(宣誓)
(まったくもって、順調な行路だった。少なくとも、ぶあつい雲に太陽が呑まれきってしまうまでは。砂利敷きの道が土に変わり、まとまりのない泥が混じって車輪をがたつかせ始めるにつれて、更にはどこからともなく染み出す霧が、小隊の進行を妨げていた。予定は大幅に遅れて、間もなく日没を迎えようかというころである。この天気でなければ、ひらけた木立の向こうにうつくしい夕陽を望めただろう。照り映えるこがねの葉を眺め、苔岩の陰に咲く小さな花弁を探して楽しむ道中であったかもしれない。今はただ、白金を溶かしこんだような、とろりとしたもやが周囲を取り巻き、目に映るすべての色彩をぼかし、ぬかるむ道の先を曖昧に隠している。立ち往生とまではいかないが、慎重に進まねばならなかった。護衛の馬車に貴人を乗せているとなれば、なおさらのこと。)――姫さま。(並走する馬上より、車中のひとへ声をかける。濃い色の髪が小雨じみた霧に濡れ、男の頰骨にいっそう暗く張りついていた。)もう少しの、辛抱です……。じきに、森を抜けて……いくぶんか、よい道に出ますので……。(馬車に揺られるあいだは、思うよりも体力を消耗するものだ。不測の事態に文句を言うひとではないと知っているから、無理をしてはいないだろうか、という確認を兼ねて顔色を窺った。朝からゆっくり言葉を交わす暇がなかったというのもあって、彼女の様子が気にかかる。)……おつらいことは、ないですか。なにか……気の紛れる話でも、いたしましょうか……、(車輪の軋みや、蹄の音だけが延々と響く道のりである。まずい語り口でも、ちょっとした退屈しのぎにはなるかもしれない、と切り出しかけて――男は素早く、腰もとに手をやった。灰色の梢を低く掠め、頭上をよぎる影を見たために。大きく広げられた翼は猛禽のそれに似て、国境付近の森林によく出没する魔物の一種だとすぐに知れた。隊のひとりが弓を構え、術をまとわせた矢を射当てる。相手は高い知性を備えるわけでもなければ、毒性のある爪を隠し持ってもいない。小隊が集うまでもなく、たやすく追い払えるはずだった。しかし――泣きむせぶ幼子の叫びのような、耳をつんざく鳴き声。霧を幾重にも切り裂いて降る、異形の慟哭。あおげば、おびただしい数の羽撃が、白くけぶる空を埋め尽くそうとしている。群れの渡りに出くわしたか。隊列に緊張が走り、怒号が飛びかう。薄らと視界の霞む前方で、滑空する鳥影と斬り結ぶ団員らの姿が見えた。姫ぎみを退避させる時間はない。御者に目顔をやって馬車を停め、おのれも鞍から飛び降りて得物を抜くと、輓具を断ち切って馬だけを放つ。)レイチェルさま。鎧戸をおろして……決して、外へ出てはなりません。(窓を覗きこんで言い含める声の抑揚は、普段と同じ、ごく静かなものだった。動ずる気配のない、凪いだ目も。)
(王領の端に位置する小さな町へと、手紙を届ける。いかなる理由で使者に末の姫が立てられる運びとなったのかは判じかねたが、もとより誰ぞの心をいたずらに訝しみ、その腹づもりに悪意を探ってやろうという性質ではない――しかしながら。出立の前夜、国王たる父の執務室まで赴き、じきじきに親書をあずかった際、ふと、かけられた言葉が不思議と耳に残ったものだ。あくる日。空は、遠き山々の峰にうっすらとかかる冠雪を見はるかすほどに晴れわたり、馬車を走らせてしばらくは、窓から景色を眺めて楽しむこともできただろう。順調に進んで、およそ半日。こたびの公務には、付き人たる騎士をはじめ、護衛として騎士団より一個小隊を借り受け、馬車のうちには侍女をひとり伴わせていた。いまも隣に座す彼女は、その母君の代からよく仕えてくれていて、たまさか縁者がくだんの町のそばに住んでいるらしい。ちょうどよい里帰りね、とほほ笑んで、いささか恐縮するような相手の肩をおかしげに叩いたやりとりが、いまとなっては昔のよう。街道からはとうに外れた木立のなか。悪路に車輪はがたつき、天候ゆえか行程は遅々として、懐中時計の針は間もなく日没の刻を指そうとしている。そんなさなかに。)ええ。こちらは大丈夫。お気づかいをありがとう。日が暮れきらないうちにどうにか、抜けられるとよいのだけれど……。(小窓を半分ほど下げて顔を覗かせると、こちらを窺う騎士にほほ笑んだ。――霧が、ずいぶんと濃い。長らく揺られて疲労はたしかに感じているのだけれど、こうもけぶる視界を目の当たりにすれば、それがつとめとはいえ、彼らのほうこそ気にかかる。気の紛れる話でもと相手が切り出しかけたのと、かたわらの侍女が不安げに腰を浮かせかけたのとは、ほとんど同時のことだったか。「このあたりにはおそらく、魔物のなわばりが……」。進言の語尾を掻き消す、異形の慟哭。わざわざ補足をせずとも、騎士たちはすでに悟ったはずだ。たちまち隊列に緊張が走り、前方からはちらほらと怒号も。馬車が停まった。)わかった。あなたも、どうか気をつけて。(剣を振るう身であるとはいえ、のこのこと出ていっては、なによりわが身が足手まといとなる。しかと頷き、駆け去る騎士を見送ったあとは、侍女と手分けをして鎧戸を下ろそう。憂慮はない。万が一にも魔物が馬車を食い破り、乗り込んできた場合に迎撃する用意こそあるものの、いまはただ、本職の者に任せて待つがいちばんの得策。礼装のペティコートの下に忍ばせた、お守り代わりの短剣のかたちを確かめるよう布地の上から掌を当てて。まぶたを伏せては、いつもとなんら変わりのない彼の様子を思い返していた。)……心配ないわ。キュクロスの騎士はみな、つわものぞろいだもの。(隣へのはげましか、みずからへの言い聞かせか。やがてふたたびの静寂が戻るまで、祈るような気持ちで息を詰める。)
