(ゆっくりと腐ってゆく日々)
(気温や湿度が過ごしやすいに越した事はないけれど。三番目の王太子が何年目かの誕生日を迎えるからと開かれている夜会など、心底どうでもよかった。しかし、このように他人と接する機会は、片割れではなく自分の出番だ。あの子を表に出したらどんなトラブルが――と思い悩むくらいならば、愛想と毒を振りまいて、どうでもいい言葉を連ねている方がずっと楽だ。付き人となった騎士との交流は、もうひとりの“マルグリット”に完全に任せていた。素敵なお方、という“マルグリット”の評価は、初対面のあの日から変わっていない。今日はこんなお話をした、こんな事をしたという話を聞き流して、自分はこれまでどおり社交を担って、片割れの体調が悪い時には騎士とも対面するだけだ。片割れの楽しそうな笑顔ばかりの時間とは、随分違ったものになっただろうけれど。普段、ふたりで過ごす部屋では決して他では見せぬ怠惰さを全開にして過ごしている。――それも、今は封印しなければならない。血縁上には異母兄に当たる、しかし言葉を交わした事もない人間の生誕記念など、心底どうでもいい。異母兄も自分に祝われても嬉しくなどないどころか、お前は誰だと言いたいだろう。貴族の子女たちとのくだらない会話を途中で――文字通り、ばっさりと途中で切り上げた。)そうね、わたくしも隣国の経済の低迷は危惧して――……失礼するわ。あなたがたとのつまらない話に合わせるのにも飽きました。ご機嫌よう。精々このつまらないパーティで人脈を広げるといいわ。(まったく飾らずに思う事をそのまま言葉にして、踵を返す。途中、給仕から飲み物の入ったグラスを受け取って、人の少ない方へ、少ない方へと。ようやく壁際に辿り着けば、そこに置かれた椅子に倒れ込むように座った。そうしてしまえばもはや手にしたグラスも邪魔で、「これ」と給仕を呼んで、まったく口をつけていないグラスを押しつけた。末姫の機嫌がころころと変わる事は、己の顔や名前よりも有名な事だ。)
(末の姫君付きの騎士となってから幾許か。“半分”──否、それ以上に魂を別たれたのだと噂される姫君とは連日言葉を交わし、相棒の黒竜との触れ合いを挟みながら、順調に交流を重ねている。はじめの頃と比べれば随分と打ち解けたように思えるけれど、時折くだんの“半分”と称される一面と対峙すれば、相棒と一緒に不思議そうに首を傾いだものだ。天にかがやく月と太陽のように別物のごとく態度を豹変させる末の姫君は、今宵はどうやら“月”の側であるらしいと、夜会へ赴く馬車のなかの様子で既に察していた。王家の血筋に通ずる者の生誕を祝する夜会ともなれば、さすがの竜騎士といえども相棒と共を預かることは難しい。ゆえに付き人としてひとり姫君の傍にあるなかで不意に会場に撒かれた毒をすくいあげたなら、人混みを避けるように消えてゆく姫君の背中を一瞥したのちに、ざわめく場を鎮めるように男はたおやかに腰を折った。)……失礼いたしました。姫君は連日の執務でお疲れでして、少々気が立っておられるのです。非礼のお詫びというほどのものではございませんが、のちほどみなさまの元にシャンパーニュを届けさせましょう。セラピアで酒造されたなかでも、今節もっとも出来のよいロゼです。味の保証は、このナイトブレイドがいたします。(キュクロスで唯一の黒竜を飼い馴らす一族として、ナイトブレイド伯爵家の名は相応に知名な方である。男がただの一介の付き人ではないと判明した瞬間、俄かに貴族たちが納得したようすで頷くのを見遣ったならば、一礼をしたのちにその場を離れよう。近くのボーイを呼び止めたなら「あちらの方々にロゼ・シャンパーニュを。ボトルはメートル・ドテルに預けてあるから、頼んだよ」と言葉を掛け、ようやく壁の花と化した姫君の元へと赴くのである。)一息つけたかな、姫君。……ところで、キミはいつもああしてひとから距離を取っているのかい?(歩けば重い音を立てる半長靴の踵を綺麗に揃えて姫君の傍の壁へと佇んでは、椅子に腰かけているそのひとへと隻眼を向ける。斯様な夜会の場であってもこれが黒竜を扱う竜騎士の正装なれば、男の装いは重く垂れた前髪も併せて普段となにひとつ変わらぬものにて。穏やかに凪いだ言葉を紡ぎながら、男の紅い星は煌びやかな不夜の会場へとそそがれた。)これはお説教ではなく、キミよりも長く生きている者からのお節介として受け止めてほしいのだけれど。あまりあのような態度ばかり取っていると、キミの心に寄り添おうとしてくれている者まで離れていってしまうよ。そうまでして、キミは一体どこへ向かうつもりなの。(それは時折垣間見える苛烈な姫君へと、ずぅと懐いていたひとつの疑問であった。いつかも忠告したように、紡ぐ言葉にはいっとう気を付けるべきである。それが他人を傷つける毒を孕む音であればなおさらに。一度壊れてしまった関係を修復するのは難しいからこそ、年長者ぶって言葉をかけることをやめられなかった。今この身は、姫君付きの騎士であるゆえに。)
