(幾つかの月無き夜に花びら数え、手繰り寄せるは新たな季節。)
(月に満ち欠けは幾許か巡り、木々は装いを変えた。季節の移ろいと共に公の場でも末の姫が騎士を連れている風景がすっかり馴染みとなった頃だろう。上からの命であるのだからと姉は律儀に公務へと彼を連れて行く。公務といっても夜会の類や近隣の施設への訪問の添え物というのが主であり、王族が来るのだと整えられ定められた道を歩くばかりなのだから大きな何かが起こるようなことはなかった。一方で妹の方はそんな公務の間にある王城の中でしか時を過ごさぬ日、そんな日の中で数回に一度表に出るのみであった。そんな二人の差は遠目にはわからないものであった筈だ。しかし傍で見ていれば、例えば妹の時は公の顔が抜け切っているだとか、御伽噺へ伸びようとする指を改めて歴史書に向けたりだとか、バルコニーから城下を覗きたくて手摺の方へ歩み出そうとしてしまったりだとか、そんな辺りに滲んでいた。されどそれらも、私的な時間である、例の“半分の姫”である、それだけで話が片付いたに違いない。そしてまた今日も妹が表に出ている。そんな末の姫に限られた私的な時間であった。)ふふっ。本当はね、お散歩がしたかったのよ。(「今日は図書室へ本を返しに行きたいの」とはその日の開口一番に。園庭を臨む回廊に響かせていた足音を不意に止めて振り返る。伽羅色のドレスの裾が舞った。ついで広がるヴェールに吹く風は冬が近いことを知らせている。遠き峰々は白く化粧をし始めている頃だろうか。やがてやってくる厳しい季節に向けて国境の砦は備蓄の仕上げに追われているのだろう。)御父様はすぐに心配するのよ、外に出てはいけないと、身体を壊すと。 でも本は返しに行かなくちゃいけないものね。(先を歩く末の姫が選んだその回廊が遠回りであることはこの場に慣れた騎士にはすぐにわかることだろう。そもそも蔵書も自分で返す必要などどこにもないのに自分で返すと譲らないものだから送り出す侍女たちも呆れ顔であった。年を召した侍女が仕切りに「アルシノエ様」と何度も呼んだのは、出来るだけ大人しくするように、姉から乖離した行動は取らぬようにという、釘を刺した行為であったが、月輪の眼差しにはどう映ったか。)
* 2022/10/22 (Sat) 09:21 * No.4
(紫雲の花が盛りを終え、吹き抜ける爽籟が秋を謳歌して唄う時節。それも日毎にしめやかな向寒の気配をうかがわせ始めた今日この頃、姫の傍に控える付き人の姿は有り触れた日常風景と化していた。公務に付き従う間は粛々と、姫も騎士も“らしさ”を保って貴人や民にその様をお目見えさせるものだから、当人も周囲も訝る要素は何一つない。城および城下町一帯を警護していた頃と比して、過ごし方に大きな変化が表れることもなかった。相も変わらず鍛錬を怠らず勉学に勤しみ、傍目から堅物と映ろう様もそのままに。例えば繰る書物の中に花に纏わるものが加えられたとか、時には御伽噺の類が混じるだとか、差異らしい差異といえばそれ位か。ただ姫の眸に無邪気な星の瞬きが見える間のみ、変化の乏しい騎士の顔も微かに、確かに柔らかくほどけていた。恐らく、対峙する暁の君のみぞ知る処。そんな折にふと「今日の“貴女様”は、どのような呼び名をご所望ですか?」などと問い掛けたのは、見頃を迎えたジャカランダの御前で得た機会だったか。それ以降も公の場では無難な呼称を幾つか用いてきたが、主の望む音があるのなら叶えるつもりで。)失礼を承知で申し上げるならば、そのような気はしておりました。(最短距離とは言い難い道程をゆきながら、静かないらえが傍より飛ぼう。所作は姫君らしく淑やかなれど、常よりも軽快な靴音は程近くでよくよく伝うもの。纏う色彩も相俟ってか、姫の足取りに合わせて沈香木の薫りまで漂うようだった。)王の御心配もご尤もです。今は季節の変わり目、お心とは裏腹にお身体の方に障りが表れることも侭ありましょう。ただ……口実であろうと本意であろうと、そぞろ歩きで我が君のお気が晴れるのであれば。嬉しいお顔が見られるのであれば、この口で異を唱えは致しません。(やんわりと諫言を送るのも付き人の義務だろうかとは思えど、男が毎回帰着する先はどちらかというと甘やかし寄り。今日とて本の一冊くらい私にお預け頂ければ、などと口を挟まなかったのは男なりに空気を読んだが故だった。近しい侍女の様子は今日に限らず目に入れど、何らかの進言を送るのは過ぎた真似と思われて常に控えている。お転婆を働いたのなら窘められるのは妥当としても、さて単なる外出でそこまで咎められることかと内心で首を傾ぎつつ。)
* 2022/10/22 (Sat) 18:14 * No.10