(“あなたも、どうか気をつけて”――その声が、男にはなによりの加護となる。車体に描かれた紋章から手を離す前の一瞬、目を合わせて軽く頷いた。たとえば、心配ない、と手をやわく握るように。)恐ろしいことは、なにもありません。(「頼みます」と短く侍女に告げ、それだけ残して馬車を背に駆けた。両手に構えるひと振りを空にかざし、視界を曇らせる霧ごと鳥影を薙ぎ払う。鈍く光る切っ先で、ねじり貫く。切り裂き破る。枷をはめられた囚人のような、倦み疲れた手脚を重く引きずって、叩き割る。蹴り砕く。磨り潰す。力にまかせ、相手を確実に屠るための剣を打ち振るい、害なす一撃を馬車まで届かせはしない。時おり屋根にぶつかって音を立てるのは、とうに事切れて刎ね飛ばされる頭や翼の残骸だ。――やがて、ちょうど一曲を踊り終えるくらいの時を経て、耳にこびりつく禍々しい叫びが絶える。辺りを漂う霧は薄れ始めて、代わりにぼうっと浮かびあがる影。無数の羽根を敷く木立に、山と積み重なる死骸。ひとのものとは違う、すえた血のにおい。墓標じみて立つ騎士たちのサーコートは泥水を吸ったようになって、見られたものではなかった。男もまた、白の衣をどす黒く汚した姿で息を吐く。馬車は無事だ。まずそれを確かめ、濡れた頰を手の甲でぬぐって、かすかに顔を顰める。まなじりから顎にかけてひとすじ、鉤爪で裂かれた傷が走っていた。)――姫さま。……お障りは、ありませんか。(車体を軽く叩いて声をかけるあいだに、被害のほどが伝達される。放した馬は暴れず利口にしていたようで、木陰で怯えながらも怪我を負ってはいない。人間のほうは、多くの者が鋭い嘴や爪を受けて悪態をついていたが、これはめいめいで対処できる。すぐに体制を整えて、支障なく行路に戻れるだろう。)……お聞きになったとおり、です。日暮れまでには……街道へ、出られるかと……。(小窓を覗き、車中のふたりを窺い見る。気丈なひとであっても、間近に魔物の断末魔を聞けば気分のよいものではないだろう。胸を悪くしたようであれば、冷たい水や、気つけの用意もある。闘いのあとの常で、昂りの残る騎士たちの、血気盛んに語らう声が木々の合間に響いていた。男はそうした場から所在なく逃げてきて、日ごろのひっそりとした佇まいでいる。しばらく討伐から離れて、ひとりの傍らにあり続ける日々だった。疲労を覚えるより先に、変わらず剣を振るえたことを安堵する思いがあった。)
(短くまなざしを交わし、頷き合うかたわら、彼がまとう白いサーコートの背越しに、輓具より放たれた馬影を見とめる。なにゆえに、と首をかしげてはっとした。なにせ、突然の魔物の襲来だ。これが野に生けるものであればいのいちばんに逃げ出していてもおかしくはなく、よくよく躾けられているとはいえ、不測の事態に暴れないともかぎらない。怯える馬を宥めすかして即座に落ち着かせるのは、熟達の御者でもむずかしかろう。おそれいななき前脚を振り上げ、その勢いで馬車を横転させられでもしたら大惨事。それを防ぐための処置であるのだ。思わず感心しては、その冷静な判断に、相手が少しの動揺もしていないことをあらためて知る。心づよかった。――女の、あるいは幼子の、泣きむせぶような禍々しい叫び。前夜にかけられた父王の言葉も相俟って、肖像画でしか知らぬ母を、禁忌の双子として生まれ落ちたわれらが身の上を、どうしたって重ねてしまう。こちらが耳を塞がず、掌を腿の上に当て動かずにいるからだろう、隣に座した侍女もそれに倣うよう、断末魔に耐えながら、対の手と肩口に手を添え、つつみ込んでくれている。ときおり、鎧戸や屋根に“なにか”がぶつかるたび、そのひとの身体が小さく跳ねるさまを申し訳なく思いつつも、しばらく、生者のぬくもりをわけ合うようにじっとしていた。――やがて、体感としてはすこぶる曖昧だが、ふと異形の慟哭が絶える瞬間がおとずれる。どちらからともなくおもてを上げ、そろりと窓のほうへと目をやった。ほどなくして、ふたたび呼びかける声が聞こえて、)……ええ。おかげさまで、大事ないわ。“外”は……ずいぶんと数が多かったのね。怪我をしたひとは、(尋ねかけたところで、被害状況が伝達される。総じて軽微。しかしながら、戦闘となれば当たり前のことだが――まったくの無傷というわけでも、ない。)傷薬には、余裕があります。手当ての布も。すべての難が去った……というわけではないでしょうから、可能な範囲で魔法は温存して。ですが、使うべきときには使ってください。少し……我慢を、させますね。(こうして畏まった口調に戻るのは、これが公務であるからだ。報告を上げた騎士団員をねぎらい、その背を見送れば、あたりに控えるのは付き人がひとり。それがわかれば、口ぶりは、日ごろのごとくいささかくだけた。)そうね。……ありがとう。では、…………。!(引き続き、よろしく頼みますと。そんな旨のことを伝えるつもりだった。髪に隠れきらぬ頬に、まなじりから顎にかけての裂傷を見つけるまでは。)ジル、……ベルト。あなた、……怪我を、(おのれに治癒のみわざの素養はない。心得こそあるが、それも応急手当がせいぜいだ。それがいまはひどく口惜しく、小窓をさらに下げては、青い顔で身を乗り出そうと。)
