円柱の建つ石敷きの半屋外。規模としてはささやかで、その全容は、こうべをめぐらせれば、たやすく見わたすことができるほど。足を止め、手を離すと、唱えるのは目くらましのまじないだ。ひと気のないこの場所を通りがかる者というのは、そうそうあるものでもなかろうが――もしも見とがめられてしまえば、たいそうややこしいことになる。立会人はなく、ふたりだけ。長髪を高く結い上げた姿に、まなざしを細めて間合いをとった。大きく駆けて三歩ほど。女人の歩幅でいえば、もう少しかかるか。慣れた手つきで抜剣し、右手に構え、やや腰を落とした姿勢で右足を引く。受けるのではなく、仕掛けるために。相手もそのつもりだろう。いちど深く呼吸し、まなざしを交わす。ふいの先ぶれに、くちびるには好戦的な笑みがおどった。)――のぞむところよ。(騎士と姫君。その実力差を鑑みるなら胸を借りるつもりで挑むべきところを、いまは、そこについては考えずに。ぐっと身を沈ませ、地を蹴る反動で、すばしっこく駆けてゆく。)やあッ!(もともとの臂力も、腕や得物の長さも、単純に競り合ってはかなわない。どれだけはやく間合いのうちに潜り込めるか。まずは突きから、いなされるなら横に薙ぐ。瞳は楽しげに、生き生きと、心から晴れ晴れとしていた。)
(ひとが魔法を扱う姿というのは、いつ見ても興味を惹かれるものだ。こうして姫ぎみに仕える身となれば、おのれに素質が現れなかったのを惜しくも思う。詠唱が編まれてゆく様子を隣で見守るばかりとなりながら、「いつも、ここで鍛錬を……?」とつぶやくのは、届かなくとも構わないひとりごと。小さな闘技場には、しかし、遠い剣戟の名残だけが漂っているようにも思われた。かつては誰かが、今のふたりのように向かい合い、剣を構えたのだろうか。――のぞむところ、と迷いなく、勇ましく返るその応えが、男にはうれしい。石造りの柱に絡む緑の蔦を、ざあ、と揺らして風が吹き抜けてゆき、まなじりを緩めたのは一瞬のこと。滑空する鳥影さながらに飛び込んできた切っ先を斜めに斬り上げ、力むところのない、ゆるやかな剣筋にて、刃を削り合わせるように受け流す。同時に踏み込む足で軽く跳び、上体をひねって返す刃を高くひらめかせたが――そうする間にも胴へと迫る、横薙ぎの一閃。着地する踵で敷石を蹴りつけ、掠める剣先をかわしたとき、唇には歓喜の吐息がこぼれた。)……ああ……、(ふたたびの間合いをとって立つ。男は商家に生まれたが、貴族に並んで箔をつけようというので、いやいやながら剣を握らされて育った。命じられるがままに騎士の叙任を終え、この道に楽しみを見出してからは、拙いなりに技を磨いてきたつもりだ。しかし――真摯に積み重ねる歳月は、思いの丈は、きっと彼女のそれに遠く及ばない。あの張り詰めたうつくしい手のひらに、証左は深く刻みこまれている。なにものにも覆せはしない、そのあかし。男の瞳は爛々と光を帯びて、次の一手を探る。熱く痺れるような感覚を伴って全身に血がめぐり、心は浮き立つ。晴れやかにきらめくふたつの蒼空を見つめて一歩、おもむろに距離を詰め、)――レイチェルさま。あなたは、その剣で……(ほとんどささやくような、静かな声音で問う。)……双ツ首の、竜を討つのですか。(双頭の竜。安寧の世において、人びとにもたらされる謂れなき穢れ。彼女がただ、たのしい、という心だけで剣をとっているのなら、こんなに喜ばしいことはないだろう。分を弁えず、おのれが何ごとかを推しはかろうというのですらおこがましい。けれど、もし――彼女がその剣をもって打ち倒さんとするものがあるならば、知りたい。騎士として、共に剣を振るう者として、彼女の傍にあるために。一拍の間をおいて、次にしかけるのはこちらから。上段に構える得物は、その刀身の長さゆえ、相手のもとまで届かせるのもたやすい。しかし上背のある男が振り上げれば、正面には大きな隙ができる。相手を懐へと誘い込むような、頭上から肩口にかけて撫で斬らんとする軌道。)
