(降誕のアポティヒア)
(そそぐ日差しの熱量は徐々に弱まり、庭園を吹き抜ける風が乾いた色へと変わる頃。現王妃の生誕を祝す舞踏会の報せは、飽きもせず例年同様国王直々に触れ回っているらしい。愛妻家なぞと周囲は囃し立てるも、所詮はうつくしい自らの所有物を披露しつまらぬ自尊心を満足させたいだけだろう。いずれにしても、その日はいっとう華々しく飾り立てられる女王陛下と双つのいのちの血のつながりがないばかりか、忌み子の出産によって崩御された前女王以降、新たないのちが宿されないことを現王妃は前女王並びにロクサーヌの呪いと吹聴し、憎悪を隠されることもない。夏の結びに迎えた付き人たる騎士と姉は、無事良好な縁を繋いでいるらしい。兄君との昼餐会を恙無く終えた辺りは流石スタンバーグ侯爵家のご令息と云ったところか。その手に切り札を得たかの解は知らぬ儘、凡そ暦が変わるまでの間、妹が姉に成り替わった頻度は雨降りよりも少なく、現れたとしても極々短時間のもの。付き人は余計な害虫の駆除としてそれなりに姉の助けとなっているのか、姉の心身のすこやかさも保たれるようになってきた。ならば妹がロクサーヌを騙る必要もなく、部屋に戻る姉の身体をやわらかく抱き止めながら、その日一日の記録を海馬に刻む程度の役割を果たすばかり。部屋では魔獣と気紛れに戯れ、寝台に横たわって窓の向こうに流れる雲を詮無く辿り、姉の持ち込む図書を捲る。みなが寝静まる頃に自室を抜け出し、精々薔薇庭園の馨りを浴びる程度の閉鎖的で自堕落な日々が日常と錯覚を覚えかけた頃合いの便り。平穏な日々がこれからも続けば構わなかったのに、流石の付き人も女王陛下までを振り払うことは敵わないだろう。剥き出しの悪意は姉のまろいこころに傷を生む。女王陛下との謁見はこれまで妹の役回りであり、此度の社交界へも姉のくちびるが逡巡に震えた隙を見計らって妹が攫ったものだった。姉は誰にも傷つけさせまい。夜半の舞踏会を控えた昼下がり、平素よりも騒がしい城内にて妹は重く吐息を落とした。)あなたのご令兄は今宵いらっしゃるのですか?父は招待状を届けさせたと云っていたようですが。(仕立てたドレスを認める為に歩む回廊の途中。本来ならばひとりで構わず、その方がこちらは都合が良かったのだが。しかし何分、姉はつぶさに付き人を頼りにしていたようだから。呼び付けた手前、久方振りに見上げる目線の高さを煩わしく感ずる不平は飲み下した。平素との違和を聡い彼が察する程度に、姉と密度の濃い時間を過ごしてきたのか妹は知らない。されど人気の多い盛況な舞踏会、延いては女王との謁見を前にして神経が逆撫でられているものと判じてくれていたら良い。)
(この王室内政治を楽しめる性質であったなら、我が身の順当な途とやらをまっすぐに歩んでいたかも知れない。末の姫の騎士という看板は焔色の髪にすぐに絡まって、就任から程無く貴人にも勤め人にも広く認知された。大概は素行不良を咎める噂話であったろうが、なにぶん手綱を取るべき主が主だ。評価はかの小柄な姫に収束していく。そのくせ当人はいつなりと、初めて言葉を交わしたときと同じように笑っていた。呼び立てに遅刻をかまして主を焦らしても、衣装を仕立て直すからと言われた日に姿を晦まして針子を天手古舞に叩き落しても、彼女以外の王族には一線を越えず礼を払ったし、末の姫を取り囲む小さな輪、より外の予定を狂わせるような悪戯はしない。騎士団での訓練に変わらず励み、かと思えばその日程には縛られずに城下町に繰り出て行く。そうして市井にあった他愛も無い与太話や流行り物を土産と称して、末の姫に語り、渡すような日常だったろう。薔薇の花弁に囲まれて本を捲る姫君の傍にただしゃがむように膝をつき、ひょいと渡す菓子やくるくる色彩を変える魔法仕掛けのスノードームが彼女の嗜好に合ったなら、それなりに相互心安い一幕だったんだろうし、困らせるだけならその顔を見て笑ってしまうような男だった。そうして少女が、いや姫が零す言の葉がどのようなものであれ――ふと静寂の夜半に出くわすようなことがあれば。「今度は子守唄でも仕入れてきましょうか」なんて、揶揄るように紡いだこともあったろうか。吐き出したその音吐が、男自身でもすこし意外な柔さを含んでいた由は措いておく。真っ向から職務として参じた本日は、良くも悪くも平素と知れよう軽さにあった。私室にお迎えに上がっておいて大欠伸もかました騎士は、どうやら王国一大行事を目前に棘を纏っていらっしゃる我が姫を見てまた笑い、先行く姫の斜め後ろを緩く大きな歩幅で歩んでいる。適宜下を向く目差しは彼女と視線を重ねるためでもあるし、その足下に歩みを妨げるものが無いかを確かめるためでもある。不真面目を気取ってはいるが、彼女の身を護るものとしての役割を逸脱する気は欠けらも無かった。必要に応じてそれとなく声を掛け、壁になり、手を取らんとする振る舞いも当たり前だったろう。現状、排すべき難は物理面とは少し違ったところにあるよう見受けたものだけれど。)あァ……来るそうですねェ。もしかしたら愚弟のせいで叱られると震えながら。(瞬く双眸は穏やかに彼女のそれと重なった、歩みのさなか。嘯くように間延びした語気と共に、思案を覗かせながら自身の首筋を擦る。下ろしたままの焔髪が揺れる礼装は薄い光沢のある白に改まっていた。慣れた調子ですこし上体を屈めて、湛える笑みの軽やかさは彼女個人の記憶からも相違あるまい。)我が姫も顔を見たきゃご紹介しますよ。真っ先に姫が叱ってくれんなら、その後の開き直りもしやすいでしょうし?