(非常の事態に慣れぬご婦人であれば、心疲れて平静を失ってもやむないことだ。しかし彼女は顔を上げ、正しく指揮をとり、飲み水を手ずから与えるように労をねぎらう。低頭して敏捷に駆けていった若いひとりは、いたく感じ入った様子だった。知られていないだけだ、と胸のうちにつぶやく。溌剌とした心に、聡明で思慮深い精神を持つひと。そのやさしげな声を聞くために、その唇が悪戯めいてほほ笑むところを見るために、誰もがひなたに誘われ出たくなる。末の姫がどんな人物か知られさえすれば、彼女のありかたを軽んじる、口さがない輩など現れまい。凛としたあるじの姿が男には誇らしく、同時に歯がゆい思いがくすぶった。)あ……姫さま、しばらくは……外をご覧にならないほうが……。(掃滅が済んだあとの空気はよどみきり、瘴気とも呼べる密度で地表に溜まり始めている。狩り尽くされた禍つ血が一面に飛び散って、梢を重くたゆませ、黒ぐろと滴り落ちる先にも骸の山。新たな魔物をおびき寄せる前にどうにかしなくてはならなかったが、なにせ数が数だ。周辺の警備を兼ねて、別隊を差し遣わす手筈になっていた。ともかく、この惨状を清らな瞳に映したくない。視界を遮るべく腕を上げて鎧戸を掴み、彼女を窓の奥へ押しとどめようとして、その視線がおのれの右頰へそそがれているのに気づく。)……大した、傷では……その……剣を振るうのに、支障はありません……。(青ざめた面差しを目にして、恥じ入る仕草で髪をたぐり、顔の半分を覆い隠す。言葉に偽りなく、そう深い傷痕ではない。今は魔物のそれと混じって頰を汚す血も、じきに固まるだろう。片方の瞳をゆっくりと瞬かせ、次に口を開くまで、束の間ためらった。)……ジルは、大丈夫です。レイチェルさま。大丈夫ですから……。(親が我が子の耳もとで、よく眠りなさい、とささやき、すべての不安を取り除いてやりたいと願うときの、やわらかな声の形。愛し子の髪を撫でて毛布にくるむ代わり、まなざしを交わらせて、唇をほとんど動かさずに、葉擦れに紛れるほどの小さな音を残した。ひと呼吸ぶんあとには、その余韻も薄れて。)――姫さま。隊はこのまま、先を急ぎますが……我々が、あなたを護ります。なにがあっても、必ず。……どうか、安心なさってください。
(静寂の戻ったのちの呼びかけに、まず動いたのは侍女であった。はじめに窓を半分ほど下ろし、鎧戸の内側のかんぬきを外してからそうと押し開く。ひとの顔がひとつふたつ収まるくらいの、ささやかな隙間。騎士らの報告はそこから。どうして、ひと思いに開け放たないのだろうと首をかしげて――それがあたりの惨状をおもんぱかったがゆえのものだと、目隠しへ乗り出すさまにようやく察する。)…………あっ、(山と積み重なる死骸を、無数の羽根を敷く木立を、この目に映したわけではない。周囲の人びとの心くだく気づかいのおかげで末の姫の視界はまもられて、しかし、窓を開けたことで染み入るような外気がおのずと、こうも嗅覚に訴えかける。ひとのものとは違う、すえた血のにおい。つい、その右頬に走る裂傷にばかり注意が向いてまなざしは釘づけとなっていたものの、よくよく見れば、彼らのまとう白いサーコートさえも、ところどころもとの色がわからないほど、ぐっしょりとしとどに濡れていた。あまりにも生々しい、戦闘の痕跡。)……でも……、(言い分はわかる。眼球を傷つけた一閃ではないようだから、そうであればほんとうに、相手の言うとおりなのだろう。けれど、)髪で隠してはだめ。深い傷ではなくても……汚れを張りつかせたままだと、治りが遅れるもの。(黒ぐろとした禍つ血が、おもての半分ほどを覆い隠す長い髪にもまとわりついている。せめて拭わせてほしいと、こちらもたぐって差し伸べた手巾は彼に届くだろうか。よしんば届かずとも無理に食い下がることはしないが、多少、かなしげに眉を垂れさせることはゆるしてほしい。かりに受けとってもらえる場合には、白いハンカチーフはそのまま、わが騎士の手のもとに。やがて――言い含めるような、されどやわらかな声が、たがいの距離でしか聞きとることのかなわぬささやかさで繰り返す。大丈夫。つい先日の中秋、収穫祭でねだった愛称をみずから口づかせ、付き人としてのつとめのほか、その心までをも告げるように。動揺はいくらか落ち着き、まなざしは揺らぐままながらも、窓の奥にてふたたび腰を下ろした。)“それ”について不安をおぼえたことは、ただのいちどもないのよ。わかった。先を急ぎましょう。はやく……街道に、出なくてはね。(ここでいたずらに時間を浪費しては、せっかくの気づかいが無駄になる。切り替えるように頷き、侍女の手で窓が上げられるその間際、)……町へ着いたら、まずはさっぱりしなくっちゃ。(すでに大幅に遅れた予定。途中で小休止をとるよりも、このまま向かったほうがよいかもしれない。領境では魔物の討伐隊を迎える機会も多かろう。もちろん驚かせることにはなるだろうが、日没後であれば、民びとはさほど出歩かない。衆目を集める可能性は低いか。判断は彼らに任せ、はげましのつもりでほほ笑んだ。さすればあとは、到着まで揺られていよう。)
