(赤舞い踊る森。)
(秋の終わり、冬の手前。窓の向こうを美しく彩っていた紅が散り始め、纏う色を変える頃。森の中を馬車と並び馬を歩ませる騎士の姿と、その機嫌を窺うかのように緊張感走らせる小隊があった。昼過ぎに到着予定の旅路は今の所滞り無く、揺れる馬車も姫君の様子にも問題は無いと聞いているが、本当の所はわからぬまま。空の色は青く、凪ぐ風は優しく、満ちる空気にはひりついた違和感。)――…止まれ。カシム、中が見えないようにカーテンを閉めて中から外を絶対に覗くなと伝えろ。其処の三名は馬車を護りながら魔法で支援。残りは前を厚めに陣を取って出来る限り崩すな、……あぁ、お前は突っ込んでも構わねェ、出来る限り潰して来い。(嘗て率いていた面々とは違う彼らへ、端的な指示を。もしも窓の向こうにいる姫君と目が合うようなら、唇へと指を立てることで静かにしていろと伝えよう。隊内で一番血の気の多い男には自由を言い渡し、其々が得物引き抜く音は空気震わせる魔物の群れの声へとのまれる。瞳と口の端をつり上げれば、愉しむかのような低音が揺れた。)ポーカーよりこっちの方が性に合う。近頃こういう仕事が無くてつまんねェ思いしてたからな、折角なら楽しませてくれよ?(群れに突っ込んだのでは無く、見付かった為の不可抗力での戦闘は致し方の無いこと。馬車の横へと馬をつければ鐙を踏み付け飛び降り、自由を確保しながら銀色を引き抜いた。木漏れ日受けて輝く剣は、出番を待ち侘びるかのよう。)馬車に傷でも付けてみろ、姫サマの機嫌次第じゃ首が飛ぶぜ。それが嫌なら手は抜くなよ、一秒でも早く殲滅しろ。いいな?(手首を回して風を切りながら、隊全体どころか馬車の内まで届くやもしれない声量で軽く機嫌の良い口振りが周囲を煽る。口火を切るように群れへと突っ込む血の気の多い男の咆哮を合図として始まった戦闘に、森は賑わいを見せるだろう。一個小隊と対峙する魔物の群れ。冬を前にしての飢えか、ただの敵意か。矢と鮮やかな色放つ魔法飛び交う中、騎士は前線へと躍り出た。本能の赴くままに向けられる爪と牙を弾きながら剣を凪げば生きた者の証である赤が散り、騎士が持つ赤が舞う。命を落とした正面の魔物の胴体を蹴り飛ばしながらその胸から剣を引き抜き、振り返り様にもう一体を斜めに斬り付けた。命刈り取ろうとする爪をバックステップで躱しながら、口端持ち上げたままの唇で短な詠唱を紡げば魔物は地と共に炎に呑まれて。真っ赤な炎を映した瞳は、馬車を振り返らぬまま赤く濡れた剣で風を切り、緑生い茂る地を赤く染める。半分までもう少し、と言ったところか。状況を俯瞰するその傍らを赤纏った矢が通り過ぎて。)
(秋が深まるにつれ、末の姫にも公務が宛がわれるようになっていた。一様に初めましてで揃えることにして、後ろで微笑むか手を振るか、台本通りに進行する、その程度の役目。不機嫌と上機嫌、憂鬱と明朗、思慮と短慮を行き来きする半分の姫の噂は人目に触れたことにより、更に拡がっただろうか。公務となれば騎士を伴わない訳にはいかず、代わりに私事で騎士を呼びつけるのは止めにした。そんななかで与えられた父王の言葉はどのような意図があるのか。答えを持つのは部屋にいるひとだと父は判らないのだろうか。話したいことはたくさんあれども、部屋へ戻ることが出来ないまま、用意された馬車へ乗り込んだ。先に座していた侍女と言葉を交わすこともなく、目を瞑り、大人しく座席に納まっていた末の姫は、振動が止むのを切っ掛けに、ぼんやりと目を開けた。到着を知らせる声はなく、外は俄かに騒々しい。閉め切っていたカーテンを持ち上げて外の様子を伺えば、落ち葉で地面は赤と黄色に染められていた。舞い散る紅葉のなかで一際鮮やかな赤い色に目を留める。冷えた色の双眸もどこか熱を帯びているように見えるのは気のせいだろうか。微笑んで同じ仕草を返せば、侍女が受け取った言付け通りにカーテンを閉ざした。魔物と遭遇し、討伐に当たっていると云う。)死んでしまうのはこわくないの。だから、大丈夫よ。ねぇ、あなたお名前は?(末の姫を安心させようとする兵の励ましに応える。すかさず侍女に窘められてしまったけれど、不謹慎ではなく不作法を咎める口調。緊急時に在っても、年上の女性は落ち着き払っている。「カシム、ここから無事を願っているわ。」と尤もらしいことを付け加えて、兵の額に唇をよせる。此度は侍女の声色が地を這った。)傷を負って生き長らえるよりいいわ。そうでしょう?(兵が出て行ってから、こそこそと侍女に耳打ちする末姫の表情に暗さはない。街道を進んでいた折と異なる振動を馬車が受け、戦闘の激しさが伝わった。揺れるカーテンの隙間から差し込む光もまた揺れる。)ふふ、シリルが楽しそう。……楽しいことが一つ見つかってよかった。(瞬きを止め、じっと閉ざされたカーテンの向こう側へと目を凝らす。騎士の云いつけは守っている、と聞かれてもいないのに言い訳を胸に置いて、先程訪れた兵の視界を勝手に借りた。)
