(玲瓏をいただく夜)
(騎士団であればいざ知らず、何故空域の守護を預かりし竜騎士に斯様な任がと竜騎士長たる父君より命ぜられた折こそ疑問も湧いたものだが、古くより騎士としてキュクロス王家に仕えし身分ゆえに特命を預かることも少なくはない。なにかしらの王命が下されたと悟るに易く、元より流れに抗う心算もなし。されども夜より生まれしこの身は朝に滅法弱く、懸念があるとすれば黎明とともに目覚められるか如何かだろう。過日の謁見では陽が天へと昇っている間に末の姫君と恙なく言葉を交わせたものの、本日はというと既に陽は西へと傾き、昏き空より春宵が迫りつつあった。くあ、と噛み殺せなかった小さな欠伸をてのひらで覆い隠しては、おなじく眠たそうな相棒の首筋をそうっと撫ぜてやる。)私も大概だけれど、お前も寝坊助だよね。……姫君にはバルコニーの鍵を開けておくようにとお願いしておいたけれど、待っていてくれていると思う? 何時に部屋を訪ねるか、伝えるのをすっかり失念していてね。(予定としては蒼天のもと、あたたかな春光が降り注ぐ時刻に訪ねる心算であったのだけれども。本日バルコニーより部屋を訪ねる旨こそ伝えてはいたが、さりとてこんな夕刻になろうとは彼女も予想だにしていないだろう。ひとたび大きく翼を羽搏かせた相棒がくだんの姫君のおわす部屋のバルコニーまで滑空してくれたなら、夜陰に融ける黒衣を纏った男はバルコニーへと降り立った。とんと靴の先が地についた拍子、背の真ん中ほどまで伸びた黒檀の毛先がふわりと風に踊る。軍靴を二歩分鳴らしてはレースのカーテンが掛けられた大開口窓をコンコン、扉をノックする要領で軽く叩いた。)こんばんは、姫君。今宵は星が綺麗な夜になりそうだね。(口吻は凪いだ風のように穏やかだが、窓の向こうよりなんらアクションが返らねば、こちらから窓を開いてしまう暴挙を働くことも吝かではない。強引に姫君の部屋へと押し入った理由など専属の騎士なれば幾らでも誤魔化しも効こう。手段は如何あれ姫君の玉貌を拝むことが叶えば口許だけを穏やかに撓め、紅い隻眼は窺うように彼女を見据えた。)先日の謁見では体調が優れなかったとお見受けしたけれど、今日のお加減は如何かな。(ゆるりと右方向へと小首を傾ければ、右眼を隠すように重く垂らした前髪が絹のようにさらりと揺れる。片や男の後ろで羽搏く相棒の黒竜は、物言いたげな異なる双眸を眼前の姫君へと向けていた。)
(「とっても素敵なお方だったわ」――とは、己ではなく双子の“片割れ”の言葉である。なんでも、己の――“マルグリット”の付き人として、竜騎士が配されるという。竜騎士といえば、我が国でも誉れ高い、憧れぬ者のほうがいないような職業だ。しかし、当然、そんな事など望んでいなかった。自分たちが双子だと知ってしまう者を増やす危険を、いたずらに冒すべきではない。付き人などいらないと強く反対したけれど、それは、王位継承権からは程遠く、しかも“半分”である己には覆せないくらい強力な決定らしかった。一体誰が、何の目的で。そうやって裏を探らずにはいられないのは、体の弱い片割れに代わり、表に出る事をほとんど担ってきたがゆえである。そこらの下級貴族だって腹の中に隠していないものなどないのだ、それが王族ならば何をか言わんや、である。――「お優しい方よ」、「黒竜を打ち倒した騎士さまのお血筋なのですって」、「わたしのような小娘相手でも、きちんとお話してくださって」――片割れの言葉を、うんざりしながら聞いていた。本来はその付き人となる騎士とやらにだって、自分が相対するつもりだったのだ。