(落ちる花びらを数えては並べる夏の日々は実に平穏であった。秋になれば今度は色付いた葉を並べた。緑のものから順に並べるとまるで過ぎ去った日にちそのもののようであった。過ぎた日々の中に思い出すのは青紫の花びらが散り始めた頃のことである。望む呼び名を尋ねられて、落としたのは答えではなく瞬きばかりであっただろう。末の姫の顔には曖昧な笑みが浮かんでは消えた。「そのままでいいのよ」と幾らかの花びら舞い落ちた後に絞り出した応え。「アルシノエと呼んでくれたなら私はアルシノエで居られる筈ですから」と応えたのは紛れもなく無邪気な星を眸に抱えていた時であった。その問いが望みを叶えてくれるという柔らかな想いであってもそればかりは笑みが翳る羽目になった。“半分”はいつだって誰かを惑わせてしまう。ひとつであったのならこんな優しい申し出におかしな答えを返す羽目にきっとならなかったのだろうと。その日ばかりは、花を眺める時間を短く切り上げた。次に星が昇るのは数日後で、出逢った時の言葉通り、その日を一番に信じるのだろうから青紫の花びらの間の出来事は、表面では露のように滑り落ちて弾けている筈だ。幸い末の姫は切り替えるのには慣れていた。)……気付いていたの? でも何も言わないでついて来てくれていたのね。ありがとう。(振り返った先の月輪はそんな出来事があれ何度見上げても真っ直ぐだった。そして柔らかに降るのだ。その眸を見上げる度に未だ彼がそこにいるという事実に唇が、眦が、和らいだ。)――いつだって嬉しいわ。(されど時折過るのは姉のことで、それほ日増しに大きくなっていた。ふいと視線を外して園庭へと向ける。花の少ない秋であれ、寒さに強い花を植え、秋は秋らしく彩られた園庭は今日も美しかった。)秋の野や秋の山には行ったことはある? 図書室に向かうまでにお話して?(ゆらりゆらりとドレスの裾を翻す歩みはまたも緩慢なものであった。秋の風を伽羅色の狭間に広がるレースに誘い込み一人踊るように。お話が終わるまで図書室には真っ直ぐに向かわぬという意志が滲む。諫言だってやわらかいのだからすっかり甘えた調子で。侍女に言われようと結局大人しくは出来ていない。)
* 2022/10/22 (Sat) 20:34 * No.13
(「仰せのままに、アルシノエ様」――揺れる紫雲の傍に佇み、恭しき礼と共に送れた返答はそれだけ。それ以外の何をも返せやしなかった。長い睫の羽ばたきは花弁の散り際、笑みの明滅は明けの明星が消える兆し。徒に触れては壊しかねない、色濃き愁いに染め返しかねない。そんな、由の知れぬ儚さを感じたものだから。かの花を好むはずの姫君が、その日の憩いを早々に切り上げたことにも疑問の声はおろか言及すらしなかった。ひとたび陽が落ちて昇れば、細やかな事象はさながら一夜の夢の如く。騎士とて出来事を忘れはしないまでも、いつまでも憂わず平常通りに接する程度の分別はあった。)主の真意に欠片も気付けぬようでは、付き人として侍る者の名が廃ります。知ればこそ尚のこと、お心の赴く先へお伴するのも私の役目でございますので。(如何に注意深く気遣っていたとて、決して全貌が見えぬ事実は一先ず置いておく。これを己の落ち度として内省するより、“半分の姫”だからと呑み込む方がこの任においては適切。とは、季節を経るうち得た気付きの一つでもあった。抑も他ならぬ姫が昨日は昨日、今日は今日と新たな心向きを信ずるよう、出会いの折から勧告よろしく言い置いて下さったのだから尚更に。今もその花唇が嬉しいと口付くのであれば、真実として受け取るは当然の理。柔らかくほどけた面輪に見上げられ、望まれるのは我が侭とすら称せぬ可愛らしい甘えであった。これを退けるには余程強い心が必要であると、真面目な面持ちと心持ちで物思うのは幾度目か。ふむ、と顎をなぞりながら嘗てのいつかを紐解いて辿る。)馬を慣れさせるための遠乗りで、城下町から離れた山野へ赴くことなら。景色を楽しむ目的ではございませんでしたが、それでも秋が深まるにつれ色彩が移ろう様は鮮やかであったと記憶しています。花や樹木の名を知らぬ者の目にも、……ああ。川沿いに咲いていたのは確か、あの花と同じものであったかと。(丁度視線を留めた先にて彩りを添えるは、園庭の一角に植え込まれたナスタチウム。かの御方の言葉を借りるならば秋との別れを惜しむかのよう、秋色の花弁を有終の美とばかりに綻ばせていた。小さな歩幅に合わせた歩調はいつもの如く、公の時間より更に緩やかに廊を往く。)
* 2022/10/22 (Sat) 23:19 * No.17
(ささやかな不協和音は時折浮かべど、陽が落ちる度に夜露と共に消えて明くる朝には何も無い。“半分の姫”とはそういうものなのだ。その方が誰にとっても都合が良い。それは末の姫にとっても。王城での慎ましやかな生活の平穏は嘘で守られていた。平穏は春から夏へ、夏から秋へ。)そうね。それが貴方のお役目だもの。常に責務を粛々と遂行する姿を好ましく思うわ。(姉と共に公務を全うする様も恐らく姉と同じく手本のように御行儀が良いものなのだろう。伝え聞く話と目にしている姿から想像することしか出来ぬ身の上だがその姿が目に浮かぶようであった。そう思えば小さな世界を気侭に歩くのに付き従ってもらうのも、真意を汲んでもらうのも、この末の姫にとっても過分な付き人である。はたと思い出したように片方の手に持っていた本を抱え直した。いつまでも遊びに付き合わせてはいけないと内に住まわせたアルシノエが囁く。)馬上からはより木々が近く見えるのでしょう? 貴方から教えて頂いたわ。それから標高は上がると季節が進むのでしょう? 本で読んだわ。 ――とてもとても美しいのでしょうね。(束の間の理性はサァと容易く押し流された。知らぬ世界の話はいつだって眩い。途端に緩慢だった足取りがピタと止まって、ドレスの裾はひととき落ち着いた。城壁で区切られたのとは異なる広い世界ではどこまでもどこまでも木々が続いているのだろう。様々な赤と黄が織りなす様は遠くから眺めるだけでも美しい。近くから眺めればまた別の美しさがそこにはあるのだろう。そして視線を追いかけると眼差しがナスタチウムに至る。鮮やかな秋色を澄んだ空へ向けて広げていた。)あの花が、(空を見上げ、木々を通り、花を眺めて、眸が何度か往復する。知らぬ世界を頭の中で描いてみた。きっと川沿いに咲くという花はお行儀良く並んだ人の手が入った花とは少し趣は違うのだろう。それでも季節を庭に描く庭師の想いと、それを教えてくれた月輪の眼差しに、胸を躍らせた。)同じ季節がきちんと流れているのね。貴方は当たり前のことだと思うかもしれないけれど知ること出来て私は嬉しいわ。(手にしていた本を引き寄せて胸に抱える。ふふっと弾む吐息を零すと、同じ速度でドレスの裾とヴェールが揺れた。)