(姉はよく笑うようになった。夜ごと語られるその日の記憶は、騎士の非礼を咎めながらも、姉を取り巻く小さな世界を賑やかす彼の素行を実に可笑しそうに。実に眩しそうに。ひとつ歳を重ねていながら、まるで弟の世話を焼くほんものの"姉"のように。悪びれもなく愛想を振り撒く相手にひどく傾倒しているかのように。いろどりと刺激に満ちて、妹の知らない顔ばかりをしていた。血を分けた双つの片割れは、姉の手を煩わせたくない一心で確かに姉の盾となる部分が多かった。その過保護さは先に世界に生まれ落とされた筈の姉としての同一性を、無闇に取り上げてしまっていたのかも判らない。自分にのみ許される我儘は、姉のこころをいたずらに擽って仕方ないのだろう。窮屈な世界で生きて来た姉にとって、焔のような自由を象徴している騎士は鮮烈に刻まれるばかり。今まで与えられてきたどんなに価値ある宝飾品よりも、彼から渡された品々を宝物のように自室の窓枠へ並べ、光に透かして笑っていた。――彼は知らない。姉はひどく臆病で寂しがりで、静まり返った夜半にひとり繰り出すようなことはしないこと。静寂に寄り添う音を落とした先が、普段傍らに仕える相手ではないということ。「どなたと褥を共にして覚えたんですか」反射的に潜めた細眉を垂れる髪に隠し、子守唄が必要な年頃であれば操れない意味を含んだ否定を返した時も、過ぎてから後悔したものだ。姉はそのようなことは云わない。云えない。姉を害するようなものを今まで妹がすべて撥ねつけて生きてきたのだから。姉とひとしく与えられる無条件の忠誠はいつしか後ろめたさを帯びて、ますます妹を自室に閉じ込めさせた。17年間片時も離れることのなかった姉の知らない色を引き出す騎士に対して、屈折した感情が皆無と云えば嘘になる。けれどいつだって妹の最上は姉であり、姉が楽しく在れるのならばそれでよかった。騎士を邪険にする理由を、もう妹はこの手に持てやしない。直接的な接触だけは慎重に避けながら、彼との距離を必要以上にはかることはやめていた。)今日は母の生誕を祝う催しですから、わざわざ不足な相手を呼びつけはしないでしょう。あなたの働きを評価したいのではないですか。……仮にそうだとしても、お義母様の居ない場になるでしょうけど。(女王陛下の覚えが悪くなるところは申し訳なく思えど、スタンバーグ侯爵家にとってみれば悪い場ではないと踏んでいた。紹介を受けるのならばその時だけでも姉と立場を変われないものかと思考の大半をそちらに回していたものだから、傍らに流れる焔色の髪を見遣って気付けばころり、幼げな響きが落ちていた。)………ご令兄も、おなじいろ?(半ば、無意識だった。音にしていたことに妹自身驚いたように瞬いて、小さな歩幅はほんの少し軌道が逸れた。)
(斜陽から黎明までの空を描くスノードーム、ねじ巻きで光を撒く掌大のフェリスウィール、天候に合わせて開閉する薔薇の水中花、星屑が宙まで踊るインク――手遊びめいて差し出す品々は子ども騙しめく魔法仕掛けの玩具たち。単に枯れどきを待つ生花や、舌の上ですぐに溶ける砂糖菓子もあったろう。反応を窺うときこそ悪巧みする童子のような顔をして、いくらか日付が進んだ後にふと思い出したようにその後の処遇を問うてみることがある。男の認識する限り、姫が“はんぶん”と噂されるほどの記憶齟齬を起こしていることは無い。波があるのは記憶保持よりも情緒の印象である。まろやかな、絹のような花弁のような淑やかさの奥から極ごく偶に覗く小さな棘は、だからひどく印象深い。常は秘されている、あるいは少女当人にも無意識の箇所にしか存在しないのだろう激情を探り当てるような感覚。男が意図して姫と騎士の悪評を忍ばせる行為と全く別の箇所、恐らくはこころと称されるような部分で、確かに積もるものがあった。そして今日、久方ぶりにその一面と相対している、気がする。生理的な瞬きを静かに繰り返す双眸が、彼女を捉えてやんわりと細められる。)ハハ。お褒めいただくにも局所的過ぎて色々筒抜けそうですけど。まァ兄上にとっちゃそれこそ今更か。(笑い調子の溜め息で紡ぐ、後半は独り言。男は実家においても適宜奔放な振る舞いを繰り返して、小器用に自分自身の評価を落としてきたのだ。両陛下と直接相対したことは未だ無いが、さて忌み子が御せぬ不出来の騎士はまっすぐに厭われるか一周して快く受け止められるか。巻き添えになる実兄への同情は思考から蹴り落として、男は束の間逸れた眼差しを彼女へ戻した。)兄は――(笑み型の唇が言葉を紡ぐ、途中に途切れたのはその発声だけ。全身の動作としては淀み無く、姿勢を正しながら片腕が伸びた。前方不注意、思考の散漫、けれど身に危険はない。傍らに居るのが己だからだ。カツと踵を鳴らして横合いへ進み、それから腕が背を回り逆側の肩を支えんとする。距離も長さも悠然と足りるから、後は手のひらが彼女の細い肩を軽く覆ったときに、接触への拒絶があるか否かだけが次の足取りを左右する。男としてはそのまま元の進路に持ち直してくれればと。)同じ色だ。あっちは外交も多いんでキッチリ整えてるがな、それでも見りゃすぐにわかると思いますよ。顔も似てるらしい。(言葉の続きも、まずは何事もなかったよう連なる。頭上から注ぐように笑った後に、支えとは逆の手を差し出してみて、)運んで差し上げましょうか? お姫さん。物のついでで必要以上にでけぇ視界も味わえますよ。(これは叱られるための軽口と謂える。)
