(汝、敵を前にして退くことなかれ。)
(数多の車輪が轍を刻む街道を、隊列を組んだ騎馬と馬車とがゆっくりと進んでゆく。色づく落ち葉が流れる川向こう、遠く峰々は早くも白い冠をいただきはじめていて、次なる季節の訪れが近いことを威容をもって知らしめていた。――国事たる宮廷晩餐会を終えてから一週間足らず。漸く息つけたかと思えば新たな任務を与えられ、しかもそれが姫君の外出を伴うものだと知った時には、驚きとともに聊かの懸念も覚えたりしたが、旅路はいたって平和で順調だ。従者ということで小隊の指揮下には入らず姫の馬車に同乗させて貰った少年は、時折外の様子を窺いながらも対面の蒼を気遣うことを忘れない。たとえそこに浮かぶ色が昨日とは違うものであったとしても、紫水晶は相変わらずなまま。)姫、お疲れではありませんか?休憩が必要でしたら遠慮なく仰ってください。(太陽は既に中天を越えている。王室所有の馬車は乗り心地がいいが、半日もかかる行程というだけで貴人には堪えるかもしれない。それでなくても冒険を愛する姫だ。とうに退屈を持て余しているのだろうと予測して、他愛のない話を続ける。)目的の町は湖の近くにあり、のどかで景観のいい場所だと聞きました。小旅行気分で羽を伸ばしてくるようにとの、陛下のご意向なのかもしれませんね。(無論、彼女の父王が何を思って末子を使者に立てたのかは分からないが、大役を務めた労いだと好意的に解釈したい。俄かに周囲の空気が張りつめたのはその時だ。前方から聞こえる喧騒と馬の嘶き。突然の振動と急停車。確かめるまでもなく敵襲だと察知すれば、佩剣に手をやり腰を浮かせたまま自らの主を振り返った。)……少し出て参ります。じっとしていれば安全ですので、姫はお隠れになっていてください。(真剣な表情でそれだけ言い置いて、返事を待つより先に地面へと飛び降りる。見ると少し先の橋を渡ろうとしていた先発の騎士らを遮る形で、前足が翼となった飛竜が数体、上空から滑空してきているところであった。竜と呼び名はついても小型で火も吐かない爬虫類の近縁種だが、空を飛ぶだけで脅威には違いない。慣れた刃を引き抜き箱馬車を背にしたなら、既に交戦を始めている一団に加わることなく迎撃の姿勢を取る。少年は、正しく盾になるつもりだった。)
(窓枠に縁どられた暮秋を見つめる。ぼんやりと紅葉の筏を眺めるさまは、退屈に腐る末姫そのものだった。騎士の見立ては正しい。しかし、半分の心を占めていたものは、不満ではなく不安であった。かつて彼にも告げたように、父王から目に見える寵愛を受けたことはない。禁忌を犯してまでも双子を生かす決断こそ愛と信じて、定型文を贈るだけの関係に徹してきた。それがどうだ。形式上の挨拶に伺ったその先で、よもや御声を賜ろうとは。騎士に命を預けられそうか。そう問いかけたきり、終ぞ沈黙していた父王。愚者になりきれない蒼は、点在する星々を賢しらに結びつける。父が双子に紫水晶を与え、顔合わせに姉を指名したのだとしたら。政から遠いはずの乳母が政略結婚を例に挙げるほど、内々に話が進んでいるのだとしたら。命を預ける、その意味とは。)……うん?すみません、ぼうっとしていて。何でした?(憂いの泥濘に沈んでいた蒼が、事もなげに微笑んだ。彩りを失いゆく世界の中で、紫水晶の美しさはより際立つ。聞けば昨日は姉から騎士を誘い、生け花に付き合わせたらしい。奥ゆかしい姉の成長に喜ぶ一方で、彼の作品を目にしないまま出立した事実だけが悔やまれた。)湖ですか。きみと冒険に出るには打ってつけの舞台ですね。楽しみです。(好意的な解釈のみを丁寧に除いて、悪戯な光を宿したとき。衝撃でずり落ちた眼鏡を掛け直し、眼前の紫水晶を見つめる。いつかの星月夜とは別人のような真剣な面持ちに、つい返事が遅れた。)じっとしていれば安全、ね。……まあ、私の返事を待たずに出た、ケヴィンの不始末でしょう。(理不尽な独白は、冒険譚の一頁に躍り出た騎士への手向け。実直な騎士の高評価が災いし、今この馬車には神出鬼没の末姫がひとりきり。扉一枚隔てた向こう側で、非日常がそこにあるというのなら。)驚きました。百聞は一見に如かず、思ったよりも小柄なのですね。(混沌の地に足を下ろした蒼は、紫水晶の数歩後ろで感嘆の息を漏らした。半分の姫の警護を任された一団への憐憫の情が飛竜への接近を押しとどめたけれど、かの小竜から身を守るだけの魔術は心得ているつもりであるし、何よりこの身は代えがある。人一倍の好奇心に自己への軽視も相俟って、幼子のきらめきの中に飛竜を映し込んでいた。)
いえ……大したことではありません。お体の具合が悪いのでなければよいのです。ただ本当に、何かあればご相談くださいね。(物思いに耽っているだけならともかく、こちらの話を聞き逃すなど珍しいことだと思う。昨日は甘い香りの花を手折りながら笑っていた姫が、今日は午後の陽光の下に憂い顔を晒しているというのは急激な変化だが、己の預かり知らぬところで何かがあったのかもしれない。あるいはこれも半分の発露だというのなら猶更指摘はすまいと、姫君らしい綺麗な笑みを前に遠慮がちな様子で告げる。せめて昨日の作品の不出来さに失望されているわけではないと願いたいところだが、何はともあれ今は職務に集中するのが肝要だ。姫とふたりの冒険譚は歓迎できても、本物の危険が伴う会敵など望んでいないのだから――。騎士たる少年とってこれは間違いなく有事であったが、避難を言い含めた相手からすれば非日常の扉だというのは完全なる誤算だろう。後ろから聞こえた感嘆の声に振り返って、好奇心に輝く蒼を驚愕しつつ認めた隙、狙いすましたように上空を旋回していた一匹が急降下を行う。咄嗟の防御で横に構えた刀身に振りかざされた鉤爪が当たり、金属同士がぶつかる音を立てて引っかかってくれたのは奇跡に等しかった。)っ……姫!なぜ外に出てるんですかお逃げください!(激しく翼をはためかせもがく魔物を押さえたまま、辛うじて叫ぶ。振り返って背後の様子を確かめる余裕など皆無だ。少年の膂力ではさしたる時間も稼げないのは承知の上だが、それでも逃げろと言わずにはいられない。やがて爪を外し自由を得た飛竜は剣先が届かぬ位置で一旦ホバリングすると、よりにもよって狙いを変える。矛先にいる蒼がまだそこに留まっているのか、それとも逃げ出しているのか判じられなかったが、剣を捨て身を翻した少年の疾駆は速かった。)――アメリア様!!(彼女と竜の間に割って入った左肩に、鋭い爪が食い込む。痛いというより熱い衝撃に耐えつつ懐から二刀目の短剣を引き抜いたなら、至近距離にて竜の目に突き立てた。舞う血飛沫。その一撃で絶命したのか誰かが止めを刺してくれたのか、もはやよく覚えていない。ただ、地に倒れ伏した飛竜と勝鬨をあげる騎士たちを確認したなら、崩れ落ちるように膝をつく。纏う制服は藍の地色のおかげで血痕はそれほど目立たないが、肩口が大きく裂けていた。ああこれは早く着替えないとなんて現実味の薄い思考のまま息を吐く。細めた紫水晶に、疲労が色濃く滲んだ。)
