(亀裂のピュレトス)
……この辺の奴ら、今時分は繁殖期明けで小せぇのがごろごろ増えてんじゃねぇのか? どいつもハラ減ってんだろうし見境無いだろ、時機が悪いな。(低く漏らしたのは、末の姫の外出任務を聞き及んだ折り。目的と経路を確認し、卓上に王領地図を広げて道中の谷をなぞった男は億劫そうに目を眇めた。話し相手は彼女の乳母であったと思う。そのときに姫当人が同席していたかはあまり意識していない。殊更の危険があるかと問われれば「別に」とあっさり首を振った。実際に不安は無い。ただ、――こう顕著な外敵というものがある際、常日頃やわらかな花弁ばかりを愛でさせてくれる我が姫はまた棘を覗かせるのだろうかと、詮無き物思いがあったくらいで。く、と喉を鳴らして笑う男のさまは相も変わらず不遜で、不真面目そうなものだったろう。日に日に寒さに傾ぐ暦の移ろいを感じながら、王城の片端を闊歩する騎士の首が未だ繋がっていることに驚きを見せてくれたのは、幾らかぶりに顔を合わせた小隊の面々だ。からからと笑い飛ばした男に敬語を用いぬ同僚らはこちらより出身家の身分は下にあるが、それを是としている男が主たる王室の姫にもまた軽々しい調子で声を掛け続けていることは流石に面食らわせたらしい。姫君を馬車に詰め込む出発前に隊員をざっと紹介した際にも、その後の道中にも、彼らはどこか姫に対して遠巻きであったかも知れない。しかしそれは“はんぶん”に纏わる曰くや姫個人の雰囲気如何というより、男の不敬っぷりに引いたという心情が先立つものだったはず。ちぐはぐを抱えても、真円を気取る車輪は恙無く回る。上質な車軸は姫君を積んだ箱に最小限の振動のみを伝えていたが、懸念の谷に差し掛かったところで外側から扉を叩かれた。堂々と主との同乗を決め込んでいた騎士は、設えられた窓から外を覗いて腰を浮かせる。)この谷を抜ける間、オレは外に出てます。しばらく速度を上げるから揺れることもあろうが、大人しくしてろよ、お姫さん。(微笑の視線を投げた先で、さて本日のご機嫌は如何様なものだったろうか。乳白色の制服に馴染みの剣を佩いた男は、馬車を止めずに扉を開いてそのまま軽やかに飛び降りた。開け放しのそれは馬で並走した小隊員が閉じてくれたろう。揺れた髪を背に払って、男は剣に手を掛ける。)さァて……お前さんらの親を叩けたほうが片付けは速ぇんだがな。何人きょうだいだ。(眼前には、狼に似ながら岩の毛皮を持つ魔物たち。もともとが多産の生き物にとっては、双子も三つ子もそれ以上もどうだっていいんだろう。姫の馬車を先行かせるかたちで、一仕事してから後を追う心算だ。)
(移動に約半日。小さな街を治める長に王からの文を手渡すだけの公務であるが、何分途は悪かろうし、宿泊も伴いかねない。何より魔物の棲み処を横断する恐れがあるとなれば、決断は容易だった。乳母の連ねた任務の概要を聞き届ければ、長椅子に寄り添うように腰掛ける双つ子の片割れが声を放つ。)お父様には私が行くとお伝えして。(頻度は少なけれど、宵を迎えるまで城を空けるような任務は妹が担うことが主だった。憂いを纏ってあたたかな手で自らのそれを包み込んでくれる姉に視線を向けては、くちびるがやわらかな曲線をむすぶ。)暫くおねえさまに任せきりだったから。寒くなってきたのに、無理ばかりさせてごめんなさい。少しの時間で申し訳ないけれど、この機にゆっくり休んで。騎士様を借りる代わり、おねえさまをしっかりお守りするようアイリスに云い付けておくわ。(その華奢な手がやわらかい儘であることを確かめるようにつなぎ直しながら、同じ色をしたひとみのなかで妹は安心させるよう肯いた。)――お心遣い痛み入ります。行って参ります、お父様。(出立の間際に赴いた国王陛下の自室において労いの言葉を賜っては、スカートの裾を宙に浮かせてこうべを垂れた。当時の最愛であった妻のたましいを喰らわれたばかりか、忌み子でさえもある双つ子に対して、父は穏やかな姿勢を貫くばかりだった。母と同じ色をしたひとみに、同じ造りをした相貌に、感傷を刺激されているだけやも知れないが。それでも双つ子にとってはただひとりの父であり、ただひとつの国の王に代わりはない。その父の言葉に逆らう気概は流石の妹にも持ち得ぬものであり、ただ付き人となる騎士の具合について訊ねられては真意をはかりかねて小首を傾いだ。)軽薄さは多少目に余りますが、勤勉な方かと。ただ、わざわざわたしたちの付き人に留めておかずとも、相応な任務は他にあるように思われますが。(手許に切り札を欲する姿勢は依然と変わらぬ儘。大仰に頷く父が柔和な声音で紡いだ言葉には、知れずひとつふたつと瞬きを落とした。)――……、私には判りかねます。彼と共に在るのは、姉の方ですから。(夜色のケープを翻し、色彩を落とし始めた季節の入り口。記憶より捨て置いた舞踏会振りに対面する焔色がかろやかに紡ぐ見知らぬ名を、殊更海馬に刻む必要性も感じなかった。一瞥とほんの微かな首肯のみを投じただけで馬車へと乗り込む愛想の無さは、小隊の士気を下げても仕方のない冷やかさだったろうか。狭苦しい箱に閉じ込められながら、必要最低限にも満たない音の粒だけを散らばせていた旅路の途中。出立してどれ程の時間が経過した頃合いだったろう。上向く視線は不本意さをかすかに滲ませていたことか。)わたしが大人しくしていないことが今までありましたか。………バートラム、ご武運を。(その声が届いても届かなくても、どちらでも構わなかった。閉ざされた扉の窓掛けを指先で払い、騒がしい外界を見遣る。無力な自分に出る幕はない。けれどみずからの、ロクサーヌの紛い物の為に生じる犠牲を痛むだけのこころだけは未だ辛うじて生きていた。)