* 2022/10/23 (Sun) 11:58 * No.25
恐れ入ります。誰彼なく平等に礼節を示される貴女様のお姿を、幸いにも傍らで常々拝見している身。微力ではございますが、付き人として相応しい振る舞いをと心掛けております。(無知の罪を知る由もない男は、潔白な浅慮さで主を称える。静かに凪いだ声で本心を述べては、共に務めを果たしてきたと信ずる相手へ辞儀を送る。自らが目にしてきた世界、即ち城外の出来事を語る機会はこれまでにも度々あった。園庭やバルコニーにて、いずれも公務から離れた御身が気兼ねなく憩える時間に。主に姫その人から乞われ、ごく控えめな願いを叶える形で。公務のさなかには静寂を保つ唇も、星斗の瞬きが見えている間は他愛なき話の提供に惜しみなく動いた。)その通りです。私には例年通りの風景でしたが、――お仕えし始めてより少々、興味を抱くようにはなりました。貴女様が実際に外の秋景を映したらば、如何様なご感想を抱かれるのだろうかと。(何気なく話した事柄も逐一丁寧に留め置き、みずから深められたと思しき知識と重ね合わせ、大切に愛おしんでは思いを馳せる。その豊かな感受性と胸懐の深さを思えば、記憶の混濁は姫君自身にとっても正しく不可抗力なのであろうと思われた。これが禁忌の名残だとすれば、心身共に美しき人へ難儀な仕打ちを行うものであるとも。小さな幅の歩みが止まれば、倣うように騎士の靴音もまた静止する。曙の眼差しが蝶のごとく舞い飛び向かうところを確認し、首肯を一度。)城の外も内も、移ろう四季は平等です。当たり前と認識しておりましたが……貴女様のお心にも雪月花の色をお教えできるのかと思えば、幾分特別なもののようにも感ぜられますね。(秋晴れの蒼穹、緑の木々に金蓮花。秋の色をふんだんに盛り込んだ庭園の趣向は、鎖された空間に在って金秋の風情を存分に味わうべく凝らされたものだろうか。しなやかな腕に抱かれるままの書物を目にして、月輪を眇めれど先を急がせるには至らなかった。束の間の散策の中、未知の想像に煌めく星の眸を。騎士の話一つを喜び尊ぶ穢れなき心を、どうして咎められようか。)アルシノエ様、今回はどのような書籍をお借りに?(結果として能ったのは、ただ話題に上らせることのみだった。先より視認し続けていた情報を、さも今思い出したかの如く。)
* 2022/10/23 (Sun) 21:03 * No.29
(姉はよくやっているのだ。この末の姫は知っていた。幼い時から並んで物を学んでいたのは最初の内だけで気付けば内容が違っていた。道草するのは妹ばかりで姉は目的地へ速やかに着いていた。全てわかっていたことだ。いつも後を追うばかり。静謐に降る月の声に照らされて、末の姫が浮かべる笑みは少しばかり控えめに、そしてゆっくりと頷いた。それはきっと恥じらうようにも見えよう。そんな笑みも次ぐ言葉を受けて丸く開いたまなこに表情を上書きされる。驚いたような表情が数秒、それから口元が柔らかく緩んだ。それはねだって得た城外の出来事のお話に対する物では無かった。)――この壁の向こうで私のことを考えてくださった?(首を僅かに傾けて角度をつければ、そのかんばせを覗く形になる。細められた目がどこか嬉しそうに尋ねるも言葉を言い終わるより先に片方の指先を口元に寄せた。言葉の生まれた場所を隠すように。愉しげな笑い声をこぼして「ううん、いいのよ」と自身の言葉を打ち消すように返事は要らないのだと付け足す。)そのように考えて頂けるだけでまるで城の外に連れて行ってくれたようね。ありがとう。 ……冬の雪も、秋の月も、春の花も、私たちが等しく見ているもの、それが等しく見えているとは限らないわ。貴方がお話ししてくださるとね、雪も月も花も、また違う新しい色に見えて、それから新しい音が聞こえてくるの。(指先をそろと下ろして、抱えた本の天を指先で撫ぜた。想像は無限だ。されど想像する為の自分自身の知識は有限だ。だから末の姫は知りたかった。今までに周囲にいなかった人物の話を聞きたがったのだ。進むべき道を示すように落とされた月明かりにふわふわと何処ぞへと興味を飛ばしてゆきそうな意識の尻尾を捕まえる。アルシノエと呼ばれるのだから、アルシノエは地に足をつけねばならないのだ。)ああ。これはね。お隣の、(「お隣の国の紀行文よ」との言葉を遮ったのは回廊の向こうから歩み寄って来た図書室の新人司書の声であった。「ここにいらっしゃったのですね。昨夜頼まれた本を中央図書室よりお持ちいたしました。出来るだけ早くということでしたので。ほら、昨日夜会からお戻りになられてから……、夜会でお話しされた隣国の貴人の領地の歴史が知りたいと……、夜遅くだからとわざわざ御手紙を図書室にあてて……」と初めは職務を全うする喜びと司書の本分に魂を燃やす調子であったが、驚いた様子の末の姫にその勢いと調子が萎む。)……ありがとう。(確かに昨晩姉の帰りは遅かった。だから夜会の情報の共有もせず先に寝てしまっていたのだ。今朝は今朝で御機嫌に自室を飛び出してしまったものだからこれまた情報の共有が出来なかった。くだんの貴人をもてなす夜会に行くという大まかな事柄は知っていたがそこまでであった。なるほど、姉が珍しく紀行文を読んでいた訳だ。末の姫の事情に慣れていない年若い司書へと浮かぶのは申し訳ない気持ちばかりで、とりあえずの礼を言うのが精一杯であった。図書室のカウンターを挟んでくれたのなら、或いは今でなければもう少しだけ上手く姉が装えたであろうに。)