(慎ましい心馳せに安堵する。小川を染めあげる紅葉と同じように、ひとひらの違和は小さくとも、絶えず降り頻れば大きな疑惑になり得るだろう。それでも必要以上に追及しない彼を好ましく思えばこそ、相談など以ての外だった。関わるべきではないのだ。ただでさえ少年騎士の前途に無用な影を落としているのだから、これ以上の負担など課せられるはずもない。驚愕に見開かれた紫水晶はどうしたって美しかった。この輝きを損なうだけの醜聞など、人知れず朽ちてしまえばいい。急降下した竜の鉤爪と刀身が剣戟を奏で、初めてその鋭さを知る。鬼気迫る飛竜と騎士の交戦は臨場感に満ちていて、感動に心が湧いた。しかし、楽しい非日常もそれまで。耳慣れない大声に驚いて、思わず身を縮める。お小言ならば覚悟していた。それがまさか、こんなにも声を荒げるなんて。飛竜などより余程恐ろしいではないかと、不承不承に踵を返そうと――)?(魔物と目が合う。まずいと思った。呪文を唱えるべく口を開いた。一方で、こうも思ったのだ。ああ、これで解放されるのかと。飛竜の苛烈な双眸に覚えがあった。鏡の中の自分だ。まだ理不尽な運命に怒りを燃やしていた頃の、幼い自分。そうだ。彼らは何も悪くない。人の規律によって葬られる彼らと禁忌の双子。そこに一体、何の違いがあるというのか。もう何も偽らず、欺かなくてよいのなら。これ以上、紫水晶に嘘を重ねずに済むのなら。怪物のもたらす終わりは、とても甘美なものに思えた。)――…あ、(魔に魅入られた蒼を連れ戻したのは、騎士の咆哮だった。血飛沫の一滴が頬を汚す。崩れゆく騎士を呆けたように眺めていた。不意に、頬を拭われる。騎士の勝鬨を合図に従者らが降車したらしい。白んだ口唇を戦慄かせて、労りの手を退けた。)ご、ごめんなさい、ケヴィン。私、こんなつもりじゃ……(何となしに騎士の肩口へと伸びた手が、不自然に止まる。じわりじわりと藍を侵食していく黒に、半分の心までもが蝕まれるようだった。激しい焦燥は語彙を奪い、後悔で喉が軋む。ふるえる指先が裂傷を示し、治癒魔法を施した。せいぜい止血がいいところで、ややもせず騎士は歓声の渦中へと飲み込まれ、役立たずの姫は馬車へと押し込まれた。よくやった。名誉の負傷だ。騎士の鏡だ。白魔道士の手当てを受ける彼へと、惜しみなく注がれる喝采。ひどい気分だった。小隊長曰く、損傷は軽微。かの騎士の傷も浅く、魔物の後処理を終え次第すぐに出立するらしい。青い顔で小さく告げた。)……彼をここに。(尤もらしい言い訳すら加えられなかった。)
(魔物は人間に害なす存在だ。共存が成功している例は稀で、多くなり過ぎた個体は騎士団が討伐して数を減らし、襲ってくるならこうして撃退しなければならない。それはこの世の不文律だが、対象がなんであれ一個の生命を奪う瞬間を見られたくはなかった。ぼんやりとそう思う。)……姫?……ご無事でよかった……。(いつになく掠れた声音に導かれ、鈍った思考がぎこちなく動きだす。硝子玉のようだった紫水晶は汚れのない蒼を映すなり安堵を湛えて、全身を弛緩させながら力ない笑みを浮かべて見せた。だが対する姫の様子は痛ましくなるほど強張りきっていて、己の不始末を省みる。)僕のほうこそ恐ろしい思いをさせてしまいました。大事ありませんので、お手を煩わせる必要は…、(示された指先から肩口へと灯った魔法の光。その清らかさが触れ難く思えて身を引きかけたが、性急な動作に痛みが走り、結局はこうべを垂れて大人しく治癒を受け入れた。止血が終わった段階で改めて何か言おうと口を開きかけたのだが、ばらばらと集まってきた騎士たちが頭だの背中だのを叩いて賞賛するものだから、傷に響いて不発に終わる。血気盛んな彼らにとってはその程度の負傷なのだ。終ぞ引き止めきれなかった蒼の沈み具合がやけに印象に残ったまま、他の怪我人たちとともに治療を受け、貸してもらったシャツに着替える。水辺での戦闘だったのは運が良かった。得物や体についた血は乾ききる前に洗い流せたし、飛竜の躯も動ける面々が魔法で処理している。このぶんなら他の魔物が寄って来る心配もなく出発できるだろう。しかし少し、ほんの少しだけ、もとの馬車へ戻るのは気まずい。迷う足取りは散歩の体で暫し川岸をぶらつくに至ったが、小隊長が命令を伝えに来たなら即座に踵を返した。)遅くなって申し訳ありません、ケヴィンです。(扉をノックしたのち、許しが得られたなら頭を下げて馬車へと乗り込む。こわごわと主君の顔色を窺う少年はなぜか両手を背後に隠したまま、数拍躊躇ってから続けざまに口を開く。)あの……ご用件の前によろしければこちらを。川のほうに咲いていました。とてもいい香りだったので、少しでも姫のお慰めになればと。(そうしてそっと差し出したのは、小さな紫色の花が集って咲く小枝。可憐な姿ながら芳しい芳香を放つヘリオトロープだ。野花を高貴なひとに渡すなどご機嫌取りにしてもへたくそだし、血臭を忘れさせるほどのものでもないが、僅かでも気を紛らわせてくれればいいと。少年の願いはそれだけだった。)