(この日を迎えて合わせた顔を、まずじっと見下ろす束の間はあった。探る眼差しが知る面持ちが如何な様相であれ、直感に似たところで自身の想定が当たったことは認識する。小隊の騎士たちも感情のある人間なれば、折角ならば護衛対象たる姫には可愛らしい微笑でも給われれば志気が上がるのは確かだが、まあそうした愛想を本日の姫君にねだるほどの長丁場にはならないだろう。行程は先に重々確認した。およそ出現する魔物の種も見当は付いた。――これは群れで狩りをする類だ、そして今時分の鉄砲玉係は揃って幼い。さっさと抜けてしまう傍ら、追ってくる分を払えれば充分。馬車を降りるときの声は耳に残っていた。その名残りが車輪の遠ざかる気配と狼の唸り声に掻き消されぬうちに、済ませてしまう自信もある。)さっさとアタマを呼んでもらおう。(共に場に留まった隊員はふたり。あとは馬車に就けてある。腰に佩いた得物を抜きつつ重心を下げ、男が笑う間にも魔物の頭数が増えた。右手に構えた剣は、細い剣身に黒の文様が刻まれている。片手で操れるそれにまず左手を添えて双眸を細め、)“疾く解き熔かせ”(文様に熱と赤色が走った。低く囁く言の葉は詠唱には満たず、まじないに似る。視覚化する密度の魔力が剣を覆って、副産物のうちに男の髪にも熱とひかりを宿らせた。飛び掛かってくる魔物の牙を避けて、返す剣は躊躇なくその口腔内に叩き込む。岩の毛皮を熔かすにはまだ火力が足りない。蓄積型の熱が貯まるまでは防護の薄い口と腹を狙って、谷間に響くのは獣の呻りと悲鳴。騎士らが状況と連携を確認するための声もありはしたが、それらには急いた調子は入らなかった。男の体捌きは遠目にもまだらに燃ゆるような焔髪が伝えて、剣筋が発火する。火力の充填と親狼の顔出しが有利に重なったから、自身の身の丈にも近い個体を往なすのも大した手間は掛からなかった。前脚の付け根から振り上げる焔の剣が、魔物の毛皮から肉と骨まで裂いて火柱を上げる。断末魔もすぐに燃えた。その一声は前線慣れした身にも耳障りであったが、さて馬車まではどの程度届いたものか。焔を振り抜いた後で隊員に呼ばれた。殆どを焼いた亡骸の異臭が濃くなる前に身を翻す。先に騎馬した同僚の後ろに跳び乗って、馬二頭で姫の馬車に追いついたところで、「っよ、」平素と調子を違えない軽やかさで一度屋内に舞い戻る。)大人しくしていないご自覚は無い?(そうして真っ先に口にしたのが問いへのいらえだった。実の無い揶揄のような、ある種の鎌掛けのような、いずれにせよ笑い調子で。)谷を抜けたら馬を休めるために一度停まります。それまでにあと何陣か遭いそうですけど、都度オレの顔見んのと片付くまで顔出さねぇの、どっちが安心しそうです?(首傾ぐ男に、現時点で大きな疲労や怪我の気配は無い。男としてはどちらだって構わぬが、妙におかしげな語気になったのは、彼女がこちらを見たのを悟ったからだ。)
(先をゆく馬車からは背後の様子を鮮明に捉えられた訳ではない。ただ、それでも。平素腰に佩されていた剣が飾りでないことを、みずからは深く考えられていなかったのやも知れない。諸国との外交も安定し、国に危害を及ぼすものは魔物のみとなって久しい。平和に怠けているとすら揶揄する学者も居る傍らで、彼らのようにその身を、命を、国に捧げる覚悟とおそろしさ。それらは少なくとも妹が推し量ることのしてこなかった現実だった。重たげな雲が日差しを覆う灰単色の世界に、あざやかに燃える色がある。宙に広がるそれらは火の粉のようで、明確な濃淡のさかいは正しく烈しく燃え広がる焔そのものだった。遠くにありながら鼓膜を鋭く掻きむしるような叫びに、ひとみは眇まれる。それは恐らく音の大きさでなく、その質に。宙に待う切り裂かれた腹、脚、手。そこから覗く千切れたはらわた、筋繊維、血潮。それらがひとつの焔に呑まれる前の光景が、ひどく視界に焼き付いていた。――ただぼんやりとそれらの光景を眺めていたひとみは、やがて思考が意味ある言葉を解し始めたところで焦点を結ぶ。種々の声音が飛び交うのは、一枚の扉を隔てた向こう。まるで違う世界のようで、けれど違えようもない現実だった。妹が椅子に据え直すのとその扉が開かれたのはほぼ同時。苛烈な立ち振る舞いなどまるで舞台上の出来事だったかのように、何も変わらぬ彼がそこに在る。何も起き得なかったが如く寄越されたいらえにひとみが重く瞬いて、呆れたように吐息が転がった。そこで無意識にみずからの身体に緊張が走っていたことに気付く。何をした訳でもない、寧ろ余計な荷物だと云うにも関わらず。ケープを手繰り寄せ、その合わせ目を握り締める。降って来るのはまるで城内と変わらぬ気軽さ。鼻腔をいたずらに刺激する焼け焦げた匂いだけが異質だった。)いつも大人しいでしょう。騒がしいなどと怒られた記憶は無い筈ですが。(姉にしても、妹にしても。閉じられた世界で生きてきたふたりには、相応しくない形容だった。それとも姉は彼のかたわらで、華やかに、無邪気に、鈴を振るような笑い声でも転がしているのだろうか。確認のしようもない詮無き思考を広げていたところ、綴られた言葉に再び視線は上を向く。服を滑るその髪は、平素と何ら変わりなくひとみにうつる。)………どちらも変わりません。私はただ呑気に馬車に揺られるだけですから。第一線に立つのはあなたでしょう。あなたの好きにして下されば良い。(視線はしずかに伏せられ、垂れる髪がおもてを隠す。――都度その顔を見たらその度背を見送らなければならない。一度見たきりであれば終えるまでその無事を確かめられない。何れにしたって覚える揺らぎは変わりなかった。)