(不機嫌であれば姫君の随意に、上機嫌であればそれなりに。自ら距離を詰めることはせず、また事を荒立てず、末姫の騎士として季節を過ごす。身の回りで“半分”だと密かに揶揄する声があれば睨み付け、時には不敬だと刃を向けることすらあったやもしれない。気性と振る舞いに差はあれど、いつ如何なる時も仕える姫君はレティーシャ・エルダ・キュクロスただ一人。城下へ降りることもカードゲームに付き合うことも無くなったが、代わりに公務へ付き従うようになった。此度はそれに長距離の移動が合わさっただけの話。最初に名を呼んで指示を与えた兵士が顔を赤らめながら慌てて戻って来た事実は、喧騒に紛れて知らぬまま。魔物の咆哮、剣戟にも似た音、時折届く苦悶と怒りの声。柄握る感触を確かめながら零した笑みは嘲笑にも似て。)…どいつもこいつもやる気だけは十分だな。(血を流す者はその痛みを悲しみや憂いでは無く怒りへと変換し、瞳に光を滾らせる。無傷の者はより早く、より正確に敵意を刈らんと試みる。研ぎ澄まされた殺意を馬車へ近付かせることは終ぞ無いまま――魔物の群れは物言わぬ肉塊となり、地は赤く染まり上がった。所々焦げ、風に乗り黒煙が流れているのは魔法の所為か。争いの跡を一瞥しながら、乱れた髪を後ろへと撫で付ける。)重傷者はいねェな、今手当てが必要な怪我はとりあえず魔法か薬でどうにかしろ。すぐに移動だ、血の匂いに他の魔物が寄って来る前に離脱する。(指示を出す騎士の頬には微かな切り傷、腕と足覆う服も爪を受けて少々裂けてはいるが後回し。土埃受けた髪はそのままに、血液を吸い重たくなったジャケットは脱いで近くの兵士へ押し付けた。身軽になれば一先ずの仕事を終えた鈍色を鞘へと納めて馬車の扉を軽く叩こう。)お待たせして申し訳ございません、すぐに移動を始めますので揺れにはご注意ください。万一を考えて暫くの間カーテンは閉めたままでお願いします。(姫君へと頭を垂れれば先程味方を煽っていたものとは異なる、落ち着いた低音でそう願う。口にすべき事柄だけを発した薄い唇は、それ以降何も発さずに。姫君が何を口にすることも無いようであれば、馬車の扉を閉めるべく指先は動くだろう。)
(あくまでも兵が見ている視界を間借りしているだけのこと。それでも、視界の端に探していた赤い色が翻る。ところどころ傷を負ってはいるけれど無事には違いなく安堵したのも束の間、目の前で魔物の躯体が裂け、赤い色が弾けた。反射的に目を瞑り、眩暈に頭が傾ぐ。崩れ落ちる身体を侍女に支えられ、そのまま強制的に身体を横たえられた。頭を侍女の膝に支えられ、冷たい手で瞼を覆われる。すぐさま行動を窘められた。)……だって、知りたかったのだもの…。けれど、カーテンを閉めて、中から覗くなと云うから…。(ぽつりぽつりと降ってくる小言を受け止める。血の気の失せた顔色と一時的に失った視力は断りもなく無理に視覚を繋いだ代償と考えれば安いもの。少しして、閃光と喧騒が止んだ気配が伝わってくる。なにかが焼け付くようなにおいが漂い始めれば、侍女に鼻と口元をハンカチーフで覆われた。やわらかな鈴蘭のかおりに小さく笑みを浮かべる。)アニー、必要なら怪我の手当をしてあげて。(手厚い介護を受けながら、見えない周囲のことを依頼する。戦闘の指示は騎士が一手に引き受けてくれたけれど、何も知らされずただただ待つだけであれば積み荷と何が違うのだろう。それを望まれているのであれば、従うつもりはあるけれど。聞こえてきたノックに、重たい頭を持ち上げて身体を起こした。座椅子の背もたれを杖代わりにし、侍女に乱れた髪とドレスの裾を直してもらってから、扉を開ける許可を出す。)おかえりなさい、シリル。(見えずとも扉が開いて明るくなったことも、そこに誰かが立っていることも気配で分かる。耳に馴染んだ声へにこりと笑みを向け、)動けないひとがいるのであれば、一緒に馬車に乗せてあげて。それから、移動を始めて落ち着いたら、わたしに会いにくること。よろしくて?(騎士が負った怪我の程度が知りたかったけれど、騎士が警戒を解いておらず、はやく移動したがっていることを察すれば後にまわした。)
(幸いにも大きな被害は見られない中、報告へとあがれば姫君の声を耳にする。表情こそわかりやしないが、他者を気遣える程の余裕はあるようだと察するばかり。)…仰せのままに。状況確認中ですが、馬に乗れない者があればお言葉に甘えましてお願い致します。(気遣いを受けたところで淡白な返答は感謝の色帯びることも無く、つらつらと。用が済めば先程よりも丁寧な手付きで扉を閉め、其々が薬や魔法で手当てをする中、愛馬の方へと歩き出す騎士へと駆け寄る兵士が一人。はきはきと必要事項を端的に口にする声を聞く間も足は止めず、愛馬の手綱を握れば彼へと鋭い瞳を向けた。重傷者は無し、ただ矢のストックが中々に減ったとのこと。)前衛から魔法が得意な人間を数名下げて後方支援に回せ。(興奮が未だ見え隠れする愛馬を撫でながら、出立の準備を整えよう。少しずつゆっくりと動き出す列の片隅にて木漏れ日に目を細め、振り返る事無く進んで行く。蹄の音と車輪が地へと轍を刻む音、馬並ばせる兵らが時折交わす言葉たち。それらを耳にし始めて少し経った頃、)カシム、後は任せた。