(贖罪の山羊を選ぶとき、階級による区別は最も合理的だ。護る者と護られる者。それさえも残酷な剪定の延長でしかないと知っている。知っているのに。紫水晶の微笑みがあまりにも儚く映るから、臆した蒼が大きく揺れる。痛みに歪んだ騎士の表情が、嫌というほどまなうらに焼き付いていた。憂いの声を軒並み拒んで、待ちぼうけの車中。分かたれた紫を待つあいだ、祈るように絡めた指先だけを見つめていた。好奇心は猫をも殺す。その猫が自分であるなら問題ない。しかし、この状況下では最低の悪手であったと、心の底から悔いていた。重い溜息が馬車を満たしたころ。焦がれたノック音へと、努めて平静に許しを返した。不甲斐なさを恥じていた。善き主とは程遠い愚行を恨んでいた。ささやかな冒険の擦り傷しか身に覚えのない末姫は、さぞ暗然とした少年騎士が乗り込んでくるのだろうと、胸が塞がる思いでいた。)………?(眉をひそめる。装いの変化に対する不審ではない。背後へと隠された両手。顔色を窺うようにちらつく紫水晶。それらがあまりにも想定外のものだったから、ただでさえ冷たいと言われがちな面立ちが険しさを増した。そして、差し出された野花を見つめる。焦点を合わせるように目を細めたものだから、より一層まなざしが厳しくなった。)……………。(沈黙に支配された車内で、香しい匂紫へと手を伸ばす。妹は花に疎い。ヘリオトロープの名も知らないし、花を愛でる趣味もない。それでも。)ふふっ。……さっきの今で、花って、きみ……いや、違うんです、からかうつもりはなくてですね……ちょ、ちょっと待ってください……(柔い呼気がこぼれる。小枝を彩る紫の献身があまりにも優しくて、いじらしくて、とめどない微笑みが滲んだ。勇猛果敢な騎士の姿は彼の確かな一面で、讃えられるべき美徳に違いない。しかし、半分の姫が望む半分の騎士は、野に咲く花を川辺で摘んできてくれる彼だった。閑話休題の咳払いを挟んでから、匂紫に鼻先を寄せる。)本当ですね。きみの言う通り、とてもよい香りです。(そこでようやく血臭に気付き「何やら鉄くさいですね」と首を傾げた。今ばかりは思考回路が錆び付いている。)また私が謝れば、きみは恐縮してしまうのでしょうね。しかし、私はきみの主なので、好きなように振る舞わせてもらいます。(生憎と立ち上がるだけの空間はない。膝の上へと匂紫を置いて、そのまま頭を下げた。)ごめんなさい、ケヴィン。私が浅はかでした。お詫びにもなりませんが、私を叱る権利をきみに与えます。(紫水晶をまっすぐに見据える。きりりと口の端を引き結んだ。)さあ、どうぞ。
(社交に長けた貴公子なら、もっと情緒や段階を踏まえた慰めを贈ることが出来たのだろうか。少年は騎士に必要な教養しか学んでおらず、加えて姫が衝撃を受けていたのは魔物に牙を剥かれた恐怖からだと誤解していた。ゆえに自らの力不足は猛省すれど、結果として損耗は少なく剣もまだ握れる。何より護るべき相手に被害を及ぼさずに済んだのは僥倖で、落ち込む要素はさしてないまま相手の心持ちばかり気にかけていたのだが、待ち受けていた険のある双眸には流石に冷や汗が浮かんだ。差し出した両手を再び腰に回したくなる。)……………。(沈黙があまりにも長い。お気に召さなかったのだろうか。よほどお怒りなのだろうか。居たたまれなさのあまり脱兎の如く逃げ出したい衝動に駆られた頃、不意にほどけた表情に思わず視線を奪われた。笑われたとて不快さなど感じない声音は柔らかで、急に照れがこみ上げ小さく俯く。)そ、その……たしかに唐突かとは思ったのですが、綺麗なものを見ると心が和みますし……何より姫と、分かち合いたかったので……。(ぽつぽつと言い訳めいた呟きを零しながら縮こまっていたが、花冠に顔を寄せた麗しい姫が今更な事を言い始めたなら、潜めた笑い声が漏れそうになった。きちんと身を清めた方がいいのかもしれないが、今は呼び出しの用件を聞くのが先だと。居住まいを正したところで思いもしない一言。)――え?(真向かいで頭を下げる主の姿に、文字通り目が点になる。戸惑いばかりを先行させる頭は謝罪の把握を遅らせて、純な疑問を言葉として浮かび上がらせた。)いや、あの、叱る権利…とは…?(そもそもあれは姫の好奇心を知りながら確認を怠ったことや、初撃で魔物を仕留め損ねたことが悪いのでは。しかしそれを口にしたところで簡単に納得しそうにない様子なのも事実で、馬車の中には叱られ待ちの姫君と懊悩する騎士という、謎の構図が出来上がった。)……姫、まずはひとつだけお約束ください。冒険はいいものではありますが、本当に差し迫った危険がある時には、御身の安全を何よりも優先していただくと。(悩んだ末に出てきた言葉は説教というより懇願に近い。でないとどれだけ護りたくても護れないと、先の戦闘の痛みを思い出して紫水晶が微かに歪む。しかし次の瞬間、神妙な面持ちで背筋を伸ばしたなら、)では叱らせていただきます。(改まった宣言を告げて、ぽんぽんと二度、軽い力加減で彼女の頭上を叩いた。ほとんど撫でているようなものだが、お叱りは以上である。)
(末娘は夢にも思わない。飛竜の鉤爪と鍔迫り合いを繰り広げた勇敢な騎士が、よもや非力な姫の前から逃げ出したい衝動に駆られているなど、とても。はにかむように伏せられた睫はもう随分と見慣れたもので、黒ずんだ心が洗われてゆくようだった。)ありがとう。きみがこの花を見て、私と分かち合いたいと思ってくれたことが、一番嬉しいです。(匂紫が秘した血臭に終ぞ思い至らないまま、優しい紫水晶を想う。彼が分かち合いたいと願ったアメリアは姉と妹、一体どちらのアメリアなのだろう。真実を告げる勇気はない。双子の秘密を知る共犯者たちは例外なく帰郷を禁じられ、あらゆる書簡が検閲される。忠誠の血を宿すアーデン家であれば多少の融通も利くのだろうか。いずれにせよ、枷になるだけの真実など伝える意味を見出せなかった。でも、きっと、本当は。ただおそろしいだけなのだ。酷薄な真実がもたらす変化が、未知の紫水晶が、おそろしくてたまらない。好奇心さえ窒息するほどに。)…………分かりました。約束しましょう。(一方で、冒険にまつわる好奇心は抑えがたいものである。それはそれは渋い顔で沈黙を挟み、口を衝きそうになる「善処します」を無理やりに嚥下して、まさしく断腸の思いで首肯した。大いに反省していたのだ。ゆえに、神妙な叱ります宣言にも覚悟を決めて臨んだのだけれど。)……んっ?(鈍いアルトが落っこちた。お転婆の咎を責めるのは乳母くらいのもので、乳母以外の叱咤を知らないといえば知らないが、こんな柔い叱咤が本当にあるのだろうか。