* 2022/10/24 (Mon) 01:58 * No.33
(薄く開いて閉じた唇は、是と非のいずれを紡ごうとしたのか。快き囀りと優しき音色を前に、形の整わない返しは整わぬまま溶けて消えた。)感謝を賜るようなことは何も。……存外に私も、似たような心地で居たのやも知れません。貴女様の見つけた新たな色を、届いた音を、そのお声でお聞かせ願えたならと。言葉になるものも、ならぬものも、貴女様が抱くそれならばきっと豊かな彩を纏うことでしょう。この目ばかりで映す世界より、余程鮮明なる変化に富むだろうと。そのように。(騎士の話ひとつに四季の恵みを感じ、未だ見ぬ外界に優しき思いを馳せる心。季節が移る毎に実感する彼女の麗質は、それこそ暁の光が如く。目映くも網膜を強く刺しはせず、ただ余韻の灯りが胸に残る。ひとときの感懐に留まらず残った輝きを、約束通り暫し宝石箱に仕舞い込んだのち明け渡す本音だった。そこから舞い戻る蝶に似て王女の品を保つ声音に、恐らくは心ならずも割り込む一石は正しく偶然。あどけなささえ残る司書の声は、どうやら凪いでいた水面に波紋を生んだ模様。払暁の眸が何処か心許なげに揺らぎ、礼を紡ぐ声も立つべき地を見失ったよう。罪なき者同士の惑いを有りの侭映した騎士は、思案する迄もなく口を開いていた。)昨夕にお話を弾ませた御相手、というと……隣国の王家の傍系にあたるラ・トレモイユ公でしたか。その主権は存外広域に及び、自然地理的に再構築された経緯もあるらしい。史書の蔵書数もさぞ膨大に違いない、と。可能な限り早くと求めはしたものの、それらを一晩で選り分け用意することは難しかろうと……丁度今し方、姫から伺っていた所です。(表情はそよとも揺れず、声とてトーンの一つも変容せぬままの淡々とした語り。内容の大半は手持ちの知識に基づく真実、終わりの二言三言は急拵えの虚言。それらが恰も一続きの事実であるかのよう、躊躇も淀みもなく滔々と流れていた。件の夜会においても影となり主に付き従っていたことは、少なくともこの場においては功を奏したか。)しかしながら仕事の速さで姫君を面食らわせるとは、随分と有望な司書が居るようで。実に頼もしい限りですね、アルシノエ様。(口吻は平静を保ったままにピリオドを打つ。終いには主に対して話を合わせよと示唆するが如き目配せまで送るのだから、物堅い騎士が聞いて呆れる。すいと視線を向けた先の曙は今、どんな空模様を宿しているだろうか。気遣わしげな色を乗せぬよう意識した月輪は、不可視のヴェールの下でひとりを案じていた。)
* 2022/10/24 (Mon) 22:27 * No.44
(落葉の濡れた香りを孕む風に攫われたのは月の花弁が落とさんとした言の葉。否、元より何もなかったのかもしれない。唇の動いた跡だけを見て末の姫は頷いた。それで良いのだ。日々虚を重ねる”半分の姫”の唯の戯れであれば。)貴方の世界に少しでも何か良き影響が与えられるのならば幸いだわ。(彩は多い方がいい。あの鈴蘭が瑞々しさを失う前に押し花とされ自室で小さな額を与えられたように、日々の彩を見つける度にその道は豊かになるはずだから。)……ええ。(微笑んで礼を告げていれば簡単な話だったのに油断していた身には難しかった。真っ直ぐな眼差しを意図せず傷付けてしまったという動揺が喉の奥で言葉を詰まらせる。しかし向けられた助けに呼吸を思い出した。司書の目はすっかり騎士の方へ向けられて、縫い止める曇りのないまなこから逃れられた身が今度は羽ばたきを思い出す。)驚いてしまって申し訳ありません。とても優秀であられるのね。貴方を司書室を誇りに思います。(ヴェールの下の表情が大きく崩れることはなかったであろう。腕の中へと落としていた眼差しを持ち上げれば、月の騎士の言葉に同調するようにその眼差しを見上げて頷き、司書の方へと向けた。片方の手を本から離し、胸へと当てる。未来ある司書は王城の宝、有望な若者は国の誇り。目をそっと伏せ、目と手の仕草を持って今の形で出来る最上の礼とした。困惑した司書もその様子に言葉を納める。)ラ・トレモイユ公とお話しして興味が湧いてしまったの。せっかく御用意してくださったのだもの早く読みたいわ。ちょうど返しに行こうとしていたのだけれどお願いしていいかしら。学びの入り口にと薦めて頂いたこの本で予習も出来たからきっと捗ることでしょう。(ふんわりと柔らかく笑めば、そっと司書へ腕の中の本を差し出した。司書は曰く付きの”半分の姫”相手といえ王族に賞賛されて惑いも幾分か解消されたことだろう。司書の表情が和らいだのを見て本から手を離す。司書は図書室へと気分良く帰り、また末の姫は図書室に行く用事が無くなった。本を抱えた司書が去ると途端に辺りがしんとした静寂に満ちる。)……ありがとう。ごめんなさいね。夜会から帰った勢いのままにお願いしていたものだったから夢を見ている間に少し違う場所へその記憶をしまっていたみたい。貴方に言われて思い出したわ。(何が真実であって何が虚であるのか、昨夜とは異なる身体であるからわからない。眉尻を下げて微笑んで見せると図書室の方角へ背を向けた。)
