(豊穣を祝う舞)
(芽吹きの春、花盛りの夏、そして露光る秋。この国の王室でいわくつきとささやかれてひさしい末の姫君が、ひとりの騎士をその付き人に加えて――はやいもので、季節はそれからふたつめぐる。顔合わせの翌日、あの小さな闘技場で行われた真剣での打ち合いについては、少なくとも、妹のほうからもういちど、と持ちかけることは、ついぞなかった。姉のほうには、日課の勝負に、この十余年ではじめて休戦を持ち込んだことであっさりと察され、さんざん悔しがられてはうらやましがられたものだ。しかしながら、剣筋というのは嘘をつかない。あるいは、つけない。ゆえに、ふたたび刃を交えたそばから“別人である”と看破されてはかなわない――という事情もあって、片割れをしぶしぶ頷かせ、たがいに真剣での打ち合いを持ちかけないことを約束した。その代わり、感覚の異なる鍛錬用の得物や、なんならそこいらに転がる、庭師が回収する前の木の枝を拾ってきてでも模擬試合をねだらんとするおてんばの姿は、おそらくそれなりの回数、見受けられたことだろう。もっとも、それは立場を笠に着てというより、どちらかといえば幼子の拙い駄々めいていて、ごくたまには折れて応じてくれることを期待する、というくらいのささやかさではあった。相手がどう受けとめていたかは別として。周囲を振りまわす姉と、その尻拭いをする妹、という役割分担はこれまでとなにも変わらない。“表”に出るのは半分ずつ、ともするとほんの少しだけ、こちらのほうが多かったか。そういう、夏鳥がちらほらと南へ渡りはじめた秋の日のこと。)……やっぱりね、お忍びで……ということなら、わたしがあなたの小姓として外を歩くほうが、しっくりくると思うのだけれど……。(城下で催される収穫祭。王侯貴族がお出ましになる、いわゆる国としての式典というのはつい先日に行われたばかりであるから、これは、それよりもいくらかくだけた、民びとのための祝いごとだ。噂によると、貴族もあまたお忍びで足を運ぶために、この時季は毎年警備に駆り出されて楽しみが減る――と、騎士団の面々が嘆くとか。さても目下、ジルベルト・ダニエリは、王家の末たるレイチェル姫の付き人である。それゆえ、ごく個人的には姉に振りまわされる同士として、日ごろのねぎらいも兼ねながら、こたびの供を申しつけたという次第。あとは、もちろん自分も城下の祭りを覗いてみたいという下心があって。)そりゃあ……どうしてもあなたの気がとがめる、というなら、いまからでも着替えてくるわ。“町の娘さん”ふうに。(きっと。いまこのときも身にまとう、常の男装姿から。自信はないが、そのあたりは侍女の手にまかせよう。どちらがいい? と問いかけるよう、なかば強引に約束を取りつけたかもしれない騎士を前にして、首をかしげて振り仰ぐ。)
(淡い若芽の春。緑濃やかに茂る夏。付きびとの務めというよりも、心のありかたによって、騎士は姫ぎみの影のように付き従った。声がかかれば毎度、しおれた様子でやって来て、とぼとぼと帰ってゆくのだが、季節をひとつまたぐころには、重苦しく落ちる肩の形や、悄然と掠れる声の色がこの男の常であって、とくに気が塞いでいるわけではないのだと知れただろう。得物を変えた手合わせの誘いにはもちろん、よろこんで応じたし、いたずらめいた瞳に翻弄されることがあれば、それもまた、うれしいものだった。気がかりがあるとすれば――時おり姫ぎみに感じる、ささやかな違和。ひとによっては、ただの浮き沈みとも言える、放縦と自制の心を行き来するようなそれ。もとよりそう聡い男ではないから、過ぎる日々の片隅に留め置くのみではあったけれど。――王国はこがねの秋。小麦やとうもろこしの粉をひく水車の音。手足の先をぶどう色に染めた、果実酒づくりの娘たち。そうしたのどかな風景を離れ、日ごろはもう少し垢ぬけた顔でいる城下の町も、収穫祭の時季には土のにおいや家畜の鳴き声が押し寄せて、たいそう愉快な賑わいとなる。姫ぎみの傍らにひっそりと控える騎士とて、今日ばかりは誇り高き紋章を背負ってはいない。得物は小振りのものをひとつきり、商人ふうの丈が長い上衣に忍ばせていた。)……果実の種を飛ばして競う、催しや……闘鶏の賭けごとや……そういった遊びをなさるのであれば、町の娘さんふう、では……いささか、人目を引きます。(いくらお忍びといえど、あまり品のよくない遊びをお教えしては、あとで女官長の目が怖い――ということは、今は考えずにおく。姫ぎみを見下ろす男の、うなだれがちな背筋はやや伸びて、これは上向いた気分の表れだった。)そうでなければ……いかがでしょう、少しおめかし、なさっては。露店で見繕った蔦かごに、花や菓子をたくさんかかえて……誘われたら、踊りの輪に入る。気ままな歩きかたなども、よいものですよ。(城へ上がってからは特に、祭りを楽しむ余裕などなかった。騎士を息抜きに連れ出そうという、姫ぎみの気づかいがあるのだろう。ほほ笑み――と、最近ではなんとかわかる程度に和らいできた、拙い唇の曲げかたをして。)姫さまが……お心の向くように、たのしいときを過ごしてくださるなら……いかなる場でも、私の気が咎めることはありません。(示された選択肢を、改めて彼女自身の手にしっかりと握らせる。小姓を連れたあるじであれ、町娘に付き添う若人であれ、与えられた役割にふさわしくふるまえるかどうかは怪しいものであったが、さほど心配はしていない。祭りの日には、やたらと腰の低い“主人”や、銅貨の扱いもろくに知らぬ“従者”が増えるものだ。彼女には気兼ねなく、季節の楽しみを味わってほしい。そのためにおのれがいる。)