(愛馬から飛び降りながらの頼み事に兵士が目を白黒させるのは放置して、軽く地を蹴れば馬車のステップへと難無く足を掛ける。響かせるノックは軽快であったが、ふと自らの服装を思い出して視線を胸元へと落ちる。汚れと少々の破損は目に見えて明らかで眉を顰めた。)…ご気分は如何でしょうか、レティーシャ様。(片手で馬車の一部を掴みバランスを取りながら、馬上の兵からちらちらと向けられる視線を受け流す。まさか魔物の血と土埃に塗れたまま姫君と向き合うわけにもいくまいとそのままの状態を保ち、姫君のご機嫌を問うた後はふと小さく息をつこう。森を抜ければ陽光が注ぎ、穏やかに広がる平原が其処にはあった。随分と遠くに見える街並みは此度の目的地である、地図上で最端に存在する街だ。)
(扉が閉じきる音を耳にし、肩で息を吐きだした。侍女に導かれるままに、身体を横たえる。生きるも死ぬも選択肢を持たないけれど、危機に晒されるのであればこの身であってほしかった。そうして危機に陥った際、災いを振り払う術として騎士が与えられたというのだろうか。命を預けるもなにも、既に生死を握られているようにも思える。周囲で何が起きているのか盗み見る程度のことしかできず、尋ねなければ何も知らないまま事が済んでいたに違いない。馬車が再び動き出したことは感じたけれど、目的地までどの程度かも知らないまま。尋ねれば教えてもらえるだろうけれど、知ったとして何が変わる訳でもない。薄暗い馬車のなかで、喜びも、楽しみも、見つけることができなくて目を閉じた。慰めるように触れる侍女の体温を感じているうちに、いつの間にか微睡んでいたらしい。扉を叩く音に、目を覚ます。多少気分が悪いものの、視力は元に戻っていた。)こんなに遠くへ来たことがなかったから、眠ってしまったみたい…。そうね…馬車に傷がつかなかったから、わたしはにこにこよ。ね、シリルは、楽しかった?(身体を起こしながら、先刻耳にした騎士の台詞を引用して答える。侍女がカーテンを開いたものの、扉が開く気配も、馬車が止まる様子もない。おっとりと首を傾げた。聞きたいことも、確かめたいこともあるのだけれど。)……わたし、お利口にしていたでしょう?うるさくもしなかったし、カーテンも開けなかったわ。褒めてくれない上に、片手間で済ますおつもり?落ち着いたら、会いに来てと言ったと思ったけれど…。落ち着いた状況で、わたしのお願いより優先されることはなあに?(数えるように指を折りながら。微笑みのかたちは変わらずとも引くつもりはない。騎士に事情があることを察するけれど、もう十分待ったつもりだった。)
(戦闘が始まる前の声は馬車の内まで届いていたらしいと察するまでは早く、さりとて表情は悪びれもせず涼やかであった。危険な状況であったのは確かな中、上々らしい機嫌のお陰で全員の首が繋がると言うのならありがたい話。)そのままお休み頂いても結構ですよ、直に到着しますので。(遠くに見える目的の街へと瞳を向けるが、続けられる質問には沈黙を保つ。周囲の音がやけに耳に付くのは意識して言葉を選ぼうとしているからだろうか。)…いいえ、全く。(誰から見ても明白であろう嘘を白々しく宣うなり、周囲から向けられる視線がより強くなる。兵士達が何か言いたげな空気感は身に纏う鋭い圧で黙らせるとして。姫君の馬車を危険に晒したことへの罪悪感は確かにあるが故に吐いた嘘は、車輪の音と共に後方へと流れて行く。話はこれで終わりだろうかと早々に飛び降りる心積もりをしていた騎士は、姫君の言い分に口を噤み何とも言えない表情を。街は既に見えている、魔物の気配も感じない、重傷者もおらず急ぐ必要も特に無く、平和なこの状況下で優先すべきものなど。)………失礼致します。(諦観。俯き扉へと指先を掛ければ穏やかな風を受けていた身を滑り込ませ、早々に扉を閉めて頭を垂れよう。)願い通りにして頂けたことには感謝しますが、褒めるなんて役割は私では無く侍女や教師のものでしょう。何でしたら代わりにカシムでも呼び付けましょうか、大いに褒めてもらえると思いますよ。(扉を越えて映す景色には愛馬をコントロールするのに苦戦する兵士の姿。それが可笑しくて僅かに口の端が持ち上がる。)……恐ろしくはありませんでしたか。不可抗力とは言え、危険に晒したことは申し訳なく思っております。(騎士自身の腕や足に残るひりつくような痛みよりも、姫君の心を思い遣る。普段よりももう少し下がった声音には、確かな心配と反省が窺えただろう。)