(今や窓枠に飾られる贈り物の数々は幼少期にも与えられたことがない、妙にこころを擽られるものばかりだった。忌み子として生まれていなければちいさな時分に手に出来たものだったろうかと、妹は寝台に寝そべってそれらを眺めながら意味もなく考えたものだ。女子どもが喜ぶ的確な選定に精通している彼は、矢張り城下でそれなりの経験則を得ているのかと妹は邪推する。姉に贈られたものと妹は触れようとはせず、陽光ないし月光に照らされたそれらをひとみにうつすだけ。接触を避ける今も、行き着く先は似たようなものだった。)――……、……そう、ですか。楽しみですね、お逢い出来るのが。(情けなくも口惜しくも、ほんの少し動揺に声音が揺れる。伸びた長い腕の囲いこそ、妹の重心を狂わせかねないものだった。踏鞴を踏んだ訳でもないのに大袈裟で、ほんの1歩の不安定ささえ逃されない。一方の下肢を踏み締めれば体勢は自力で容易に整い、わざとらしく差し出された手に鼻先鳴らし一蹴する。)結構です。駻馬に振り落とされたくありませんし、見世物になる心算もありません。(伝えそびれた謝詞こそ回廊に蹴飛ばし、力任せに捻り開けた扉。斜めに向いた機嫌を宥め、その室内へ向けた瞬間。 思わず瞠目した。まるで大輪の薔薇が花開くが如く、そこに広がるは身体に巡る鮮血とも見紛うようなあざやかな、)―――………あか、(夢遊病者が譫言を零したかのような、虚ろな響きがそこに落ちた。うら若い針子が駆け寄り喧しく騒ぎ立てる。衣裳が如何にロクサーヌに似合うか。持ち得る技巧を注いで緻密で精巧な飾りを施しただとか。誰だったろうか、この娘は。衣裳の仕立ては古参の針子が担っていた筈だ。 否、違う。新入りと云う娘が少しずつ仕事を任せられるようになっていると、いつかの姉が語っていた。忌み子の姫を恐れながらも、職務に心を砕いていると。姉を囲うちいさな円環に、付き人の彼より前に加わり始めたその娘は、時間を掛けながら姉との交流もあたためて来たのだろう。縫い止められたようにドレスに留められた視線をやっとの思いで引き剥がせば、衣裳の傍らで気遣わしげなひとみを此方に向ける乳母が居る。――嗚呼、失敗した。確かに姉は云っていた。付き人たる騎士を傍らに侍らせるようになった頃。次の夜会の衣裳は気に入りの色を選んだと。姉が好むはひとみに持つ色だった筈だ。終ぞ知らなかった姉の声音を、表情を追うのに、夢中で。判っていた気になっていた。眩暈でも起こしそうな烈しい色彩から如何にか目線を落とせば、重たくなった蟀谷に指先を這わせた。)………シビル、違う色を用意して。既成のもので良い。(普段身に纏いがちな白は舞踏会に限ってデビュタントが着飾る。喪に服す黒など論外。公の場に出る機会が少ないことが裏目に出る始末だった。その上ロクサーヌの身丈は平均よりもちいさく、誰かの代わりは装えない。乳母に告げ大儀そうに伏せた睫毛を持ち上げれば、悲憤しなみだを浮かべる針子が視界にうつる。『姫様が赤色が良いと仰ったのではないですか!』)――………、………もうあなたは下がって。(尽くす言葉も持たなかった。赤はこの身に纏えない。姉は知らなかったのだろう。少なくとも今宵は、――義母が好み、毎年この日に合わせて仕立てられる紅を、妹が着る訳にはいかなかった。)
(見ても触れても小柄な姫だ。見下ろす姿には男の身の丈こそが影を落としてしまうのに、暗がりを覗くように瞳を眇めて唇を撓らせる。ひととき、この微かな距離の隙間に過ぎったような温度を、掻き混ぜるように差し向けた手のひらだった。)ッハハハ、(案の定で突き付けられた否にさも可笑しげに声を上げる。予測と狙いの通りでありながら、純然と事態を楽しんで相好を崩した。ひらりと緩やかに揺らした手を引っ込めるに併せて、彼女に触れたほうも何事もなかったよう退かせて立ち位置を元に戻す。そういえば本日は棘のほうが出てきていらっしゃるのだった。開扉は大人しく見守ることにして、室内に立ち入るのも彼女に続いてとなろう。男が彼女越しに目にした色彩は、無論、先んじて知っていたものだった。)お、こりゃあ見事。反物で見たときより鮮やかになったか?(口笛でも吹かしかねない気の置かなさで、賛辞は衣裳と針子に宛てる。一国の姫に相応しい素材と技巧で仕立てられた一着だ。針子の若さを差し引いても、世辞でなく零した言葉。