(馬肥えて、こころはずむ秋。)
(あなたの剣で、あなたの盾――すこしの迷いも見せずに誓い、騎士はこの手を掬いあげた。あの日から今日まで、ふたりはどれだけの時をともにしただろう。「無理に一緒にいなくていいのよ」「稽古や鍛錬も自由にして」等々こちらは伝えたけれど、そうでなくとも生真面目なひとに“心当たり”の話をした以上、そばを離れまいと彼が考えたとて不思議なことではない。どうあれ夏がゆき秋が深まっても騎士と姫とはふたりでいた。いつまでもサラは話がへたで、忌み子の秘密を守るための緊張も拭えずにいるものの、青年のおだやかな笑みや凪いだ声は、けして嫌いじゃなかった。)――やっと晴れたわ。アルバート、今日こそは遠乗りに行きましょう。(さてサラヴィリーナの“半分”ぶりは、余暇の過ごしかたや行きたがる場所において顕著であったろう。リーナが公務でもそれ以外でもとかく人と会いたがる一方、サラは物言わぬ花々を愛でることや、音楽を好んだ。――それから、馬に乗ることを。顔合わせの日からほどなくして彼の愛馬の話を聞いたとき、それまででいちばん嬉しそうな、無邪気な表情を見せたはずだ。ぜひ彼女にご挨拶したいわ、と厩舎への案内をねだって、一目で愛されているとわかる美しい毛並みにほほえんだ。彼女が許してくれるなら、その栗毛に触れもしたのだろう。そうして、こうも言ったのだ――「心当たりなんて物騒なものじゃなくて、馬なのかしら。」おまえが選ばれた理由は。)日が高いうちに戻れと言われたわ。でも、先に城下も見たいの。…そのあとだと、どこまで行ける?(長雨で数日待たされたせいもあって、うずうずと問う。彼の都合さえつけば今日は朝食からともにと呼びつけた。無理でもできるだけ早く来てと、とにかくとても急かしたはず。遠乗りは何度目になるか。「湖が見たい」「遠くへ行きたい」などおおまかな希望を伝えて、行き先自体は彼に任せることが多かったように思う。今日もそうやって組み立ててもらうつもりで首をかしぐのだった。自分よりずっと背の高い騎士の、飴色の瞳をじっと見る。端正な顔立ちにも徐々に慣れ、普段の会話で頬を染めることはほとんどなくなっていた。)
* 2022/10/22 (Sat) 07:57 * No.3
(愛馬に朝食を提供しながら、ふっ、と笑った声が漏れ出てしまい、ごめんごめん、とアルバートは軽く謝った)…アイリーン、今日はね、恐らくお前の出番なのだと思うよ。一緒に行けて嬉しいね(とにかく一刻も早く来て!起きたらすぐよ!…一生懸命言い募る姿がまるでお出かけを待ちきれない子どものようで、そしてアルバートの姫―サラヴィリーナ様がそのような我儘を仰る時は大抵馬に乗りたい時であると、幾つかの季節を共に過ごしてわかってきた。『御命が狙われるような何か』があるとわかったあの日以来、アルバートは極力彼女の傍に付き従う生活を選んだ。今のところ、小さな手違いや誤解でひやりとすることはあれど、何か不審な存在を感じたこともなく、ただ平穏に日々が移ろってゆく。その中で、姫はどうかわからないが、アルバート自身には幾つか変化もあった。まずは、朝に顔を出すと、今日は“どちらの気分の姫君”なのか、すぐに判断できるようになったことだ。予想通り今日は、“馬や花がお好きな姫君”のようだ。お迎えに上がったら案の定で、顔を見るなり待ち構えていたように今日の遠乗りの予定を聞かれる。ここ暫く雨が続いて、愛馬のアイリーンも、サラヴィリーナ様もうずうずしていたようだ。このふたりはよく似ているな、とまた笑ってしまいそうになるのは、さすがに堪えた)そうですね。城下を見られた後なら、あまり遠くまではやめておきましょうか。…金木犀の丘に夕日を見に行くのは如何ですか?(遠乗り自体も冬になれば控えることになるだろうし、金木犀が香るうちに。そう提案しながら、用意されていた自分の分の軽食をありがたく頂く。姫君と同じテーブルにつくなんて、と最初は遠慮したこともあったが、もうすっかり慣れた。