すっかり肩透かしを喰らった蒼が、ゆっくりと瞬く。撫ぜられる度に竦んだ心がほどけるようで、なんだか気が抜けてしまった。)驚いたな。こんな叱られ方は初めてです。(まなじりが綻ぶ。凍えた静寂は溶け消えて、匂紫の芳香が馬車を満たしていた。ほぐれた心は末姫を饒舌にする。)ケヴィン。きみはさっき、恐ろしい思いをさせたと言いましたね。(傷ついた身体をそのままに、愚かな姫を慮るその献身は尊かった。滲みゆく黒を思い出しては、小枝を掴む手に力が籠もる。困ったように小さく笑った。)恐ろしかったですよ。きみを失うかもしれないと思ったら、生きた心地がしませんでした。(きっと彼は知らない。大切な騎士が損なわれるくらいなら、魔物など屠られて然るべきと断じる薄情を。甘えるように手を伸ばした。許されるなら、その手の甲へと指先が届くだろう。)今日は私のそばにいてくださいね。どこにも行ってはだめですよ。(それは昨日、騎士を姉に取られた妹のやきもちだったかもしれない。)
一番……本当ですか?よかった、それなら摘んできた甲斐がありました。(甘い香りや花そのものよりも、ふたりで同じものを見たいと希求する心を一番だと言ってもらえたことに、驚きと嬉しさがこみ上げる。噛みしめた言葉を宝物として仕舞いこんで、昨日の姫と今日の姫、どちらもうつくしい記憶として重ね合わせた。紫水晶のあやまちは正されず優しい夢は続いている。だが都度毎に向き合う半分の姫が誰より大切で、護りたいのも本当なのだ。だからこそ冒険愛を制限するような約束を取りつけたわけなのだけれど、不承不承なのがはた目にも分かる返答に心苦しさを覚える。真面目な表情を取り繕ったまま、浅く溜息をついて。)なら結構ですが……どうしても見たいものや知りたいことがあるのでしたらお教えください。危険のない範囲でなら検討はいたします。(我ながら甘い考えだろうかと思いつつ付け足す。そもそもスリルのない冒険では満足出来ないから今回のようなことになったという点は、一旦頭の隅に置いた。すべての火の粉を払える騎士になるまでは、姫に譲歩してもらうしかない。)まあ、自ら反省されてる方を責めるものではありませんから。(叱ると言ったのはただの体裁で、実際は励ましたい気持ちの方が強かったのだから、初めてという感想になるのも無理はない。艶やかな金糸から膝上へと手を戻しふと不思議に思う。以前ならこんな真似は畏れ多くて出来やしなかった。緩くほどけていく表情と広がる花の香が、向き合う蒼をよりいっそう彩る。明かされた恐怖の裏側と、甘えたに触れたがる指先に、じんと胸を衝く何かがあった。駒や道具でしかない騎士を丁重に扱ってくれる主だと知ってはいても、ここまで大切にされているとは思いもよらず睫毛が震える。)……はい、仰せの通りに。(手の甲に触れていた指先を包むように、まだ動かしにくさのある左手を重ねた。そのまま少しだけ体を前に出せば、狭い車内では自然と秘め事めいた距離になる。ただひとり、彼女にだけ伝えたいことを伝えるための、ひとときのふれあい。)姫を置いてどこにも行ったりしません。ご安心ください。(はにかみ笑いを浮かべた少年がぱっと元の位置に戻ったのと、外から出発を伝える声が聞こえてきたのはほぼ同時だった。戻ってきた御者の鞭打つ音とともに馬車が走り出す。その後の行路は大きな問題もなく、夕刻近くに目的の町へと到着したなら、まずは使者としての役割を果たすのが先決。公務を終えてからのんびりするか冒険に出るかは姫君に任せるつもりではあるけれど、望まれた通り、どこに向かおうと付き従う所存だ。)
(アメリア・キュクロス。それは双子がつくる偶像であり、妹に憑かれた姉の名だ。この呼吸はあくまで借り物でしかない。匂紫が捧げてくれる真心さえも、姉から借り受けているにすぎない。それでも、今ここにいるアメリアは姉ではなく妹だから。幸福にまどろむ蒼が、可憐な紫を映し込む。これは押し花にしよう。想いを綴じる栞にするのだ。ただひとり、妹だけの思い出として。浅い嘆息は夢現を覚ます呼び水だった。思いがけない注釈に、みるみる蒼が輝き出す。)本当ですか?実は、二角獣の召喚術を試したいとずっと思っていたのです。文献によれば犬猫とそう変わらない大きさで、気性も穏やかと書いてありました。蛍石を食らうさまは壮観だそうですよ。どうでしょう?前向きに検討してくれますか?(ここぞとばかりに問いかける。きらめく双眸は彼の首肯だけを望んでいた。騎士の甘やかしを存分に頂戴する末姫は、彼の左手にあやされるがまま、ないしょばなしの距離に心を弾ませる。逸る鼓動は、きっと献身の残り香に罪悪感を覚えたせいだ。少年の言葉が、笑みが、蒼を安堵で満たす。)よかった。約束ですよ。(幸せだった。叶うなら、この瞬間ごと綴じてしまいたいと願うほど。それでも砂時計は止まらない。――畦道が遠のいて、行儀のよい石畳が一団を迎える。道中、時渡りの人魚が見たいだの、冥界柘榴を探してみたいだのと「検討」をひっきりなしに求めたものだから、騎士にとっては疲労の色濃い旅路だったかもしれない。ともあれ夕映えは王命の成就を見守り、好意的な町長の歓待を受ける中で、雑題のひとつが琴線に触れた。)ケヴィン、この町は質のよい宝石が採れるそうです。工房へお邪魔してみましょうか。(友人のような親しさで騎士の袖を引く。新天地の冒険も捨てがたかったけれど、ぎこちない左手に無理を強いるのは本意ではなかった。何より、美しいものは彼と分かち合いたかったのだ。町長の娘夫婦が切り盛りする工房で有事も何もなかろうと、従者たちへ束の間の暇を言い渡す。かくして足を踏み入れた工房は慎ましくも清潔に保たれており、其処此処で職人が手を動かしていた。娘夫婦の案内に従いながら、忙しない蒼が工房を駆け巡る。)すごいですね。彼らを見ていると、魔法が野暮なものに思えてきます。……そうだ、ケヴィンも試しにやってみては?研磨体験ならば用意があるそうですよ。(無茶ぶりしてから、過ちに気付いた。工房見学は彼の心身を労わるためにある。速やかに前言撤回した。)今のは無しで。さあ、どんどん行きましょう。