姫や乳母の視界を遮らない位置から緩やかに足を進めて、直截は触れぬまま、愛でるように右手を宙へ持ち上げる。針子が熱を入れて語るとおり、末の姫によく似合うだろう。緩慢に顎を引いて衣裳を見下ろす佇まいは、小さな円環にはノイズであったろうか。今この瞬間、彼女の様相が男の想定したものでなかった点から逆算すれば、自分自身にそうだった。ふいと違和を拾って振り向いた先で、髪より少し明るい色の双眸が瞬く。)――姫。(呼び名未満の声は平たい。針子との温度差を目の当たりに動じるほどの可愛げは無く、眼差しと語気に載ったのは短い思案だ。これが“はんぶん”の記憶齟齬か情緒不安定かなんて細かいところの判断は己には追い付かないし、その手の取り成しは歴の長い乳母のほうが適任だろう。気に掛かるのは単に、)……今宵でないならまた別の機に、オレのために着てくださるんで?(自身の顎に軽く拳を添えて、まず唇を衝いたのはまた軽口だった。これが姫の快不快どちらに触れるかは知れないが、どちらかといえば直線の不躾で針子のほうの気を逸らしたい。その上で、全身振り返った男は姫のほうへ距離を詰めゆこう。すいと馴染んだ所作で身を屈めて、先よりも近しくまた手を伸べる。無骨な五指は彼女の顎を掬おうとした。)顔色が悪い。これじゃ確かに負ける。さっきも転びかけた。今日はもう少し大人しい色味でいい、陛下にお目見えしたらすぐに退出する。(多少の誇張になったとしても、姫が“赤が良い”と――そう告げた過日よりは実際に、血色は落ちたように思う。異変を体調のそれに擦り変えた物言いを真顔で連ねるうちに、彼女が身を引くなら追いはしない。主が如何に催しに対する不礼儀色を纏おうと、その過程に棘が鋭利を増そうと減点上等の身にはどうでもいいが、彼女自身が痛みを得るのは困る。衣裳どころか舞踏会での予定まで断じたら、)それでよろしければ、お着換えの間は大人しく扉の外に居りますが。(形式だけ問うた。異論があるなら貴人が召し替える間も居座ってやろうかという言い様である。)
(彼の軽薄な振る舞いは針子の前でも発揮され、以前にも似たやり取りが姉を経て取り交わされた過去が垣間見える。円環で異質となっているのは、違えようもなく妹の方だった。妹は姉のロクサーヌとしての生きざまを知らない。知るのはあくまで姉妹としてのすがたであって、そこに朱を慈しむこころは見当たらなかった筈なのに。――彼の為。そこでようやく、腑に落ちた。視線の伏す先、彼の持つ色の方が明度も彩度も低い。けれど姉は、選んだのだろう。焔は何より烈しい、血の色だ。)――………そうですね。それが良いかも知れません。(この色は、衣裳は、妹には纏えない。喩え今宵の催しが義母の生誕を祝す宴でなかったとしても。過日の寝台の上でのやり取りを思い出す。妹が逡巡ととらえた沈黙は、女王陛下の謁見を怖れたのではなく、臨席を訴えることへの覚悟だったのだろうか。普段妹が向かうその場所へ、姉自ら赴きたいとの意思であったとしたら。少しずつ円環に罅が入り始めたことに見ない振りをしている。けれど姉が余計な傷を負うのであればこの結末で良かった。かそけしいらえのみを落とし、垂れる髪の下で刹那に歪んだ相貌も、彼の細長い指が届く前にしずかに背いた。身体の加減を言及されようものなら、針子が目に見えて狼狽え始める。最近では珍しくなったロクサーヌの攻撃的な言動も、此度ばかりは体調ゆえと誤魔化されるのだろうか。彼の機転を褒めるが良いのか、姉の変化を引き出したことを恨めば良いのか、妹にはもう、わからない。情熱を注ぎ込んだ衣裳への拒絶がまさか嗜好の変化なぞとは思いたくもないであろう針子が、乳母を追ってドレスの選定に向かう。誰も彼もが、煩わしかった。)………騎士団ではドレスの着付けまでも学ばれるのですか?本当に勤勉ですね。……あなたのお好きにどうぞ。こんな子どもの裸体なぞ、見ても愉しくないでしょうけど。(高が着替えに裸になる訳もなく、晒すとしても精々下着程度。羞恥を覚えられる程、豊満な身体もしていない。ターコイズに金の刺繍が施されたボールガウンドレスを抱えて戻る乳母と針子に視線を遣って、妹は吐息を落とした。彼がその場に留まろうが退室しようがそれ以降視線を遣ることもなく、人形のように操られるが儘、身丈に不相応な豪奢なドレスを宛がわれ、髪を束ねられ、色素の薄い肌に朱を引かれ、キュクロス王国の末の姫は多くの時間を無益に費やし、ひとの手によって出来上がる。)――ねえ、バートラム。(オーガンジーのヴェール越し。宝飾で飾られた分だけ重たくなった身体を持て余しながら、人の払われた部屋の隅で窓枠に身体を預け、夜の帳が下ろされ始めた城下を見下ろしていた。)明夜馬車を呼んで丁重に送り届けるよう従者に伝えます。わたしが頼んでも、あなたのご令兄は一晩こちらに留まって頂けるでしょうか。(疎まれる末の姫でも願いは果たされるものなのか。さすれば清浄なあかつきに祝福される姉より、姉の為に仕立てられた朱の衣裳を纏ったすがたで彼の功績を朗らに語って貰えば良い。姉はきっと幸福を感ずる筈だ。女王陛下との謁見にて疑いなく飛んで来る叱責を思えば心底辟易とするが、姉の喜ぶ未来が約束されているならば。光沢を纏わされた睫毛が重たげに羽ばたいた。)