早く出発したいだろうに、向かいで紅茶のカップを掲げる姿は流石に仕草の一つ一つが優雅で、この前泥まみれでアイリーンに餌をあげていた人物と同一とは思えない。ふっと何度目かの思い出し笑いを見られていたのに気づいて、無意識に微笑んでいた)…いえ、この前、うちの隊の隊員が、サラヴィリーナ様に厩舎でお会いして驚きすぎて腰を抜かした〝事件”をつい、思い出しまして…(まさかあんなところで、王家の姫君が泥だらけで馬と戯れているなんて思わないだろう。くつくつと喉奥で笑いながら、御馳走様でした、と手を合わせる)…それでは、お支度が終わられるまでお待ちしております、我が姫君。
* 2022/10/23 (Sun) 10:42 * No.23
(ふたりが一人を装っているゆえの“ちぐはぐさ”は時おりあれど、気性は荒くなく、わがままも少ないむすめでいるつもりだ。そんな自分が、出会ってひととせにも満たない年上の騎士に対して無茶を言ってしまうのは、もしかしたら不仲の実兄たちに重ねていた面もあるのやも。要するに甘えているのだ。こうして嫌な顔をせずに、朝から付き合ってくれる彼に。)金木犀がたくさん植わっている丘があるの? 行きたいわ。今ぐらいの時期の夕焼け、好きよ。遠くまでよく見えるようで。(提案に興味深げに頷けば、今日の予定は決まった。「金木犀、平気なの?」と問うのは、あの香りが苦手だと話す男性も少なくないから。城下ではショールピンが見たいとか、アイリーンの調子はどうだとか、とりとめのない話をしながら朝食の時間は進んでゆく。と、ふいに正面に座る騎士がちいさな笑みをこぼしたので、つい、じっと見つめてしまった。不思議がる顔ばせはしかし、気づいた彼が理由を話せばみるみる赤く染まってゆくだろう。)! そっ、そんなに笑わないでよ……あれはおまえの部下が大袈裟なの。ちょっとブラウスや顔に泥がついていたくらいで、あんな……(とはいえ、隊員の驚きぶりは“事件”と呼んで差し支えないもので、さしものサラでも彼の顔と名前は忘れられそうにない。もう、とちいさく頬を膨らめてみせるのが照れ隠しだというのは、足繁く通ってくれている騎士にはきっとお見通しだろう。「我が姫君」と呼ばれたならくすぐったそうに肩をすくめるものの、拒絶も否定もせず「すぐ戻るわ。」と身支度へ立ったのだった。)――いつ来ても城下の市はにぎやかね。アルバートも見たいものがある? 食器とか、装飾品とか……きょうだいはいるんだったかしら。(城でまとうドレスよりもかなり身軽な装いで道をゆきながら、ふと気になっては傍らを歩く騎士へと問いかけてみる。青年の兄弟事情。サラは聞いたことがなかったはずだが、リーナはどうだか分からない。)もしいるなら、おみやげでも買って――(あげたら、と続くはずの言葉は、「ひめさま!」「ひめさまだっ」とおのれを呼ぶ声に遮られた。振り向けば、数人の子どもらの親しげなまなざしに囲まれる。つい先日リーナが声をかけて仲良くなった子どもであることに、その場に一緒にいた騎士であれば気づくことができるだろう。)……えっと、……え? “あの顔”って……、……ええと、(言葉に詰まったところで「あの顔やって!」「おはなしの続きをして!」。リーナの友だちなんだわと即座に察して笑みをつくったものの、彼らの言う“あの顔”がどんな顔なのかは見当もつかなかった。もちろん、姉が途中まで話したらしい“おはなし”の内容も。)……っ、…アルバート、(思わず騎士を見上げてしまう。迷い子のように、瞳が揺れた。)
* 2022/10/23 (Sun) 21:14 * No.30