(肉片も膏も、おおよそは剣を振り抜くと同時に燃えてしまう。けれど全てが無かったことにはならない。戦いの証左は少しずつ衣服に、髪の端に、顔や手指の皮膚に纏わりついてゆく。それらは日頃不慣れな者のほうが敏感に察することにもなるだろう。どうにも狭苦しさを得る馬車の天井に手のひらを当てて、姫君の様相をほとんど頭上から覗き込むような姿勢を取った。)ハハ。そうだな、大人しくねぇのはオレの腹のうちでした。(軽口で引っ込めて、それから揺れる車内で静かに身を屈ませる。座席を使わず片膝を折る常の仕草で、一度は捉えたその暁色が柔い陰に伏せるまでを見ていた。思案は一拍。)――ではしばらく、外に集中している。心細くさせるぶんの愚痴は後で聞いて差し上げます、言いたいこと考えておいてください。(わざとらしい揶揄だから、相変わらずの不敬だと思ってくれればいい。魔力の発露が名残りを残す髪を揺らして立ち上がった男が扉へ手を掛ける。「それでは。」と軽やかにこの場を辞する旨を残して、前線を生業とする騎士の姿は開けた其処から景色の中へ降りて行った。――其処から見込み通りに数陣、一行は魔物の群れに行き合うことになる。馬車の前方にも皆無ではなかったが、それはそれとして護りは固めてあるゆえ、走行速度以外での異変が直接車内に伝わることはなかったろう。人とは相容れぬ存在なりに、生き物と括られるものが無残に散る気配については隠しきれないものでもあったが。振り払い、焼いてしまったつもりでも、それらはやはり男の身にも降り注いだ。幾度目かの火柱を上げた折りには、一つ皮膚に届くかたちで。)……ッ、(谷の中ほどを抜けて疲れと気抜けが重なった一瞬だ。魔物が振りかぶった前脚を正面から斬る際に、頑強な爪が左の前腕を引っ掛けた。袖と肉が縦に裂けて、乳白色の布地が赤く染まる。顔を顰めつつも当然引かない。そのまま押し切って焔の中に魔物を呑み、身を翻して馬車を追う。そんなふうに魔物の棲み処を抜けきった。次に男が彼女の前に現れるのは、開けた水辺で馬車を停めた後。清涼な水音がするこの辺りでは魔物の出没情報も殆ど無い。小隊の面々がまず馬に水をやるのを横目に、汚れた上着を脱いで息を整え、腕の簡易な止血からした男は、大股で寄った馬車の扉を叩こう。)よう、お疲れ様だ。あんたも風に当たるか? お姫さん。多少冷えるかも知れませんけど。(開けて平素のまま笑う。お伺いは肯否のどちらを期待するでなし、純然と彼女の意を問うた。今は止まった車輪に程近くあるステップに足を掛けて、内と外のちょうど境の位置からゆったりと右手のひらを差し伸べてみる。さすがと手指は拭き清めた後だが、この場ではそれくらいだ。)
(決して快適な空間ではないけれど、馬車の囲いが特段居心地の悪さを感じさせるものではなかった。ただ持続する振動や此度のような魔物との遭逢を思えば、どうしたって姉を公務に当たらせる危険性を考えてしまう。仮に姉の立場であれば、片時だって彼が傍らを離れることを厭うだろうと、開かれた扉の向こうへ視線を送る。そこには既に彼の姿はなく、去り際に見えたのは風の残滓に舞った焔糸だけ。長躯の彼が不在となるだけで消失した圧迫感は、きっと純粋なる密度だけでないことは判っていた。――魔物が出没しかねないことを、長年国を統治する父が知らない筈がなかった。小さな街に手紙を届けるだなんてささやかな公務に伴う代償が大きいように思われるのは杞憂に過ぎぬのか。父より言及された命の響きが妙に思考に引っ掛かる。父は長年の間に承知していた筈だ。妹は決して姉を危険を伴う場所へ向かわせないこと。ならばそれを逆手に取り、この騒ぎで妹を魔物に都合良く処分させるだとか。それとも城内でひそやかに噂される婚姻に纏わる何かしらが参与しているのか。いたずらに思考を転がしているのは、外の世界に対する意識を紛らわせたいが為の防衛反応にも近かったのかも知れない。騎士たちの余計な意識や集中を割くことがないよう、俯いた儘に息をも潜め、再びと窓掛けに指を伸ばすことも当然としてなかったけれど、喧噪の中で誰かが彼の名を呼んだ切迫した声だけがいやに鼓膜を反響させた。――速度だけを不安定にさせながら、周囲の騒ぎさえ除いてしまえば箱の中に居る分には平素の外出と変わりはなかった。窓掛けの影越しに注ぐ橙色の揺らめきも落ち着いて、暫く。開かれた扉の向こうに佇むは上着を羽織らぬ馴染みのない姿であって、思考の端へと意識的に追い遣っていた誰かの声を、咄嗟に覚えた感情を、思い起こしそうになる。ゆうるり、こうべは左右に振られた。差し出される手をみずからは幾つ振り払えば気が済むのか。けれど飽きず差し出されるそれに、きっと何処かで安堵をしていた。姉が日常的にその手を取っているならばそれが良い。彼は飽く迄姉の、ロクサーヌの騎士であり、みずからが容易に触れて侵して良い存在ではなかった。――ただ、逡巡の間を置いた後。小さな身体は少しだけ、開かれた扉の方へと移動する。進行方向に向けて座していた体勢を転じ、脚を外界に向けて放り出したなら彼と向かい合うような位置を成した。ふらり、ゆらり。ちいさな背丈では段差に爪先も届かない。)………お怪我は。(彼と、それから水辺に集う騎士や馬へと視線を滑らせた。何と無く立てられる予想は見えない振りをして、やがて睫毛が重たそうにみずからの膝許へ伏せられる。そこには皺も汚れもない布地が広がるだけ。)………大人しく、していました。――集中、出来なかった?(心細くなんかなかった。それだけ素気無く伝えて、扉を閉めてしまえば良かったのに。言葉が喉に閊えて、膝に乗る白いゆびさきを握り込んだ。)