(上背をすぼめるように、とぼとぼと歩く。ごくはじめのころには、そんな新たな付き人の姿が――ああ姫さまは、今度はいったいなにを掘り起こして放り込んだのかしら? だの、いえいえ先日のあなたの声がけが、いささかきついように聞こえたのではなくって? だの、侍女たちの憶測をさまざま呼んでは、心配そうに様子を窺いたがるまなざしが、騎士と姫君を遠目より幾重にも取り巻いていたものだった。しかし、それもまた、吹きわたる風がいっそう青く薫るころには、それこそが彼の“常”であるとして、ごく自然に馴染んで受けいれられることになる。同じ師のもとで、かつて剣術を学んだという奇縁。「お戯れ」に鼻白んでいさめるのではなく、とはいえ無責任にそそのかすのでもない。ただ――息をするように、昼下がりのおしゃべりへ付き合うように、得物を振るうさまを目にして、末の姫付きの使用人たちはみな、おしなべて驚嘆し、しみじみと、世のめぐりあわせの妙なるに思いを馳せたのだった。もっとも、女官長ばかりは、怪我やらなんやらを気にしてひとり、お小言を繰るのをやめなかったが。)まあっ。果実の種は、きっと口に含んでから飛ばすのよね。それから……なるほど、闘鶏の、賭けごと。(そういう遊びもあるのかと、感心したようなつぶやきになる。少なからず興味はもつが、それを実際に、自分でしてみたいかと考えるとむずかしい。腕を組み、思案げにちょっぴり考え込むような顔になったところで、ふいの提案。)……おめかし。(そこで脳裏を過ぎるのは、去りし春のひと幕だ。振り仰ぐと、つられて、気持ちもさらに上向いたようになる。)ふふっ! なら、そうするわ。素敵ね。誘われたら、踊りの輪に入る……そのときは、あなたの手を引いて、一緒に飛び込んでも?(妹としてはややめずらしい、からかいじみた誘いの言葉。なにも無理強いをしようというのではないが、まずは反応を楽しんで、あわよくば、を狙うくらい。そうと決まれば、もうすっかり着替えるつもりで、春のころよりも和らいだくちびるのほほ笑みに告げよう。うれしげに、同じくほほ笑んで。)ありがとう。(それから、)と、なると──……「主人と従者」というわけには、いかないかしら……。そうねえ。「きょうだい」というのは、どう?(たがいの設定の話である。彼を連れ立ち、来た道を戻りながら考えていた。“秘密”の息づく扉に繋がる回廊の手前。こちらの着替えのあいだは、紅葉もみごとな庭園を臨む客間のひとつに通して、お茶でも飲んで待っていてもらうつもり。)いま、お茶を用意させるわね。時間は……たぶん、それほどかからないつもりだけれど、そのあいだ、よければゆっくりしていて。(「お茶菓子は、なにが好き?」──以前に姉が、尋ねたこともあったかもしれない。知らない妹は、運よく通りがかった使用人を呼びとめるべく、一歩を踏み出そうとしたところ。)
(頭を軽く俯け、鍵盤をかろやかに弾くような笑い声を耳に拾い上げる。今日のお心はどちらに向いているのだろうか、と傾げる首が、ぜんまいの切れかけた人形じみてふと動きを止めた。)もちろん、おともしますが……ああいった踊りは……私は、あまり得意ではありません、から……。不始末があれば……この脚を、切り落とす覚悟で……。(手と手をとり合い、簡単な拍子を覚えてくるくる回るだけの遊戯が、男にはどういうわけか難敵なのだった。自分の脛に蹴つまずいてひっくり返るくらいならよいが、万が一にも姫ぎみの足を踏みつけるわけにはいかない。女官長の諫言などどこ吹く風、日ごろ姫ぎみと得物を打ち合わせ、いつぞやは――ただ一度きりのことであったが――その眼前に真剣を向けさえしたくせに、深く思い悩む様子で片腿に手のひらをあてる。やわらかなほほ笑みに頷きを返す男の顔は真面目そのもので、冗談のつもりではないようだった。)……きょうだい、ですか……。(繰り返す響きを口のなかで慎重に転がす。しばらくのあいだ、視界に落ちかかる髪をそのままにして、合間にのぞかせる瞳に茫洋とした思案の色を浮かばせていた。)……では……ねえさま?(姫ぎみよりも年嵩であるはずの男は、そうした呼びかたをひとつの提案としてあとに続く。前を行く背につかず離れず、常に数歩ぶんの歩幅を空けて、靴底は静かに床を叩いた。)