着いた後は、他のひとたちは休めても、あなたは休めないでしょう?あ、他のひとたちと交代するのかしら?(郵便配達で終わらないことくらいは把握していた。町長に解放されるまでは歓待を受けねばならないことも承知している。その時に、騎士がついてくるものだと当然のように考えていた。だからこそ到着してからでは遅いと騎士を呼んだのだけれど違ったのだろうか。)そう、なの?楽しいこと、見つかったと思ったけれど…また探さないといけないわ…。(本人が違うと云うのであれば違うのだろう。ぴりっと空気が強張ったような気がしたけれど、侍女が反応をしないということは、それもまた、気のせいだっただろうか。疑問ばかりが思い浮かび、次の騎士の答えも半分の姫には難解で、)なぜ侍女や先生が出てくるの?あなたの言いつけを守ったのよ?…侍女の言いつけは守らなかったら叱られてしまったわ。(感謝を欲したつもりはない。困らせるようなことを言っただろうかと小首を傾げる。)カシム…?どなた?(おっとりと微笑んだ。たとえ隊員の紹介があったとしても、応えは変わらない。人を人と思わない、人の心が分からない、と噂される片鱗。欠けている自覚はあった。それでも、ひとに心を寄せられることは尊いことだとは分かるから。)……わたしは、危険に晒されていたの?(向けられた心の動きに、一度目を瞑った。微笑みをつくりなおす。申し訳なく感じる必要なんてないのだという遠回しな否定のかたち。出来る限りを知らさずにいようとしたのは、末の姫の心を守ろうとしてのことだったのであれば、)シリルは、不可抗力でわたしが居なくなればいい、と考えた?(囁きに、侍女は窘めることなく透明なかおで傍らに座しているだけだった。騎士の頬を、胸を、腕を、足を、傷を確かめるように視線をすべらせる。ひどい有様なのはどちらだというのか。末の姫は飾り付けられたままであるというのに。かのひとであれば、その優しさに酬いることが出来ただろう。)……痛い?(身を乗り出して、右手を伸ばす。避けられなければ、指先は頬の傷へ触れた。)
私のことはどうぞお気になさらず。姫様付の者ですから姫様が役割を果たされるまではご一緒する心算ですので。…姫様が私では無く他の者が良いと仰るのであれば何人か候補を立てますが?(月が高く天を飾る頃まで働き通すつもりだった騎士は、つまり休めと言うことだろうかと静かな瞳を瞬かせながら考えて。答えを促すように首を傾け、感情薄い瞳を姫君へと。)……楽しいことをお探しで?(問いの底にある意図まで理解が及ばないが故の問い。中々かみ合わない歯車のようだが、視界の内にある侍女の表情から読み取れるものは何も無かった。騎士が姫君を褒める構図もおかしく感じられると瞳を伏せた後、引っ掛かった台詞だけを掬い上げよう。)…あまり侍女を困らせるものではありませんよ、姫様。(馬車の内で何があったのかは知らないが、無事である以上深堀するつもりは無く。半分だ何だと噂される姫君を前に、馬車を護る兵はその意味通り一つ一つの駒であるのだと思い出す。変わらず鋭い眼に感情は浮かばぬまま。)…不可抗力による不幸な事故を望むのであれば、先程の戦闘後すぐに移動すること無くその場に留まっておりました。(不幸な事故を装うならもっと機転を利かせている。そう言いたげに僅かに眉を顰め、向けられる視線をただ受けていた。遠回しな否定は聞く者によっては怒り抱くものだったろうが、馬車の内に響くのは相も変わらず車輪の音と二人分の声音のみ。伸ばされる指先から逃げることもせず、瞳を伏せた。)見た目程ではありませんのでお気になさらず、これが仕事ですし街へ着いてからきちんと治療を受けますので。…手が汚れますよ。(嗜める声の持ち主は傷付くことにも傷付けることにも慣れていた。触れられることへの拒否反応は見せないまま、ただ静かにその場にあろう。)
わたしはシリルがいいけれど、あなたが壊れてしまったら大変でしょう?だから…今のうちに休んでもらおうと考えたのだけれど。……あなたは町でのんびりお休みしたい?(好いか悪いかで考えれば答えは一つ。しかし、他に選択肢があることに気付いてしまえば無視できなかった。普段であれば見つめ返した騎士の瞳から目を逸らす。)そう、楽しいことを探しているの。あなたは、楽しいこと思いついて?(目まぐるしく環境が変わっているからだろうか。父と2人きりになったからだろうか。ひとりで一夜を過ごしたことがないからだろうか。今日はどうにもままならない。)……。(窘めることは出来て、褒めることは出来ないという違いが分からない。と、言葉にするにはどうにも子どもっぽい気がして、大人しく口を噤む。侍女も騎士も、困らせたいわけではない。)違うわ!意地悪が言いたいのではないの!(歪んだ眉に目を留め慌てて手を振った。上手く返せずとも、気持ちを否定したいのではなかった。気に病む必要はないというただそれだけのこと。)ええと、だからね、あなたがわたしが怖いと思わないようにと気遣って、頑張ってくれたことが分かるから、嬉しいと言いたかったの。それにね、わたしが元気に生きているのだから、結果としてはじゅうぶんよ。(紛れもない本心であったから、自然と笑みが浮かんだ。ほら!と両手を伸ばし、上半身を捻り、狭い車内で最大限身体を動かしてみせる。)ふふ、わたしが生きていてもいい、と思ってくれたのね。(騎士にしてみれば不本意であっただろうけれど、明確に否定の言葉が聞けたことは喜びを齎した。青白い頬に血色が戻る。)あのね、あなたにとってお仕事で、取るに足らないことかもしれないけれど、あなたが傷つくのは哀しいし、なにもできないことに怒りを覚えるの。(せめてものお礼の代わり。嬉しかったから、持ち前の好奇心が息を吹き返し、)気になるから量らせてね。(騎士の静かな顔つきを確かめ、その頬をぬくい両手で包む。心を推し量ることはできずとも、刻まれた傷を量る手段はあった。察した侍女に身体を引き離される前に、騎士の傷はそのままに、しかし、痛みは和らいだだろう。)アニー、シリルの手当てをしてあげて。