それが急用で足止めをくらってしまって、仕方なくもうひとりの“マルグリット”のほうが顔合わせを務める事となった。考えなければならない事は数え切れず、王位継承とは縁がないとはいえ腐っても王族だ。本当は一挙手一投足すべてに注意しなければならないのに、己の心は自分でも制御できない。――思いどおりにゆくことなど、生まれてこの方、なにひとつなかった。紅茶の注がれたカップを片手に、深い深い溜息をついたのと、窓を叩く音が室内に響いたのはほぼ同時だった。)…………開けていいわ。(側に控えていた侍女に向けて、そう命じた。己は椅子に座ったまま、バルコニーに続く窓が侍女の手によって開けられるのを、ただぼんやりと眺めていた。窓が開き、己の付き人となった騎士――それに黒竜の姿が見えたならにっこりと笑みを浮かべて軽く会釈をしよう。)ご機嫌よう。随分なお寝坊さんなのね? わたくし、待ちくたびれて、お腹は空いたし、眠くなってしまうし、どうしようかと悩んでいたところなの。――ああ、ご心配ありがとう。体調なら、今日は万全よ。お腹は空いているし、眠いけれど。(そこまで言って、ようやく、カップをソーサーへ置いた。物言いも挙動も、きっと初対面を務めた“マルグリット”より棘があり、悪意すら感じるかもしれない。しかし、それも今更だ。双子どころか三つ子なのでは、などと噂される“マルグリット”に、恐れるものなど何があろうか。「下がっていいわ。部屋の外にいて頂戴」とは、窓を開けた侍女へ向けて。彼女が部屋を辞すれば、末姫だけのものとして与えられている、王宮の片隅にある応接室は、少なくとも見かけだけは――ふたりきり、否、ふたりと一匹の空間となった。)――貴方、お腹は空いていて? 暇なら、お菓子でもつまんでいけばいいわ。ああ、でも、その子を外にひとりにしてしまっては可哀想ね。(少女が向かっているテーブルには、アフタヌーンティに相応しい、種々の菓子が豪勢に飾られている。ほとんど手をつけていないそれを彼に押しつけてしまおうかと考えて――ふと、視線を彼を通り過ぎてその後ろへと向けた。はじめまして、とは心の中だけで唱える事として。付き人たる騎士へ向けるよりも、黒竜へ向ける笑みのほうがよほど裏表がなく柔いのだから、救えない。)
(開け放たれた窓の向こうに佇む玉の姿を双眸に捉えたならば、黒い半長靴を纏う右足を後ろへ引き、右手を胸元に添えて恭しくこうべを垂れる。過日の謁見の場、付き人の命を授けられた叙任の儀でこそ騎士の伝統に則り膝を付く辞儀もしたものだが、斯様な場では軽い挨拶でも赦されよう。王族への敬意を欠いているわけではない、さりとて畏まった儀礼が苦手であることも否めぬ事実。竜とともに天空を駆け、天つ風に吾が身を揺蕩わせ、夜の帳のなかで息をする──そんな生き物であるゆえに。半分どころかそれ以上に魂が別たれているのではないかと噂されている末の姫君は、なるほどたしかに先日とは纏う雰囲気が異なるよう。春の陽光というよりは冬の氷輪、さりとて玲瓏なる玉の君がご機嫌を損ねた原因はこちらに在ると自覚があればこそ、体調のくだりへは「それはなにより」と言葉を返すに留めた。姫君とはひとまわり以上も歳が離れているゆえに如何な言葉であれ受け止めるに易く、かんばせは穏やかに凪いだまま明眸を見据えている。)待たせてしまって申し訳なかったね。けれど長居をするつもりはないから安心して。先の謁見ではこの子のお目見えが叶わなかったことに大層落胆をしていたようだったから、この子の顔見せにと今日の約束を取り付けたようなものだからね。食事も睡眠も、このあとでゆっくり摂るといい。