(空は未だ無彩色の雲に覆われている。だから扉の先が殊更暗いとは思わなかった、けれど、狭いその空間に見付けた姿に翳りを感じたのは男のほうの都合か。伸べた手にいらえるものが無いことは、半分は想定内だ。だから笑みを違えぬまま少しだけ目を眇めた男は、素直に腕を下ろして不服を唱えず佇み続ける。屋外への道行きを示すように少し横向き気味にあった姿勢も、正面から彼女へ向きなおした。それで左腕の有り様が彼女の視界に入ることになっても。前腕に袖の上から巻いた包帯はまだらに赤く染まっている。露骨に出血の痕だが、止血は叶えられて今から染みが広がるふうではない。特段に見せびらかす意も隠し立てする意も無さそうに男自身がちらとそこへ視線を落としてから、すぐにまた彼女を向いた。)無いとは言えませんが、まあ想定範囲内だ。総員な。(傷からは痛みも熱も感じているけれど、紡ぐ語気は平然としていた。馬たちが落ち着いた後にでも、薬と治癒魔法を重ねておけば尾を引くものでもない。小隊らの負傷と疲労具合も、これを負った瞬間に急いた声を上げた同僚にとっても、整理してみれば全て順当。そうしてそれには、護衛対象たる姫が不必要に騒ぎ立てないことも功を奏していた。職務に忠実な素振りで、男は一度こうべを垂れる。)ご協力に感謝します。(大人しくしていた。その事実に含み無く一言紡いで、問いへ返す続きはまた軽やかになる。)んなことは無い。最優先が誰の頭にもはっきりしてる任務は遣りやすいほうだ。――そういう意味では、あんたには遣りづらいほうのお仕事なんですかね、今日のお出掛けは。(なめらかに唇を開くうちに、男の目線が緩慢に低くなる。不敬を改めない騎士は、胴を捻って彼女が佇む床に腰掛ける姿勢を取りながら、また右半身を向けるかたちで身を落ち着けんとする。彼女が外に出たくなるなら、あるいは既に扉を閉めてしまいたいなら大層邪魔であろうとは、様相を外から見る小隊らが居れば思ったかも知れないけれど、とりあえず外では未だ馬の世話やら自分たちの手当てやらに意識が行っているらしい。己が此処でのんびりしていることが姫が怪我をしていない証拠とするだろうし。そうした景色を振り返らずに、男の眼差しは意図もせぬまま彼女の手指に宛てられた。落ち着いたまま言葉は重なる。)信書を届けたら受取人からお持て成しを受けるだろう? その後はどうするんだ、そのままお休みになるか。町を見てこいなんてお使いも受けていらっしゃる?(向けた問いは単純な興味だった。先んじて時間繰りを聞き及んでいたなら、単に確認の響きになったかも知れない。視線が彼女の面持ちまで上がって、睫毛の向こうを下方から透かしたがる。)街の外には魔物が出るもんだ。魔物が出ないところに人間が住んでる、ってほうかも知れん。だから騎士は市民や貴人を護るために剣を振るうし、あんたは道中では護られててくれりゃいい。帰路も。
(生々しい戦いの傷跡だった。真白の包帯に滲む赤は、海馬の奥底に沈めた筈の夜会の日の衣装すら思い起こされる。彼の髪に灯された焔の色よりも重苦しく、然し目を逸らしてはならない現実だった。それこそ怪我を認めた際には咄嗟にひとみが眇められたけれど、そこから大きく表情が崩れることもなければ傷口に不容易に触れることもなかった。生憎と妹の魔力は体躯の成長のように常人のはんぶん程度しか持ち得ず、小隊にはそれこそ救護を担う騎士も居るだろう。素人が安易に触れて良いものではなく、それらの負傷を招いた原因にこころを擦り減らすことだって結局は自己満足に過ぎない。宙に流れる彼の長い髪を見遣りながら、嗤ってしまいそうになる程無力な自分に呆れるように、ちいさな吐息をこぼした。)わたしに何かあれば、すべてあなた方の責任になる。……理不尽なものですね。わたしのいのちなぞ、もとからはんぶんしか持たないと云うのに。誰かを護る強さを誇る者が、非力なにんげんを護る為にいのちを落とすだなんて、本末転倒にしか思えません。(それは彼に当てたことばと云うよりも、限りなく独白に近かったかも知れない。誰かの犠牲を払ってまでいのちを掬い上げられる程の功績を齎した訳でなく、寧ろ禍いを呼び起こすとされる双つ子の片割れ。彼が腰掛けようとその非礼振りを今更言及するでなく、まるで迷子が父母の到着を待ち草臥れたように、叱責を受けることを前に拗ねてでもいるかのように、魔物に、或いは剣にいとも簡単に斬り落とされてしまいそうな足を空に揺らしていた。)遣いと云う程ではありませんが、折角の機会だからとは。……歓待を受けても困るだけです。あなた方が食事でもご一緒して、魔物退治の武勇伝でも聞かせて差し上げたらどうですか。その方が余程、益になりましょう。(ひとつ、清浄な水の気配をたっぷりと含んだ空気を深く吸い込み、"平素"の攻撃的で無情なロクサーヌの様相を手繰り寄せる。道中に危険と遭遇しても、負傷者を量産しても、それを宴の肥やしにしてしまうようなこころのない国の厄災を招く忌み子。何れにせよその伏していた視線の先に灯る何ががあれば、目蓋を持ち上げてそちらを見遣った。怪我ひとつしても変わらぬ彼に騎士の覚悟を見て、近しい距離で髪とおなじ焔色のひとみを覗く。)――……あなたは、護られるよりも護る方を選んだんですね。(それは恐らくもう間も無く、妹も選び取らなければならない選択だった。水気を帯びた風が馬車にも流れ込み、けれどひとつしか開かれていない扉では、吹き抜けることもなくその場に留まる。まるで双つ子の澱みのようで、一度だけ強く瞬きをした。)時間にあまりに余裕があるようなら、父に進物でも選びましょう。……手伝って下さいますか、バートラム。(怪我をした彼に気遣いのことばひとつ、十分に手向けられない。これが妹の精一杯の振る舞いだった。)