いいえ、姫さま。私は……ここで、お待ちしております。それが一番、落ちつきます、ので……。なにより……この身は、少しでも……あなたのおそばに、ありたいのです。(似たようなやりとりを、以前にも交わした覚えがあった。釦のかけ違いめいた齟齬はこれまでにもいく度かあったが、男のほうから指摘したことはない。今日もそうして、ただ穏やかに答え、付きびとの立ち入りがゆるされる境にて立ち、周囲に目を配りながら待つつもりだった。王城の奥に出入りできる者など限られようから、立場のゆえにそう務めるというよりは、やはり男自身の気の持ちかたによる。あくまで姫ぎみの意向が第一、重ねてうながされたなら、それ以上は我を通さず客間へ向かい、「姫さまからいただくのであれば、どのようなものも」と返す手ごたえのなさで、相手を戸惑わせたかもしれない。いずれにせよ、姫ぎみが支度を整えるまではおとなしく控えていよう。男がまとう衣の、腰まわりや袖口にゆとりをもたせる意匠は当世ふうから外れて、いかにも野暮ったいものだった。けれども質のよい布地は深みのあるブラウンで、影にのまれがちである面相を心もち明るく見せている。きょうだいとして隣に並んでも、姫ぎみの装いを妨げはしないだろう。)
……そうなの……。でも、ああいう踊りというのは、こう、いわゆる技巧を競うというよりも、お祭りの賑わいを、その雰囲気を楽しむものでしょう。だから、不始末だなんて、……。…………。……えっ? あ、脚……ッ!?(相手をはげますつもりが、それよりも先に話題がたいそう不穏な方向へと転がり落ちてしまったので、あわてたように目を剥いた。)だっ、だめ! ああ、びっくりした……。それは到底、ゆるしませんよ。(とは、いかにも主人らしく窘める口ぶりで。)もうっ。そこまでやわな足ではないのだし、それに――……、(そこで、ふと、内緒話をささやくように声をひそめる。いわく「片脚になってしまっては……“また”の機会に、やすやすとわたしに勝ちをゆずることになるけれど」? 彼の気性を鑑みると、こういうとき、真正面からとりなすのみではさして響かないどころか、ともするとかえってかたくなに、意固地にさせてしまいそうな気がしていた。もちろん、杞憂であればまだよいが、本気で切り落とされてはたまらない。だから、どうにか知恵を振りしぼり、なんとか撤回の方向へともってゆけたらというわけだ。挑発と呼ぶには大げさな、子どもじみた気の引きかたである。――片割れと夜ごと交わし合い、共有する記憶をさらう。たしか、この付き人には、兄がふたり居たのだったか。では、自分がその立場となるのはさぞ新鮮だろう。そう、てっきり思い込んでいたものの、)――……ね、(「ねえさま」? 思いもよらぬ提案に驚いて、つい、うっかり歩みを止めてしまう。その場で急に立ち尽くし、)……わたしが。(王家の末という順のみならず、禁忌の双子としてもあとに産声を上げた。生まれてこのかたずっと妹。気がつけばおかしげな笑みが、ふいにこぼれる。)ふ、ふふ。では、そうしましょう。今日にかぎり、わたしのことはこれ以降、ねえさまと呼ぶように。“ジル”。(たいそう気をよくしたか、勝手に相手の愛称までをも口ずさむと、回廊はひとたびの分かれ道。)……、……。そう……? なら、あなたのいちばん気の休まるように。(こちらはさしたる違和もおぼえず、そういうものかと納得していた。少しでも。あなたのおそばに。ああ、なんと胸をあたためる言葉だろう。秘密ごとをまもる境界で彼を待たせ、ほどなくして現れるのは――実りゆたかなこがね色の袖つきの胴衣に、苔むす木陰にも似た深い緑のスカート。前には木綿のエプロンを提げて、開いた襟ぐりにはフィシューを入れ込むことで肌を隠し、防寒も兼ねている。耳上で左右に結い上げた髪は同じく、こがね色のボンネットのなかに収められていた。収穫祭では、花や実のついた枝を帽子や上着の胸もとに挿すそうで、ゆえに飾りは控えめに。さても“弟”と並べば、秋も深まる色合いだ。)さあ、いきましょう。(やや気恥ずかしさを誤魔化すよう促して、差し出される腕を待つ。)
(ひそめられた声をこぼさずすくい上げようとして、背を屈め、耳を寄せた。上目をつかって相手を見る瞳に、ごく些細な、火花を散らしたような光がぱっと灯る。)……いかなるときも、姫さまのもとにあるべき、この身体を……みずからの不足のために、そこなわせて……ゆるしを請おうなどと。恥ずべきこと、でした。不肖、このジルベルト、全身全霊をもって……踊りの輪に飛びこむと、お約束いたします。(大仰な誓いを立てながら、覆い隠すようにまぶたを伏した。諭すようにたしなめられたことを恥じ入る思いよりも、“また”――と、その言葉を聞けた喜びが、瞳の揺れに表れてしまったために。)……姫さま?(前を進む足音が途絶えれば、男の歩みも止まる。意に添わなかっただろうか、と窺うまなざしは、思いがけぬ音の連なりを耳にして、一度ゆっくりと張りつめ、やがて糸をほどくように緩んでいった。)