(付き人といえども男の本職は竜騎士。何時如何なる時も相棒の黒竜とともに在る男は末の姫君付きの騎士となろうとも在り方を変えるつもりはなく、こののちは上空より眠りに落ちた姫君の守護を預かる所存。招くように窓が開け放たれてなお末姫の居室へは一歩として踏み込まぬまま、ふうわりと紡ぐ言葉の数々は王族へと向けるものにしては些か礼節に欠くものであるやもしれねども、謁見の折より斯様な振る舞いをしていたものだ。甘やかな誘いに導かれるように、男の隻眼は豪奢な甘い宝石へと向けられる。お腹が空いたというわりには殆ど手が付けられていない理由はさて、浮かぶ言葉は幾つかあれどもわざわざ言葉にするような野暮はすまい。こちらから否を呈する前に姫君の口より相棒の話題が差し出されたならば己の背後で羽搏く漆黒の相棒へと、そぅと撫ぜるように手を這わせた。)ああ、食事はこの子と一緒にと決めているんだ。……紹介が遅れたね。この子はライラ、私とともにキミに仕える双翼の片割れだ。こうして首筋のあたりをやさしく撫ぜられるのがとても好きでね、興味があるのなら触れてあげて。噛み付いたり、ブレスを吐くようなことはしないから。(嘗て国を荒らした黒竜を忌むべきものと捉える者も少なくはないが姫君が相棒へと向ける眼差しのあたたかさに気付いたがゆえに、やわらかな誘いを差し出した。黒い鱗に覆われた黒竜の膚は絹のように滑らな手触りでありながら、手のひらに吸いつくような弾力を有し、感じる温度はひやりと冷たく、けれどもたしかにあたたかい、このとても奇妙で不思議な感覚は黒竜に触れてはじめて知れる感慨だ。手本を示すように黒竜の首筋をゆっくりと撫ぜるたび、男の腕をぐるりと囲う月輪がしゃらりと小さく音を立てる。いまひとたび紅い星の如き隻眼を玲瓏の姫君へと向けては、薄いくちびるはゆっくりと穏やかな弧を描くだろう。)
…………、好きなだけいるといいわ。退屈していたところだもの。(返事をするまでに少しだけ間が空いたのは、重要な“落胆”の部分を片割れから聞いていなかったから。素敵な方だとか、お優しい方だとか、そういういらぬ情報は飽きるほど聞かせていったくせに。まったく――とこの場で悔やんで恨んでも仕方ないから、溜息も呑み込んで、そっと微笑んでみせた。彼が己の評判を少しでも聞き及んでいるのなら、「またあの末姫の嫌味が」云々というどこかの貴族の声が聞こえてくるかもしれないけれど。社交辞令や嫌味と取られても、本気のいらえと捉えられても、どちらでもよかった。そして。竜騎士というその存在を王族として遠目に見る事はあれど、ここまでの至近距離で竜という生き物を見るのもまた、初めての事だった。ここにこそあの子がいるべきだったのではないか、そういう相反する思いにもまた蓋をして、彼と、黒い竜を、鋭くもない、けれど朧気でもない視線を向けて見ていた。)……貴方だから、そうして大人しく触れられているのではなくて?(ぽろりと零れ落ちた声は、ほとんど無意識で。音になった後も我に返るでもなく、少し早く空に浮かんだ星が輝いてでもいるような音を、遠くに聞いていた。)わたくしだったら、初めての相手に気易く触れられたくないと思ったの。(今日は使用人のほかには、彼と会う以外の予定はなかった。ようやく豪奢な椅子から立ち上がると、シンプルなワンピースの裾を引きずらぬよう少し持ち上げて、そして少しだけ、黒竜との、そして彼との距離を詰める。触れる距離までは近づかず、しかし王族として公の場に出ている時には決して見せない気軽さで、ティーセットが置かれたテーブルとバルコニーのちょうど中間にあたるその場に屈んだ。