(ごく簡単な詠唱は、ひと息で終わる。魔法、と大それた呼びかたをされてしまうとなにやら決まりが悪いような、たとえば王室おかかえの術師たちの目を通して見たなら、一笑に付されて終わりの子どもだましだ。問いかけとひとり言とのはざまに落ちゆくつぶやきを耳にすると、ふ、と小さくこぼす吐息だけでほほ笑もう。)……いいえ。ここは、むかし、兄上たちのためにつくられた場所だから。すぐ上のお兄さまがたなんて、稽古がそれはそれはお嫌いで、逃げまわることのほうに熱心だったくらいなのだけれど――……だからね、“レイチェル”は……なかなか、ここには入れてもらえなかった。(かつての寂寞はとうに風化し、ただ、なつかしく回想する。当代の国王の血を引く王子王女は公式に八名、みな同じ妃の胎より生まれ、現在の王妃に実子は居ない。もはや剣戟の賑わいも失せてひさしい闘技場で、幼き日には遠目にうらやましく見つめるほかなかった手合わせ。それをまさに、長じたいま――不思議なめぐりあわせのもと、おのれの騎士と行わんとしていた。力みのない、しなやかな剣筋。さながら柳のようだと、額にかかる後れ毛の印象も合わせて思ったのだったか。)……ふッ!(薙いだ剣先に手ごたえはない。かろやかな跳躍。攻撃を繰り出すたび詰めていた息を吐き、返る刃を反動にまかせ背を反らすことで避けると、すぐさま肺へと空気を取り込む。全身をめぐる血のひとしずく、ひとしずくが、熱をもち掻き立てるようだ。ああ、これは、なんて、たのしい――。さても“次”はこちらが受けるべく、油断せず態勢を整えようとしたところ、)……、……。(間合いのきわまで詰める相手が、しかしそれ以上はいまだ踏み込むことなく問いかける。末の姫君が、なにゆえこうして剣をとり、振るうのか。その理由。)双ツ首の、竜を討つのでは、ないわ。(彼にはなんの落ち度もない。だけれど、ほんの少しだけ、悲しげな、あるいは苦しげな吐露となってしまった。――半分の姫。それは王城のいたるところ、円柱の陰で、回廊の隅で、絶えずささやき交わされる噂。禁忌の秘めごと。)呪いを、そそぐの。わが血肉をもって、あかすのよ。「血は呪いに打ち勝つ」――と。(キュクロスは騎士の国だ。幼子らしい突飛な思いつきを、それでも信条にして息をしている。そうして一拍、打ち合いに戻れば、振り上げられる長剣が映り、)……っ、(懐へと誘い込むような構え。わかってはいても、そこに飛び込むしか勝機はない。狙いは足だ。極端な前傾姿勢。一閃が肩を撫でる前に、とは考えるものの、おそろしいはやさで迫りくる軌道を、寸でのところで横っ飛びに転がっては避けることで精いっぱい。跳ねるように起き上がり、得物を握りなおすも、そのまま続けていれば結果は火を見るよりも明らかだった。体力が尽きる。息を切らした汗みずくで、おそらく剣先を目の前に見つめながら、それでも降参宣言は晴れやかに。)……ふ、ふ。あなたの勝ち、ね。ジル、ベルト。
(野に遊ぶ鳥の可憐さ、などと。今の彼女を目の当たりにしては、もうそんなふうに表せはしない。思いきりのよい、正確な身のこなし。細い刀身が素速く光を弾き、鋭利な軌跡を際立たせる。やわらかな髪が高く躍るさまも鮮やかに、たのしげに、たしかにそう見えたのだ。だから――痛みを小さくこぼすような吐露を受け、男の両目は、まぶたをきつく抑えつけるようにして細まった。吹き下ろす風の一閃、迷わず大きく腕を払うと同時、地をえぐるような刺突がサーコートの裾をとらえ、ひるがえる布地を斬り裂き、そして――。)…………、(勝負のゆくえは見えていた。曲がりなりにも武人の端くれ、姫ぎみに仕える身として、そうでなければ立つ瀬がない。剣先を下ろし、しかし、と男は円柱の影に、幼い姫ぎみの姿を思い描く。生まれ持った身体のつくり。境涯の違い。騎士と姫ぎみを隔てるものがなければ、はたしてどうだったろう。かつては剣を振るえなかったというこの闘技場で、呪いをそそぐ、と彼女は言った。その身をもってあかすのだと。憔悴の色が滲む相手に対して、男のほうは大きく息を乱しはしない。けれど胸の下には、肋骨を破らんばかりに打つ鼓動。これは高揚か、それとも畏れだろうか。剣を鞘へとおさめ、相手を見下ろして背を屈めた。清い汗が浮かぶこめかみに口もとを寄せてゆき、形のよい耳朶にささやき入れる。)勝ちを、ゆずったままには……なさいませんね。……いつか、また……あなたと、抜き身の刃をまじえたい。(まぶたを伏せて身を離すと、束ねていた髪を雑にほどき、顔の前へ重く垂らす。