* 2022/10/25 (Tue) 11:05 * No.49
(あらゆる面に於いて聡明な御方だとは、仕え始めて間もなくから察せられたこと。今も惑いからなる揺らぎを一瞬で立て直せるのが生来の機知か、王族として生まれ育ったが故の機転かは知れずとも。どこか誇らしげに去る背を見送れば、再び二人の空間に立ち返る。)いいえ、何も。(静謐の幕をやわらかく破る花の声に、先ずは否の返答を一つ。私は何も。貴女様は何も。いずれにも捉えられよう一言は張らずとも良く響いた。主の隣で同じく踵を返しながら、飾り立てることのない言辞を付してゆく。)お謝りになるようなことなど、一つとしてございません。――…我が君、(末の姫を姫たらしめる名、或いは王家の名を継ぐ姓。固有名詞をいずれも伴わない呼び名は、誰であっても良い。誰かでなくとも構わない。言外にそんな意を告げるかのようだった。廊のアーチ越しに広がる涼秋の高き天、金蓮花をはじめとする秋色の花々、他にこの場の遣り取りを窺う者は誰も居ない。)騎士の身で、少々差し出がましいことを申します。(細い睫を寸暇ばかり伏せての前置きは、非礼への赦しを前以て乞うような。そのくせ半ば赦されると信じているような、少しの厚顔さをも含み持っていた。)春の訪れを祝う祭り、集く人々が思い思いの形で携える鈴蘭。遠乗りで見た秋景、季節の移ろい……私がお話しした事柄は、他愛なき徒話が殆どであったかと思われます。貴女様がそれらを逐一どのように受け取ってくださったか、如何なる形でお心やお手元に残して頂いているか。この胸に綴じて、余す所なく憶えております。(斯様な場面で慰めや助言を如才なく送れる程、残念ながら気の利いた性質には生まれついていなかった。綴じた糸めいて辿る言々句々は、表明ほどには重からず。世間話ほどには軽からず。曇り空すら雅なる暁の微笑みに、何ら染み渡らずとも構わない。自然に晴れるまでの幕間にでも充てて頂ければ十二分だった。)今も今までも、我が君の所為で生じた問題など何一つない。貴女様が真に“半分”の存在であるならば、私の心も半分お貸ししましょう。取り零した事柄、深く仕舞い込みすぎた記憶……それらが必要となった時には、この身で宜しければお頼りくださいませ。世界に溢れる事象はきっと、その御手に納めるには多重すぎる。(水平に伸べた手は、滑らかな肌に触れる手前で止める。この細き腕は何の故か、一人で二人分の心を抱きしめているかのようだ。静かな視線を落としながら、詮無きことを物思った。)
* 2022/10/25 (Tue) 22:22 * No.53
(常と変わらぬ秋の日、花々が咲く園も人の行き交いが少ない奥の廊も何もかもが日常だった。今し方起こった”半分”同士の擦れ違いも日常の出来事なのだ。そうやって二人は息を潜めながら一人として生きてきた。宵闇の中でさえ月は眩くもなく確かに世界を照らす。主張せぬも確かな存在を示してくれる。周囲に響かせるでなくこの空間にだけ確りと落とされる言葉に、その言葉の続きを求めるように眼差しを向けた。彼が紡ぐのは今までとは少し異なる呼び名。誰にあてたのか、呼ばれた自身は何者であるのか、末の姫を惑わせる。)――……(赦すも赦さぬも惑う心では紡げないから言葉を待つことを応えとした。語られるのは重ねた記憶の幾つか。それはまごう事なく妹の方の記憶である。日々侍女に嗜められる外を知らぬ小鳥の方で、姉が聞けば笑ってくれても侍女が聞けばもう外出を許されないような姉との違いを表した出来事であった。勿論所作や表情の作り方は互いに似せてはいたけれど中身までは似せられなかった結果だ。付き纏う噂に甘えて近頃は偽ることも少なくなっていたから、気付かれてしまったのだろうかという恐れが胸の内に広がる。けれど思い描いたものよりももっともっと柔らかい言葉が降るものだから、笑みを浮かべようと上げた顔には弱った色が強く出てしまった。)……優しいひと、どうかその手はより尊き方へ残しておいて。うつくしい貴方の半分を貸して頂けるほど私は清らかではないの。人々を傷付けるこれは私の罪。双ツ子でこの世と繋がり、この世に降りるその時に母と私の”半分”が生きる道を奪った私の罪。だから……、御助力を頂けることは嬉しいけれど心までは借りられない。 ――……貴方が騎士であることを嬉しく思うわ。(持ち上げたちいさな手は伸べられた手に触れられなかった。彼が纏う清浄で曇りのない光を慈しむように、少し距離をあけてそこにある空気をそっと撫ぜる。御手にその動きで起こした風の名残だけを残した。一層に柔らかに微笑んでみせる。騎士として、側仕えとして、職務の中で助けてもらえるのは構わない。頼れる存在が在ることは心強い。されど表現のひとつといえその心を借りるわけにはいかなかった。)……心を貸して頂くわけにはいかないのだけれど助けがいらないと言っている訳ではないのよ? ありがとう。心強いわ。(触れられなかった手をそろりと引いて、自分の身の前で正しく重ねるといつもの調子で付け足した。それは先の言葉の中で自身の胸の中に宿った軋みを押し流すように誤魔化すように一層明るく。)