(つい今しがた目を瞬かせていた騎士は、姫君のお優しい心遣いについ口の端を持ち上げてしまった。何を言うかと思えば、言うに事欠いて壊れるだなどと。視線を逸らしてくつくつと喉を鳴らし、収まった頃に眼を細めて。)いいえ、侍りますとも。私が壊れるかもと心を砕くのは貴女ぐらいですよ、姫サマ。(元々働き通すつもりであったのだから、結果は変わらない。欠けていると言われる姫君から配慮を受けつつ、探し物には息をつく。)仕事を終えられてから街を散策なされば如何です、城下とは違うものも見られるでしょう。行く先で楽しみを探すと言うのも悪くは無いかと。(見付けられるかはいざ知らず。涼しい顔で提案をした後は、どうにもこうにも褒められたいらしい姫君からの視線を受け流した。「念の為お尋ねしますが、私に褒められることに意味が?」は真面目な声音にて。――姫君が思う方向とは違う方へ深読みをしたらしい、と振られる手を映す瞳は瞬いた。)…大変失礼致しました、未だ気が張っていたらしく深読みが過ぎたようです。(狭い馬車の内で精一杯に主張する姫君を前に、謝罪を紡ぎながら頭を垂れた。久々に魔物とやり合ったからか、“楽しんでいた”からか、思考は余計なところまで回るらしい。無意識に張っていた気を抜くように肩を竦めて。)生きていてくださらなければ姫様付の騎士である私の首が飛びますので。それはもう軽やかに綺麗な弧を描きながら。(嫌味では無く、単なる事実を冗談のように。少なくとも騎士の日常は姫君の傍にあることが当然となってしまっている。姫君の剣であり盾であること、それを不満に思ったことは無い。怒りを覚える必要も、悲しむ必要も無いだろう。理解しかねると言いたげな口元を引き結び、されるがままに。身体のあちこちでひりつく痛みは我慢し難いものでは無く、かと言って放置すれば拗らせる可能性もあるものと理解はしている。温かな両手が齎す感覚は不思議と心を落ち着かせ、伏せていた瞳を持ち上げる頃には傷が訴える痛みは落ち着いて。)…ありがとうございます、レティーシャ様。(短く低く告げる礼には、確かに心を籠めて。名を呼ばれた方へと目を向ければ「手間掛ける」と一言向け、引き続いて大人しくしているとしよう。)
あなたがとっても頑丈ということ?(そうっと視線を戻す。元から割れている姫にとって、円熟したひとであっても人は簡単に壊れてしまうもの。騎士の反応を見る限り例外もあるということだろうか。疑問はあれども、無理をしていないかと重ねて問うことは止める。提案に末の姫のおもてに明るい色が過った。)遊びに行けるの?あ、…けれど…心配をかけて、しまったから。(浮足立ったことを恥じらうように目を伏せた。此度の公務に気が乗らない理由として、大切なひとの泣き顔が根底にある。傷つけたことは分かったけれど理由までは理解できないままで、状況が違うとはいえ気後れしてしまう。)意味?あの、わたしが嬉しいだけ、よ?(改めて冷静に問われると戸惑う。特別なことはなにもない。意味を探すのであれば、騎士にとってこの時間がそもそも無意味なものとなるに違いなく。)たくさん悪いことを考えるのも騎士のお仕事なのでしょう?(公務に就くようになり、騎士の職務を目にする機会も増えた。初めての公務から帰ってきた夜、飾られているだけの姫でも騎士がいると箔がつくと与えられた当人は感心していた。)あら、いざとなれば隣国へ逃げるのではなかった?…あなたとわたしの命を釣り合わせる天秤がこれからも平らかであってくれますように。(軽口めいた口調にくすりと笑った。末の娘が命を落としたとして王はその騎士を処断するだろうか。かのひとは父王をいつも警戒しているけれど。やわらかいところを慮ってくれるひとが傍にいてくれるのであれば喜ばしいこと。物言いたげな唇に眦がゆるむ。「分からなくてもいいの。知っていてくれれば。」と微笑むものこそ、怒りも哀しみも分からない。ただ、知っているだけ。)どういたしまして。…余計なことをしたと叱られるかと思ったわ。(座席に引き戻された末姫は腕をさすりながら痛みを堪えて微笑んだ。感情を覗かせないひとから向けられた真心がくすぐったい。様々な言葉を呑み込んだらしい侍女がとうめいな顔に戻り、騎士の手当てを始め、末姫は詰めていた息を吐きだす。刺繍針で指を刺すより痛くて、弓で射られるよりは痛くなく、見た目以上に痛かった。)少し眠る?果実水を飲む?あ、ジュースもあるわ。(手当ての様子を見守り騎士を休ませるという当初の目的を思い出した。侍女が持ち込んだラタンで編まれたバスケットの中身を覗き込んで)