……はい。本日は……“ジル”が、おともをいたします、ねえさま。(――姫ぎみの支度を待つあいだ、男は杳とした様子で壁際に佇んでいた。さても、めぐり合わせとは。この自分が、今や姫付きの騎士なのだから。……ジル。無音のつぶやきは、懐かしむ響きを帯びて回廊の暗がりに消える。その向こうから足音が帰ってくるころには、常と変わらぬ顔で姫ぎみを出迎えて――。)――……春、だけではなく……秋の装いも、お似合いになるのですね。(祝祭の日にふさわしい、果てなく高い空だった。抜けるような青をまぶしげな目つきで見上げたあと、おのれの腕に添って歩く姫ぎみへと視線を下ろして、男は続ける。)城の灯りの下でも……きんいろの葉が……深い湖の上や、山の尾に舞い揺れるよう、でしたが……こうして、陽の光のもとに出ると、いっそう……。(ひとことごとに頭を低くしなくては、ただでさえ通りにくい男の声などたちまちかき消されてしまう。城下はたいへんな賑わいだった。早くも酔っぱらったような足つきの楽師が、調子はずれにつまびくリュートの音。ここぞとばかりに飛びかう客寄せの声。焼き菓子の甘い香が鼻をくすぐり、肉や魚を揚げる匂いが腹をつつく。冗談のような大きさの野菜や、毛づやのよい仔牛を乗せて通りすぎるのは、品評会に向かう荷車だろう。行きかう人びとに紛れて、例年通り、お忍びで市井の祭りを楽しむ貴族の姿もちらほらとあるようだ。もの珍しさに誘われて、姫ぎみが気の向くままに腕を離れることがあろうとも、男はとやかく言いはしない。用心深く視線をめぐらせつつ、通りの露店から小さな花籠のひとつを選ぶと、「ねえさま」と傍らの、あるいは先を行くそのひとを呼び寄せよう。)……いかが、ですか。ご婦人がたの、流行のようですよ。(籠を持ち上げ、人びとが髪や衣裳を彩るために買ってゆく花々を見せる。ペチュニアが白く咲きほこるなかに、イヌタデの花穂や、子どもが好んで遊ぶフウセンカズラの実などが混じるのも、この季節の祭りならではだった。)
(ごくごく素朴な、農村ふうの、田舎おどりに飛び込むだけでも命がけだ。いつも以上に神妙な顔つきが畏まって誓いを述べはじめると、笑みを堪える肩が小刻みに震える。そうと伏せられた、そのまぶたの奥を窺い知ることはかなわなかったが、彼のまとう雰囲気というのはやわらかなまま。ふとした思いつきで重ねた戯れにも、こころよく応じてもらえたならば、ひとり進む足どりもそれはそれは軽やかに。――くだんのひと揃えは、布地や仕立ての差ゆえに、“町の娘さん”そのものとはいくまいが、きちんと“ふう”の範疇には収まっている。)……あら。夏の装いは?(だなんて、そんな揚げ足とり。なにごとか、反応が返る前に、すました表情から悪戯な笑みを閃かせて。)なんてね。ありがとう。あなたも……こっくりとしたそのブラウンが、よく似合うわ。ゆったりとした袖口や裾がそよいで、ときどきね、風をはらんで膨らむようになるのが、秋を感じられて素敵だと思う。(あいにくと流行に敏い性質ではない。過ぎし春、めかし込むことに熱心な年ごろのふりをしたことなどすっかり忘れて、感じたままの褒め言葉を贈った。雲の影さえない晴れわたる高き空。ときおり掠れて、会話のはざまに融けゆくような音吐を耳で拾い上げて聞きとることは、季節をふたつ越えるころには、ずいぶんと上達したように思う。相手が背を屈めてくれるのであればなおさら、もはや聞き逃すことはない。移ろう葉色のあざやかさに頷いて、やや調子はずれの楽器の音にはおかしげに。焼き菓子の甘さや、揚げ油の香ばしさ、採れたて野菜の土いきれ。荷車に乗せられて誇らしげに鼻づらを持ち上げる仔牛や、覆い籠のうちで気もはやる闘鶏たち。往来にはさまざま、においや鳴き声があふれては入り混じるのに――これ、と嗅ぎ分けられるのが不思議だった。腕を離れることこそなかったものの、しばしば歩みを止めたり、あちこちに視線をせわしなくやってみたり。いまもまた、呼びかけに、大きくこうべをめぐらせて、)わあ……!(先に教わった蔦かごだろう。目をかがやかせて誘われるよう、付き人のもとを数歩離れ、よくよく覗き込もうとしていた。そんなとき。)…………、(「これはこれは、このようなところで。先日の夜会ぶりですかな?」 お忍びを隠しもしない貴族ふうの、しかしいささか世俗にまみれた恰幅のひとりの紳士が、年若い青年を背後に従え、たいそう機嫌よくこちらの様子を窺っている。――つい先日の夜会にて、不躾に姉に声をかけたとある商家の主人を、妹は知らない。ただ、ぜひ自分の息子にとめげずにダンスに誘うしつこさを、辟易と聞かされていただけで。)いえ、これは……、(「その花かごはもしや、愚息にいただけるので?」 などと調子づく物言いの裏、値踏みをするまなざしを感じてもいた。末の姫君は、いかにして“半分”であるのか。好奇。数歩、たたらを踏んで後ずさる。)