(だから、自分たちが双子であると気づいてしまうかもしれない者を増やすべきではないと主張したのだ。純粋無垢、という言葉を体現したような“もうひとり”は、騎士と黒竜との交流をたいそう楽しんでいるようで、しかし社交の役目は自分が担っているから、城を出る時には彼を伴う役目もこちらのものとなる。――自分が片割れのように、いかにも無垢ぶって優しく微笑み、人を思いやる言葉だけを吐く演技をできたらよかった、いや、それでは本末転倒だ。あの子を人前に出せないから、自分が社交の役目を担っていて――……背後から己のフォローをする騎士の声が聞こえてくれば、そっと溜息を零した。)ナイトブレイド伯爵家の騎士を付き人にしているなんて、きっと今頃、貴族の子女たちは貴方を称えながら、わたくしの悪口で楽しんでいるのでしょうね。「どんな卑怯な手を使ってあの方を手に入れたのかしら」だとか。(こちらが言葉にするまでもなく、距離は遠いけれど若い女性たちの声が聞こえてくるようだった。きっと王族の力で無理やりあの方を付き人にしているんだわ、だとか、今頃言われているであろう事はいくらでも思い浮かんだ。)――好きにしてくれていいのよ。わたくしの近くにいるよりも、貴方に黄色い声ではしゃぐような女性たちといたほうが有益だと思うわ。(こうして夜会の中心から離れてしまって遠目に眺めていると、不思議と、嫌悪感や苛つきが少しだけ鎮まる。中身のない上辺だけの会話の詳細が聞こえてこないからだろうか、そこへ己も参加せずに済むからだろうか。椅子に座ったまま、己へ問いかけた騎士の方へ、視線だけを向けた。)わたくしに寄り添おうとしている者なんていないわ。――仮にいたとしても、わたくしはそれを望んでいない。それから――……そうね。わたくしはきっと地獄に落ちるのでしょうね。結構よ。今から楽しみだわ。――生きてやるの。生きて、生きて、生きて、そして死んだ後に地獄の責め苦が待っているなら、むしろ楽しみ。あの、…………(淡々と紡いでいた言葉が、不自然に途切れる。――あの子はきっと、長生きはできないから。あの子の分まで生きるの。だからあの子には、優しくしてあげて。そう言えたらよかったのに。なにせ、あのお花畑末姫は、辺境の伯爵子息への恋に破れて傷心中だ。)……、……わたくしの評判や噂は知っているわね?(仕切り直すように、今度はこちらから問い掛ける。それが指しているのは、もちろん、『はんぶん』だとか、『双子』、あるいは『三つ子』という噂だ。)
また卑屈になって。せっかく貴族たちから離れたというのに、そんなに気を立ててばかりいると疲れてしまうよ。(隙あらば滑り落ちる自虐のような悪態を耳にすれば、微かに苦笑して肩を竦めてみせた。貴族同士の紛紜を知らぬ訳ではないけれど、そこから逃げるようにこうして壁の花へと落ち着いたのだろうに。ふたたび黒沼へと身を浸すような口吻へはやんわりとかぶりを振って、小さな吐息をひとつ落とした。)あいにくと、私には婚姻が決まっている者がいてね。無用な期待を持たせてしまうのは、貴族のお嬢さんたちにも無礼というものさ。(婚姻は未だに決まってはいないそうだけれども、彼女も成年までには恐らく政略結婚が言い渡されるであろう身だ。貴族が背負う宿命は解っているだろうと、向けられた眼差しを受け止めるように一瞥しては、隻眼はふたたび社交の場へと向けられる。「それに、今はキミの付き人だからね」とおまけのように冗談めかして理由をつけたしては、薄らと口許に微笑みを湛えた。)……生きる、か。(中途半端に途切れた音が気にならないかと問われれば否であるけれど。それ以上に、男では持ち得ぬ苛烈な炎の如き言葉を耳にして、気付いた時には反芻するように音をなぞっていた。地獄へ落ちることとなっても生きたいと願う理由とは、一体どんなものがあるのだろう。己ではその答えには永劫辿り着けないのだろうと、煌びやかな不夜の城の外を支配しているだろう夜を想いながら、ぽつりと言葉を落としてゆく。)どうしてキミがそこまで生に執着するかは解らないけれど。