…まあ、そう言うことにしておきましょう。どうぞ程々に扱って頂ければと。(過労とは縁遠い騎士ははぐらかすようにして終話する。程々の程度を姫君が想像できるとは思わないが、それも些末な事。)……どなたに、かは存じませんが。私一人で不足なようなら数人陰をつけましょう。それでもまだ足りませんか。(伏せられる目から心に引っ掛かりを覚えているのだとは容易く知れる。であれば、可能な限り憂いを払うべく提案を重ねて行くのみであった。)騎士に褒められるのをお望みとは、姫様は変わり者ですね。(上に立つ者を映す切れ長の瞳は興味深そうに細められ、ゆるりと小首を傾げる。僅かに持ち上げられた口の端が揶揄いの色滲ませて。)常に最悪を想定しております、何事にも絶対はありませんし不幸は続くものですから。(特に命に関わる状況下であれば尚更に思考は沈むもの。落ち着き払った声が後ろ向きな発言を零した。)護るべき主を失ったとなれば流石の私もその罪からは逃げませんよ。かくれんぼに敗けたぐらいで首が飛ぶと言うのなら遠慮なく逃げますがね。(ふ、と小さな呼気と共に浮かべた薄い笑みは姫君へと向けられて。冗談のように紡ぐ情景が実際に訪れる日が来るのかどうか、此処に在る誰もが知らぬまま。兵として、姫様付の騎士として、傷付くのは当然の使命であるが。)…誰かに心配されると言うのも悪くはないものですね。(それはまるで独り言のように。薄らいだ痛みを引き受けたのであろう姫君が離れるのを見ながら、冷めた瞳は侍女の表情から根底に沈む感情を掬い取ろうとしたが上手く掴めないまま。差し出した腕の傷口へと触れる薬が沁みれば、密かに眉を顰めて堪えよう。化膿して壊死するよりは随分とマシだ。手際良く進められる手当てから視線を外せば、姫君の方へと。)では姫様がお好きな飲み物を頂けますか。(親切心を素直に受け取る形で願いを口にする中、姫君の様子を密かに窺うとしよう。果実水でもジュースでも構わない、ただ好みを知るのも悪くは無いと思ったから。それよりも気掛かりなのは引き受けた痛みの方であるけれど。)
(「ほどほど。」と意味を確かめるように呟く。尋ねれば答えてくれるひとが曖昧に纏めたのであればそうと納得するしかない。これまで世俗にも常識にも疎いことを不便と感じたことはなかったけれど、近頃はもどかしさを覚えるようになった。単純に“外出”と“哀しみ”を結んだのは間違いだっただろうか。少なくとも、不足ということはないはず。見知らぬものに監視されることは意に沿わないだろう。)知らないひとは要らないし、あなたでじゅうぶん。(顔に出過ぎていただろうかと目を閉じて両頬をやわく引っ張りながら訥々と答えていく。騎士の手によって縺れた糸がほどけていくようだった。ちらりと横目で侍女を確かめてから、)…シリルは一緒に探してくれる?(期待よりもまだ不安が大きい。微笑みとは遠いかおのまま、一歩踏み出すものを求めて騎士を見つめた。)よく、言われるわ。…そう言うあなたはわたしから目を逸らさないのね。(言葉は同じでも噂と騎士では音が違う。否定も拒絶も感じない。思い返せば出会った時から幾つかの時間を共有した今も。)不幸は続く。…今の状況はあなたにとって不幸なこと?(暗い言葉の響き。余裕を保つひとが珍しいと瞬きを繰り返す。想定の中心には末の姫が据えられているのだろう。とはいえ、姫を護ることが役目であって傷つくことが任務ではないはず。)あなたはお父さまからいただいた大切な騎士。シリルはわたしのものなのだから、ちゃんと帰らないといけないわ。傷一つなく、とは言わないであげるから、出来るだけ元気な状態でね。(落ちた声は何色だっただろうか。独白めいていたけれど聞き拾ってしまえば捨てられなかった。痛覚を麻痺されることも出来るのに、わざわざ痛みを奪ったのは知りたかったから。息を整えるあいだに痛みは通り過ぎていく。血にも傷にも怯まない侍女の動きは迷いがない。薬を塗るのと同じ手軽さでかける治癒魔法により、かすり傷は消え、裂かれた皮膚も塞がり始めた。表情豊かとは言い難い二人を見守る末姫にあわい笑みがともる。)わたしの?(びっくりして些か声が大きくなってしまった。ドリンクに限らずバスケットは末姫の好物が詰められていたから差し出すのは簡単なことだけれど。主の行動を把握しても、好悪に興味を惹かれるとは思わなくて。じわじわと喜びがひろがるように頬が色づき、)あなたのお好みとは違うでしょうけれど…。(ガラスの瓶から銀の杯へとアップルジュースを注いだ。澄んだ琥珀色を確かめることは出来ないけれど甘いかおりは漂うだろう。微笑みとともに両手で銀杯を差し出した。そろそろ手当ても終わり、騎士の両腕は解放されているだろうか。)