最低限のマナーとして、精々ワンピースの裾には気をつけて。)……なんにも見ていないから平気よ。(との言葉もまた、ライラと呼ばれた黒い竜へ。少しでも王族に接せられる立場にいるのなら、己が滅多に使える者のいない透視の魔法を母から継いでいる事も、彼に伝わっているだろうか。そして彼と同じく自分に仕えてくれるという黒竜は、わざわざ説明せずともその魔法を使っていない事などわかっているだろうか。もとよりあなたの中を覗くつもりなどない、と言っても、相手が竜であるからこそ通じぬかもしれぬと思えば、自然に微かな笑いが零れた。)わたくしも何か飼おうかしら――……なんて言ったら、あなたに失礼ね。騎士には矜持やら何やらがあると言うけれど、逆らえない命令になど殉じなくて結構よ。やりたいようにやったらいいわ、わたくしからは何も言わないから。
おや。眠たいのではなかったの?(先に掛けられた言葉があるからこそ、揶揄うというよりは、純粋に湧いた疑問を音にした。ゆったりとした緩慢な動作で首を傾ければ、重たく垂らした黒檀の髪がやわらかく揺れる。先の言葉が如何な意図を孕んでいたとて、それを気に留めるような男ではない。悪意があろうがなかろうが、それも奇異の瞳に曝されてきた末の姫君のお可愛らしいたわむれとしか受け止めぬ性分だ。このキュクロス王国に於いても竜という存在は未だに希少で、城下の人々にはどうにも馴染が薄い生き物である。とくに黒竜ともなればナイトブレイド伯爵家が飼育管理を独占しているのだから、いっとう稀有であろうが、末の姫君には竜という存在そのものが珍しく映るのであろう。静かに零れ落ちた音を聞いたなら、紅いひとつ星をゆうくりとまたたいて。うしろの相棒と眼差しを交わしあえば、ふっと零す呼気にやわらかな笑みをとかした。)竜という生き物はね、私たちが想像しているよりもずっと賢く聡明だ。とくに人の悪意にはいっとう過敏でね、誰にでも心を開くような愚かはしないよ。(つまり、触らせる相手は黒竜自身が選んで決めているということ。そのうえで彼女に先の誘いを差し出したのだと伝えたつもりでいるけれど、掴みどころがないと称される男の言葉は直球とは程遠いものであろう。いわく稀有な天眼の魔術を駆使するらしい姫君であれば、言葉足らずであろうともこちらの真意を悟ることは易かろうか。相棒を撫ぜる手は止めぬままに、嫋やかな所作で膝を折る玉の姿を静かに見据えていた。相棒も左右で異なる宝玉にも似た双眸をまっすぐと姫君へと向け、ぐるるとなんとも言えぬ鳴き声を牙の隙間から吐き出した。)この子は嫉妬深いよ。それから、とても寂しがりでね。(彼女が生き物を飼育するのは自由ではあるけれど、相棒の為にひとつふたつ言葉を伝えることは吝かではない。ともに末の姫君付きとなったならば、これから共に過ごす時間も増えるだろう。薄明の空にはいつの間にか星が散りばめられて、蒼褪めた月が瞑色の空に薄らと浮かび上がっている。夜の気配に誘われるように隻眼は宵を仰ぎ、居室の明かりに照らされた玲瓏へと眼差しを移した。)逆らえない命令であればこそ、殉じなければならないのが騎士という生き物だ。けれどキミがやりたいようにやれと言ってくれるのなら、お言葉に甘えて自由にさせてもらおうかな。ねえ、ライラ。(元より畏まったものも縛られるのも苦手な性分。王族たる姫君の言葉も男にとっては逆らえぬもののひとつなれば、やりたいようにやれとの言霊はありがたい命であることに他ならない。そういうことならば相棒とともに過ごす時間は変わらず設けられるだろうと、鼻先を寄せる相棒へ応えるようにかんばせを寄せて、)そうだ。姫君、キミは空を飛んだことはあるかい?(湧き上がった思いつきはまだ胸に仕舞ったまま、言葉とともに紅い隻眼を姫君へと向けた。)