……あ……ですが……、(落ちかかる髪の奥から「御手が……」と弱く声をあげたが、すぐに医師に叱られたようになって、恐縮した様子でおとなしくしていた。あてがわれた手巾は、赤黒く滲んで騎士の手もとに残る。傷の痛みからではなく、汚してしまった白を忍びなく感じてわずかに眉根が寄った。)……はい、姫さま。尽力いたします。(手巾を握る手に力がこもる。あるじから信頼を寄せられているのだ、と知って、奮起せぬ騎士はいないだろう。またいつ何どき、彼女の身に危険が及ばないとも限らない。そのお心をも護り、支えとなれるように、応えなくては、と思う。少し思案げに視線を揺らしてから、)――そう、ですね。我々は、もうよい大人ですので……このなりでは……。(窓の向こうのほほ笑みに、意味ありげな目配せをしてみせた。手合わせの場に選んだ中庭が、前日の雨によって恐ろしくぬかるんでいたときの話だ。泥だらけのまま、構わず棒きれを打ち合わせる姿を女官長に見咎められ、子どもじゃないのだから、と小言より先に呆れられて、ふたりで顔を見合わせた。あの日ひときわ悪戯っぽく、おかしげに輝いていた瞳を思い出し、符牒めいたやりとりで、少しでも彼女の気分が上向けばと考えたのだったが――姫ぎみがどう記憶に留めておられるのかまでは、男にはわからぬこと。ちょうど団員に呼ばれて一時のあいだ馬車のそばを離れ、そのまま出立となった。――無心に馬を走らせ続け、やがて一行は町の明かりに迎えられた。小隊の面々は宿へ向かい、姫ぎみと側仕えの者は町長の屋敷へ招かれる。まずはそれぞれの責務を果たして、次に顔を合わせるのは多少の時間を空けてからとなるか。姫ぎみと侍女が使う、ふた部屋続きの一室の前に立ち、男は扉越しに声をかけた。)――ジルベルトです。姫さまは……もう、お休みになられましたか。(じきに夜も更けるというので、歓待の場は明日改めて設けられることになった。一度、彼女の顔を見ておきたかったが、用向きがなければ、警備がてら屋敷周辺を見て回るつもりだ。男の輪郭は相変わらず下ろした髪に覆われているものの、治癒魔法を受けて頰の傷口は塞がり、皮膚に細く走る痕を残すばかり。染みついた汚れも洗い清めて、道中よりは簡素な上着と脚衣に身を包んでいた。ふと見上げれば、広く取られた廊下の窓に、紗織りの布がこころよい夜風を含んで揺れている。いつしか霧は晴れ、青い月光がさしこんで、男を静かに照らしていた。)
へいきよ。洗い清めれば、ちゃんと落ちるわ。(相手がなにをためらうのかわかるから、念押しのように畳みかけた。これはなんだかんだ、最終的には受けいれてくれるときの反応である。ましてや魔法のひと押しを加えれば、落ちない染みなどそうそうない。ひとまず拭わせてもらえたことに、ほっと胸を撫で下ろして、)――……、(彼にしては、めずらしいような気もする意味ありげな目くばせ。ぽかん、と呆けた顔を露呈させ、まなざしは記憶を探るよう、束の間遠くに結ばれた。この短い刹那に暗黙の了解が通らない、ということは、その日の“レイチェル”は妹ではなかったのだ。どうしよう。思いがけず背中に冷や水を浴びせられた心地で、さあっと、ふたたび青ざめかけた、そのとき。「……姫さま」。窓を支える侍女が進言する。「いま、外は、おそらく瘴気とも呼べよう空気のよどみ具合。このまま御身をさらし続けることは、なにとぞお控えくださいますよう」。さも――反応や顔色の悪さは、外気に当たり続けたせいだと言わんばかりの口ぶりに、助けられてはっとした。)……そう、よね。われわれは……もうよい大人、ですもの。(ああ。うまく笑えていただろうか。符牒めく言いまわしをそっくり真似るかたちで、いささか大げさに肩をそびやかしてみせたけれど、どんなふうに受けとめられたかまではわからない。その場は、侍女の手で窓が上げられ、騎士のほうもちょうど団員に呼ばれてそれっきり。)…………ありがとう。たしかに、そういえば、そう……“レイ”が、泥んこになって戻ってきた日があったわ。見るなりみんな悲鳴を上げて、ああ、その日の……。(出立後の馬車のなか、背もたれに身をあずけてはぼんやりと、ふたりで答え合わせに勤しんでいた。魔法で封じられた王城のひとかどが、ひときわの騒がしさにつつまれた一日のこと。ようやくの心当たりに思い至れば、ため息を吐いてほほ笑もう。落ちない染みを誤魔化すように。――さても、目的の町長との面会がかなったのは、日もとっぷりと暮れた宵のことだった。親書を届け、町長夫妻と夕食の席を囲み、湯をいただく。じきに夜も更けるというので、歓待の宴は翌日に。移動に半日かかることも鑑みると、もう一泊、と滞在が延びるのも必定か。どうぞゆっくりお休みください、と、通された部屋にてありがたく腰を落ち着け、侍女にお茶を淹れてもらい、のんびりとしていたところ。)――ジル?(いらえたのは末姫である。わたしが出るわ、と手で制し、開けた扉の隙間にそうっと身をすべり込ませて。)もう少ししたら、床につこうと思っていたのよ。……よかった。きちんと手当を受けたのね。(とは、その右頬を見上げてのひと言。寝間着の上に厚手のガウンを羽織るくつろいだ様相で、月あかりに双眸を細めた。)このあとは、見まわり? 仕事熱心は感心だけれど、あなたも、今夜はゆっくり休んでね。それで……明日、もしよかったら。宴の前に、町の様子を見てまわりたいのだけれど、付き合ってくれる?(視察、というほど大それたものではない。領境の町、というよりは農村ふうのこの土地の、冬支度に興味があるのだ。)