(早まった――とまでは口にしないものの、頭痛を抑えるようにこめかみ付近へと手をやって、嬉々とした要望を耳に入れる。ほんの数刻前まで暗澹としていた表情をきらきらさせながら語る姿を見ていると、いっそ魔物すら羨ましいなどと思ってしまいそうだ。前向きな検討のため瞼を閉じて長めに思案の間を取ってから、再び目を開ける。期待に満ちた蒼に怯みそうになるのを真顔で誤魔化しながら、首を横へと振った。)興味本位で生き物を召喚するものではありません。角なら城下でも売っておりますので、それで我慢なさってください。(騎士として姫君の望みはなんであれ叶えたいが、それはそれ、これはこれである。そもそも王宮内で二角獣の召喚など行った日には確実に自分の首が飛ぶと、犬猫を拾おうとするのを嗜めるような口振りにて否定したなら、返された一語にささやかながら笑みを深めた。)ええ、では僕も約束しましょう。(今日だけではない。この先をも願ってくれているように聞こえたのは、きっと少年の自惚れなのだろう。王室のために命を賭す覚悟が消えたわけではないけれど、騎士一人の喪失を厭うてくれる人がいるのなら、できうる限り哀しませることのない道を選びたいと思う。馬車に揺られる道中では「人魚のために他国には行けません」だの「冥界の響きが物騒だからダメです」だの、検討結果のノーを突き付けていたので、最後の方は受け答えが雑になっていたかもしれない。それでも旅の目的が済めば気も楽になるものだ。袖引く姫君の誘いには素直に頷いて、)宝石工房……ああ、視察ですね。分かりました、お供いたします。(冒険に繰り出さないのは珍しいなと首を傾げ、少しずれた結論を出した少年は、よもや自分が慮られているとは思っていない。負傷した左は利き腕ではないし、無理のある動作を取らなければ特に痛みもなかったからだ。とはいえ姫の意向通りに、訪問した工房で興味深そうに職人たちの手腕を眺める。自然のままの原石が削られ、磨かれ、おのずと光を放つ様は確かに魔法のようだった。)……?(提案したそばから撤回されると逆に意味深に思えてしまう。怪訝そうな顔で考え込んだ後、はっと察しが行ったように。)もしかして、姫が体験してみたいのですか?それなら僕も微力ながらお手伝いしますので、やってみても構いませんよ。(何気なく問い返したところで、工房主の夫婦が驚いた顔をしているのが目に入る。ああそうか、普通は王族が職人の真似事などしないのだと。今更のように思い出した。)
(諫言は寝耳に水だった。甘やかしの少年騎士ならば、ごり押しの主君に屈してくれると踏んでいたのだ。ふたつの真円は涼やかな面持ちの彼を映し出し、慌てて追撃を試みる。)では、二角獣の角と虹蛇の鱗で作れると噂の忘れ薬はどうですか?ダメですか?(好奇心がさんざめく瞳には、懸念もなければ落胆もない。その実、妥協案の行方に興味はなかった。それでも問いを重ねてしまうのは、約束を交わしてくれた騎士にとことん甘えたいから。まろい口約束の心強さに比べたら、主従の契りも騎士の誓いもささやかなものだった。幼い嫉妬心を解きほぐされた蒼は、吹き荒れるノーの嵐に「そんな……」としょぼくれる一方、紫水晶の砕けゆく語調にいたく気を良くした。ノーを突き付ける騎士と嬉笑する姫という、新たな謎の構図が生まれたことは余談として、久方ぶりのイエスを頂戴した工房見学は恙なく進む。愛すべき騎士の首を飛ばしかねない冒険愛は鳴りを潜め、関心の赴くままに見て回るさまは視察の体を繕えていた、はずだった。騎士の勧めに目を丸める。しかし、その驚きは工房主の夫婦とは似て非なるものだった。)よいのですか?(ぱっと華やいだ声は、はじめて鎖から放たれた飼い犬のそれだ。冒険の前では一切発揮されない眼識も、平時はそれなりに機能している。体験の機会を彼に譲ろうとしたのも無意識で、曲がりなりにも王族として躾けられていた結果だった。そんな楔も、ひとたび抜けてしまえば何のその。)紫水晶はありますか?この工房で一等のものをください。お礼は後ほど。(そわそわ。浮足立つ様子は町娘さながらで、職人たちが番狂わせの体験準備を急ぐ。好奇の目など些末なものだ。この研磨体験は騎士の許可のみならず、助力の保証付きなのだから。)エプロンですって。いよいよですよ、ケヴィン。楽しみですね。(手渡されたエプロンを騎士に見せびらかす。上機嫌に袖を通し、くるりと振り向いて蝶々結びをねだった。早速の力添えを求めながら、金糸の尾を手早く団子にまとめる。やる気十分とばかりに頷いて、研磨機の前へ腰を下ろした。)失敗すると飛んでいく?それはおもしろいですね。大丈夫、彼は私が見込んだ優秀な騎士。たとえこの紫水晶がお転婆でも、ケヴィンが捕まえてくれますよ。(作業に伴う注意事項へと耳を傾けながら、自慢げに騎士を紹介した。紫水晶が付された治具を手に、騎士を仰ぎ見る。騎士としてではなく、友人としての彼を望む蒼が、喜びを共有したがった。)
(食い下がり首肯を引き出そうとする蒼の必死さに、よほど二角獣が好きなのかと斜め上の誤解をする。これはまかり間違って本物と対面したら、騎士などいらないと言われてしまうのではないか。澄まし顔の下でひそかに寵愛を奪われることを恐れた少年は、妥協案には迷いながらも頷いた。)それでしたら構いませんが……出来た薬を試そうとしてはいけませんよ。姫ご自身でも他の者であっても、効果が出ては事ですから。(もしもこれが甘えなのだと分かっていたなら、容易く押し切られて要求を全部飲んでいたかもしれない。無邪気な一面を見せる姫君は身分も年齢も上であるはずなのにいとけなく、尊いばかりの存在ではないと知るたび嬉しかった。それが落ちてきた星を掴む錯覚なのだとしても、近づけることが嬉しかったのだ。)えっ――え、ええ、もちろんですよ。(娘夫婦の反応に冷や水を浴びせられた心地を、一声が打ち破る。伝播した驚きに丸くなった紫水晶は、嬉々として問いかける主に辛うじての同意を示した。だが職人たちへと投げかけられた注文に、ぱちぱちと瞳を瞬かせてから。)紫水晶……なんだか少し懐かしいぐらいですね。それに一等のものとは、また豪儀なことを。(末姫の付き人の任についてすぐの過日を思い出したなら、思わず小さな笑みが零れる。輝石のようだと形容されたあの頃は、主君とともに研磨体験することになるとは夢にも思わなかった。