眠りたくなったら勝手に眠るわ。でも、眠りたいのを我慢するのは得意なの。歴史に文学に外国語にダンスに楽器、意地の悪い貴族どもとやり合えるだけの政治や経済の知識、それに魔法の勉強も――そういうのを、眠たいのを我慢して詰め込んできたのよ、ずぅっと。そんなの、必要ないのに。馬鹿みたいだわ。(意図して声に棘を含ませながらも、完全に達観した声音にする事はできない。愚痴めいた声音になってしまうのも止められない。どうせ王位継承には縁がないのに。忌むべき存在だと迫害してきたくせに。そういう憎悪は膨れ上がって内側から自分を蝕んで、もうひとりの“片割れ”だったらさぞかし穏やになっただろうこの時間も、自分では有意義にする事もできない。遮るものを見透かす力を持つ己よりも、初めて間近にする竜という生き物のほうが、よほど真実を見通す力を持っているのかもしれない。でも、)そんな事を言って、わたくしがあなたに触れた瞬間、ひどい魔法を使って攻撃したらどうするの? そもそも『悪意』というものの定義がよくわからないわ。善意のつもりでわたくしがあなたを攻撃したら? ……そういうことも、お見通しなのかしら。ライラ、あなたは。(騎士の彼よりも、そして黒竜よりも低い位置から見上げるふたつの眼は、竜に、或いは彼に話しかける時には凪いでいた。彼の言葉の揚げ足を取りたいわけではない、ただ自分が素直などという性分とは程遠い所にいるだけだ。そういう事も、騎士とその相棒にはお見通しだろうか。)……手のひらに乗るサイズにならないかしら。魔法省に、なんでも小さくする魔法を使う一族がいたはずだわ。(手乗りサイズの竜を想像して、小さく零した独り言。もとより恐ろしいとは思っていないけれど、手のひらに乗せたらさぞかし可愛いだろう、という夢想は止められなくて。)ならば、同じね。王に連なる血が流れているというだけで、逆らえない運命にも殉じなければならない生き物なのよ、王族というのは。……小さな頃にね、南部の有名なお祭りに行ったの。そこで気球というものを見て、わたくしは乗ってみたいと駄々をこねたのだけれど。『王族である姫君に万が一があってはいけないから』と、乗せてもらえなかった事ならば、憶えているわ。(つまり、返事はNOだった。ひとつだけ見える紅色にまっすぐに見て、薄く微笑んだ。)
そう。ならば無用の長物と見做されて、放置されるほうがずぅと楽だった?(ふたたび問い掛ける音は夜の静謐のように静やかで、どこまでも穏やかに凪いでいる。忌むべき“半分”と噂される末の姫君が如何な生を歩んできたのか仔細は知らねども、それはもうたくさんの不満を懐いて過ごしてきたのであろうことだけは、濁流のように押し寄せる言の葉を聞けば解ろうもの。さりとてそれは、本当に必要のないものであるのであろうか。等しいとはいわねども、近い立場に身を沈めている伯爵家なればこそ理解が及ぶものもある。而して存在をなきものとして扱われ、誰に気に掛けられることもなく暗闇で震えていた小さな竜が居たことも知っている。ゆえに真意を伺うように、まっすぐと紅い星が姫君の双眸を捉えた。相棒へと添わせる手に、いっとうの想いを籠めながら。)眼は心を映す鏡という言葉があるように、瞳をみればわかるものもある。ひとの悪意に曝されてきたものであればなおさら、そういうものは感覚で解るんだよ。(末の姫君たる彼女も貴族の社交場で数多の棘に曝されてきたのであろうが、『定義』を問う時点でまだ深淵には足を踏み込んだことはないのだろう。