(おや、という一瞬があった。姫ぎみにお仕えする日々において、たびたび生まれる小さな齟齬。それ自体に引っかかりを覚えたのではない。彼女の面差しが、先の収穫祭で垣間見たそれに似て、突如として色を失ったように見え――はっきりと確かめる前に、窓は閉ざされた。侍女の献言はもっともである。討伐に慣れた騎士たちはもうほとんど麻痺したようになって、喉を痛めることもないが、薄く吸い込んだ空気は重たく濁って肺に溜まり、新鮮とは到底言いがたい。しかし――。男を呼びに来た団員が、墓下から蘇った死びとの顔でも見たようにぎょっとして目を逸らした。陽の沈みゆこうとする道の先が、また一段と暗くなる。)――……レイチェルさま。(てっきり侍女が応対するものと思い込んでいたので、扉の向こうから聞こえた声に、いささか反応が遅れた。顔を出した彼女に、道中のぎこちなさは見られない。愁眉をひらき、唇の端にかすかなほほ笑みをのせて、手のひらで頰をさする。)……姫さまの付きびとが、目立つ傷を残すものではないと……叱られました。もう……すっかり、なんともありません。(傷の痛みは跡形もなく消えていた。多少残った皮膚の引き攣れも、いずれ時間とともに薄れるだろう。薬効に頼るやりかたでは、こうはいかない。魔法を扱えぬ身にはありがたく、同時に、おのれには過分な処遇であるとも思う。)はい。……小さな町ですから、心配はいらぬものと思いますが……念のために。姫さまも、ごゆっくりお休みください。お疲れになったでしょう……。(“もしよかったら”――と次いだ打診には、わずかに首を傾げるようにして、)もちろん……どこへなりとも、お供いたします。(少し考えてから、「馬を出しましょうか」とたずねる。町へ入る際、家並みからはやや離れたところにある農園や、水車小屋らしき建物の影が見えていた。気性のおとなしい一頭の背に、のんびりと揺られてゆくのもよい。あるいは、家々の軒先を訪問したり、路地を覗いたりと、町なかに息づく暮らしを見て回るのであれば、人の足でも事足りる。姫ぎみの希望を伺ったならひとつふたつ頷き、それから踵を返しかけて、ふと。)あ……姫さま。……あの……ハンカチを、今しばらくお借りしたく……。(申しわけのなさそうな顔を見せ、頭を深く下げてから部屋先を辞した。――屋敷を出てしばらくのあいだ、男はひとり夜風にあたり、姫ぎみが宿する窓の灯りを見上げていた。よい町だ。牧歌的な風景に象徴されるおおらかな人びとは、嫌な顔ひとつせず、血と埃にまみれた小隊を出迎えてくれた。王の御手が擁する土壌に、豊かな気質がはぐくまれているのだろう。さやかな星影が、明日の青い空を約束するように瞬いていた。)
(常ではないが――これは妹にかぎった話ではなく、たとえばなにごとかを申しつけるにあたって、こう、相手の意向をはかろうと前置くときがある。あるじから使用人へと言いわたすことがゆるされている間柄で、それでも。諾のいらえにはうれしげに、)ありがとう。……馬を? そうね……お願いできたらうれしいわ。町なかというよりは、少し外れた農園や牧場のほうへ行ってみたいの。もしお邪魔でないようなら、彼らのね、冬支度というのを見てみたくって。(実りの秋を終え、あたりがすっかり雪と氷に閉ざされる前のひと仕事。なにも手伝いをと出しゃばるわけでもなし、遠目より見学がかなえば万々歳だ。こまごまとした手配などは彼に甘えることとして、夜のあいさつを交わし、その背を見送ろうとしたのだが、)ハンカチ?(思わず首をかしげて、ああと思い当たる。)もちろん。なんなら……差し上げてもいいくらいだけれど、……ふふ。明らかに女性ものの意匠だから、ジルには使いにくいかもしれないわね。(レースでぐるりと一周縁どられた、女物のハンカチーフ。おのれのイニシャルは当然、なにか紋章が縫いとられているわけではないものの、見るひとが見れば、誰ぞより贈られたひと布であるとひと目で知れる。そう、おかしげに振り仰いではからかうように。やがて、部屋先を辞する付き人と別れ、そののちは、前言にたがわず、ほどなくして床についた。――昨夕に小隊を悩ませた濃霧が嘘のように、空は晴れ晴れと澄みわたり、のどけき陽ざしが町の屋根を、路地を、野道を照らしている。収穫祭のときよりは少しばかり厚着をしたお忍び姿で、用意をしてもらった気性のおとなしい一頭の背へ横向きに腰を下ろした、のんびりとした道中。さても相手は、徒歩で馬を引いてくれているのか、ともに跨ることで手綱をとってくれているのか――いずれにせよ。はじめに町なかの暮らしを覗いたあとで向かう先は、やや郊外に位置する牧場だ。ひとを雇い、規模を大きく構えるというよりは、昔ながらの馬を追い、羊を追い、家畜を飼って暮らす人びとが、家族やその身内のみで営んでいる。)……いきなり押しかけて、見せてください、とお願いしたのに……いやな顔ひとつせずに、こころよく迎えてくれたわ。(気のいいひとたちね、とは、かたわらの彼への内緒話。ここは羊飼いの一家で、いまはちょうど、女たちは毛織物の仕上げや保存食づくり。男たちは、というと。)――……群れの、選別。(冬を越えられぬ弱い個体を、大地に祈りを捧げたのち、みなの糧に。「こっちは、あんましお姫さんがご覧になるもんでは……」「あっちのほうが、ちょうど胎に仔をかかえた牝羊が……」。ぼかした物言いのご主人をしり目に、幼い少年から老翁まで、男たちの集まるほうを、吸い込まれるように見つめていた。)