慌ただしく整えられる準備を待ちながら、隣に並ぶひとりにだけ聞こえる声量で符丁を告げる。)……“姫は何を、お考えになっているのだろう”(ほとんど冗談だ。問いの対象も曖昧なら、明確な答えすら期待していない。ただ今になって改めて、彼女の見ている世界を知りたいと思った。それだけのこと。)エプロンでそこまで喜ばれるとは。でも、姫が楽しいのでしたら僕も嬉しくなります。(とっておきとばかりに見せびらかされたエプロンに眦を下げていたが、当たり前のように背中を向けられ流石に当惑する。怪我とは別の理由でぎこちない指先が、どうにか蝶々結びを完成させるも、多少傾いて不格好なのはご勘弁願いたい。)……いや、姫、姫。ちょっと待ってください。それでは騎士ではなく大道芸人か犬です。見込んでいただけるなら、せめてもう少し――……わ、笑われているではありませんかっ。(自慢げなのはいい。いいのだが無茶ぶりが過ぎて見上げる蒼に口を挟んでいると、主従の会話を聞いていた職人たちが肩を震わせ始める。思わず顔を赤くして抗議する姿はどう見ても騎士ではない。末の姫への偏見の空気すら、そこにはなかった。)
分かりました。事前告知を徹底しましょう。(斜め上に理解した。さして思い入れのない妥協案も、考えてみれば中々どうして悪くない。忘れ薬は砂時計をひっくり返す妙薬だ。秘密の暴露が不幸を招いたとして、元に戻してしまえばいい。)当然ですよ。褒美としては安すぎるくらいです。(気まぐれに声を掛けた、あの日の少年騎士が甦る。懐かしさに笑い合いながら、改めて一対を見つめた。日に日に美しくなる紫水晶は、半分の心が惹かれている証左だ。なればこそ、蒼もまた忘れ薬を飲む。未来を期待した瞬間、幸福は牙を剝くのだから。不意に鼓膜をくすぐる柔い声。そこに過日のような憂いは汲み取れず、くすりと笑って符丁を返した。)いま考えていることは、きみの瞳が紫水晶にそっくりで、ずっと見ていたいということです。(本心だった。喜びを分かち合うことはこんなにも尊いのに、なぜ「半分」は許されないのだろう。硝子越しに見えた不格好な蝶々だって、こんなにも愛しいのに。なぜ「かんぺき」だけが善なのだろう。不条理を直視してはならない。それでも、どうしても、願ってしまう。娘夫婦が微笑み、職人たちが肩を震わせ、騎士が赤面する。そんな幸いを、エイミーとして享受できる未来を。)そうなのですか?大いに褒めたつもりでした。それにしても、皆を笑顔にするとはさすがですね、ケヴィン。主として誇らしく思いますよ。(如何せん温室育ちである。にわかに和らいだ工房の様相をいまいち掴みきれないまま、ごくごく真面目に騎士を讃えては「かわいいでしょう」と周囲に笑顔を向けた。そこからの展開はとんとん拍子だ。すっかり打ち解けた職人たちの手を借りながら、額に汗を滲ませて研磨した紫水晶。それは夜の帳を下ろし始めた空によく映えた。渾身の一作をこれ見よがしに皆へと示してから、騎士に待機を命じたのち、工房の奥へと歩を進める。彼に贈る褒美なのだ。サプライズ要素は必須だろう。)いや、花はあまり……うーん、これが彼らしいかな。こちらでお願いします。(整列した、小さな銀の花々。昨日のアメリアであれば未だしも、今日のアメリアは花に疎い。なんとなくで選んだクロッカスと、じっくり熟考して選んだプラチナチェーンを職人に預け、その仕上がりを待つ時間のあわい。騎士のもとに戻った蒼が、唐突に口を開いた。)ケヴィン、私には秘密があります。それはもう、とても大きな秘密です。(かつてないほど幸せを感じている。だからこそ耐えられない。幸福であればあるほど怖ろしい。ゆえに一度だけ、触れてみようと思った。)きみに秘密はありますか?
(一見円満な了承の裏など知る由もないまま、そういう問題ではないと再び頭を抱える羽目になったのはさておこう。会話に混じった褒美の意味を尋ねようとして、金と蒼に彩られたまなざしに見つめられていることに気づいたなら、その一瞬に縫い留められ黙り込む。きっと忘れ薬を飲んでも、かの人には何度でも魅入られるのだろうなと確信めいて思いながら、紫水晶は恐縮ではなく素直な喜びを滲ませた。)姫にずっと見られていては何も手につかなくなってしまいますよ。……でも、そうですね。ずっとこうしてお傍で過ごせるならそれに勝る幸いはないと、僕も考えていたところでした。(いつかをなぞる幸福を噛みしめるように呟いて、穏やかな時間に身を浸す。突如任命された付き人の騎士がいつまで有効なのかも分からないし、それでなくても永遠はありえない。だが温かな時間を少しでも長く積み重ねていきたいと、上機嫌な姫君を視界に留めながら願う。)ありがとう…ございます…。ただ、皆を笑顔にしているのは姫の方ですよね?(いたって真面目に向けられる賞賛には納得いかないのか首を捻りつつも、誇らしいと言われたこと自体は嬉しいので礼の言葉を口にする。やはり騎士として褒められているわけではないようなと周囲への紹介方法に遠い目をしそうになったが、気のいい職人たちの輪にすっかり溶け込んだ横顔を見れば、無粋な文句は引っ込んだ。おかげで少年はほとんど応援役に徹したまま、研磨が終わって示された紫水晶の輝きに、感嘆のどよめきを漏らしたりして。奥へと向かう背中を見送った後は、あちこちに転がる原石や道具などを眺めながら時間を潰す。その途中だった。)……これは?(工房の隅に除けられようにして置かれていた水晶の原石。ハートに似た対称の形が珍しくて職人に問えば、なんでも双晶というものらしい。不吉だから売り物にならないとぼやく声が無性に突き刺さって、譲って欲しいと告げた騎士を職人は奇異の目で見つめていたが、待ち人が戻ってきたのは石をポケットに収めた後。出し抜けな話運びを、驚きでもって迎えながら。)秘密、(様々な疑問はあるが、ひとまず問われたことには答えねばならない。すっかり日が暮れた窓越しに宵空を見つめ、慎重な所作で頷く。)……ありますよ。大きくはないかもしれませんが、誰にも明かすつもりのない秘密です。(当事者を前にして紡ぐ声は、自分でも驚くほど静かに凪いでいた。紫水晶に星の欠片を閉じ込めたまま、窓から彼女の双眸へと視線を戻す。手探りの深淵を確かめるように。)なぜ、そのようなお話を?