危害を加える人間か否かの判断は、要は直感のようなものであるがゆえに説明するのは些か難しいところもあるけれど、今眼の前に居る末の姫君はそういう人間ではないと感じたまでのこと。「そうだよね」と同意を求めるように相棒のオッドアイを見つめれば、同調を示すように高く鳴くだろう。)その発想はなかったな。いつもはお前の背中に乗せてもらっているけれど、今度は私のてのひらに乗ってみるかい? ライラ。(零れた音をすくいあげ、それは妙案とばかりに隻眼を瞠っては、ひとつゆっくりとまたたいた。窺うように相棒を見遣ると、とうの黒竜はイマイチ理解をしていなさそうで、不思議そうに純な瞳をむけてくるものだから、「これは通じていなさそうだね」とふっと呼気にとかした薄笑みを姫君へと向けよう。)……運命とは誰が決めるものなのだろうね。神か、星か、キミにとっては国王陛下がそのひとなのかな。(ぽつりと星が流れるように零した音は、問いかけというよりは独り言に近い。南部の祭りと聞けば、ああ、と思い当たる記憶を引っ張り出して口を開いた。)南部で有名というと、ネフェレーの天空祭のことかな。あそこの気球は夜にも空に浮かんでね、眼下に燈るランタンの光がまるで地上にまたたく星のように幻想的で、とても美しいんだ。(祭りが催されるのはたしか、薔薇の蕾がひらく初夏の砌であったか。今は雪解けを終え、色とりどりの春の花々が美しく綻びはじめた頃であるから、開催はもう数節先の話となろう。男が語る夜の町の光景は気球に乗って観たものではなく、相棒の背より見下ろした情景であるけれど。)気球には乗せてあげられないけれど、もしキミがまだ空への憧れを持っているのなら、どうだろう? ライラに乗って、大空を飛んでみるというのは。キュクロス国内であれば、どこへでも好きなところへ連れていってあげるよ。(そうと差し出した誘いは、先刻ふっと湧き上がった思いつきだ。春にしか咲かぬという花を愛でにプシュケの森へと赴くのもいいし、夏であれば先刻話題にあがったネフェレーの天空祭へと行くのもいい。秋であればクリソミーロの収穫祭もあるし、冬にはいっとう星が美しく見えるオルフェンの丘まで飛ぶのもいいだろう。季節に囚われず、ただ空を飛びたいというのならば行く先はこちらが決めてしまうのも吝かではない。窺うように姫君を見据える男の眼差しは、ただ静かにそこにあるだろう。)
そうね。貧民街の路地裏にでも捨ててくれたほうがずぅっとよかったわ。食べ物や寝る所は努力すれば手に入るけれど、自由は欲しいからといっておいそれと手に入れる事はできないもの。貴方も伯爵家の生まれならそれをよくわかっておいでなのではなくて?(言うまでもなく、路地裏で生きた経験など、もちろんない。だからきっと、衣食住に困らぬ人間として、そういう人生を甘く見ているだろう事も自覚している。そのうえでなお言葉にして、ふわりと柔く微笑んで紅い星を見返した。少しだけ、首を傾ぐのも忘れずに。そうやって、わかっていながら思いを言葉にして自分で自分を傷つけるのは、もはや治す事のできない悪癖だった。)まるで悪意に曝され続けてきた人生でも歩んできたような言い方をするのね? 竜という生き物を独占する伯爵家のお坊ちゃまが。――末とはいえ王族のお前が何を、と思う? そうね、貴方の言うとおりだわ。(高貴な家柄に生まれた時点で十二分に恵まれていて、悪意が云々だなんて言えるのは富める者の遊びのようなものだ――というのは、すべて彼を鏡としていいように使って、自分へ跳ね返した言葉だった。