(ご婦人から贈られた手巾や、衣の切れ端を得物にくくりつけ、おのが心のあかしとする騎士もいる。無論のこと、そういった話に縁のある男ではない。からかいの滲む表情が意味するところを掴み損ね、悩むのは扉を背にしてからのことである。――見わたすかぎりの青空のもと。陽の光をまぶしく弾く屋根瓦の下へ乗り入れるや、幼い子どもたちがわらわらと集まってきて、芦毛の背に乗る姫ぎみを見上げ、飛び跳ねながら瞳を輝かせた。王族のお忍びに興味があるというよりも、知らぬ土地の風情をまとってやって来た、きれいなひとが気になってしかたがないのだろう。馬を引く男は屈託のない小さな手に袖を引っ張られ、脚をつつかれ、されるがままになっていたが、町なかを抜けて野路へ出ると自身も鞍に跨り、危なげなく手綱を操った。両腕のあいだに包む姫ぎみの頭越し、時おり笛を吹くような調子で低くつぶやき、馬になにごとか声をかけながら、秋の深まる道をゆく。ゆるやかな蹄の音が止むのは、めぐる季節の兆しが見え始めた冷たい風に、ひなたに温められた干し草と生きものの匂いが混じるころ。)――みな、姫さまに……目をかけていただけるのが、うれしいのですよ。(牧地に暮らす人びとは、たいそう驚きながらも、ふたりを心から歓迎してくれた。貴きかたの来訪だから、というだけではなく、おのれの仕事に関心を持つひとがいる、と知るのは誇らしい気持ちになるものだ。隣から寄せられる声に頷き、ささやき返した先で――彼らの清々しい働きぶりを追っていた彼女の瞳が、ふと一角に留まる。次いでそちらを向く男の双眸は、常のごとく変化の薄い色をして。)……羊が……生来、そなえる毛の質はさまざまで……一頭ごとに、向き不向きが……、(みずから民のもとへ出向いて、こうして学ぶ機会を得ようとする聡いかたなのだから、おのれが講釈を垂れる必要などないだろう。そう思いながらも不躾に横から口を挟むのは、落ちつかぬ様子で言いよどむ羊飼いへ、心配はいらないと伝える意味合いでもあった。荒打ちの壁にかけられた籠から、汚れを洗い落とす前の脂が染みた毛束を手にとって、指先で軽く撚りあわせる。)こわい毛の、長さがあるものは絨毯に……細く、やわらかいもの……これは、薄い織物に適しています。……同じように、群れには……生い育つに向かぬ個として、生まれつくものがあるのです。(誰がそう定めたのでもない元来のかたちを、人の手によって選り分ける。質のよい血統を残すため、古くから受け継がれてきた営み。間引かれる羊は肉や革に姿を変え、人びとの蓄えとなるのに“適して”いるのだ、と――そうともとれる言いかたをして、静かなまなざしで彼女を見下ろした。)近くで、ご覧になりますか。
(町の子どもたちは屈託なく、物怖じをしない。芦毛のまわりにわらわらと集まり、飛び跳ねるさまはいかにもほほ笑ましい光景であったが――王家の末子という生まれからか、こうも大勢の年少の相手に囲まれるという経験がほとんどなかったので、馬上からではあるものの、どこかおっかなびっくり腰が引け、さも、たおやかな姫君のごとくほほ笑むことしかできなかった。しかし、無邪気な幼い手に袖を引っ張られ、脚をつつかれ、されるがままになっている付き人の姿にはおかしげな笑みを誘われて、いくらか自然にこう述べることもできただろう。「……町長のお屋敷に、王都みやげのお菓子があるから、さあ。みんな、はやい者勝ちよ」! 小さな町だ。日持ちのする焼き菓子をじゅうぶん荷として積んできたつもりではあるが、そんなふうに告げてしまえば変わり身もはやい。わっと駆け出す賑やかさを、かたわらの青年と目くばせをしながら見送れば――そののちは、すぐ後ろで手綱をとる両腕のあいだから、ひょっこり顔を覗かせてはのどかな眺めを堪能して。)羊が、生来、そなえる……、(ふと、隣から聞こえた語りに、つられるようまなざしを向けた。あらためて説明を受けると、もっともである。こちらの様子に戸惑い、かける言葉を探しあぐねて困り果てていたご主人が、ほっと胸を撫で下ろす気配。)そう、なの……。さすが、詳しいわ。(とは、彼の生まれた家を指したつもり。)たしかに、ほんの一頭のうちでも、質の違う毛をかかえているのよね。それは、ひとが……ひとり、ひとり、身のうちにかかえる性情をたがえるのと、同じよう、に。(返すいらえのようでいて、独白のような音吐になる。それは、“レイチェル”というひとつの器に息づく双子のありようにも似て、他方では、まったく非なるものにも感ぜられた。「生い育つに向かぬ個」――ああ、なんと胸を、心を突かれる響きだろう。ぐ、と、ゆがむまなざしをなるべく見とがめられたくなくて、ふたたび外の男たちのほうまで視線をやる。)……ええ。でも、彼らの邪魔をしない……ひとつ退がったところから。(「そばに居てね」。目を合わせぬままに言い添えよう。――乳の飲みが悪く、そのあとも、なかなかうまく草が食めずに身体が育たなかった仔羊。あるいは、もはや次代を残せぬほど老いた羊や、そのほかにも。けして数は多くないが、たしかに選り分けられ、間引かれてゆく家畜たち。まだ若い少年に経験を積ませるのだろう。ひと思いにやれ、苦しませるな、と助言が聞こえた。陽光を受ける刃。皮や肉を断つ音、短い今際のひと鳴きも、ここまで届く。)……群れにそぐわない、適さないからといって、羊も、甘んじて“それ”を受けるわけじゃあない……。だけれど、そうして、めぐってゆくのだわ。(暴れ、痙攣していた四肢。いつの間にか爪の先が白むほど、防寒の手袋を外した掌を、拳にして握りしめていた。)