(少女は恋を知らない。なぜなら姉が知らないからだ。紫水晶に喜色が灯る。それだけで嬉しくて、そのくせ満足できなくて、よりたくさんを望んでしまう。その感情の名を、本当は、妹はもう知っていた。金風の出逢いは、コッペリアに心臓を与えてしまったのだ。)おや。これはもしや、両想いというやつですか?(それでも、姉が恋を知らないというのなら。妹は白痴のふりをして、戯れに微笑む。ふたりでひとりのアメリアでいるために。)まさか。私の発言に笑いどころなどありませんでしたよ。(きっぱりと言い切った。日ごと喜怒哀楽の極彩色を――いや、馬車のお叱りを鑑みるに怒は存在しないのかもしれない。日ごと喜哀楽の極彩色を見せてくれる紫水晶が好ましかった。ケヴィン・アーデンの人となりを感じるたびにただ愛しく、同時に、ひどく悲しかった。彼を裏切らずには生きられない今が、秘密が、ひたすらに憎かった。)誰にも明かせないのなら、私より大きな秘密かもしれませんね。(瞠目した蒼が、曖昧に笑う。凪いだ声音が秘密の深度を表すようで、美しい横顔に見惚れていた。不思議なものだ。秘密がある。その一点においては全く同じであるはずなのに、彼の告白はとても尊いものに思えた。星を宿した紫水晶を迎え、苦い微笑みが浮かぶ。)なぜでしょう。私にも分からないのです。ただ聞いてみたくて。(結い上げていた団子を解く。ポニーテールに戻れば、昨日と今日のアメリア・キュクロスに境界はない。臆病者は目を逸らす。来たる宵闇に蒼を浸して、ぽつりと呟いた。)きみと分かち合いたかっただけかもしれません。秘密は息苦しいものですね、と。(期せずして響いた、職人の一声。無為な感傷を拭うように目を伏せて、小さく息を吐いた。紫水晶の品質はインクルージョンの有無で決まる。一切の不純物を含まないその輝石は、やはり彼にこそ相応しいと思った。輝石に添えられた銀のクロッカスと、繊細なプラチナチェーンで構成されたラペルピンを手に、騎士へと歩み寄る。星降る夜を思い返しながら、にこりともせず「じっとしていてください」と再びの待機命令を下した。まごつく手付きはご愛敬としてほしい。)うん。よく似合いますよ、ケヴィン。(悪戦苦闘の末、ようやく彼の襟元を紫水晶が飾る。左右に首を傾げて、その輝きを確認してから破顔した。)これはきみへの褒美です。全て職人に任せれば、よりよい品になっていたのでしょうが……今日の私から、今日のきみに贈りたかったのです。受け取ってくれますか?
(心音が一度、大きく鳴る。いつもの戯れだとしても胸が打ち震え心は動く。なのに焦燥が頭の中を塗り潰してしまうのはなぜなのだろうか。これ以上はいけないのだと、意識の片隅で警鐘を鳴らす声を聞きながら、少年は動揺を誤魔化すように困り顔で笑った。)あ、ある意味ではそうですね。でも、あくまで姫にお仕えし続けたいという話です。それ以外の他意は……。(本当は他意しかない。そんな自分の邪さが嫌で、徐々に声音が沈んでゆく。姫が騎士を大切にしてくれているのを分かった上で距離を取るのも心苦しかったが、領分を守ることは理想を追う最後の一線だった。「かんぺき」にはほど遠い己を彼女は何度だって褒めてくれる。それでも。)発言というよりも、振る舞いがたいへん可愛――…いえ、ご自覚がないのでしたら止めておきましょう。(客観的と見せかけ私情の多い意見を述べる。が、本人が自覚してうきうきな態度を改められてはもったいないと思い直したなら、真顔で発言を翻した。普段は重荷を抱える姫が、楽しそうに過ごす姿を見れただけでも工房見学に来てよかったと思う。そんなことを考えていたものだから、秘密の言及は意図すら読めなくて――けれど苦さと共の散らばる金糸に、寂しげに零れた言葉に、咄嗟に腕を掴んで引き留めようとした。目に前にいるはずの人が、儚く消えてしまいそうな気がして。)……姫は、苦しんでおられるのですか?(少年の秘密は自分自身で課したものだ。主を護り支える騎士として、一生胸に仕舞っておく。騎士のまま傍にいられることもまた幸いである以上、彼女の言う息苦しさを分かち合うのは難しいのかもしれない。されど痛みや苦しみを軽くする方法は、他にもあるはずだから。)もし、お話しいただける気になったなら、聞きたいです。今でも…いつかでも、それで御心が晴れるのなら。(そっと希う声は、はたしてどのように届いただろうか。完成品を受け取る様をぼんやり立ち尽くしたまま眺めていたが、そこから近距離で命令を受ければ固まらざるを得ない。ラペルピンの曇りない輝きと、厳しい面差しに意味もなく圧倒され、思わずぎゅっと瞑った瞳。それが再び開いた時、目の前にあったのは眩いばかりの笑顔で。)褒美なんて、僕は何も……(襟元を確かめる。僅かに飛び出た謙遜は、居場所通りに納まる紫水晶を見るなり途切れ、代わりに目頭が熱くなった。涙こそ零れなかったものの薄く水膜の張った瞳を向けたなら、心の底からの笑顔を浮かべて。)っ……もちろんです。どんな腕利きの職人にも代え難い品ですから、必ずや大切に。ありがとうございます、姫。
そうですか。残念です。(清く正しい騎士の一閃は、ふたりを善き主従に復した。改めて思い知る。彼は理性そのものだ。不吉な双晶。名無しの屑石。祝福とは程遠い生を自覚したあの日、蒼が失ったものを彼は持っている。怖いもの知らずとはよく言ったもので、事実、妹に怖いものなどなかった。毒舌も毒林檎も、醜い魔物だって怖くはなかった。楽しくすらあった。世界に期待しない限り、怖いもの知らずでいられた。それでも、紫水晶だけが特別だった。彼に嫌われることも、疎まれることも、道連れにすることも、全て全てがおそろしい。おどけたように肩を竦めた。いつも通りの戯れとして。)なんです、ケヴィン。そう言われると気になるではないですか。(たちどころに翻された言葉の果てを、拗ねた蒼が急かす。それも束の間、普段と正反対の茶番劇がおかしくて、すぐに笑声を転がした。元より酔生夢死の毎日だ。いっそこのままアメシストの酔夢に溺れてしまえたらと、落陽に蝕まれていた心を引き留めるのもまたアメシストの瞳であった。)……本当に、ケヴィンは私を甘やかしてばかりですね。こんな私のどこがきみの御眼鏡にかなうのでしょう。(いたずらに彼を傷つけ、無遠慮に一線を踏み荒らそうとした半分には過分な、優しすぎる声に心が震える。分かち合えずとも、寄り添おうとしてくれる心馳せが嬉しかった。まろび出た自虐は無意識だ。口にしてから、アメリアはふたりなのだと思い出す。