(あからさまに過分な戯言も、露骨な他人事、というより心此処に非ずか。どうにも誤魔化しに留まらなかった姫君の変調っぷりに、針子もそれ以上は感情論を唱えまい。顛末自体は狙い通りなれど、ついつい振りでなく眉を顰めてしまった。五指は彼女の肌に触れる前に宙を撫ぜて、静かに自身の腰に添えられる。整った体幹で視線の位置をやや下げたまま、それでも俯かれると厚い前髪越しの双眸は捉えられなかった。視線が合いそうにないことを重々理解した上で、吐き出す息が平素通りに笑う。)こちとら宦官じゃねぇんだ、順調にオレの首を飛ばす材料を集めていらっしゃる? ……着付けはできねえが、ダンスのお相手はできますよ。騎士団じゃなく侯爵家仕込みだがな。(幼かろうと肉付き薄かろうと忌み子であろうと、姫は姫だ。自分で言っておいて呆れた響きを向けた後に、拍置いて連ねた後半は含みの無い微笑。――胸に手のひらを添う一礼はいっそ仰々しい素振りで為して、代わりの衣裳を抱え彼女の傍へ寄る乳母たちと入れ違うように、男は素直に踵を返そう。お召し替えの間はそういう職務みたいな佇まいで扉の前に在って、内側から声を掛けられてから改めて顔を合わせた。飾り立てられた姿にゆるく双眸を細めては、彼女の歩みに従って当然に足を進めゆく。)ん?(相変わらずの不躾さで短くいらえたのは、静謐の濃いその一室。緩く腕を組んだ男は、窓枠が切り取る夜空でなく、佇む彼女の姿を見ていた。面持ちはまたもや上手く窺えはしない。ヴェールが落とした靄に似る影を見遣る男の双眸は、無意識のうちにその靄を透かしたがるように眇められた。探るに似た眼差しと、向けられた言葉に傾く意識が半々。語気は穏やかに続いた。)そりゃ構わねぇと思いますけど。(断言に無いのは単に兄の代弁は出来かねるからだ。推測としては、身分の力関係としても男が記憶する範囲の兄の人柄としても、末の姫の要望を聞かぬふりはしないだろうと思える。笑み型の唇で切った言葉は、そのまま思案の向きも違えて、「なあ、」と気安い音を挟む。常の、軽やかな与太話の前振りみたいな。そうした声を聞くのが日頃、眼前の存在でないことを知らないから。)……何か落ち込んでんのか? また初めて見る顔をなさる。そんなんじゃ陛下に見つかる前から滅入りましょうよ。(親しんだ語調をして、我ながら捻りなく細心した。緩慢に腕を下げた男は彼女の傍らに歩みを進め、そうして片膝を折る。目線の位置が見仰ぐものとなっても、求むる瞳はヴェールの陰ではあろう。構わずに覗く。)すっかり涼しかなったが、もうこの駻馬の手綱を取れたつもりですかね、お姫さん。両陛下の御前だろうが、祝いに参じた諸侯の着目があろうが、未だ翻して差し上げるにゃ足りねぇよ。だから、……オレは今宵もあんたの騎士ですよ。我が姫。御身安全は保証する。(男の口振りは一貫して軽薄めいて、いっそ揺るがなかった。いつかのように彼女の手を取らんと此方から差し出した手から彼女が逃れたいのなら、躊躇わずそうしてしまえるように。そのくせ、)仮面でも時間でも、要するものはこの手に揃えて見せましょう。(大言壮語を叩いたつもりもやはり無い。我が姫の願いなら、己が叶えたかった。)
(彼の職を解くなどと告げれば、姉に批難を受けるのだろうか。薄い肩を竦ませ、特別肯定も否定も返さぬ儘、背後に扉の閉まる音を確かめる。それにしても散々と家柄を揶揄しておきながら、此度までに彼の出自を意識させられたことはなかった。不遜な態度を改めもしない彼なれど、育ちの良さや勘の鋭さ、巧みに空気を言葉を操る手腕が末の姫の付き人としての立場を盤石なものとしつつある。好き勝手に振る舞っているように見せ掛けて、その心安さは窮屈な円環に閉じ込められていた姉からすればひどくこころ揺さぶられる響きなのかも知れない。その長い脚で立場や身分さえも踏み越えんとばかり。城下を眼下に見ていた視線を持ち上げ、窓越しに向かう視線は絡まない。)あなたのひとみに、わたしはどのようにうつっているのですか。好い加減、私の不安定さに嫌気が差す頃合では?(振り返ればいつかのように片膝を折る彼が居る。彼が普段忠誠を尽くす相手の心証を確かめるのは、妹の与り知らぬ姉のすがたをそこに求めているからだ。ヴェールが視界を暈し、偽りを暴けぬ騎士を見下ろす。彼の注ぐ献身の在り処を、妹は不可思議に思うばかりであった。騎士団に所属をする者にとって、与えられた命はそれほどまでに価値を有するものなのか。伸ばされた手に視線を落として幾許か。――妹はやがて手を伸ばす。