* 2022/10/26 (Wed) 11:30 * No.57
(我が君。その呼称自体は今日までにも度々用いていたが、今のような意を込めるは思えば初めてのことか。労り、介意、受容、或いは許容。葉が一枚有るか無きか程度の小さな含みを、よもや心付かれていようなどとは露ほども思わぬままに言葉を連ねた。その後はただ、ただ黙して聞いていた。光さえも心許なき迷い星の微笑みは、やはり触れ方を過てばほろりと崩れそうに弱く見える。艶やかに陽をはじく肌理の手指は、何処へ触れるともなく微風を秋気に交えるばかり。風の名残とも余韻ともつかぬ感覚ばかりが、男の無骨な手へ柔く触れて離れゆく。花唇が編む内容自体は、別段常軌を逸したものではなかった。双子は忌み子、双頭の竜と同じく天に地に災厄を招く。この国に生まれ落ちた子らが例外なく、当然の事柄として脳裡に刻み込まれてきた伝承にして常識だった。なれば美しい声の端々に引っ掛かりを覚えるのは何故か、そんな思惟を廻らせるより早く吐息が落ちる。音を伴わず、嘆息の深痛も乗せることなく、珈琲を飲み下した後にも似た薄さで。)生きる道を奪った、罪を犯した、……成る程。――実に見上げた自負をお持ちの御方だ。そのか細い御身で、如何なる大罪人を名乗られるおつもりなのか。40人の盗賊を機知で殺めた女奴隷の方が余程、悪しき役者然として様になっている程です。(優しきと称された騎士はしかし、無礼者と誹られても至極当然な弁を恬として述べていた。およそ立場に相応しくない物言いと、一聴して不釣り合いな程もの柔らかな声音を以て。さながら無垢な生娘を前に、仕方のない子だと肩を竦める兄か父の如くにも見えようか。持ち出した比較材料がとある童話、過日に姫の手が伸びかけた一冊の主要人物であるから尚更に。数拍ばかりの間を置いて、これまた場違いにふと淡く唇を弛める。非礼を自覚の上で一から了まで紡ぎ終え、同じ口で即座に詫びるのは却って白々しい。秋風が通る距離を強いて詰めることはせず、ただ指の動きのみでするりと空気を撫でた。優美な仕草への呼応のように、鏡のように。そのまま流れる如く舞い戻った掌は、サーコートに覆われた胸郭へ。)仰せのままに。この身に能う限り、刻の赦す限り、我が君の力となりましょう。(恭しく辞儀を返した。常と同じに然るべき態度で、然るべき応を。これはこれで充分白々しいなどとは聞こえぬ、よって知らぬ侭。姿勢を戻せばごく自然に捉えられる位置の双眸は、少なくとも己には今日も今日とて穢れなき暁の色として映る。)
* 2022/10/26 (Wed) 23:21 * No.66
(二人の間に色なき風が通る。それが初めて見た顔であったように感じられたのは自身の胸の内に巣食う終わり無き偽り故に。遠く遠く感じるのは二人の間にある末の姫という存在に関する大きな認識の違い故に。言葉を交わすこの瞬間も虚を重ね続けている。見上げた先でさながら千の月の夜のひとつのお話のように語られる童話の登場人物を挙げる言葉は不思議な程に柔らかだ。月の下に在るかの女奴隷との違いを挙げることは簡単であるけれど、真実を伝えたいわけでも真実が伝えられるわけでもない。ただ先と同じように柔らかな表情は変えないでいた。)――そうね。(語られる言葉を受け止めるしか出来ない。例えば煮えた油を注いだように、例えば研いだナイフを振り翳したように、意志を持って罪を犯すことが出来たならもっと様になったのだろう。末の姫はそのように振る舞える強さだって持っていなかった。現に今も何も言えないでいる。)ありがとう。とても……心強いわ。(もう一度同じ言葉を重ねて、より一層に深く唇に弧を描かせた。月は沈むのか、遠のいて行く優しき指先を視界の端で捉えながらヴェールを自分自身の手元を隠すように引き寄せた。表情は上手く繕えてもこの指先に感情が乗らぬとは限らないから些細な震えも強張りも起こす前に隠してしまいたかった。今は正しく末の姫で在りたい。長い瞬きをひとつ挟む。)お散歩も終いね。早く戻って用意して頂いた本を読みたいし、勤務時間外にも頑張らせてしまったようだからお礼も用意しないといけないわ。(口実だった本も先に手渡してしまった。この場に繋ぎ止める物はなく、また力を存分に奮ってくれた司書室の為にも茶菓子の差し入れを手配せねばなるまい。頭の中であれこれと先のことを幾つか浮かべて切り替えを図る。正しく模範的な距離と模範的な姿勢であればきっと上手くやれる。今までだってそうだった。)
* 2022/10/27 (Thu) 08:21 * No.69