彼は匂紫をアメリアに贈った。花を好むアメリアのために。すなわち、姉のために。彼の慕うアメリアは自分ひとりではないと気付くたび、性懲りもなく傷つき苦しむ毎日に、きっと疲れ果てていた。あらゆる建前が瓦解するほどに、紫水晶にエイミーを見つけてほしかった。皮肉なほど似通った双晶のアルトが、穏やかに響く。)ありがとう。ねえケヴィン、私はずるい女になってしまいましたよ。きみならばそう言ってくれるのではないかと、心のどこかで思っていました。ケヴィンが甘やかすからです。(びしりと指差して、横暴な責任転嫁。それは他愛もない戯れのひとときを惜しむように。)あまり楽しくない話です。また今度、天気のよい日にでも。(紫水晶のあやまちを正す前に、このまなうらに焼き付けたい。素直な瞑目。潤む紫水晶。かわいい笑顔。たまらなく愛おしい、ひとつ年下の少年の何もかも。)ふふ。大袈裟ですね、きみは。……あっ、ほら、皆が笑っていますよ。さすがですね、ケヴィン。(幼い主従を、柔いまなざしが見守っていた。今にも落ちそうな夜の帳が、非日常の終わりを告げている。)
(返す言葉に特別な響きがなかったことに安堵して、そして同時に落胆する。ひどく卑怯な二律背反。地の底の紫水晶に蒼空はあまりにも遠く、星も風も仰ぐばかりの存在なのだと知っていたはずなのに、多くを期待するようになってしまった。望むまま手を伸ばして落ちるのが自分だけならいい。されど万が一彼女に非が及ぶことがあれば悔いても悔いきれないと、こんな時だけ働く理性が口を噤ませる。拗ねた口振りが小気味よい笑いになってようやく虚を衝かれた素振りを見せ、つられたように破顔して戯れを笑いあった。)どこがだなんて……姫が今しがたご自分で仰っていたではないですか。秘密は息苦しい、と。(我知らず動いた手を放し、考えるまでもなく答えを返す。彼女の知らないはじまり。酔夢に落ちた春夜の衝撃を言い表すことは出来ないけれど、付き人となってから添う理由の説明は容易だった。)息苦しいと感じるのは、何も隠すことなく真摯に向き合いたいからでは?以前の晩餐会でも僕がついた嘘や評判ばかり気になさっていましたし、今日は謝罪してくださいました。……姫はいつも、ご自身より他者のことを尊重される。そんなところが放っておけないのです。(人々は言う。末の姫は忌まわしい半分なのだと。だが誰よりもそう思っているのは姫自身ではないかと気づいた時から、一人きりにはしたくないと願うようになった。貴方を大切に想う人間がいるのだと伝えたかった。とはいえ、そこまで甘やかしたつもりはなかったので、突きつけられた横暴には当惑と不服が入り混じった微妙な表情を浮かべ、)手厳しい意見を差し上げた方が?えぇと…では、姫がずるいのは以前からだと思いますので、諦めてそのままでいてください。(取り澄ました口振りで戯言に応じてから素直に頷く。言葉の断片からでも窺える重さにそれほど大きな秘密なのかと考えるが、無理に話してもらいたいとは思わない。すべてを明かさずとも世界は満ち足りている。これ以上、いったい何を望めるというのだろうか。)う……っ、な、なんだか恥ずかしくなってきたので、そろそろお暇しましょう。姫、こちらへ。(衆人環視の中、嬉しさのあまり感極まった事実に羞恥して、町長の娘夫妻に礼を告げたなら、そのまま職人たちのあたたかな目を背中に工房を後にしよう。激動の一日の最後に迎えた夜の中、滞在先の寝室まで姫を送り届けたなら、別れる直前に紫水晶は微笑みを向ける。――おやすみなさい、よい夢を。お決まりの挨拶を唇に乗せて非日常の終わりを手招いたなら、今宵は衛兵とともに警護に参加するつもり。どこにも行かない約束は扉を挟んでも有効なのか、それは見果てぬ蒼のみが知る。)
〆 * 2022/11/8 (Tue) 22:14 * No.108
(離れてゆく温もりがひどく口惜しかった。初めてだったのだ。強く引き留められたこと、それ自体が。忌まわしき半分の生まれとはいえ、本来、直系王族が王宮を脱け出すことは不可能に近い。守護の目が常に傍にあるからだ。しかし、それでもアメリアは神出鬼没の末娘になれた。それは半分の姫を慮る者の不在証明であり、自らもまた試すように幾度となく脱走劇を繰り返した。くだらない自傷行為と知りながら、何度も、何度も。そうして辿り着いたのだ。諦観の楽園に。拓くための冒険ではなく、諦めるための逃避行を重ねるたび、卑怯な自分が嫌いになった。しかし、彼は「アメリア」を真摯だと言う。)……そう、なのでしょうか。(晩餐会も今日の謝罪も、すべて妹が彼と紡いだ物語だ。それらが今、こんなにも慈しみにあふれた言葉たちに繋がっているのなら、これ以上の幸せなど何処にもない。きっと彼は「アメリア」を美しいものにし過ぎている。それでも嬉しかった。嬉しかったのだ。きっと、今まで生きてきた中で、一番。)でも、ひとつだけ訂正しなければなりません。私は他者を尊重しているのではなく、ケヴィン。きみを特別に尊重しているのですよ。(天空の蒼が、地の底の紫水晶へと落っこちる。それで滅ぶ世界ならいっそ滅んでしまえばいい。そう思うのに、紫水晶が謳う美しいままの蒼空でもいたいと願うのだから、人間とは実に罪深い生き物だ。複雑な表情をもの珍しげに見つめてから、曰くの手厳しい意見に仰々しく驚いてみせる。)おや、これは手厳しい。……ふふ、いつか同じようなやりとりをしましたね。そのままどころか、もっともっとずるくなってしまうかもしれませんよ。きみも大変ですね。(さも善人らしく同情する。彼との戯れも、すっかり板についていた。慌ただしい幕引きにも愛しさは募るばかりで、柔らかい笑声を転がしては、騎士に促されるまま和やかな工房を後にした。そして、夜。文字通り朝から晩まで、はじめて騎士をひとりじめした妹は、上機嫌に微笑んだ。)今日はどうもありがとう。楽しかったです。きみも早く体を休めてくださいね。おやすみなさい。(病み上がりの彼が今宵の警護に参加するなど夢にも思わないまま、一抹のさみしさを宿した指先が扉を閉めた。お決まりの挨拶は、彼が口にするだけで魔法に変わる。匂紫の押し花を読みかけの英雄譚へと挿し、ふかふかのベッドで目を閉じれば、とびきり優しい夢が訪れるのだ。それは姉とふたりで灼熱の砂漠を歩み、広大な海原を駆けて、虹のかかる丘の果て。星降る夜で、紫水晶の少年とふたりで手を繋ぐ。そんな泡沫の夢。)
〆 * 2022/11/11 (Fri) 16:41 * No.118