ここからそう遠くないのですが、道中やや森の深いところを抜けないといけないので、人がおらず穴場ですよ。金木犀の香りはとても好きです。ご令嬢が振りかけまくる香水の匂いより、よほど(アルバートがこんな風に素で軽口を叩ける相手はそういない。しかも相手はお仕えするあるじで、王家の姫君。人と人との境目をほぐすのが上手な方なのだと感じている。だから、彼女といる時間はいつもより僅かに饒舌になる。こんな風にからかって笑いあうような、それは誤解を恐れずに例えるなら、主従というよりも兄妹の関係に似ている)いえ、“ちょっと”なんてレベルではなく泥だらけでしたよ。その後侍女長に怒られていたでしょう(涙目で頬を膨らませるあるじが、いつもは冷静な侍女長に叱られてしょげる姿までセットで思い出して、いよいよ声をあげて笑ってしまう。――平和でのどかな時間はいつまでも続くかのように勘違いしてしまうものだと言っていたのは、誰だっただろう。)…いえ、私はいつでも街に降りられますので結構です。…サラ様が欲しいのはショールピンでしたっけ?それなら一本裏の通りに良い細工を作る店があると妹が言っておりましたが(あまりにも布地が上等すぎる故、庶民には見えなくとも貴族のご令嬢くらいには見える装いのあるじには、街へ降りた時は“サラ様”とお呼びする旨は了解を得ている。騎士団の隊服の男が付き添うわけにもいかないので自分も動きやすい私服だ。帯剣は勿論しているが、これならお嬢様の護衛くらいには見えるだろう。妹の他に弟もいる、という返事をしようと思ったが、腰下から元気な幾つもの声に阻まれて、無意識に剣の柄に手がかかった。が、相手が少し前に共に城下に降りた際に声をかけておられた街の子どもたちの一団だと気づいて肩の力が抜ける。普通に名乗ってしまわれるものだから王家の姫だということがあっさりバレて、ちょっとした騒動になったのだっけ。後で、「ひめさま」とは呼ばないように言わなくては…と思いながらも、束の間の再会にさぞ喜んでおられるだろうと隣を見やれば――どうしたことか、困ったように揺れた瞳に、助けを求められた。「…少し失礼致します」と声をかけて、後ろから彼女の眦を指でむにいっと引っ張り上げてみせる)…こーんな顔の、双ツ首のこわーいドラゴンが襲ってきたところまでお話ししてもらっていたね?(その時彼女が自分でやっていた『ドラゴンの怖い顔』を再現すると、子どもたちがどっと受ける。自然に手を放しながら)…あの時は建国神話をお話しされておられましたね。一番いいところで時間になってしまって、皆続きを楽しみにしていたようですよ。
* 2022/10/24 (Mon) 17:22 * No.40
(いつでも降りられるのでと買いものを辞する騎士がうらやましい。王宮で不自由なく―表面上、と注はつくけれど―暮らす人間の言うことではないが。確認の声に頷いて、)ええ。気に入っていた鼈甲のついたの、どこかに失くしてしまって。 本当? ぜひ行きたいわ。おしゃれなのね。彼女、歳はいくつ?(平素よりもくだけた雰囲気をまとう青年に問いかける。「別に普段からサラでもいいのよ」と駄目元で言ってみる程度には、騎士のことを信頼していたし好ましいとも思っていた。早速行きましょうとブーツのつま先は裏の通りに向いたけれど、店へたどり着くためには彼らを満足させねばなるまい。街でリーナが会ったのなら、きっと彼も隣にいたはずだ。どうにかしてくれることを期待して、彼と目を合わせたなら――)えっ、(なにをと聞くより早く、彼の指によって半強制的に“ドラゴンの顔”になった。子どもたちが楽しそうに笑えば安堵の気持ちも浮かんだものの、変な顔をさせられたこと、触れられたこと、両方がはずかしくて、耳まで一気に赤くなる。)なっ……ふっ、不敬だわ! おまえの顔でやったらよかったでしょう……急に、そんな、…おおきい手で……(感情が上手に処理できずに、拗ねるみたいに言ってしまう。望んだとおり“あの顔”も“おはなし”の内容も教えてくれた彼に、本当は感謝すべきなのに。 と、そこへリーナの時にもいなかった子どもが走ってきて、不定期で訪れる紙芝居屋がいるのだと声をはずませた。一団の興味はまたたく間に姫から紙芝居屋へと移って、どうやら建国神話の続きも話す必要はなさそうだ。一目散に駆けてゆく彼らに、騎士は「ひめさまと呼ばないように」と伝えられただろうか。かくして、無邪気な嵐は去った。「……子どもって、自由ね……」ぽかんと一拍、置いたあと。)……ありがとう。助かったわ。あの子たちのこと、どうしてか咄嗟に思い出せなくて。(気まずそうな上目遣いで薄く微笑み、礼を述べるのだった。城下に降りた日の姉の日記には、子どもたちのことなど書いていなかったように思うけれど――身振り手振りを交えて建国神話を話してやることくらい、姉にとっては記録するまでもない日常ということなのだろう。ふぅ、とひとつ息を吐いたなら、場を仕切り直すように言う。)…さ、行きましょう。一本裏の通りって、こっちで合ってる?(当初の目的であるショールピンを求め、店を目指した。)