冷えたゆびさきはそのまま彼の傍らを通り過ぎ、長く垂れる焔色を宿した髪を耳殻に掛けるように掬い上げる。妹の騎士には成り得ない彼をまなこにうつし、かすかに自嘲の滲むまなじりをやわめた。)あなたがダンスに興じるすがたは見てみたいものですね。少しはわたしの気も紛れるやも知れません。お知り合いのご令嬢がいらっしゃったら、どうぞ踊って差し上げて。好ましいデビュタントとでも結構ですが。(異性とワルツのステップを踏むには到底足りないこの身丈。何より忌み子に進んで手を差し伸べる恐れ知らずなど、それこそ彼くらいのものだった。舞踏会に参加したとして、中途での退席かつまらぬそうに壁の花に化すばかり。今宵に限って愉快な余興が先に待っているとなれば、女王陛下の謁見を控えて波立つ揺らぎも少しは誤魔化されるかも知れない。「そろそろ参りましょうか」俄かに触れた髪より指先を離し、かろい気儘な台詞を落とせばはなびらのように衣裳の裾を広がせた。)……あまり気分の良いものではないでしょうから、あなたは此処で待って頂いて構いませんよ。(既に賑わう大広間の一角。騎士の返答が何であれ、母の生誕を祝す為に紅の装飾を施された謁見の間へ続くきざはしを踏み締める。国王と並んで坐すすがたをひとみにうつせば、息吹をつとめて深く繰り返す。剣呑な視線を一身に浴びながらのカーテシー、薄氷のようにおぼろな笑みがやわくくちびるにきざまれる。)この度はお誕生日おめでとう御座います、お義母様。今年も斯様にお祝いが出来て光栄です。(『何て白々しい』『そんな出来合いの貧相なドレスで』『祝う気持ちがあるなら私の前に姿を見せないで頂戴』孕んだ棘を受け止めながら、謝罪と祝辞とを相槌のように繰り返す。取り成す父が何とも滑稽でありながら、もう何年も繰り返された茶番だった。父の目配せを受ければ陛下の御前より大人しく辞すまで。広間に戻る頃にはヴェールの奥の表情は削がれ、壁際にて息を潜めながら賑わう客人を無感動に見つめていた。)
可愛らしい曲者だと思ってますよ。(語気は賛辞でも悪態でもない。並べた言葉はどちらも彼女への形容句だ。可愛らしい主だ。厄介な女だ。それらは或いは、別の存在を見てそれぞれ抱いた印象であったのかも知れないが。真っ直ぐ眼差しを注ぐ視界を泳ぐ少女の嫋やかな手指を避ける素振りも一切見せずに、大人しく呼吸を繰り返している。髪は色味に反してそれそのものに温度は無いけれど、地肌付近は当たり前に体熱の影響があって、指先の冷たさを耳元に感じた。)我が姫の退屈凌ぎになるなら、喜んで。(口角を上げ、細めた双眸は大型獣が寛ぐに似た風情を含んだろうか。何も預かり得なかった手のひらを静かに下ろしながら、促されるに合わせて立ち上がる。頭部が動けば髪はすぐに元のかたちへ垂れなおして、小柄な姫に連なる騎士は焔色を揺らした。)ハハ。御冗談を。(慣れたように笑い飛ばしたのは圏外待機の御許可に。とはいえ――相手は国の最大権力。今宵にその敷居を踏み越えるのは如何な視点からも得策ではなかった。絢爛豪華、愛というものを贅で示して飾り立てられた大広間は賑わいに満ちていて、純粋な喜びも私利のための謀略も、華やかな管弦楽の音色も上質な料理の香りも笑い声も何もかもが溢れている。催しの趣旨に相応であると、嫌味なく思考する傍らで、男の知覚には多くがノイズだった。立場としては本日の主役に直接挨拶を賜れる身ではないから、末の姫に付き従う騎士の位置取りで足は運びながら、丁重に膝をつきこうべを垂れて貴人の遣り取りに何を挟むでもない。視界の外より女声の鋭利な棘を感じても、男自身を含めて今更誰が顔を顰めはしない。それが叶うのが国王しか存在しないという点もあったが、神話より連なる王家の血を引きながら“本来は双子であった”という姫はつまるところそういう存在なのだ。)……。(刹那、冷めた目をした自覚がある。顔を伏せている瞬き一つ分のうちに整えた。姫と共に粛々と下がって、言葉を発するのは彼女が壁に懐いて足を止めた後だ。)姫、(向ける笑みは平素通りである。すいと上向ける手のひらが引き続きの歩みを促して、)スタンバーグ侯の子息がご挨拶に。お疲れのところ申し訳ございませんが、こちらへどうぞ。(軽やかな口振りが返答を待たない。意向を確認されないのもいっそ慣れていらっしゃるだろうか。躊躇いが見られそうならその背に手のひらを添えて、いっそ見世物上等に抱え上げてでも連れ出そうという圧は感じたものだろう。要らぬ衆目を浴びる気は一応、そんなに無いのだけれど。謁見が終わればすぐに退出する、その宣言を果たすべく。斯くして重たいとばりをくぐり、風通りの良いテラスへ出て行くのは程無くだ。布地が空間を遮ったら、ざわめきは少しだけ遠くなった。)――なんか摘まめるもん持ってきたらよかったな。何か要るか? 飲み物でも?(一応のよう振り返った先にも、広がる庭園の景色にも、スタンバーグの嫡子は居ない。風音がする中で、男は改めて彼女を見下ろした。)ちなみにご指名かました子息はオレだ。兄上に会いたきゃ呼んでくるがどうする。別に今と明日と両方呼びつけたって構いませんよ。