先刻キミは寄り添う者など望んでいないといったが、真に生きたいと願うのならば敵を作るような物言いは避けるべきだ。運命を定めるのは国民だと思っているのなら、なおのことね。(貴族とて国に生きる民のひとり。社交の場で斯様に心のままに毒を吐き散らかせば、周囲に人は寄り付かなくなるのは必然。心を寄せて味方になってくれるかもしれぬ者までもをその毒牙に掛けてしまえば次第に孤立し、それこそ生きるのが難しくなるのではないだろうかと己の考えを口にする。彼女が運命を握るのは国民だと思っているのならばなおのこと、民には心を砕くべきであろう。内心懐く感情が如何であれ、それこそいつも男と接している時のように穏やかには繕えぬものかと、彼女に心を寄せる者のひとりとして言葉を掛けよう。)……知っているけれど、それがどうかした?(『半分』だなんて過去にも今にも男にとっては聞き慣れた音である。むしろ今になってこの話題が飛び出そうとは意外だとばかり、紅い隻眼をそちらへと向けては小首を傾げた。)
わたくしにとってはこれが普通なの。卑屈になった憶えもないわ、馬鹿に馬鹿と言っているだけよ。馬鹿と一緒にいたら馬鹿が感染ってしまうでしょう? だから逃げてきたまで。(肩にかかった髪を払って、ふん、と悪態をついてみせた。もとより誰の事も信頼していない、周りの人間はすべて敵だと思っている。“無垢”を体現したような“もうひとりのマルグリット”とは、それこそ別人のような言動だけれど、いまさら気にするでもなかった。)結婚しても女遊びすればいいじゃない。特に貴族なら、お妾さんのひとりやふたり作っても文句は言われないわ。――それとも貴方は、たったひとりの人に愛を注ぐと誓っているのかしら?(彼の顔を見上げて、笑って首を傾いでみせる。片割れより彼と接している時間は圧倒的に短いけれど、彼は後者のように思われた。そもそも国王が側室を何人も囲っているのだから、生涯ひとりを愛さなければならないなんて決まりはあるまい、と思えば自然と笑いが零れてしまう。)言ったでしょう、味方などいらないわ。何をもって、そいつが味方だと証明するの? わたくしを暗殺するつもりで近づいていたなら? それを信じてしまった後、どうすればいいの? ――命に関わる事なの。簡単に敵を作るななんて言わないで。作るまでもなく、そもそもわたくしの周りには敵しかいないの。(きっと彼とは見ている世界が違うのだろう。ならば忌み子がどのような扱いを受けて生きてきたか想像が及ばずとも、それを責める気はない。そもそも彼は“マルグリット”が双子だと、まだ知らされていないのだろう。付き人にするならば、さっさと知らせてしまえばいいのにという思いと、これ以上“秘密”を知る者を増やしたくないという思いの間で、溜息をついた。)この国において、双子は災厄をもたらす忌むべき存在――いえ、存在すら許されない生き物なのよ。――……片割れは生まれてくる事なく死んだとはいえ、わたくしは元は双子。国で何か不幸があれば、あいつのせいだ、あの双子の、半分の末姫のせいだと、幼い頃から悪魔でも見るような目を向けられて育ってきて、下級貴族どもにさえ馬鹿にされる毎日。(“片割れ”は、まだ生きている。それどころか、彼と日常的に接しているのは彼女の方だ。だからこそ、許せない。ただ双子というだけで、自分たちには何の責任もない咎を背負わせるこの国が、世界が。)ああ、でも、また「路地裏にでも捨ててくれた方がよかった」なんて言ったら、貴方を怒らせてしまうわね。衣食住に困っていないだけ、神に感謝せねばならないわ。神など、信じていないけれど。
悪口を言われていると想像することは、十分卑屈だと思うけれど?(聞こえもしない相手の会話を悪口と決めつけることは卑屈以外のなにものでもないだろうと、悪態を吐く姿を見ては可笑しそうにくすりと笑った。けれども、次ぐ言葉には虚を衝かれたように隻眼をまるくして、穏やかなかんばせを微かに険しくした。)……自分の騎士に女遊びをすればいいと唆すなんて、キミは中々に酷い女性だね。私は女性を悲しませるようなことをしたくはないのだけれど、そういうことを平然と言ってのけるキミとなら、遊んでも良心は痛まないのかな。(普段の姫君の在り方を知るからこそ、何故そんな心無いことが平然と言えるのか解らないといったように、小さく肩を落としてみせる。誰かを愛する自分は想像出来なくとも、誰であれ悲しませるようなことはしたくはないというのが本音ではあるけれど。笑む彼女を見遣れば男は伺うようにゆるりと首を傾いで、口の端をあげては揶揄うように微笑んだ。)