* 2022/10/26 (Wed) 14:13 * No.59
(王族ならば勿論御用達の職人を直接王城に呼んで、ショールピンだろうがドレスだろうがどれだけだって豪華なものを作らせることができるのに、こうしてお忍びで降りた街で民と同じものを買い求めようとする。尊い血の方には彼らにしかわからない苦悩があって、こうして街に降りることさえ普通ならば侭ならないし、極力身を隠そうとするものだ。けれどこの末の姫に至ってはあまりにも民との垣根が低すぎて、護衛の身としては正直ハラハラするが、前回も、子どももご本人も楽しそうな様子を見ればそれを止めようとは到底思えなかった。きっと良い記憶に繋がるだろうと思っていただけに――僅かな違和感がある。多様な公務を積極的にこなし、様々な立場の方との出会いの多い姫君だが、時折ぽっかり記憶から抜け落ちてしまうのか、名前や身分を隣で耳打ちしたりする程度の手助けは確かに数か月で幾つかあった。しかし今回忘れてしまったのは、似たり寄ったりの貴族男性の名ではなく、庶民の子どもたちとの貴重な時間。――そんなこと、あるだろうか。疑問に思いつつも、触れた、というよりはつまみ上げた白い肌が赤く染まってゆくのを見て、申し訳ありません、と真顔で頭を下げる)…すみません、力が強すぎましたか?……加減が難しくて。まだ痛みますか?(なにせ騎士の力だ。強く引っ張りすぎたかと、硬い指先でそっと柔らかな肌の紅潮を撫でる。それが齢十七の乙女の顔だとか、そんなことに思い至るほど男は繊細ではなかった。いつの間にやら子どもたちは別の方向へと一目散に駆け出して行ってしまい、あとに残されたのは呆然とした様子の姫と、その騎士。お礼を言われるのには、そっと目を伏せながら、いえ、と短く返す)……たまには、そんなこともおありでしょう(我ながら器用じゃないな、と自嘲してしまう。これがもっと機微に敏い人間ならば、戸惑った様子の姫をほっとさせるような言葉の一つでもかけてあげられたのだろうけれど。「…あ。街中ではひめさまと呼ばないように、と、言いそびれました…」と困ったように笑うので精いっぱいだ。私も聞いただけなので定かではないのですが、と前置きして、目的の店のある通りへと足を向ける。無事に目的の店をみつけ、店内に姫が入ったのを確認して扉を閉めると、無意識にほっと肩の力が抜けた。――血を滲ませるほどではない小さな違和感の棘は、刺さったまま。けれど己がやるべきことはただひとつ、姫君をお守りすることだけの筈だと、言い聞かせて。)
* 2022/10/27 (Thu) 17:33 * No.70
……痛かったし、まだ痛いわ。(本当はちっとも痛くないのに、責めるそれはほとんど八つ当たり。理不尽に彼をなじることで落ち着きを取り戻しかけた心は、その指先に頬を撫でられふたたび動揺をおおきくした。自分のやわらかなそれとは違う、鍛錬で硬くなった皮膚。なにか言いたげにじっと見つめたあと、なにも言えずに目を逸らした。顔が燃えているみたいに熱い。姉なら――リーナなら、こういうときになんて言うだろう。そんなふうに考えると同時、仲睦まじげに笑いあう騎士と姉の姿を想像すると、なぜだか胸がざわつくのだった。)ふふっ。……アルバート。本当に“たまに”って思ってる?(不器用な、けれど心のこもった慰めの言葉に救われる。困ったように笑う彼を見ていくらか調子が戻ってくれば、自嘲とも揚げ足取りとも聞こえる問いを騎士へと返すだろう。おのれが耳打ちで助けたそのどれもがサラだと、彼は知らない。