私がいつも、不思議に思うのは……ねえさまは、ご自身がどれほど……ひとを惹きつけるのか、ご存じないのだろうか、と……いうことです。夏は、もちろん……冬も、きっと。(いたずらめいた笑みを受け、こちらは常の朴訥とした調子で口にする。男が身につけるものを選ぶ基準は、得物の扱いやすさを第一に、第二に清潔であればよし。見栄えにまで気が回りはしなかった。付きびととして至らぬこと、と今さら思い当たるも――「ありがとう、ございます」と片手を空へかざし、ひらつく袖口をあおぐと、なんの変哲もない上衣が、はるかによいもののように思えてくる。恵みを運ぶ秋風に吹かれ、背筋はぴんと伸びた。――様々な色が、音が、匂いが混ざりあい、けれど決して不快ではない空気も、道ゆく人びとの浮き立ちようも、日ごろの城下の活気とはまた異なるものだ。気ままなそぞろ歩きを、男も楽しんでいた。もっとも、まなざしは姫ぎみの横顔にばかり向けられて、その瞳が何を見てきらめき、どの音に気を引かれたご様子であったか、ひとつひとつを覚えこもうとする。並ぶ花籠を前にして、この色がお気に召すだろうか、いや、あちらの大ぶりの花弁のほうが、などと考えをめぐらせていた矢先のこと。――その紳士は、ダニエリの家とも付き合いのある宝石商だった。騎士が随伴した先の夜会では、礼節も忘れ、子息を売り込むことに随分と熱心なようだった、と記憶している。しまいにはおのれが間に入り、姫さまはご気分がすぐれない、とどうにかお引き取り願ったのだが。品定めでもするかのような目つきが、姫ぎみへと向けられるのを見て――皮膚の薄い眉間にはっきりと、地割れのごとき皺を刻む。男の立つ位置から、姫ぎみの表情は窺えない。礼儀をわきまえぬ御仁を前にして、ただ戸惑っておられるのか、それとも。滑るように近づき、そっと添える手のひらで、後ずさる背を支える。そのときにはもう、常と同じ形の、哀しげにくだる眉をして。)……おそれながら……申しあげます、ルーフォロさま。本日は……民びとのための、祭りにございます。こちらの花も、今は名を秘し、一日かぎり咲く一輪。(おのれの身体をねじ込むように前へ出て、不躾な視線を遮る。王族のお忍びとあらば、いかな理由があろうとも、見て見ぬふりを通すのが作法だ。無粋なまねをしてくれるな、と言外に含ませる声は、この男にしては珍しく棘立っていた。突然に割って入った商人ふうの姿が、先の夜会で亡霊のように現れて、自分たちを追い払った末姫付きの騎士である――と、彼らも気がついただろう。やすやすと引き下がる相手とは思えなかったが、まずは愚直に腰を折り、深く頭を下げる。)どうか……ご承知おきくださいますよう。お言伝は、この私が。
! ……もう。ジルったら。(彼にかぎってお世辞ということもあるまい。それがわかるから、面映ゆくもありがたく受けとめて、)でも、そうね……ひとを惹きつけるというなら、ふふ……わたしの“ねえさま”たちこそだわ。(ほんとうの。そう言いたげな目くばせをしながら思う。近隣の友好国や、国内の有力諸侯にお輿入れなさった姉君たちのこと。末子以外の王女はみな嫁いでひさしく、王室もずいぶんとさみしくなったものだと、惜しむようにこぼす年嵩の侍女も居るくらい。もちろん現王妃はすぐれた貴婦人であり、城の女主人としての奥向きの取り仕切りも申し分ない。王子らのそれぞれの伴侶についても。なんの不足があるわけでもない。ただ――回顧というのはそういうもので、いまなお慕われ懐かしむ人びとがあとを絶たないくらい、姉上がたが立派にお役目を果たされているというだけ。騎士の血筋に恥じぬ自慢のきょうだい。お礼を言われるとほほ笑んで、翳された袖口のゆくえを同じくまぶしげに追いかけた。とりどりの花たち。あちらの大ぶりは、はて秋ばらかダリアか。よりいっそう目立つのは、鶏冠のごとく燃え立つ花穂。あかあかと色づく野いばらの実も。めいめいが好きなものを、心ゆくまま。誰ぞの気持ちを和ませる――という意味では、夜会の華も、懐古にたゆたう使用人を、あるいは慰めていたのかもしれない。事実、末姫はなにも盛装を厭うているわけではないのだ、と知れわたったあの春以降、機会があれば、侍女たちはこぞってわが身を飾り立てたがったものである。そういう場への出席は格段に増えた。ゆえに。)――……ぁ、(そうでなくとも、値踏みの視線なんぞ慣れたものだ。が、齟齬の生まれた記憶がかえって妹の足もとを掬おうとする。急な不安に襲われ、本能的な後ずさり。しかしそれを支える掌。はっとして気がつく。呼吸が楽になった。ああ、わたしは、ひとりではないのだと。五指それぞれを種類の異なる宝石で飾り立てた紳士の右手が、二重の顎先を思案げに撫でつける。それは、ふたたびの闖入者をいかにしてこらしめてやろうかと考えているようでも、いまこの場での損得をすばやく勘定しているようでも。やがて、咳払いをひとつこぼして――「いやいや。