自分にすら御せない心なのだから悪態を許せ――だなんて思わない。ただ、すり寄る者も嘲笑してくる者も嫌いだから、勝手に離れてゆけばいい、と思うだけで。)王族の運命を決めるのは民衆ではなくて? 熱烈に支持されるも、革命を起こされて打首になるも、すべては民衆次第。――ふふ、末子であるわたくしが上の兄さまや姉さま、伯父さまや伯母さまたちも全員殺してしまって、王位についたらさぞかしおもしろいでしょうね。でも、それもまたきっと運命の手のひらの上なんだわ。(父とは滅多に顔を合わせる事もなく、交わした言葉も片手で数えられる程だ。自分を気にかけてくれる異母姉もかつてはいたけれど、王族から降嫁してしまってから、すっかり交流もなくなってしまった。現国王が己の運命を決めているのだったらおもしろい、とは心の底から思って、思わず笑う息が零れ落ちた。)ええ、そう。わたくしは夜には出歩かせてもらえなかったけれど、暗い空に気球で浮かぶのはさぞかし――……、あら、乗せてくれるの?(ぱっと顔を上げて、悪戯っぽい笑みを向けるのは、彼のそばの黒竜に。わたくしの瞳には悪意があって? そう問いかけるよう、どこか愉しげな顔だった。)――では、一年後、わたくしたちが無事に……というか、人並みの生活が送れていたら、お願いするわ。その時は、ライラと貴方で、世界一周の旅に連れていって頂戴な。
それ。貧民街に住んでいる国民の前でも、おんなじことがいえるかい? キミが真に彼らの生活を“自由”と思っているのなら、今度一緒に城下へとおりようか。許可は私が取っておくよ。(こちらを見つめ返す瞳を、隻眼はただまっすぐと見据えていた。そこには非難も賛同もない、紅い星はただ無感動にまたたくだけ。おんなじように首を傾けて、絹のように艶やかな黒髪を揺らす。自由を求める心は理解出来なくもないけれど、さりとて看過できぬ言葉があるのも事実であったがゆえに、落とした言葉は提案というよりも有無を言わせぬ決定事項に等しい響きを有していた。)そうだね。私もこの子も、ただの温室育ちの貴族ではないということさ。……姫君、想いを素直に口に出来るところはキミの佳いところではあるけれど、他人の心を推し量るような真似はしてはいけないよ。(男が末の姫君の境遇を知らぬように、そちらもまた男の境遇を知らぬ。己が辿った生を不幸自慢のようにおいそれと明かすつもりはないけれど、『悪意』に曝されてきたことはしかと肯定を示して、口許に薄らと微笑みを湛えた。悪態を吐きたくなるほどの生を彼女が歩んできたとしても、さりとてなんでもかんでも想いを言葉にしていいとは限らない。咎めるでも呆れるでもなく諭すような口吻になったのは、男が姫君よりもずぅと年長者がゆえもある。棘では済まぬ、刃のような言葉を聞いてしまえばなおのこと、薄らと微笑むばかりであったかんばせを珍しく微かに険しくして。)……本気でそうしたいと思っているの?(とは、彼女が語った王位に就くためのたとえ話に対してだ。彼女がこの国の女王になりたいと真に望むのであれば話しは別だけれども、果たして本当にそうなのだろうか。いまひとたび真意を問うような紅い星をそちらへ向けて、続けて言葉を紡いだ。)ただの思いつきの発言であるというのなら、紡ぐ言葉には気をつけなさい。責任を持てない言葉を無責任に吐き散らすことが許されるのは、せいぜい六歳の子どもまでだよ。(言葉には責任が伴うことくらいは、帝王学を習わされたであろう姫君であれば理解をしている筈であろうと、抑揚のない口吻で紡いでゆく。