(彼のいだく姉への心証は、見事ふたりをあらわすかのようなそれだった。まったくおなじ育ちをしても、双つ子はまったくおなじには育たなかった。かろやかな冗句を操れるようなこころの豊かさもなく、いちいち血を流すような繊細さも持ち得ない。覚えるのはただの重たい疲労感だけ。諸侯に挨拶を巡る間もなく彼のゆびさきがゆきさきを示そうものなら、みずから云い出したことであるからと小さな歩幅を繰り出した。周囲の好奇の視線には一切目を呉れず、踏み出せばひとびとはちいさな身体に途を明け渡す。それは王族相手だからではなく、忌み子であるからと17年の生で充分に理解をしていた。――冷えた風に当たりながら、心安い問いは彼のご令兄に向けて発せられているものとばかり考えていた。風のすさぶ音が、背後の姦しい笑い声も弦楽器の低い旋律も吹き飛ばす。いつまでも訪れぬ他者の声に、疑問符を転がしかけた時分。怪訝そうに眇めたひとみが彼を仰いでまろくなるのは、その手を明かされた時、ようやくのことだった。視線ばかり周囲へ遣っても、確かに人の気配はそこにない。遅々としたまばたきが思考の途絶を示し、――やがてまぶたは伏され、笑みを纏った吐息があふれた。まんまと罠にかかったみずからに、嘲りを浮かべるいとまもなかった。)何もいらない。……あなたが良い、(平素よりも高い踵でほんの少し底上げされた身丈でも、彼の胸許に届くか如何か。ひとかけらだけはがれた虚勢がひとりぶんの空間を埋め、彼の体躯にほんの少し、こうべを寄せた。自重を預けるほどでなく、ヴェール越しに微か体温が伝わるか如何かのささやかな。けれど決してこれまで妹が許してこなかった直接的な接触も、一枚の布を経ているからと誰にでもなく、何よりみずからに、言い訳をして。)――………疲れました、(鼓膜の向こうに義母の声が響く。『近付かないで穢らわしい』云い得て妙だと、ひとみを閉ざして深く息を吸う。正しくその通りであった。姉が母の胎から生まれ落ちる際、濾された穢れをすべて妹が引き受けた。義母は双つ子の存在を承知していても、ふたりを見分けることはない。彼の視線を感じぬ距離でうすくひらいた視界には、深いターコイズの布地が広がる。)………今宵のことは、もう思い出したくありません。金輪際、口にしないで。すべて忘れて。あなたはご令兄と、明日の約束さえ結んで下さればそれで良い。(いつかは知れることとしても、隠せるのならば不協和音は成る丈姉の耳から遠ざけておきたかった。姉にはいつだって、耳触りのやわらかなものだけ届けたかった。彼の口から姉の耳に触れることのないよう施したなら、彼の体躯に手を添え平素のふたりの距離へ分とうと。)………ごめんなさい、侯爵家のご令息にとんだ失礼をしました。どうぞ踊っていらして。誰かしらあなたの馴染みもいらっしゃるのではないですか。(華やかな世界へ彼を返すべく、背後を振り返る。彼には光差し込むたもとが似合いだと思った。少なくとも陰に生きる妹よりは、余程。)
(開き直って動じない虚偽を疑う者は早々居ない。否、虚偽にならない言い回しをきちんと選んだのだから誰にも聞き咎められるはずがなかった。笑み型をした口唇の隙間から細く息を吐いて、ヴェールの向こうにある少女の面持ちへ視線を落とす。そこに過ぎったかそい空白は、新たな棘を露呈させたって受け止める心積もりであったけれど――。)……そうか。(少し、想定を外れた解だった。気息に感じた柔さも、要された一つきりも、それに伴った彼女の仕草も。条件反射で片腕が宙に浮いて、止まって、それから緩慢に彼女の側頭部へ寄ってゆく。どうせ日頃が無礼千万を貫いているのだった。それでも触れたなんて称するには淡いばかり、こちらもヴェールの表層をやんわりとくすぐる程度の、指先の硬さも髪の柔さも互いに認知できないようなくらいだ。きっとこの小さな身体に刺さった棘を抜くには値しないと、解っていても、生じたはずの罅を探りたかった。「うん、」欠けら零された疲労を聞き留める音吐が拙い。同調や理解を示すには薄っぺらさが際立つだろう、血縁との仲に不足無い男は、ただ少女の内情と今の距離を受け止める以上の何も持たなかった。この存在は己に何を望み何を言ったって構わない。ただそれを示すように、)御意に。(告げられた次の要望にも躊躇わずにいらえた。彼女の秘したいものを男から暴く気も無ければ、そうされて失望するような性質でもないとも。小さな頭が離れ行くに合わせてぱっと広げた手のひらは、そこに被るヴェールを惜しまず手放して笑う。少しばかり俯けていた自身の頭も起こして、想定外が重なった謝罪の響きにはわざとらしく片眉を上げた。)今更家柄ってもんに対して“失礼”とか言われると頭が捻れそうですねェ。