ハハ。お持ちの命ははんぶんで、担う責が一人分とは随分とご苦労をなさる。オレの命はあんたに重いですかね。(自虐にも捉えられよう“半分の姫”の言動へ、否定も紡がず笑う有り様は、後ろで聞く耳があればやっぱり卒倒されたかも知れない。馬車の床に座し、開いた扉に軽く背を預けながらゆったりと頬に拳を添える頬杖で、男の語気は純然と感心すら帯びる。ずっとあった物思いの端が一瞬だけ思考を先んじて唇から零れても、男のそれも問いより独白に似ていた。彼女に何かあれば男が責を負う。どれだけ理不尽でも、それが姫というものだ。今日これから向かう先での予期についても。)残念ながら、困った顔をせずに笑って見せるのがあんたの仕事の一つらしい。武勇伝は一向に構いませんがね、披露した際には我が姫にも顛末を褒めていただけるんで? ……あるいは、また日を改めた後にでも。(国王の名代として持て成されて、それを労ってやるのが、信書の配達に伴う彼女の任務だと認識している。そこに同席して場を盛り立てよと命令が下るなら己としては容易い話であったが、それとて彼女が辞する前提は無く。見仰ぐ目差しを違えぬまま、ゆぅるりと頭部を傾けた男は揶揄めく調子で目を眇めた。褒賞に拘るつもりはないくせに、ひとひら覗いた少女の棘の所在と、その向く先を探るように。これまでなら一夜繰り延べでほどけてきたように思うが果たして。抱いた興味は個人的な興味の域を出ないまま、けれど彼女の双眸を覗いて聞こえた次の言葉には、感情以外の多くから一度唇を噤んだ。微笑は変わらない。否定は浮かばなかったが、積極的に肯定もしないで、)護られるのはお嫌いか。(此度も不行儀を重ねるよう問いで返す。語尾の上がらぬ語気は得心も含んで、細い吐息が連なる。無音の気息は彼女の言葉を遮るような圧は持たず、寧ろひとまず我が身の思案を流すような気配をして、男の声はすぐに軽やかさを取り戻した。)勿論、お付き合いしますよ。――そんじゃ、その余暇を得るためにもさっさと支度を進めてきます。今日は茶と炭酸水ならどちらがお好み?(職務の一端というより私情の付き合いみたいな言い様になったが、さてこれも毎度と受け取ってくれるだろうか。緩慢に立ち上がり直しながらの二択は、彼女の嗜好の変化を前提してというわけでもなく、単にこの出先でお出しできる選択肢が限られているゆえ。甘さの軽い希望は受けられるけれど、茶葉の細かな希望だの果実の香りだのといった注文は仮にあっても丸無視の運びである。それから馬車に背を向けよう男は、再出発までの諸々を整えよう。続きの行程はまた遠慮なく同乗するとして、飲み物の支度は彼女次第。小隊の治癒師に無事捕まったことは適宜動くようになった腕の有り様で知れるだろう。後はまた恙無く回る車輪で、目的地には程無く着くはずだ。)
(水辺に佇む騎士のひとりが此方を振り返ったのは、単なる偶然か或いは風が運んだ彼の音吐に動揺を禁じ得なかったのか。あまりに気安い様相は疾うに妹も慣れたものだけれど、他者の介入による新鮮な反応が何だか少し滑稽だった。彼の言葉によって思い起こされる父の問い。預けられた覚えのなかった重い命の存在に、知れず眉間は困惑を生む。)あなたの命はあなたのものでしょう。私のものではないし、簡単に託して良いものでもない。わたしの騎士なら、あなたの命もちゃんと護り通して。名誉の負傷なんていらない。そんなもの、………弱者の、云い訳です。(自らの所為で負った痛々しい傷痕を前にしておきながら、態とそんな云い回しをした。それしか知らなかった。彼の云い付けを守って大人しくしていた馬車の中より冷えたこころを表せられない儘、くちびるを引き結ぶ。痛い程に知っている。みずからが何よりも、ちっぽけな弱虫であることを。)そうですね、全く遺憾ではありますが。……褒美は何をご所望ですか?相手方の反応によっては、城に帰った後で検討するやも知れませんね。(幾ら願望を転がしたとて、街に至れば似合わぬ薄ぺらな笑みを口端に浮かべ、王族らしき振る舞いを気取るのだろう。姉とそっくりおなじ造りをしているのに、妹にたおやかさは似合わない。悪戯に笑む様を認めれば煩わしい色を隠しもせず、しかし聞く耳だけは傾けておいた。帰城した先で姉は笑って赦すだろう。早く姉の許へ帰りたかった。遠くに置いて来た姉へと馳せていた思考が、彼の言葉の理解をほんの少し鈍らせる。彼のひとみを幾ら覗いたって、声音を幾ら探ったって、彼は妹に何の欠片も寄越さない。余程彼の方が王族として生きるに相応しい性根をしている。)好き嫌いなんて考えたこともありません。………私にも、護りたいものがあるだけです。(殊更余計な感情を含まぬよう、声を潜めた。このちいさくほそくたよりない身体で吐いた戯言を、彼は一笑に付すかも知れない。それで良かった。それが、良かった。提示された選択肢には思わず幼くひとみが瞬く。"今日は"と附随されたその先に小さく呼気を震わせ、行儀の悪い格好を整えるように馬車の中へと舞い戻る。)――……紅茶。(姉は桃や苺と云った果実茶を好むけれど、妹は匂いや味の濃いものはあまり得意ではなかった。それでも敢えて何処か懐かしむような声の温度を抱えて要求をした。嗜好だけでも、ただ一時姉に成り代わってみたくて。――集う街人の目的は王族の存在を眸にすることか、忌み子に対する好奇心か。何方にしても妹の成すべきことは変わりない。馬車より出づる時ばかりは騎士の手をほのかに借りて、妹は淡やかな笑みの仮面を纏った。過剰なまでの歓待を受ける仕来りは辟易とするばかりとは云え、当然が如く晩餐の席に着き、街の地産を口にする。長や街の話を頻りに聴きたがるのは、みずからについての発話の機会を避ける為。騎士の面々にも会話の矛先とやわらいだまなじりが灯す微笑を向け、そこには恐らく棘を隠した末姫の姿があっただろう。)