そちらの手を煩わせるようなことは、これっぽっちも」。ここは立ち去るが吉と判断したらしい商家の父子は、何食わぬ顔で引き下がり、一礼すると、たちまち人だかりのなかへと紛れてゆく。)ジル、(ああ、なんて弱々しい声だろう。縋るようにその袖を引いては、相手のまなざしを受けたがった。これが片割れであったなら、うんざりしていたところで渡りに船とばかりに付き人へ託し、追い打ちのひとつやふたつ、かけることもできたのだが。)さっきの花かごはね、もちろん、勧めてもらったとおりに……自分のぶんを買おうとしていた、のだけれど。いまのお礼に、あなたにも、その、お花を――……贈っても、いい?(もとより、買い求めた花かごより一輪、“弟”に似合いの花を見繕うつもりであったのだ。しかしながら、唐突に吹き抜けた木枯らしに、いまはすっかり弱気になって。まずは、そんな問いかけを。)
(ねえさま。末の姫と血を分けた王女たち。そのひととなりをよく知らぬ男は、往時を偲ぶ語らいのなかに、時おりその面影を想像するのみだ。姫ぎみや、彼女に近しい側仕えの者たちから伝え聞く“きょうだい”の姿は、血のかよったあたたかな実像を伴って、彼女の傍らにあるように思える。それはなにより頼もしく、うれしいものと感じられた。王城の内と外、姫ぎみに向かって放たれる、毒矢じみた視線はただでさえ尽きない。盾のひとつでは到底足りぬほどに。――いやな目をした男だ。立ち去りゆく背に向けていた、侮蔑も露わな、冷ややかなまなざしの名残を、瞬きのひとつでぬぐい去る。すぐに振り返って見下ろすそのひとの、か細く揺れるような声。袖を引く、心もとない手つき。先の夜会でもたしかに、辟易とした様子で顔を曇らせていた姫ぎみだが――こうではなかった。あのときとは決定的に違うなにかが彼女を苛んで、しかしおのれにはその由がわからない。お礼、と――差し出された言葉に、困ったように迷う瞳を横へ流して、しばらくの逡巡があった。やがて軽くまぶたを落とすと、ひとつ頷く。)……はい、ねえさま。あなたの弟に、褒美をください。(花籠を売るのは、石畳に敷物を広げ、品物を並べただけのつましい露店だ。老いた店主は心得たもので、間近に繰り広げられた故ありげなことの顛末にも、決して好奇の目を向けようとはしない。皺とあかぎれの目立つ、働き者の手に硬貨を多めに渡して、男は首を俯ける。)あれは……もとは国を出て、商いの手を広げていた男です。事業がこげつき始めたので、舞い戻り……どうにかしてあなたに取り入ろうと、焦っているのでしょう。名を覚える必要は、ありません。……次に、顔を見せたら……おまえのような、品性のいやしい者など知らぬ、と……追い返してやればよい、のです。(いつになく強い語気だった。彼女の胸のうちにかかる霧を晴らしたい一心で、けれど糸口を掴めないまま、手にした花の一輪を見る。初めに目を留めていた、小さな花弁。みずみずしい白は、鮮度を保つための術を施されていない、生きたままの色あいだろう。飾って半日も歩けば褪せてしまう、今このときだけの儚いうつくしさ。)……ねえさま。(低く呼び、こちらへ注意を向けさせたなら、伸ばす手はボンネットの庇をくぐり、耳もとへ。節くれた指で後れ毛をさぐり、絹の髪に青い茎を分け入らせる。)……いつでも、俺が……あなたのお力になります、から……。
(同じふた親から生まれたきょうだい。いわくつきの末の姫を産み落としたその果てに母たる王妃が儚くなったことで、当時、すでに物心のついていた年長の王子王女らには、多少なりわだかまりにも似た爪痕を残したようだが――それでも、ひとしく血を分けた者同士、かよう交流はあたたかなもの。しかしながら、社交の場での振る舞いをお手本に仰ぐには、あまりに遅きに失していた。持ち前の度胸と機転、記憶の共有でどうにか乗り切ろうにも、綻びの現れる場面というのは必ず出る。そこが弱い。お礼、と持ちかければ彼が困るのはわかっていた。けれども、こんなとき、わかっていて、あえて尋ねることしかできなくなってしまう。――なにか、かたちだけでも対価を差し出さなければ。もとの厚意を飛び越えて、どうしてか、そんな気持ちに駆られる強迫性。とりわけ、彼は秘密を知らない。付き人として陰に日向に添わせるくせ、いまだなんの事情も明かされずに。)――……ありがとう。(ああ。どうして。なにも知らないだろうに、そう「褒美をください」と、言ってくれるのか。涙のない泣き笑いじみて、くしゃりと両の瞳をゆがめ、意味をいくつも籠めた礼を告げる。かごを編むのも、花を摘み集めるのも、つましい働き者の手に多めの硬貨を握らせるのも、その費用の出どころさえ自分ではないのに。)お知り合い……?(とは、相手の口ぶりから。実利を重んずる傾向にある商人たちというのは、時代が下ったいま、もはや王室に盲目的な追従はしないものだ。いちど国を出たことがあるなら、なおさら。合点のいった心地で頷く。