…では、私のみと言う事で。(端の街はそう治安が悪い訳でも無い。一人でも問題ないことぐらいわかってはいるし、その方が都合も良いだろう。姫君の決定を復唱する声は淡々と。)――えぇ、私は“レティーシャ様の”騎士ですので。(主である姫君がそう望むのであればと強調した。十も離れた姫君が求めるものが見付かるかどうかはさて置き、付き合わないと拒絶はしない。仕事である意識は変わらないが、姫君の願いが叶えばと自ら動く程度の情はある。)つまり私も変わり者であると。…そうですね、お仕えしている方が変わり者ですので。ね、姫サマ?(涼しい顔で淡々と責任を転嫁し、剰え口端を持ち上げる不敬振り。その表情も続く問いにすと色を消して。)“今の状況”が何を指すのか曖昧ですが。今こうして新しい群れにも当たらず愛馬を他へと押し付けて姫君と悠々とお喋りに興じていられるのは、どちらかと言えば“幸い”では。一人楽をしたと後程隊の皆に白い目で見られたところで“不幸”とは言い難いですね。(幸不幸をはっきりと線引きし、最後には冗談のように軽やかに口端を歪めて。)……元気ですよ、お陰様で。(己が姫君のものだと改めてそう口にされると、意外そうに少々瞼を持ち上げたのも束の間。ふと浅く吐き出した息と共に肩の力が抜け、ゆるりと口の端が持ち上がる。まるで時を巻き戻したかのように塞がる傷、騎士が怪我をしたことは裂け汚れた服のみが証明している。姫君付の侍女ともなるとそこそこの魔力が必要になるのかと、向けた瞳が探るのは一瞬であった。姫君の声音が宛ら馬車のようにがたりと揺れた折、好きな物が無いなんてことは無いだろうと赤を傾げる。答えが予想外であったのか、或いは好きな物しか無いのか。答えを待つ間も手当ては進められる。腕、足、頬。視界に収まる部分については完治を確認し、確かめるように指先が患部であった箇所を滑る。改めて侍女へと短く礼を告げる頃、鼻腔擽る甘やかな香りの方へと目を向けて。何ら不都合の無い腕を持ち上げれば盃をその華奢な手から貰い受けよう。落ち着いた色合いの瞳を銀杯の内へと落とせば、透き通った水面が揺れていた。甘やかな香りからそれが何であるかは察せられ、騎士の記憶に一つ姫君の情報が刻まれる。遠慮無く盃へと口をつければ、長らく口にしていなかった果実の甘みと少しの酸味が喉を潤す。)…美味しいですね。(手にした銀杯をくるりと回し、内にて水面を揺らしながら素直な感想を一つ。)
見つからなかったときのために、シリルが楽しいと思うことを5つ挙げてちょうだいな。(騎士が是と答えるしかないのであればと5本の指をぴんと開いた手のひらを向けて笑いかけた。立場を押し出すことに悪びれはない。理解している。拒絶も否定もされないけれど受容でも是認でもないことを。わたしの騎士であって、生まれなかった末子には縁のないひとであることを。変わりようのない事実が耳を刺すようだった。罪を感じる心など持たないはずなのに、どこかが痛む気がする。)あら、その理屈だとあなたもどこか欠けていることになってしまうわ。(まあ!とわざとらしく指先で口元を隠し戯れを混ぜる。本物と偽物を曖昧にするように。誤魔化すのは、騎士ではなく自分自身。)今は今よ。他のひとたちには後でたくさん休んでもらいましょう。…ご立派な騎士様が子守りを押し付けられたり、足枷を嵌められた状態で魔物と戦うことになったり、今を不幸と呼ばないのであればしばらくは大丈夫ね!(意地悪をしてしまったらしいと視線を泳がせた。現状を不幸と定めないのであれば良しとして、騎士の言葉を真似てみる。)アニーはたいていの傷は治してくれるけれど…無くなったものは戻せないの。わたしが心配してるってこと忘れてはだめよ?(無茶が許される訳ではないと重ねる。釘を刺すと云うべきか。侍女の治癒魔法は傷を恐れる子どもへの献身だった。けれど万能ではない。骨は接ぐだけで脆くなるだとか、流れた血は戻らないだとか散々説かれた事実は棚に上げる。向けられた侍女の視線は気付かないことにして、「わたしの好きなもの、お仕事には関係ないでしょう?あなたが気にしてくれるとは思わなかったの。」と不思議そうにしたひとに答えた。つい、言葉を忘れる。わたしとでも時折噛み合わないのだから、他となれば言葉は尽くしても足りないだろう。杯を渡せば、その挙措を見守る。動きに支障はなさそうだった。面差しも涼し気なもの。喉が動き、飲み込む動作を見つめ、末姫の微笑みはひろがる。)お気に召してよかったわ。甘いもの得意でないと言っていたから、どうかしらと想ったのだけれど。(「もう一杯いかが?」と笑みのままにふわふわと瓶を揺らしてみせる。侍女にもジュースを注いで給仕の真似事をしてみせたけれど、バスケットごと手から取り上げられてしまった。)シリルは今から行く町のこと知っている?(騎士と侍女の間、扉を飾る窓の向こうに広がる見慣れぬ景色にようやく気付いた。)