もしかしたら彼の感覚では本当に“たまに”かもしれないが、張本人にとってその幾つかは重大なしくじりだった。王家やあるじへの、騎士の忠誠心は疑うべくもない。それでもさすがに変だ、半分だとおまえも思っているでしょうと、言外にそう尋ねる声にさて、彼はどう答えるか。あるいはいらえを聞くより早く、店に到着するのかもしれない。)一本裏に入ったところにこんなお店があるなんて、これまでちっとも気づかなかった。リ、……アンにも教えてあげましょう。髪留めを集めるのが好きだから。(うっかり片割れの名を呼びかけたのをさりげなく言い直しながら、陳列された繊細な細工をひとつずつ順に見て回って。やがて小ぶりの紫陽花を模った銀のショールピンを手に取れば、騎士にもよく見えるように掲げながら「これにする。」とはにかんだ。)……城下には、教会もあるでしょう。そこの紫陽花、すごくきれいなの。しとしと雨が降るなかで眺めるの、わたし、とっても好きで……今年は行きそびれてしまったけど、来年――もしまだ付き人をしていたら、一緒に行ってくれる?(その花と同じ名を持つひとへ、ずっと先の約束を乞う。それでいて彼の返答は待たずに、棚に視線を戻した。)あ……この髪留め、素敵だわ。アンへのおみやげにしようかしら……ねえ、アルバートは本当にいいの? 家族へのおみやげ、いらない?(ほのかに頬が赤く染まり、少しだけ早口になっている。声色や表情のぎこちなさは、城下を出て馬に跨るころまで消えずに残ったことだろう。)
* 2022/10/28 (Fri) 13:44 * No.79
(お助けしようとした末の行為だったとはいえ、王家の姫君の顔を摘み上げたなどと知れたら…即解雇かもしれない。大きな澄んだ瞳にじっと見据えられた後、ぷいっと目を逸らされるのに、これはご機嫌を損ねてしまったなと内心弱る。「本当に申し訳ありませんでした」と弱り切って謝るしかできない朴念仁だが、朴念仁なりに、自分のあるじはこれを口外することはない確信があった。それは自分が必要とされているからなんていう自負に基づくものではなく、ただ彼女が身分を理由に理不尽を振りかざす王族ではないからである。だから――そう、試すようなその問いに、『何故憶えていらっしゃらなかったのですか』『あなたが“はんぶんの姫”だという噂と、何か関係があるのですか』と、率直に尋ねたとしてもきっと、姫は自分をその一存で解雇したりはしないだろう。ただ、自分を遠ざけるかもしれない。それを嫌だと思うのは、命を狙われる心当たりのあるという彼女を護れなくなるからと、それだけの理由だろうか。真実なんてものがあるのならば、知りたい気がしたけれど、今はまだその時ではない、と判断した。)…ええ、“たまに”、でしょう?王族とはそんな僅かな“不出来”さえ許されないのならば、…とても生き辛いだろうと、思います(王族もひとりの人間ならば、失敗も間違いも狡さも持ち合わせて当然なのに。自分の知る彼女は、ごくごくふつうのおんなのこだ。明るくて、素直で、時々間違えて、花や馬やひとと話すことが好きだし、こんな風に買い物も好きで。自分などは触れただけで壊してしまいそうな繊細な細工を一つ一つ真剣に見て回るなかで、きっと大切なところに仕舞ってあった優しい風景の記憶と共に目の前に差し出された小さなショールピンに、何故か胸がきゅっと絞られた心地になる)……これは、私が買いましょう(細い指先に摘ままれた紫陽花のピンを、ひょいと奪い去った。侍女長へのお土産を選ぼうかというあるじを置いて、ひとり会計を済ませてしまう。渡したのはきっと、店を出てすぐだ)…来年も、再来年も、あなたが私を必要として下さる限りずっと、雨に濡れた紫陽花を見に行きましょう(――ああ、そうか。俺は、来年の約束さえ怖くて結べないこの方に、形あるなにかを差し上げたかったのだ。)
* 2022/10/28 (Fri) 18:54 * No.80