王族の運命を国民が決めるというのであれば、さて、彼女が云う『運命のてのひら』もまた国民を指す言葉であるのだろうかと、既にそのてのひらの上に在るらしいひとを見据えて、ふっとやわらかな呼気を落とした。)ライラはキミに好意的だよ、この子も私とともに国に仕える立派な騎士であるからね。……では今は『人並み』ではないということかな。承知したよ、姫君。(姫君の置かれている環境を知らぬゆえに『人並み』と称したものが如何なものかは解らぬものの、ひとつ頷いては了承の意を伝えよう。相棒の黒竜も姫君を乗せて羽搏くことに異存はないと告げるように高く鳴く。そんな折、控えめなノックとともに「マルグリット姫様」と扉の向こうより控えめな侍女の声を聞いたなら、すっかり宵へと傾いた星空を仰いだ。)──そろそろディナーの時間だろうし、私はこれにて失礼しよう。もしもなにか用があれば、バルコニーで名を呼びなさい。ライラとともに、すぐに空から駆けつけるからね。(とん、と合図を送るように相棒の首筋を優しく叩いてやれば、慣れたように頭を下げた黒竜の背へと軽快に飛び乗った。相棒が夜天へ向かって大きく羽搏くと、バルコニーは瞬く間に遠のいてゆく。姫君の姿が見えなくなるまで間もなく、今宵も美しくかがやく星々のなか、相棒とともに月の船へと漕ぎ出した。)
〆 * 2022/10/21 (Fri) 13:08 * No.83
ご忠告痛み入るわ、騎士様。王族としての品位が足りなかったわね。今後は二度と口にしないようにするから安心なさって。(いらえを得れば微笑みはそのままに、両手でワンピースを摘んでカーテシーを。姿勢を正しても微笑みはそのままに、屈んだ姿勢から立ち上がった事で裾をそっと払った。)あら、なんだか騎士様からはご忠告をいただいてばかり。さすが騎士様、“騎士”の名を戴くのはとっても特別な事なのね。わたくしも所詮、鳥かごの中の飛べぬ鳥。路地裏の痩せた野良犬の事も、何も知らないわ。王族たる者、己がまだまだ無知で未熟である事を知らなくてわね。騎士様に家庭教師役を担わせてしまったわ。(ふいに片手を浮かせれば、紡ぎ出した言葉を動作に反映させるよう、己の不勉強を改めて認識するよう、一番長い中指の爪の先から、腕、肘、二の腕、肩、と視線を移動させていって。「子供でごめんなさい?」と眉尻を下げて続けて。座学を、或いはマナーやダンスを教える家庭教師に、間違いを指摘された時のように。そっと吐き出す溜息は、不出来な己を憂えるように。)そうよ、本気よ――と答えたら、どうするのかしら? それとも、冗談だったの、ごめんなさいと謝ればいいのかしら? ごめんなさいね、先生。わたくし、まだ成人を迎えていない子供なの。広い心で見ていただけると嬉しいわ。(再びカーテシーをするのは鬱陶しいだろうかと、軽く会釈をするに留めた。『好意的』との言葉には、本当? と尋ねるよう、黒竜へ視線を返して。言葉にはせず、そっと微笑むだけに留めた。)もうそんな時間? ご苦労様。腐っても王族、守衛もつけられているし、休んでくれて構わないわ。おやすみなさい。(ひら、と軽く手を振って、バルコニーから去る騎士と黒竜を見送る。己を呼んだ侍女に入室の許可を与えれば、用件を聞く前に「少し休むわ」と告げて、部屋を出た。王宮内では隅に位置するとはいえ、どこにいても侍女や守衛の目は逃れられない。そのうえで、自由気ままに過ごす術はとっくに身につけていた。普段、片割れと過ごしている寝室に戻ったのは、夜もすっかり更けた頃。夕食がとっくに冷めてしまったと、片割れから文句を言われる羽目になるのも珍しい事ではない。)
〆 * 2022/10/22 (Sat) 13:06 * No.95