…考えておきます。(万一の保険と言われると眉を顰め、健全且つ姫君の興味を引きそうな“楽しいこと”を誰に聞いたものかと表情の裏側にて考える。自らの足で探しに行くのも悪くは無いだろうか。そのような考えは、瞬きの間に消えて。)欠けていることに何か問題でも?完璧であろうとは思いませんね。(確かに、間違いなく、欠けていた。貴族としてあること、騎士らしくあること、そもそもの思考の形。ただ、それを悪いとは思っていない。挑発するような声音を吐き出す唇は薄く笑んでいた。現状を不幸と呼ぶには軽いだろう、より深い底にこそ不幸はあるだろうから。外の兵士たちも馬上にて言葉を交わしているのだろうが、彼らがどう思っているかはいざ知らず。視線が交わらなくなったのを良いことに手元へと落とせば、指先包む黒は少し草臥れて見える。)引き際を見極めるのには慣れておりますのでお気になさらず。腕や首が取れる前には逃げ帰りますとも。……お心遣い、ありがとうございます。(物騒な発言に侍女から刺すような視線を向けられた気がしたが、涼やかな顔のまま最後にお礼の言葉を付け加えて。無茶や怪我をしないと約束はできない代わりに、何かを失わないことぐらいは約束しておこう。物も、人も、いつかは朽ちる。それが早いか遅いかの違いだと思いながら、既に痛みの消えた手指へと力を籠めて。握り、離しを繰り返すのにも何の支障も無い。盃を取ることもまた同じく。手の内にある重みと冷たさはさて置き、甘やかな香りは先程まで身を置いていた状況を考えると乖離が過ぎて少々可笑しかった。「それなりに長い付き合いになってきましたので。私も人間ですからね、興味ぐらいは。」手の内にて揺れる水面へと映る姿を眺める時間はそう続くことも無く。)紅茶やコーヒーに砂糖やミルクを入れるのは苦手ですが、果物の甘みはそこまででは。(瓶揺らす姫君へと杯を差し出し、もう少しだけお言葉に甘えるとして。侍女が彼女の仕事を取り戻した頃、杯へと口を付けていた騎士は姫君の視線を追うように窓の向こうへ。)知っている、と言うよりかは情報を頭に詰め込んできたと言う方が正しいですね。立ち寄った回数も数度ですので、ここ数日で学んで来ました。気候は穏やか、人口は少なめですがその分人々の距離が近く……まあ良く言えば安定しており、悪く言えば田舎ですね。(いよいよ街が近付けば侍女へと杯を手渡し、姫君へと一言挨拶をした後で外へと飛び出そうか。十分過ぎる休みのお陰か身体は軽く、歓待の間も姫君へと付き従った後、街を二人で歩くぐらいは何の問題も無いだろう。姫君が望むままに、気の済むまで――もしも疲れが見えるようなら、早めに戻ることも提案する心算。城下よりも暗い小さな街を照らし出す月と星々の煌きは、普段よりも強く思えた気がした。)
〆 * 2022/11/9 (Wed) 20:39 * No.116
(快諾と言い表せない騎士の表情ではあったけれど臆することなく笑みを深める。考えておく、と請け負ったのであれば口先だけでなく考えてくれるひとだと思えるから答えが待ち遠しかった。異なる視点があればきっと素敵なものが見つかるに違いない。)ないより、あった方がいいと思うの。欠けていなければ、奪うこともなかっただろうと…。それに、みんなは完璧な状態で生まれてくるのでしょう?(年上のひとの口振りは欠けているという自認に基づいているようだった。そうして、笑みは虚勢ではなさそう。けれど、それでは、どうしてわたしは仲間外れにされるのだろう?根底が覆されてしまうような疑問に沈黙する。今までの出来事を振り返っていると膝に揃えた手へ慣れ親しんだ体温を感じた。手の持ち主へ目を向ければ、すぐに離されてしまったけれど。)騎士ってたいへんなお仕事ね…。もう少し早く、帰ってきてほしいけれど…どこも無くしていなければ良いのかしら…。(末の姫の言葉尻には致し方がないという許容の響きを帯びる。しかし、手当てを任された侍女は騎士の発言に思うところがあったらしい。瞳に感情が過るのを見つけて、末の姫が侍女へと手を伸ばす。あれこれと気にかかることはあってもこの場限りでしか選択肢はない。箱庭の住人では想像の及ばない世界でもある。)そう、なの?干し葡萄はいかが?苺もあるけれど、(素直に差し出された杯へなみなみと注いだ。簡単な仕事に機嫌よく微笑む末の姫は果物が苦手でないと知ればバスケットからあれもこれもと取り出そうとするけれど、侍女が管理を担えば手持無沙汰に。)城下からこんなにも遠いところでも、人は生きているってふしぎ。……こうしてお出かけ出来るようになっても…。…あとであなたが覚えてきた町のこと教えてね。(騎士が軽やかに出ていくのを見送ったあと、町へ着くまでの間外を眺めて時間を数えた。青々とした小麦畑、転がる麦稈ロール、放し飼いにされる牛や馬、長閑な田園の景色は絵画でしか見たことがない。人の営みを覗かせる光景を侍女に尋ねれば、一つ一つに淀みなく詳細が得られた。彼女もまた予め知識を詰めてきたらしいと知り、窓の向こう側を見つめながら笑みを落とした。――町の様子を知るのも公務の内とあまりに都合のよい解釈を耳打ちされた末の姫は常よりも一層顔色を白くした侍女に休息を言い渡し、騎士だけを供に町へ出た。もう少し時間を共有すれば顔色で察することが適うだろうかと人々と騎士の顔を見比べていたのも僅かな間。澄んだ秋空のもと、収穫祭の装いに彩られた田舎町の様子にすっかり虜になっていた。離れた地で同じ月を仰いでいるだろうひとへの祈りは秘密として、降り注ぐような星空を瞳に焼き付ける。旅人が導とする北の星を探す娘の顔に疲労の影はなく、騎士へと“楽しいこと”を強請るまではしゃいだ声は止むことがなかった。)
〆 * 2022/11/12 (Sat) 20:21 * No.121