味方と証明出来るものがあるのなら誰しも苦労はしないさ。私が言いたいのは、その味方を見極める眼を養う努力をしたほうがキミのためになるということだよ。……敵しかいないだなんて、キミは悲しいことを言うんだね。けれどもしそうだとするならば、その敵を作る原因となっているのはキミの言動にあるのだと私は思うよ。(命に関わることであるのならなおさら、如何して敵を作り・煽るような言動ばかりしてしまうのだろう。男にはそのほうがよほど不思議でならず、告げる音は相も変わらず幼子を諭すような口吻となる。双子と噂される者が如何な扱いを受けるか知らない訳ではない。全く同じとは言わねども、似た境遇に置かれた身なれば彼女の主張が解らぬこともないけれど、ひとつ重い溜息をついては、静かに、けれども心を籠めて、ゆっくりと音を紡いでゆこう。)憎しみは憎しみでは洗えぬように、与えられた責め苦に毒をもって応えたところで、得られるものはなにもないでしょう。……私はね、姫君。キミが与えられている苦痛を少しは理解できるからこそ、キミの付き人として、叶う限りキミの心に添いたいと思っているんだ。けれど心ない態度を取られてしまうと、そうすることも難しくなってしまう。お願いだから、私にキミを、諦めさせないでおくれ。(打っても打っても響かぬのなら、言葉をかけることすら億劫になってしまう。そっと紅い星を伏せては、近くを通り掛かったボーイへ「すまないが、ミネラルウォーターをもらえるかな」と言葉を掛けて、ワイングラスを受け取った。この言葉を如何受け取るかは姫君の自由だ。与えられた役割以上に彼女に深入りしてしまっているのは事実ゆえ、以前のように一蹴されてしまえばそれまでと介入することは控える心算でいる。そっと喉へ流した冷えた水は、ほどぼりを冷ましてくれるようだった。)
実際に心無い言葉を浴びせられて育ってきた経験則よ。みんながわたくしを歓迎して楽しくお喋りしてくれていたはず――だなんて、それこそお花畑ではなくて? あなたはわたくしにお花畑のような人間になれと言うの?(言ってから、ああ、もうひとりの“マルグリット”はそういう人間なのだったと思い出す。貴族社会で裏のない会話など有り得ない。しかしあの子は言葉の表面だけを受け取って笑顔で応対するのだろうと思えば、冗談じゃない、と小さく笑いが零れた。)妾を囲うのも貴族の仕事のうちじゃない。正妻が跡継ぎを産めなければ困るもの。――ご自由になさって。少なくとも、わたくしの事は『悲しませるようなことをしたくない』女性の内に入れていただかなくて結構よ。(にっこりと笑みを浮かべて、しかし言葉はきっぱりと。こんな事を言ったらあの子が悲しむだろうかと一瞬頭を過ったけれど、あの子はそもそも誰と話している時もこんな物言いはしないだろう。だからこそ末姫は双子だの三つ子だのと噂されているのだ。相手が自分でなければ、話している相手の態度も多少は和らぐ――というのは楽観的に過ぎる考え方だとわかっているから、片割れを表に出したくないのだ。今日は自分が出られてよかった、という思いと相反する溜息が口をついて出た。)お説教はそれで終わり? 貴方の肩書はたしか騎士だと思っていたのだけれど、やはりわたくしの勘違いだったのね。マナーや教養はしっかりと学んできたつもりだけれど、貴方は何の家庭教師なのかしら。『年頃の少女として可愛らしく愛想を振りまく事』を教える係かしら? ――正論で人の心を変えられると思っているのなら、貴方の方がよほど子供ね。正論というものはただの主観による主張でしかないのに。きっと温室のような環境でお育ちになってきたのね。この機会にわたくしが教えて差し上げる、『正論で人の心は変えられない』と。覚えておくといいわ。(柔い笑みで言葉を紡ぎながら、椅子から立ち上がり、彼の横をそのまま通り過ぎよう歩を進める。しかし、数歩進んだ所で、声を掛けられた。とある辺境の伯爵家当主だった。無難に挨拶を交わしてすぐに立ち去ろうとしたけれど――曰く、息子と親しくしてくださって感謝している、だとか、贈り物を気に入ってくださって息子も大層喜んでいる、だとか、個人的に主催する小規模な茶会への招待状に心躍らせている、だとか。――あいつか。すぐに思い浮かぶ。二度と関わるなと王家の正式な封書で通達したはずなのに。自分の指示で出せといったその手紙を、握りつぶしたのだ、もうひとりの“マルグリット”が。うんざりして、俯いてくちびるを噛んだ。急に沈黙した末姫に、伯爵は呑気に、そして楽しげに話を続けていた。)