……知った顔は探せばあるだろうが……(唇を閉じる間で瞬き一つを挟んで、眼差しは広間のほうへ流れた。とばりの向こうにある華やかさに特段の疲労を覚える身ではないし、社交界らしい情報収集としても単純に身体を動かす楽しみとしても有意義であろうとは確かに思えるが。曖昧に語尾をくぐもらせた唇が、ひとこと分の無言を食んで、笑みのまま小さく肩を竦めた。)あんたが見世物にしてくれるんでもなきゃ、わざわざ今日踊る必要は感じねえな。――すぐ戻ります、どっか行かんでくださいよ。(かつと靴底を鳴らすのは、何にせよ兄を一度掴まえなくてはならないからだ。とりあえずこの場に物質的な危険は無いものと判じて、次の行き先を決めてしまえば重ねて意を問い直すこともない。背に焔色を揺らす男は、明るい大広間への帳をくぐって同じ色を持つ縁者を探しに向かう。口にした一切は守った。程無く戻った男はおよそ自分のためにカクテルグラスふたつと一口大の軽食を載せた盆を持って、彼女の口に合いそうなら差し渡したし、要らぬようなら気にせず己で消化した。兄とは明日改めて顔を合わせて、柔くほころぶ“可愛らしい主”と歓談のひとときがあるんだろう。その席でも、後に連なる日常にも、今宵交わした何も掘り返しはしない。――陰に迎合したつもりなど無かった。眼差しも手指も足取りも、向かう先は自分で選べる。)
〆 * 2022/10/30 (Sun) 10:19 * No.99
(ほんの少し幼く聴こえたいらえが、何だか妙に可笑しかった。煙に巻くような台詞ばかりが耳に馴染んでいた所為もあったかも知れない。飾り立てられる慰めよりも、ただ受け止めて受け入れられる価値を、許されることのむずかしさを、妹は他者よりも少しばかり理解していた。空気の揺れる気配がしても、妹は逃れなかった。与えられるのが何らかの気配であって、その空気の擽りが示唆する行動も敢えて追い求めず、ただ、夜の闇に融かしていた。永遠にも一瞬にも感じた重なりはほどかれ、平素の、棘のある曲者の姫と付き人の騎士との距離へと戻る。何も変わらず、何も誤らず。)愉快な気持ちにはなるでしょうけどね。此処で大人しく見ていますよ。………まるで信用がありませんね。迷子になるような歳ではありませんが。(まことを打ち明けるならば、彼が広間に戻った隙を見計らって爪先は自室へと戻る筈だった。付き人として彼はロクサーヌが此処に在る限り、自由には振る舞えない。主さえ姿を眩ませてしまえば好き勝手出来るだろうにと、なけなしの心を配りたかっただけ。けれど人の波の隙間から覗く長身の彼の手がグラスや盆を手繰る様を見てしまえばヴェール越しの相貌は困惑が滲み、平素よりも重たい身体が動かなくなる。結局、彼が戻るまでその場に妹は大人しく佇んでいた。差し出されるグラスも軽食も口をつけることはなかったけれど、ただふたり並んで、幻でも見ているかのように輝く世界を眺めていた。 ――翌朝。窓から差し込む陽光に照らされながらすこやかに眠る姉より先に寝台を降りた妹は、乳母にふたつの遣いをした。スタンバーグ侯爵家のご令息を招き、ささやかな茶会の場を設けること。それから、もうひとつ。)実は新しく仕立てられた紅のドレスにちいさなほつれがあって。お義母様のお祝いの席だし、違うドレスを纏ったことで支障は何もなかったのだけれど、針子を責めるのも心苦しくて。つい、この色を着たくないだなんてわがままを。ほつれはクロエに直して貰ったから、おねえさまに是非早く着てほしくて。あの子のためにも。(語り掛ける先は急遽開かれる茶会にひとみを瞬かせる、何も知らない清らな姉へ。古参の針子と乳母、そして妹が姉をうつくしい姫君へと仕立て上げてゆく。本来昨夜纏う筈だったドレスを遠ざけた理由を適当に繕い、馴染みの白の衣裳に身を包んだ妹はしずかな笑みを乗せた。)おねえさまの騎士様のご令兄がいらっしゃってる。騎士様の日々の様子をお話して差し上げたら、きっとお喜びになるわ。よろしくお伝えして。(そっくりおなじすがたをしている筈なのに、矢張り姉が纏うとその紅は豪奢でありながら瑞々しく、施された装飾に負けぬ清らかさが引き立てられる。)――綺麗ね、おねえさま。薔薇の妖精みたい。(期待と羞恥が滲み、薄朱く染まった姉の頬をてのひらで包み込む。額を重ね合わせるのを最期に、妹は姉を見送った。茶会には騎士の彼は勿論として、乳母、そしてあのうら若い針子を呼ぶよう遣っている。如何か姉を取り囲む円環がうつくしい儘に保たれていますよう。妹は祈りを捧ぐことしか叶わない。 ――それから妹は再び寝台に臥すばかりの堕落した生活へ戻った。まぶたを閉ざしている時間が多いのは見えない傷を労わる為だなんて、そんな生ぬるい理由が存在する訳もない。ただ季節がゆっくり、流れていった。)
〆 * 2022/10/30 (Sun) 23:00 * No.102