(“はんぶんの姫”の噂の真偽を追及してほしかったのだろうか。それとも、半分じゃありませんと慰めてほしかったのだろうか。自分でもわからない。でもどちらにせよ騎士の善良さ、キュクロスの民としての正しさに甘えきった問いかけだった。彼が確信しているとおり、先のやりとりもこの問答も口外するつもりはなかったし、どんな答えが返ろうと彼の処遇を変えるつもりもない。ただなんとなく聞いただけよ。真面目なひとが戸惑うようならそう言ってやろうと思っていたが、戸惑い言葉に詰まったのは、むしろこちらのほうだった。ひとりの人間として。“ごくごくふつうの”むすめとして。失敗ばかりしてしまうサラの、ありのままを認めるような。)っ、 ……僅かなんかじゃないのよ。(わたしのとき、ずっと不出来なの――そう言ってしまえたらいいのに。いっそ言ってしまおうか。一瞬、ほんとうに一瞬だけ迷いで碧い双眸がゆらぎ、けれど彼になにもかもすべて打ちあける勇気は持てなかった。妹の失敗が僅かに見えるほど強烈な姉の“上手さ”が、まぶしい。うらやましい。それから――すこし、  しい。サラ自身も気づかぬ心の底で、あたらしい感情が萌す。)……アルバート?(一緒に行ってくれる? と問うた言葉に返事がなかったから、一度は棚に逸らした視線をふたたび騎士の方へと向けた。と、そこへ彼の手が伸びてきて、ショールピンを攫ってしまう。「……えっ」と声をあげたときにはもう、支払いが終わっていた。戸惑いながら、ひとまず侍女長への髪留めを購入する。そうして、店を出たところで。)…アルバート、(なぜ買ってくれたの、と理由を尋ねようとして――差し出された銀の紫陽花と、望んだ以上に返る約束に、瞠る双眸がまたたいた。まるで黎明のように。しばらくなにも言えないまま、騎士の瞳を見つめている。悲しくないのに眉が下がるのは、胸がいっぱいで苦しいから。)……うん。来年も、再来年も……毎年、行きたいわ。――…ありがとう。大切にする。毎日磨くし、なくさないし、……忘れないわ。絶対に。(掌のなかできらめく紫陽花を嬉しそうにそっと見つめたあと、あらためてまなざし合わせ。そうして姉よりすこし不器用な、控えめな笑みを浮かべた。覚えられない妹が絶対に忘れないと誓う特別さは、伝わらないままでいい。伝えない。 その代わりに、)……ねえ、アルバート。 つけてくれる?(受け取ったショールピンをもういちど、彼に向けて差し出そう。その手で贈り、飾ってほしい。約束を結んでほしい、と。)
* 2022/10/29 (Sat) 10:59 * No.89
(人は皆、誰しもが役割を背負って産まれてくるのだと習った。商家の子ならば商売を覚え、農家の子ならば農業に勤しむ。貴族は民のために政治や軍事に携わり、王は国を治める。自分の才を信じて磨き、家に縛られぬ生き方をする者もいるが、それは少なくとも自分を始めとする貴族では一般的ではないし、まして彼女のように王族であれば、決して許されぬことだろう。生まれつき与えられるものが多い分、血という名の制約に縛られる。あるじが――そう、王族でもなく貴族でもなく、ただ“サラヴィリーナ”という名のひとりの女の子だったなら、どんな人生を歩んだのだろうか。小さな村に生まれて、裕福ではないけれど笑顔で溢れる両親に育まれながら、勉強はあまり好きじゃないけれど馬が好きで乗馬が得意な、ちょっとお転婆で花や甘い菓子が好きな女の子になって、人好きのする子だからきっと友人もたくさんいて、いつかは好いた男と恋をして結婚して子を産んで――そういう人生を送ったのかもしれない、なんて想像することがある。けれど、それはただの想像上のお伽噺で、決して現実にはならない。彼女はサラヴィリーナという名の一個人である前に、キュクロス王家の末の姫君だ。それは誰もに尊ばれ敬われる立場に違いないけれども、幸せであるかどうかはきっとその立場に立った者にしかわからない。ただ――来年、教会に紫陽花を見に行くなんて小さな約束を結んだだけで、全く高価なものじゃない、小さなショールピンを貰っただけで、こんなふうに、感動して言葉も出ないというように喜ぶなんて、まるであどけない子どものようで――)…はい、毎年、一緒に行きましょう。