(己の命は己のもの。身分が平らかな者同士であれば当たり前に過ぎない言の葉にもまず可笑しげに片眉が跳ねる。)違いない――と言って差し上げられたらよかったが、そうと断じれぬことは間々ある。だがまあ、我が姫の願い事としては請け負いましょう。(この姫君が王室内で実権を持たないことなど理解しているが、なればこそ余計に、権を持つ誰か次第でこの首なんて幾らでも飛ばせる筈。不安定なままの立場で我が身も護りきれとは、無茶振りを受けた心地の上で悪い気はしなかった。いずれにせよ前線での負傷は偏に己の技量の問題だとは受け止めている。予定される歓待が彼女にとっての前線なれば、否応なく被るだろう姫君の仮面を横合いから眺めるのも勝手に楽しむことにしよう。ねだる褒美には「さて、」とまずいらえを区切ったが、これは単にひととき思案に保留したもの。笑いながら、幾重も思考を巡らせることは確かに苦ではなかった――腹芸も交渉事も経営も、生家に置き去りにした多くとてほんとうは別に嫌いじゃない。面倒ではあるが。そのくせ何ゆえ此処に居るのかと自問したときの、自答の一つを今し方彼女の声で耳にしておきながら、笑み型の唇は結ばれたままだ。急かぬ意識で少女の紡ぐ言の葉を拾いながら、浅く傾いだ頭を緩慢に戻して小さく首を引いた。)では、“それ”を護るあんたがオレに護られない道理は無ぇな。――褒美は持ち帰っていただくほどのことじゃない。朝いちばんに言葉で褒めてくだされば、それで。(入れ子構造の先は、今の流れには追究しない。そうやって揶揄の欠けらも滲ませなかったことも、思い出したように話を混ぜ返したことも、彼女にはまた煩わしさを感じさせるだろうか。帰城の前を指定したことに、当然ながら他意は無く。暁を越せば彼女が見せるはんぶんというものは面を移ろわせると思っているのだ。花弁をおもてにする日になら、それこそ笑って叶えてもらえると自惚れてはいて、嗜好に得られた答えにも軽やかな是を返す。後にお出しした紅茶が香料の無い柔いばかりの味にあったことも、そもそも普段侍女が淹れるほどの得点圏になかったことも、お叱りがあるなら「ハイハイ」と雑に受け流す一幕があったのやも。恭順よりも不躾の気安さが表立つなりを違えずにいても、目的地到着に合わせて外部の人間の目に晒される折りには、外連を気取ったりはせず姫の手を預かろう。上着は血の付いていないものを着込み直して、傷痕はしばし袖の内側に伏せたまま。王城からの順路に魔物と遣り合うことは此方でも周知のことだろうから、殊更に無傷を装いも露骨に見せびらかすこともせずに、ただ晩餐への招きをにこやかに受けて話の種にはした。ついでのようにこの辺りの警備体制に騎士たちのほうから話を及ばせたのも、何ら不協和の生じる様相ではなかったろう。その間における王室の姫が、何かを語るよりも食するほうにその口の多くを用いていたとしても。――周囲から目立たぬ範囲として、彼女自身はそれなりに、男の視線は感じたかも知れない。いちにちの任務が恙無く終えよう後、さて次に顔を合わせるのはまた夜のうちか、暁を越した先となるのか。)
(彼の付き人としての命となれば確かに、この手に預けられているものはそれなりに重たいものかも知れない。然し騎士団への在籍が守られるならば付き人としての存在が危うくなるところで痛手なぞ浅いように思われるのは、過ごした時間に差異のある姉と妹の間で認識の違和が生じているのか。ならば失念していても許されよう。妹が夜を越えて彼と共に在ったことはないことを。咄嗟に息を呑み、強張った身体。――まことに彼は、何も察していないのか。募る懸念も、誤魔化すように嚥下した角のないまろい紅茶がぼやかしてしまう。文句を飛ばしたところで軽やかに受け流されてしまえば、それ以上の追及は叶わなかった。――滞りなく晩餐会を終え、宛がわれた豪奢な部屋へ早々に引き上げた昨晩。寝台より起き上がったのは、星が薄らと眠りを纏う、夜にも近しい朝方のことだった。昨晩用意させていた果実茶一式の給仕を済ませれば、強い林檎の香りが鼻孔を擽る飴色の水面を眺めた。立ち上る白の湯気。蜃気楼のように頼りなく揺らめく姉の残像。華やかな果実茶を飲み干したなら、未だ使用人の気配も薄い屋敷の部屋を抜け出し、廊下の窓より夜明けの太陽を長い間、見つめていた。――耳に馴染む足音が聞こえて来るのは、それからどれだけの時が経った頃合いか。)――……バートラム、(溢れたそれは、やわらかな声だった。喉許で林檎の花が開いたように、甘さを帯びた、彼に対する親愛と全幅の信頼をからめたような。彼を見上げるひとみもくちびるも曲線を描き、かろやかにその長躯へと駆け寄った。)おはよう、バートラム。傷の具合はどう?もう、ほんとうに痛みはない?(左の腕へ向けて差し伸べた指先。傷口に添えた手が躊躇いがちに見えたのは、その傷に触れることで彼に痛みを齎さないかとの不安に摺り替えて見えたら良い。)痛かったでしょう。ごめんなさい、わたしの為に。