いつもは言葉少ななひとが、あんまりにも熱心に語気を強めてくれるものだから、そこで、ふと、吐息が笑みの気配をまといこぼれ落ちた。)……ふふ。そうね。次は……そうするわ。(笑えば、気もいくらか楽になる。選んだ花かごは、はじめに勧めてもらった種類の花に、早咲きの三色すみれが加えられているもの。ひと花に双つの彩が混ざるようなら避けるべきだが、これは違う。控えめな野趣が彼そのひとを思わせて、ひと目見たときから決めていた。――ねえさま、と、低く呼ばう声がする。いらえにまなざしを持ち上げると、その、剣を振るうかたい指先が手にする一輪は、)――……ジル、(ああ。まなじりが熱をもつ。どうしてそんなによくしてくれるの。問う代わり、浮かべるのは満面の笑み。)ありがとう。とても。とても、うれしい。(「似合うかしら」? 首をかしげてみせればお返しに、こちらからは三色すみれを贈りたい。そうして、花かごを提げてしばし往来をゆけば、広場から聞こえてくるのは――さあ、踊りの拍子。)ふふっ。“約束”よ、ジル。いきましょう!(宣言のとおりに、手を引いて。またも内緒話をささやくよう、声をひそめる。)大丈夫よ。わたしたち……あれだけ、剣をとって舞ったんだもの。心配いらないわ。なあんにも、ね。
(いつでもほがらかな彼女の、そうした顔を見るのは初めてだった。瞳は涙が滲まぬ代わり、なにかに駆り立てられ、その奥に多くの言葉を押しとどめるような。)……いえ、私、ではなく……。(「ダニエリの」と続ける口もとは、一度に声を発しすぎたとばかり、唐突に結ばれた。脆い花弁から指を引き剥がすように離すと、おのれの心がそこに縫い留まるようだ。本当は、こうして飾るまでもないのだ、とわかっている。彼女が一度かすかに唇をやわらげれば、それだけでつぼみほころぶ気吹。ふたたびの笑みは大輪の花がひらくよう。けれどその陰に残る、憂いのすべてを取り払えはしない。できるのは、彼女の髪に咲かせた一輪が、せめてもの慰めとなるよう願うことだけ。なにごとか告げようとして、しかし堪えるように奥歯を噛みあわせ、ゆっくりと双眸を細める。)よく、お似合いです。とても……。(受け取る愛らしい花弁は、ふと目を留めた者の胸にほのかな光を灯してくれる、可憐な風情だった。花を贈られるなどそうないことで、指にそっとつまんだまま、しばらく大事そうに眺めて歩く。通りの向こうから近づく音楽にうながされてやっと、胸もとの飾り紐に細い茎をさしこみ、決してなくさぬよう固く釦をとめて。)……はい。うまくやれると、思います。あなたが……隣に、いてくだされば。必ず……。(剣を握り、人の手を取る。ふたつの間にある隔たりのことを考えた。だが――あの春の、すばらしい秘密を分かちあうこのひととなら。約束の踊りの輪が、若いふたりを陽気に手招く。奏でられるのは、夜会に聞くようなかしこまった旋律ではない。麦穂を打ちながら、牛を追いながら、親から子へと歌い継がれてきた、のどかな調べ。実りある大地に感謝を捧げ、産み落とされた命をいつくしむ。よろこびの歌が空へ響きわたるとき、そこに蔑みの目はなく、責め立てる声もない。老いも若きもひとしなみに輪になって手を叩き、踵を鳴らし、肘をぶつけて笑いあう。時おり誰かが足の運びを踏み違えると、なだれるように旋回の向きが変わり、もつれあった娘たちが楽しげな悲鳴をあげた。体勢を崩しかかるたび、男の乾いた手のひらは大げさなほどの緊張感をもって、隣にある指をしかと握りしめたが、そのぬくもりを拠りどころとして、どうにか口を開く余裕も生まれ始めている。奇跡的に、まだ誰の足も蹴飛ばさずに済んでいた。)……願いごとを……お決めに、なりましたか。(つま先でぎこちなく拍子をとる合間、首を傾けて傍らの彼女にたずねる。豊穣を祝い、人と家畜の息災を願う舞踊。そこから広く伝播して、今に残るしきたり。笛太鼓の音色が一段と高く跳ね、歓声があがった。この音楽が終わり、広場の鐘が鳴らされると、みなが思い思いの願いを胸に抱き、祈るのだ。)どのような願いでも、聞くのは……この空だけ、ですから……。多少、俗っぽいこと、でも。
(家名の引き合いに、またひとつ合点がいった。くだんの紳士とその子息、それから先日の夜会における悶着とをひと繋ぎにするには、おそらく今宵を待たねばなるまいが、すでに元凶は逃げを打ったあと。耳上の髪にやさしく差し入れられたましろの花。さてもこちらから差し上げた一輪については、たいそう丁重に扱ってもらえることはうれしいのだが、通りをゆくあいだも彼は贈られた花を大事そうに見つめるばかりで、身に飾ろうとするそぶりがまるで見受けられず――はらはらと、おのれの内心のみで多少の気を揉んでしまったのは、ご愛嬌の裏話だ。)ああ。よかった。やっぱりよく似合う。(飾り紐に差し込まれたみしきを仰ぎながら、両の指先を押し合わせよう。ほほ笑みには、安堵のよろこびをにじませて。)……ふふっ。