研いだ刃を重ね合わせる剣戟は、身も心もひどくすり減らすものだ。おのれの身勝手で負担を強いたと知りながら、いつか、を願う浅ましさ。ふたたびまなざしを上げたとき、そこにあった貪欲な光は消え失せて、男の面相はもとの陰気な影のなかに沈んでいた。)……身にあまる……光栄、でした。姫さま。……騎士団の、稽古を……ご覧になりたいときは、いつでも、私にお申しつけください。話を通しておきます、ので……。(口のなかにつぶやくような不明瞭さで「お送りします……」と連ね、ゆるしを得られたなら、肘を軽く曲げ、さし出す腕に手を導く。あるいは半歩後ろに付き添って、身体を休められるところまでお連れしよう。目にしたばかりの剣技について、かつての師について、きれぎれに、けれど熱のこもる口ぶりで話を繋いで。――後日、騎士がまとうまっさらな衣には、ひとつのほころびが残されていた。男の手によってがたつく針の運びで縫い合わされた、かぎ裂きの跡。このサーコートは不器用な修繕を見咎められ、いく度も新調を勧められたが、持ち主が断固として拒んだために、過ぐる日の一幕を秘したまま、ふたつの季節を越えることになる。)
〆 * 2022/10/24 (Mon) 09:31 * No.98
(ああ、あなたがそんな顔をしなくてもいいのに。柳のごとくやわらかで、かかる力に逆らわず、受け流しをもってして反攻に転ずるしなやかな剣筋。いや、彼は軌跡を逸らそうとするのではなく、一手、一手を受けとめようとしているのか。だから、本来捨て置けばよいものまで、かえって拾い上げてしまう場合もあるのかもしれない。あなたと、わたし、たがいを知るための手合わせ。刃を交えるということは、おのれの間合いのいっとう内側まで、相手を招くということだ。来しかたに触れると、彼は言った。触れさせて、しまったのだろう。いつとてわが身とともにある痛み。けして、こころよいものではない。それが果たして吉と出るのか凶と出るのか、いまのところはわからないまま。)……ッ!(捉えた、と思った掌の感覚は、到底、生ける息吹を損なうものではない。まっさらな白。サーコートの裾がひるがえる。布地が引き攣れ、小さく裂けた。逆に縫いとめられてはかなわぬと、なにを考えるいとまもなく反射で剣先を引き抜く。それから、)……、……いつか――……また、…………。(きれぎれの呼吸を整え、整えのいらえになる。いつか、また、あなたと。ひどく不思議な思いで見つめていた。どうしてかふいに、泣き出したいような気分になるから。)……、ええ。そのときは、(負けないわ。それが言いたくて、されど言えなくて、万感の思いを込めて頷こう。ほほ笑んでいた。禁忌の一端に、それと知らず触れさせてしまった後悔なんて――いまこのときに芽生える隙は、おかげさまでありはしない。高く結い上げられていた髪がほどかれ、もとのように、そのおもての大半が覆い隠されてゆく。その瞬間、相手がどんな表情を浮かべていたのかまでは判ぜられなかったものの、剣戟を終えていだいた晴れ晴れとした気持ちが、こののちも曇ることはついぞなかった。――騎士団の稽古をご覧になりたいときは、と、訥々とつぶやく声音が耳朶を打つ。ひょんな申し出に、いちど呆けたように丸められたその瞳が、ゆるゆると、なだらかに細められながらよろこびに蕩けて、)ほんとう? それは、ああ……とても……うれしい。ありがとう。……では近々、きっとお願いするわね。(姉にもよい土産話ができたはず。このころには汗も引き、乱れた息もすっかり落ち着いていた。差し出された腕をありがたくとると、話に相槌を打ちつつ、回廊を進んで。――後日、万事とどこおりなく執り行われた春の祝祭、王城における祭礼。王族の連なるその末席に、“半分”の姫も付き人を従えて腰を下ろしていた。この式典いちばんの華とも称せよう模擬試合。寄る年波の衰えなんぞ微塵も感じさせぬかつての師の剣技を、ふたりで目に焼きつけて、斯くして季節はめぐりゆく。不器用な修繕の跡をいつかに見つけることがあれば、いささか驚いたように目を瞠り、ほんの少し、照れくさそうにはにかんだだろう。)
〆 * 2022/10/26 (Wed) 03:26 * No.101