けれど、あなたのお蔭でわたしは救われました。怪我のひとつなく、憂いのひとつなく此処に在れるのは、あなた方の尽力があったから。昨夜のお話も素晴らしかったわ。この街の民を護る更なる発展に寄与することでしょう。ありがとう、バートラム。あなたはわたしの、掛け替えのない自慢の騎士よ。(衒いのない笑みをこぼせば、滑らせたちいさな指先が彼のそれをふたつほど握り込む。焔色を見上げる朝焼けのひとみは、邪気のない好奇心に満ち満ちて見えているものか。)朝市に出ましょう、バートラム。お父様へのお土産と、あなたへのご褒美と、それから小隊の皆様に労いの品を差し上げたいわ。朝市の活気や素晴らしさを感じることが出来たら、朝のお食事の場でお話しましょう。喜んで下さるかしら。(――その姿は。否、姿は平素より当然。纏う雰囲気、声音、表情、どれもを妹の知る姉に完全な擬態をした"ロクサーヌ"がそこに居た。彼と共に在る姉を妹は知らない。けれど窓越しより覗く姿や扉の向こうから届く声色、寝台の上で重ねられる彼との記憶を語る相貌、何より妹に対して振る舞われて来た17年の姉の無垢なすがたを頼りにして。みずからは、彼の良く知る姫の、姉の姿を取り戻せているだろうか。紅茶を注いだ陶磁器より得た熱であたためられた指先で、彼の手を幼く引いて見せる。)ねえ早く、バートラム。(それは一度も外の世界へ双り揃って出掛けることの叶わない姉妹の片割れが待ち望んでいた響きだった。)
(型に収まっていない自覚はある。それでも、或いはそれゆえに、“はんぶん”の少女は焔の瞳には常に一人だった。こうして見慣れぬ景色で夜を明かした後にも。早朝のうちに身支度を整え、大柄の身体をぐっと伸ばして息をする。全身改めた衣服は、騎士団の意匠を刻んだ剣帯とそこに佩いた一振り以外はまあ私服と呼べよう様相だ。このまま市井の通りに出ても、仕立てから貴族の類とは知れようが物々しさまでは無い。足を運んだ廊下にはまだ使用人の気配も薄いようだ、と感じたのに、どうやらそれより随分と早起きがいらした。貴人の客間を求めて進んだ先で、暁のひかりを浴びた人影と向き合うに至ったら、はたと呼気詰める感覚は一瞬未満。足は止まらずに彼女との距離を削った。男の歩幅と、少女が駆け寄る速度がきっとちょうど同じくらい。それを甚く馴染んだ視覚情報として、男の口角が上がる。)――ああ、おはようございます。お姫さん?(いらえる語気がつい昨日より幾らか和らいだのは、無意識だ。無自覚ではない。花弁の振る舞いに釣られたようなものだったが、これもどうせ常の事だ。ほろりと零れる息が笑って、左腕を差し出す所作も気構えの無いものになった。躊躇いを覗かせる彼女の手へ、こちらから強いて接触を求めたりはしないけれど、お好きにどうぞと謂わんばかり。折り皺も無く腕を包む袖を仮に捲ってみたとしても、腕には健やかな皮膚と肉があるばかりで昨日の患部には包帯も無い。丹念に探りでもするのなら、些少の継ぎ目みたいなものは感じられそうだが。其処までの戯れを求めるでなし、手や目に触れずとも連ねる言葉が軽く。)何せ騎士団にもこちらの屋敷にも優秀な治癒師がいましたもんでね。すっかり塞がってる。別に謝っていただくこたありませんが……(やんわりと苦笑を帯びたのもまた短い間だ。からりと笑みを深めて肯いた。)光栄ですねェ。小隊の奴らもそれは喜ぶでしょうよ。オレも褒美としては充分。(今更この男が遠慮するとも思われちゃいないだろう。ねだった通りに慰労と賛辞を言葉で得られたら、笑みに語気に含む上機嫌は素直なものだ。そういう気安さにあって猶――男は、常日頃接する花弁と今目の前にいる存在を区別しない。当たり前に同じ人間として扱って、逡巡の欠けらも見せずにその手を取った。指先に感じていたくすぐったさを広い掌に収めて、「御意に。」穏やかな一言が少女とつま先を揃えて屋外を目指す。屋敷を出て晴れ澄んだ空の下を往けば、賑わいの通りにはすぐ辿り着けるだろう。小さく長閑な町だ。いざなう手は紳士が女性を導くものではなく、従者が主に添わるものとして、雑踏に踏み込んでも小さな身が人波に揉まれることはない。背も肩も自然に庇う位置取りをして、向く先はお任せしよう。――その中途に、)なあお姫さん。(やや身を屈めてそそぐ声は届いたろうか。別に、誰とも知れぬ声に呑まれても構いやしない程度だったけれど。)あんたの護りたいものってなんだ。……それはオレがあんたに就いてるより、離してやったほうが叶う話なのか?(雑談のように掘り返した話、棘を見せる時分より花弁を纏う折りのほうが御しやすいと判じた打算を取り繕う気も無い。軽んじた心積もりもない、とも、いっそ透けていてほしいところだが。)
(彼と共に在る姉の姿を知らないことと等しく、姉と共に居る彼の様相についても、妹は何一つとして知り得なかったのだと今更ながらに思い至る。ひとつの朝を迎えたことで彼のやわらかな音吐が鼓膜に絡む。無防備に差し出される、彼を騎士たらんとする大事な片腕。袖を捲るような不作法な真似はしなかったけれど、傷の刻まれた肌の上を幾度か布越しに撫ぜるようなことはしていただろう。実際その傷が治癒していようが開いていようが、此度は彼の言葉を無条件に信じると決めていた。正真正銘の姉の代わりとなることを決めた、夜明けの時分に。――最初から、こうすれば良かったのだ。誰かに疑われることのないように。怖れられることのないように。末の姫が"はんぶん"と揶揄されることのないように。あまりに清らな姉の心身が侵されてしまうことのないよう、同じすがたで守らなければならないと思っていた。