(妙なる音を幾らでも鈴鳴らせそうな花唇が此度、ほそりと落とした応の声は散り遅れた紫雲の一片より儚い。ともすれば早くも触れ方を過ったかと、淡い思案が明確な危惧に染め変えられそうになる程。故国の勇壮な建国神話から転じた、中々に穏やかならぬ伝承。その出所か源泉とも云うべき王室、選りに選ってその直中にて授けられた双生の姫。さだめとは名の通り、当人の意に関係なく不可視の力によって取り決められたもの。アクシデントとすら呼べぬ細やかな出来事を経て、男は少なくとも二つを学んだ。末娘の罪と名付く鎖は、己が認識していたよりも深く重いらしいこと。学ばかりを深めてきた心積もりの石頭は、未だ末の姫に関する全貌に触れられて居やしないこと。細い指の仕草は不躾に見つめすぎぬよう留意しつつ、浮かべ慣れた風情の笑みには一度頷きを重ねるのみ。長い睫が弱った蝶の翅めくことは視覚が捉えれど、その羽ばたきで何を押し潰そうとしているのかは察せられない。ゆえにただ、言葉として頂いた光栄を信じる外なくて。)御意のままに。アルシノエ様からお褒めの言葉を頂いて、あの司書も心を弾ませていたように見えました。更にお礼を賜ればさぞ喜ぶことでしょう、貴女様がお選びになったなら尚更に。(姫君の見本か手本といった様子を月輪に映し、緩やかな瞬きひとつを挟んで前を向く。麗容を見つめるのではなく元来た路の先、歩む方向を純然と見据えて。自分もまた見本か手本の返しを保てていたか迄は知らぬまま、品にしても人にしても姫の見る目は確かだと、傍仕えとしての本音を渡した。それから幾度か靴音が響く間、僅かでも会話の途切れる機宜があったのならばその時に。)これは騎士の独り言ですが、……傍に私ばかりが控える時。安寧をお求めになった時間くらいは、ゆっくりお進み頂けると僥倖です。何をお話しなさろうと、なさらずとも……貴女様の無理なき歩みで。(愁いも不満も何の色も乗せぬ、梢の秋に見合ったごく静かな声が流れた。リューヌ・シリル・ド・シャティヨンは取り繕わねばならない社交の相手でもなし、十分な説明もなく着任した一介の付き人である。差し出すのではなく正しく独り言と捉えられて良い、風に乗せるが如き軽さだった。望まぬならば心の半分を貸しはせずとも、所詮は多くを抱えやしない貴族の小倅のこと。もとより胸懐はいつとて空いているのだと、誰にともなく示唆するのみの音だった。)
* 2022/10/28 (Fri) 01:08 * No.75
(何故未だこの騎士には何も知らされていないのだろう――、二人の見ている風景はあまりにも違う。月輪の眼差しが捉える末の姫という存在を妹であるこの身と等号で結ぶことすら困難だ。共に見た花の数だけが姉妹の違いを証明出来るが、彼が共に見た花という記憶は妹のものだけでなく姉のものも同じ宝石箱に入っているのかもしれない。されどこれら全て考えてもしようのない事。)何がいいかしらね。甘いものが苦手だと困るから……(どうしようかしら。すぐに用意させることの出来る茶菓子の幾つかを思い浮かべて、添える茶葉の缶を思い浮かべて、出来得る限り末の姫の楽しい贈り物を考えた。足取りもきっと軽くなるはず、気持ちもきっと明るくなるはず。されど月の光に、かんばせを彩る薄い一片は容易くその色を変える。身の内に宿る花は感情のそれで在るから季節なんて気にも留めず幾らでも咲き幾らでも散る。今はらりと一片が落ちたのは何によってか。自分自身でも分かりやしなかった。ただ落ちた花びらが芽吹いたその場所を隠すのは良いことなのだと思えた。傾け過ぎる感情は均衡を壊す。毎夜毎夜、今日は今日のこと、明日には忘れてしまおうと天秤の皿を空にするのにあっという間に皿に感情を乗せ過ぎてしまうのだから仕方がない。心をこの手に借りてしまってはいよいよ均衡が崩れると気付いていた。だから触れられぬと言うのに、また月桂が優しく降る。見上げた空にいつも在るように。独り言だなんて前置きでも聞いていない振りは出来なくて暁の眼差しが持ち上がった。)これからも騎士で在って、(悲しいも嬉しいも分からぬ朝露が眦から落ちぬよう、感情を傾けまいとする声は掠れる程に細い。それだけ言い残して彼方を向いた。それは表面通り今まで通りという意味ではあれど、その騎士という枠以上に甘えが過ぎるこの身を自ら牽制する意でも、同時にそれでもその場所には居て欲しいという意でもあった。どれが正しい願いか。どれも正しくない願いか。判別はつけないことにして、優しき安寧を安寧とすべく今はこのままに。明日の月の騎士が見る末の姫という存在はこの感情を持ってなどいない。明後日も明明後日もきっと。)
* 2022/10/28 (Fri) 12:43 * No.78
ええ、……以前に振る舞われたスパイスの焼き菓子などは、甘味を好まれぬようであれば良いやも知れませんね。あれに用いられたのは確か、塩の花と呼ばれるソルトでしたか。(何気なしに振り返り持ち出す一品は着任の翌日、ガゼボで麗らかな陽のひとときを過ごした後の小さな茶会。何が好きかと問われて、実質姫に任せる形で賜った茶請けの一つ。あの日。あの時に。一日ごとに清算すべき筈の過去の話をまたも、此度は無意識に持ち出して。姫君の意に背いただろうかと細やかな懸念が鎌首を擡げもしながら、花唇への相槌として雑談に溶かそうとした。近い未来の話は恰も、心を上向かせる手段のように感ぜられる。そのさなかに独り言を落とすなど、幾らも野暮であったことだろう。聞かぬ振りで捨て置いても良いものを、そうしない――基出来ないと知れる優しさの眼差しは、刹那に騎士のそれとかち合った。暁の空が雨の糸に烟ることはなく、面輪が園庭の方を向くと同時にさらりと、黒髪がヴェール越しの肩から滑り落ちるのが見えた。)我が君の御心のままに。(家同士の集いで他者の心を類推する機会こそあれ、女心の機微には疎かった。例えば言葉の裏を読む、繊細な表情から多くを読み取るなど当然の如く不得手で。今とて消えかけた帚星めく声を受け、額面通り以外に賜る方法を知り得ない。そんな事実は今更嘆くでもなく確りと自覚しながら、故にこそ。)剣となり盾となり、誠心誠意お仕え致しましょう。厭われ解任されでもしない限り今後も、私は此処に。貴女様の騎士として在り続けます。(せめて隻句が明言するものは余さず受け取り、己の意として差し出そうとした。他方を向いた花顔からは視認されずとも、言葉の上のみならず迷いなき礼を捧げて。雅に着飾った秋容の静謐を壊さぬ程度、迷いなき声はごく静かに柔らかく。憶えていろとは言わない、幾たびにも渡り伝えることも何ら苦ではない。初志を改めて表明するかのようで、新たな志を掲げ直すようにも響こうか。常に“今日の”言葉を信ずるようにと、大切な決まり事めいて求めてきた姫のこと。黎明の日が沈み、月が昇り。清算された天秤にその都度心を載せ直すことも、恐らく全くの誤りではあるまい。決して御身へ触れず、されど離れず。騎士は騎士として、花の傍に侍り続けていた。)