ショールピンは…王家の姫君が毎日磨くほど、価値の高いものじゃないですよ(照れたように苦笑して、真っ直ぐに見つめられなくなって俯く。高価な宝石だって、希少なドレスだって、どれだけだって手に入れられる彼女だからこそ、物の価値がお金では買えないことをよく知っている。こんなちっぽけなものをきっとずっと大切にしてくれるのだろう少女の健気さに、胸が詰まる。つけてほしい、と差し出されたそれを、僅か逡巡の後受け取り――女性に身に付けるものを贈っておいて、ぽんと手渡すだけなのが朴念仁たる所以なのだと母や妹に詰られそうだが――、男は慣れぬ手つきでピンを姫君のショールに飾る。小さなものを扱うのは苦手だ、まして姫君におつけするなど―ずっと緊張で息を止めていたせいで、息が苦しい。)…私も、この日のことを、忘れません(何度も曲がっていないか確認して、満足げに頷きながら、そう誓う声は男に似合わぬ柔らかさで。このお方が、どうか来年も再来年もその先も幸せでありますようにと、祈らずにはいられないような日だった。)
* 2022/11/3 (Thu) 10:22 * No.108
(父のことを愛している。母のことも、継母のことも。双ツ首を忌み嫌うこの国で、間引かれぬまま末姫として生かされている自分は幸運だし、この身にありあまる財と愛を皆から受けていると思う。流れる血を嘆くこともない。けれどもしも、王の子じゃなかったら。ひとりきりで生まれていたら。サラヴィリーナの人生が、サラだけの足で歩むものなら。最近、ときどき考える。考えて、すこし苦しくなる。――来年も再来年も行きましょう。毎年、一緒に行きましょう。こわごわ伸ばした手を迷わず引き寄せるような力強い声で、何度も約束してくれる。そのことがどれだけ胸を打つのか、彼はきっと知らないだろう。約束をとじこめた銀の花。謙遜する言葉に首を振る。)わたしにとっては価値が高いの。毎日磨きたくなるくらい。……もしかしてアルバート、照れてる? これくらい、慣れっこじゃないの?(端正な顔立ち、出自に肩書き、これだけ揃っていて女性の関心を惹かぬはずがない。軟派な男だとは思わないが、贈りものをして喜ばれるくらい茶飯事ではないのかと。不思議なひとだ。本当に。おぼつかない手つきでピンを扱う真剣な顔ばせを盗み見る。曲がっていないか確かめる様子がいかにも生真面目でおかしい。「そんなにきちっと見なくていいのよ。」大袈裟ねと笑うように言い、けれどその声は自分でもびっくりするほど優しく、甘かった。)…ありがとう。(ていねいに紡ぐ。私も忘れませんと誓って、幸福を祈ってくれるひと。そっと見上げまなざし重ねたあと、面映ゆそうにはにかんだ。)金木犀の香りはよくて、“ご令嬢の香水”はだめなのね。わたしが使っているトワレはどう? 苦手だったら控えるわ。(朝食で彼が言ったこと。それをふたたび持ち出したのは、城下での用は終えたから馬のところへ戻りましょうの意味。太陽が傾きはじめれば風もすこし冷たくなるけれど、約束が胸をあたためてくれるから寒いとは思わないだろう。ふたりで馬を走らせて、金木犀の花香る丘へ――騎士の隣で見る夕映えは、息をのむほどに赤かった。)

(血を分けた姉だけが気づいている。まるで豆粒を敷きつめたように几帳面な妹の日記に、すこしずつ空白が生まれていること。それから、その意味に。もらった言葉も、受けた親切も、なにもかも“ふたり”のものだ。そう信じてあらゆる記憶をこれまで律義に共有してきたのに、騎士が結んでくれた約束は、わざと書き残さなかった。はじめての日、誓ってくれた言葉も。ふとしたときに彼が笑った、些細な話の内容も。リーナに意地悪したいわけじゃない。でも、教えたくないと――“ふたり”の記憶にはしたくないと、願ってしまう自分がいた。自我なんて、)邪魔なだけなのに。(ふたりで一人を生きるのが、またすこし、むずかしくなってゆく。)
* 2022/11/5 (Sat) 09:44 * No.109