(家柄ゆえ、たしかに多少の知識を備えてはいるが、玄人の前で披露したところで恥を晒すだけだろう。しかし人のよい羊飼いは、何も言わずに会釈を残し、ふたりのもとを離れて選別の場に加わった。隣で訥々とこぼされる、ひとりごとめいた言葉の端々から、彼女の胸のうちのすべてを読み解くことは叶わない。ただ、束の間見えた、なにかをこらえるようなそのまなざしに――重ね合わせているのだろうか、と思う。黙って耳を傾けたあと、「はい。おそばに」と短く答え、足もとから離れぬ影のように傍らへ添って、それを眺めた。――細く尾を引く鳴き声が、一瞬にして断ち切られる様子。こわばった四肢がわずかのあいだ張りつめ、唐突に投げ出されて、空気を抜かれるようにしぼみ、弛緩してゆくさま。年若い少年の、まだ薄あばたも浮かばぬ額に、いくつも滲む汗の玉。腕を振り下ろすたびに漏れる、小さな呻き声。喘鳴に似た、苦しげな息づかい。男の隣で共に立ち、視線を逸らそうとしない彼女は、まるで自身も渦中にいるかのごとく、かたく拳を握りしめている。その姿を少しのあいだ見下ろして、)……レイチェルさま。(たやすく振りほどけるほどの力で、細い手首をそっと掴みとる。)……さまざまな個を抱える、そのありかたは……おっしゃるとおり、似ている、とも申せますが……。……ひとと、羊は違います。(体温の低い手は撫ぜ下ろすように肌へ触れて、きつく固められた拳を開かせようとした。手のひらがなおも閉じたがるのであれば、おのれの無骨な指を握りこませて。)あの羊は……人びとをあたため、滋養を与え……冬を耐え忍ぶための、糧となる。選り分けた命が生み出す、よりよい質の羊毛は……暮らしを豊かにし、飢えや病から遠ざける。(宥めるでも、諭すでもない、淡々とした語り口。絶大なる力によってふるいにかけられれば、ひととて羊のように死ぬ。それが天命として、身をゆだねることもできようが――時に剣を、時に盾を持ち、生き抜くすべを、執拗なまでに強固な糸で編みあげるのはなにゆえか。)……そうして、“めぐらせて”ゆけるのが、ひとなのだと……俺は、思います。生きようと伸ばされる手を……誰ひとり、離さぬために……。(陽光のきらめく町を、無邪気に駆けていった子どもたち。老いた脚で歩き出す者。床に臥して空を見上げるひと。あるいは、母の胎でまどろむ小さな手。男の目は凪いだ湖面の静けさを保ち、彼女の瞳を覗きこもうとする。)
(命をあずかるということ。その重み。額に玉の汗をにじませ、ぜいぜいと肩で息をはずませながらも、少年は大人たちの助けを借り、すぐさま解体に取りかかる。――彼らの貴重な財産である羊は、流す血の一滴にいたるまで余すところがないのだと、事前に説明を受けていた。切り離された頭部や、小刀と素手で剥ぐ毛皮、取り出された内臓、そして胸腔で受けとめた血液。それらをつぎつぎ洗い場や台所へと運ぶため、女たちが列をなす。いつしか感覚も忘れるほどかたく握りしめていたらしい拳を、そうと撫ぜられたのはそんなさなか。)! ッ、(はっとして、いまのいままで、息を詰めていたことにもはじめて気がつく。小さく跳ねた指先は、ゆっくりと吐き出される呼気とともに力みも薄れ、)……ええ。(これは、聞こえているわ、の意。振りほどきはしない。掌を開かされるまま大人しく従って、もしも離れずにいてくれるのなら、まだ満足に手も握れぬ赤ん坊がそうするように、相手の指を頼りにつかまえていたい。そうして耳をかたむける。この目は変わらず選別の場へと据えられながらも、先の、さも思いつめるに似た悲愴さは――そのまなざしからも、雰囲気からも、いくらか遠ざかっていることだろう。ひとつ、また息を吐いた。)そうね……。人びとの暮らしをより、豊かに。野に生けるものとは違う、はじめからそのために育み、彼らはともに生きてきたのだもの。……いたずらな感傷、なんて、お門違いもいいところだわ。(彼の言葉に正面から返したものではないことは承知で、やはりひとり言のように口づかせる。群れのはぐれ者としての行く末を、重ね合わせるように見ていたのだと、あるいは伝えてしまうかもしれない。やがて、そのうちに解体を終えた少年が、大地とその胸に掌を当ててはなにごとか、くちびるの動きだけでささやいていた。それはきっと、命のめぐりに感謝し、来る冬を無事に乗り越えられるよう、この国の信仰の対象へ向けて願う祝詞ごと。)そうして、めぐらせてゆけるのが、ひと……、(そっくり復唱し、こちらを覗き込む、凪いだ湖面のまなざしを静かに見仰ごう。ああ知っている、と、ふいに感じた。天命のなすがまま、わが身をゆだねるのではなく、剣をとることを選んだ幼き日。なにかを思い出したような一点のひかりが、おのれの瞳に息を吹き込むごとく、みるみる常の様相を取り戻させて、)生きようと伸ばされる手を……誰ひとり、離さぬため……。(いちど、まぶしげに目を細めたのちにほほ笑んだ。)ジル。あなたは、――そういう騎士に、なる?(志のなんたるかを問うたのではない。どちらかといえば、そうであったらうれしい、くらいのささやかな胸うち。)わたしにも、できるかしら……。(おのが定め。至上の命題。めずらしく、弱音じみた世迷いごとになる。)