容易に穢されて良い存在でないことを、纏う棘で知らしめなければならないと思っていた。けれど棘は、妹は、既に不要な存在に成り果てているのかも知れない。だってもう、妹が拙い棘で護らなくたって。圧倒的な強さで得体の知れぬ魔物さえも薙ぎ払い、燃やし尽くすことの出来る彼が居る。大きな手に包まれながら、重なる手は幼子の如く空へ揺らした。あざやかな露店をあちらこちらと眺めていたならば、いつかのように近しい距離で妹はしずかにまたたきをする。)――……そう思っていたんですが、わたしの思い上がりだったみたいです。(露店のひとつに足を止め、ゆびさきは硝子の薔薇を模した飾りのついた髪留めを掬った。頭上にかざせば陽光が差し込み、薄桃の影を咲かせる。今までであったなら、姉に何かしらの欠片を買い求めていたものだった。緩ませたまなじりはそのままに、ころり、髪留めを函へと戻す。もう、必要の無いものだった。)わたしが護りたかったものは、わたし自身。だって、あなたは今こそわたしの付き人だけれど、基を辿れば国の抱える騎士団のお方。父の命令には逆らえない。わたしは直に成年を迎え、国を出ます。その時あなたは、わたしに着いて来ては下さらないのでしょう?(重ねた儘の手を引いて、賑わう露店のさきをゆく。流れるように溢れる言の葉は、まるで姉が妹のくちびるを、声帯を、代わりに動かしているかのようだった。やがて妹には馴染みのない酒類を扱う露店に辿り着いては、細工の為された瓶へと無邪気に相貌を寄せる。父に対して口に入れるものを贈ることは躊躇われるが、形が遺るものは義母が嫌がろう。毒味役の仕事を増やすことは申し訳無く思えど、悩むのも億劫で香り高い美酒に早々に決めてしまった。「あなたと小隊の方々もお飲みになる?」褒美の選択を訊ねながら、いらえに応じて買い求めただろうし、否であったなら一瓶のみ手許に迎えて、朝市をまた巡った筈だ。)わたしが何れかの国に嫁ぐことになっても、バートラムが着いて来て下されば良いのに。………わたしの傍に、ずっと。(さすれば、私は。馳せた思考も取り成すような笑みに隠し、彼を見上げる。姉が言葉を躊躇わせる時のように甘えの中にひとしずくの苦味を垂らし、重ねた手を繋ぎ直した。)………ごめんなさい、忘れてね。云ってみただけ。(けれど叶えば良いと、そう思う。はんぶんのあの子は、ひとりをとても厭うから。)
〆 * 2022/11/9 (Wed) 09:57 * No.111
(衣服越しの指先は妙にくすぐったい。実際に肌で覚える感触としてというより、いとけなさで擽られたのは胸裏のほうである気もする。今唇が引き結ばれたのはむず痒さを抑えるためで、傍目としてはまた要らぬ苦味を含んだようであったかも知れない。他所事を思惟の端に蓄えつつも、足取りは確かだ。雑踏もおよそ見下ろす角度になる上背から向かう先を確認して、賑わいをわざわざ抉じ開けるようなこともなく、男の腕などに不意の接触があれば至って穏当にその相手と言葉を交わした。此処に囲う存在が王室に連なるものであるとは、彼女のほうが強いて知らしめたいふうでもなければ主張するに至らない。暁色の目差しがひとつ少女らしい装飾品に留まったのを知っても、共に足を止める以外で何をするでもなかった。気紛れよりは物思いを含んだようで、けれど愛着を見せない。一連の所作を視線で追うまま、言の葉に耳を傾ける。この姫が語る“わたし自身”とは、問いの答えとしてはぐらかされたとは思わなかったけれど、字義通りの存在のようにも感じなかったのは何故だろう。男の耳と知識は答えを持たない。ただ強く自衛すべき立ち位置であることは納得できる。人目を避け、新たな人事を厭い、細かな掛け違えに繊細に反応する。そうしながら無防備なことが多い。彼女が棘を纏う理由が外敵と判じたものにあって、それを休める瞬間をこの男にゆるしているなら、)――……それは(相槌程度に何か言葉を紡ごうと思って、けれど曖昧に途切れた。彼女が国を出るとき、それが王族としての婚礼に纏わる話なら己に随行の命令までは下るまい。慣例を覆して連なろうとは、少なくとも男自身からは申し出ぬだろうと自分で知れた。そうでしょうねと、音吐に至らず言外の吐息が滲ませて笑う。その尻切れ具合は買い物へ意識と会話を移ろわせて溶かした。地産の酒なら視察の土産には充分だろうとも。店主には男のほうが名乗り、後で町長の屋敷に届けてもらうよう話を付けようか。受け取りと支払いはそうやって後で纏められるから、注文は遠慮なく増やそう。「頂けるもんは喜んで。」素直な喜色を弾ませた褒美は小隊共々おいしく頂くとする。彼らからはまた不躾な奴と呆れられることだろうが、それ込みで話の種は多い。――そうした他者との話題のうちに、きっとこの一瞬は含まれない。)……。(見下ろす双眸が細められた。笑みに似はして、そればかりともない、含んだ躊躇いは彼女が見せたものときっと近しい。皮膚の厚い手の中にやんわりと彼女のそれを取ったまま、唇が吐く息はかろく。)ああ。(気安い響きが朝市に溶ける。御意に、と答えて差し上げるべきだったのかも知れない。けれど男は騎士としてそう応えてしまったら、実際にそうする自分自身をよく知っていたから、軽口の域で肯いたのは抜け道みたいなものだった。そぞろ歩きに実りを求めぬ他愛無さで言葉を交わしながら、忘れることも考えないこともきっと出来ない。少女を囲う円環に感じた曖昧な綻びを、変わらず探るように見据えている。熱でなぞる亀裂を。)
〆 * 2022/11/12 (Sat) 06:47 * No.120