みんなで……ひとつの大きな輪になって、踊るのね。老いも若きも、生まれや立場さえも飛び越えて……ここでは誰もがひとしく、母なる大地のいとし子なのだわ。(およそひとが治める世のはじまり、はるかいにしえの、身分の区別もないころには、ただしく“そう”であっただろう人びとの営み。この場に片割れの手も引いて加われたなら、どんなにか、さらにすばらしかったことだろう。まなうらへと焼きつけるよう、あたりを見わたす。体勢を崩してもつれ合う悲鳴さえも楽しげに、風が天へと巻き上げていた。――繋ぐ手が、ふとした拍子にしばしば強張っては、こちらの指をしかと握りしめる。心配ないわと言葉以外でも伝えるよう、そのたびにやわく握り返したりもして、)……、(願いごと。ときにかたちや意味を移ろわせるしきたりは、今日のこの日に城下を練り歩いていれば、幾度となく音に聞こえてきたものだった。ひとと家畜の息災を願い、広場の鐘とともに、めいめいが、ごく個人的な願いをもそれぞれの胸にいだき、そして祈る。)……「多少、俗っぽいこと」……。(あらためて尋ねられると、思案を要する内容だ。軽やかに爪先を跳ねさせ拍子をとりつつ、くるりと相手の肩下をくぐるよう、ひとまわりをしたのち悪戯な目をして。)ええ。決めたわ。また、あなたを――“ジル”と、そう、呼べますように。(たぶん声に出す必要はないのだろうが、願いを告ぐ先は空ではないのでこれでいい。)もちろんね、次は“弟”じゃなくっていいの。付き人の……騎士としてのあなたを……たまに、そう呼んでもいいかしら。(そう伺いを立てるころには、姉ゆずりのおてんばは鳴りを潜め、心なしか緊張した顔つきに戻っていた。彼のいらえが返るころには、祝祭の鐘の音が高らかに鳴り響くだろうか。その反応がいかなものであれ、民びとの踊りがいちど散会となれば、広場では、果実酒や焼き菓子が振る舞われるらしい。いずれも、ひと口ふた口で飲み下せるほどのささやかさだが、本日ばかりのお目こぼしを期待して、杯をねだりにくる子どもの姿もあった。)甘いのと甘くないの、ジルはどちらのほうが好き?(その手を引いて、輪のなかへ。暮れ落ちる陽に、町の灯りがともるまで。――飾って半日も歩けばすっかり萎れてしまう祝福のあかしは、色が褪せる前に城の自室で清潔な布に挟み、重しを乗せて押し花に。そういう、大いに楽しんだ秋の日のこと。)
〆 * 2022/10/31 (Mon) 13:28 * No.103
(おのれの見目についてあれこれと考えたことはなかったが、似合う、とほほ笑んだ姫ぎみの唇によろこびの色があったので、このかたちに生まれついてよかった、と思う。飛び立つ離れ鳥。まどろむ獣の仔。頰を寄せあう人びと――様々に姿かたちを違える命に、ひとしく祝福を歌う音律。男がいく度もつまずきそうになる足先の運びを、彼女は実にかろやかにこなしてみせる。鮮やかにひと回転するこがね色を、慎重な手つきで腕の下へ通したあと――)……それは……、(男の瞳は驚きに見ひらかれ、そうして願いの鐘が鳴る。高らかに、抗いがたい響きをもって。いかにも分別のある騎士の顔をした自制の心が、いけません、と答えようとする前に――唇は、「はい」と動いていた。一度、観念したように目を瞑る。)……欲のない、かたですね。あなたは……。(さらに一拍の間をおいたのち、眼窩に張った肌のこわばりから、ふ、と力を抜いた。おのれに姉はないが、もし歳近いきょうだいがいれば、こうして手を引かれることがあったのかもしれない。おとなしく輪のなかへ連れてゆかれながら、まなじりはかすかな笑みの形にゆるんだ。)私は……どちらかというと、甘いのが……。(大地の恵みで喉を潤し、人びとはいっそう陽気になる。絶えぬ笑い声。やまぬ音楽。どこかで魔法仕込みの爆竹でも投げたのか、金色の光と煙が派手な音を立てて空へと広がった――のは少々、羽目を外しすぎであったから、案の定、怒髪天をついてすっ飛んでゆく騎士団員の姿が見えた。姉妹だろうか、幼い頰を菓子でふくらませ、はしゃいで駆けてゆく子どもたちをまぶしげに見送って、男は傍らを見下ろす。ささやき落とす声は、容易ならざる重大な秘密を明かすように。)……たのしい、です。(男にとっては、唇を湿らせる程度のささやかな一杯。この程度で酔いがまわるはずもない。けれど、甘い酒精に巻かれてつい口をすべらせたのだ、というふうに、夢と現の境にいるひとのような、ひとりごとめいた言いかたをした。)あなたといると、俺はたのしい……。(――やがて祝祭の日は暮れて、連れ帰った可憐な花弁を窓辺にそっと横たえ、月あかりのもとに眺めるとき。男の耳に遠い鐘の音がいつまでも響きわたり、低く掠れる声は、祝いの歌をいく度もなぞった。幸いあれ、いとし子よ。老いも若きも、生まれや立場さえも飛び越えて、ひとしく祝福されし命よ。そのゆくてに幸いあれ、幸いあれ――。)
〆 * 2022/11/2 (Wed) 22:23 * No.106