(無垢な赤子が、目ではなく、肌に触れる感覚を頼りに温もりを握りたがるようなその仕草に、力を抜いて、おのれの手をまるごと預ける。男の指は、孵ったばかりの雛や、軽い綿毛を包みこむような手つきで彼女のもとに添った。なにかを憐れむ心は、決して悪いものではない。けれど、彼女が糧となる命に身の上を重ねて、胸を痛めているのであれば、それはやはりやるせないことだ、と思う。祈りの句にたびたび表されるように、ひとであるから余計に苦しまねばならないぶん、ひとであるから救えるものも多い。だから――こちらをあおぐひとの瞳に光が帰ると、水面に映したように、めぐる息吹にじかに触れたように、男の面差しにも淡く喜びが灯った。)……俺は……、(ほほ笑みの具合から、思いの深いところを探る問いかけではないと知れた。それでも少しのあいだ、跪いて祝詞を捧げる少年のほうへと向けられた男の瞳は茫洋として、思考の霧にさまよう気配があった。)……俺は、あなたの騎士ですから……離さぬと誓う手は、ただひとつだけ、です。(ややあってからまなざしを戻して、紡ぐ声の調子は穏やかに落ちついている。この誓いは枷ではないのだ、と告げるように。続けて「できます」と頷く所作には、ためらいも、わずかの迷いもなく、重ねる手を彼女の目の高さまですくいあげて。)あなたは、この御手で……それを成せるかたです。(固く張りつめた皮膚。なぞると凹凸を感じる指の節。いく年もかけて築きあげられた、うつくしい矜持。そのかたち越しに彼女を透かし見て、笑む。男の、顔の筋をぎこちなく歪ませる下手な微笑のやりかたは、いつしか凍った土を溶かすように、自然な形でまなじりや唇へとなじみ始めていた。――やがて、仕事を終えたばかりの少年が、ふたりのもとへと駆け寄ってきて、面はゆそうにはにかんだ。お産を間近に控えた母羊を見にこないか、と懸命に伝える、そのあどけない顔立ちには疲労や緊張の名残があり、しかし丸い頰は誇らしげに紅潮している。)……参りましょうか、姫さま。(そうして改めて差し出す腕に掴まっていただくのでも、このまま繋ぐ手を揺らしてゆくのでも。小さな羊飼いに導かれ、ふたり連れ立って牧地を歩けば、足もとのまぐさを巻き上げるように吹く風が、命が隅々までほぐされたあとの、あたたかな血や肉が絶えず漂わせる、かすかな蒸気をさらってゆく。じきに冬がくるのだ、と思った。)
〆 * 2022/11/10 (Thu) 23:21 * No.117
(このひとが、騎士として叙任を受けるに至った経緯を知らない。大商家の三男坊ともなれば、さまざまな事情なども絡んでくるのかもしれないが――それでも、少なくとも剣の道に対する想いは知り得ていて、いま、こうして隣にあってくれる。瞳の焦点がどこか遠くへ結ばれるような思案の様相に、いささか押しつけがましかっただろうか、という心配を覚えるのは、ほんの数瞬。)――……、(知らず、息を呑み、目を瞠った。しびれるような熱が指先からほとばしる。「あなたの」、そして「ただひとつ」。その向き先はさてもいずこにかと訝るよりはやく、その、穏やかに凪いだ声の調子にこそ胸をあつく打たれて、)……はじめてよ。わたしに、(“わたしたち”に、)そんなふうに告げて、あまつさえ誓いまで立ててくれる……そんな、ひと。(もちろん、これまでの乳母や侍女たちの振る舞いに、なんの不足があったわけでもない。比べるのも愚かなことだ。けれど、わかる。この十と七年、剣を振るい、ふたりでひとり、懸命にまもらんとしてきた“レイチェル”を、こうも慈しみ、大切に、掬い上げてくれる存在があること。)ありがとう。(ああ、なんと得がたいえにしであろう。民びとの息吹を肌へじかに感ずるこの土地で、おごそかな気持ちにさえつつまれる。噛みしめるようまぶたを下ろし、しばらくそうしてじっとしていた。ふたたび視界に足もとの牧地を映すころには、幼い少年の足音が聞こえる。)……まあっ。いいの……? それは、とてもうれしい。ぜひ、見せてくださいな。(はにかむ面差しに、紅潮したまるい頬。誇らしげに言いつのるさまにおのずと笑みを誘われて、いちもにもなく頷こう。促す付き人には、指をつかまえていたところ、掌をすべらせ、あらためて手を繋ぎ直すことで、そのいらえの先ぶれとしたい。くるりと踵を返しては、待ちきれぬとばかりに、勇んで足踏みをする小さな羊飼いにも目くばせをして、)ええ。いきましょう。(吹く風に、かすかに冬のきざしがある。あたりがすっかり雪と氷に閉ざされて、ただひたすらに春の訪れを待ちわびる季節。――王領の羊は、彼らのたゆまぬ努力によって秋に新たな命を産むものもあるが、その多くはいままさに胎に仔をかかえ、いまだ冬の気配も色濃く残る春先に、つぎつぎ産声を上げるのだという。)すべての息づかいが絶えたような、冬の、そんなしじまのうちからでも……生まれてくる命が、ある……。(たしかにお産が近いのだろう。少しばかり荒い息を吐く母羊の背を、気づかうよう、障りにならない範囲で撫でさせてもらいつつ。)きっと、よい仔を産んでね。(命の誕生とは、すべからく、この世の春を予感させるのだ。啓示にも似た心地に打たれながら、しばらく身をまかせていた。――それはどうしてか、救いのようにも思えたから。)
〆 * 2022/11/12 (Sat) 03:27 * No.119