* 2022/10/29 (Sat) 01:18 * No.86
(秋の色を装う木の葉たちが季節を運ぶ風を見送る。風が行く度に次に舞い落ちるのは自分だなどと思う者もあるのだろう。季節を映す庭に広がる木々の奏でるささやかな音の裏に願いは隠した。それはヴェールの裏にて日々移ろう表情と等しく。表面に示した言葉通りに再度騎士と末の姫との立ち位置を確認すれば、覆い隠された向こうで漣めいた心もヴェールの内側を滑って地に落ちていく。見ぬ振りをして歩いていこう。日々志を掲げ、天秤の皿を空にする。今日は今日の姫だと自称するのであれば、尚の事過日を持ち出すべきでない。彼が仕えるのは末の姫という存在。この身は末の姫を作る一部でしかない。彼が信じるものを守るべきなのだ。それが彼への誠意。だのに浮かぶ過去のお話。瞬きがひとつ落ちた。妹の方とのひとときか、或いは姉の方とのひとときか、判別する術はなくも幸い同じ菓子を挟んだ記憶は持っていた。忘れたことにするのは容易いが、もしも同じ時を思い出していたのならばそれはきっと嬉しいこと。今は遠い日、鈴蘭の花が飾る記憶。鈴蘭は眠らせて、今はそんなことをかけらも表には出さず。)――ええ。普通ならば砂糖菓子を飾るところをきらきらとした塩の結晶を飾るの。 貴方は塩田を見たことがある?(山に囲まれたこの地では海からの塩は貴重であった。それでも先人たちが努力して築いてきた平穏と街道のお陰で比較的手に入り易いものとなっている。道の果て、此度は海を臨む場所に広がる塩田に夢を広げた。話で聞くにも絵で見るにも容易いが、その場所は遠い。そして見上げた空は眩しい。)私達も戻ったらお茶にしましょう。今日はそこで終い。私も明日に備えて本を読まないとならないし、貴方も昨晩は遅かったからお疲れでしょう。(何も珍しいことではなかっただろう。これまでも夜会の類の翌日を休養日にすることはあった。日が高い内に彼を返すこととて初めてのことではない。明日も姉と彼が健やかに末の姫と月の騎士でいられることを願って。穏やかな秋の一日は過ぎて行く。今日もなんでもない一日として。)
* 2022/10/29 (Sat) 10:43 * No.88
恐らくは無いと、……いえ。海を臨む町村まで赴く機会自体はございましたので、如何でしょうか。それと知らずに遠く見過ごしていた可能性も無きにしも非ずかと。(持ち出した春先のティータイムは、如何に近くとも今日より過去の話題。長い睫が上下すれど、叱責やご指摘は飛ばなかったから自省は隅へ寄せた。代わりに記憶を手繰り、探りながら言葉を織る。姫に問われて嘗てのいつかを回想する、それは任に就いて以降の日々に有り触れた光景だった。此度に乞われた形となる回顧は、男が現在より更に若輩の頃の記憶。経験の少なさから、当然の如く初任と名付く所用に掛かり切りで。周辺の景色を楽しみ心に残す風雅など、当然の如く持ち合わせていなかった。それを今になって少々惜しく思うのは偏に、想像力豊かな主へ渡せる材料がない事実から。)貴女様は、紐解いた物語や絵画で触れたことがおありですか?(末姫の記憶は細い指の隙間から零れ落ちる砂ではなく、大切に仕舞い込まれる宝石だという。ゆえに数多ある宝石の一つとして塩田の水色もあるのならと、整った横顔に問い掛けて雑話の緒を繋いだ。職務から離れた刻に限り、ヴェールのあわいから垣間見える無邪気は年相応の可憐さを灯す。例えば近しい夢に思いを馳せるような言葉選び一つ、例えば高い秋空を見上げる暁の辰星一対。自覚の有無は別として、別けても外の世界をひとつ知る瞬間は楽しげな星が煌めいていた。周辺の視察に赴く際はおくびにも出さない、未知に触れて少女めく花の色。務めと休息の時間、それぞれの在り方を切り替えていると言うよりは、まるで――不敬な思惟は形を成す前に打ち消し、迷いなく危なげない礼を取る。)承知仕りました。そちらの書籍が姫の明日に貢献できるとあれば、先の司書も一層誉れを感じることでしょう。それまでは今暫くお伴を致します。(配慮が滲む談話の収め方に、異を唱えるなど滅相もない。ほんの暫時に過ぎった事件未満の出来事は疾うに風に攫われ、問題は一つたりとも残っていない。否、詮議すべき事象など初めから存在しなかった。少なくとも今、この場に於いては。何も知らぬげに優しげな秋陽とて、いずれ騎士と姫を下目に何の変哲もなく暮れてゆく。籠の内に在って全天は仰げずとも美しい空、その輝きに免じて心の視界を覆ってしまう。秘めごとは秘めるまま、穏やかな日常は穏やかなままに、昨日とよく似た今日を綴じるばかりの一日だった。)
* 2022/11/2 (Wed) 22:18 * No.105