(命の使い方。)
はあ? 風邪を引いたって伝えればいいでしょう。なんで私が行かないといけないわけ?(顔を赤くした姉が部屋を訪ねてきた時点で、逃げ出せばよかった。聞けば父から重要な話があると言われていたのに、体調を崩してしまったから代わりに行って欲しいのだとか。頼まれては断りを繰り返し、病人の割に有り余った力でしがみつかれた末、代理出席を負うこととなる。侍女に支度を整えられている間、熱に浮かされながらご親切にも礼儀作法を馬鹿丁寧にご教授くださるのだから、余程不安視されている模様。持つ者は持たざる者に分け与える義務があるとでもいうのか。そういうところが妬ましく憎くて仕方がないというのに。無理が祟って動けなくなった姉に溜飲が下がり、騎士と合流する頃にはにこやかな笑みを取り繕って、指定場所へと赴こう。会議室に揃う錚々たる面々に、カーテシーと共にご挨拶を述べて、友好的な視線を向けてくる兄姉たちに微笑む。同じ血が半分流れる兄姉も、引き籠もり続けていれば話す機会もない、皆等しく他人だった。そうして、父から告げられる知らせに目を見張る。婚約。考えたこともなかった。けれど、“半分”の噂さえなければ、優秀で、心優しいと評判の姉に、こういった機会が訪れるのも当然の話だった。国と民を想い、日々王族としての責務をまっとうする姉ならば、気高くもこう応えるのだろう。)謹んでお受けいたします。(父王から向けられるのは期待、信用。姉にはそんな眼差しを送るのだなと見遣りながら頭を垂れる。そんなものは当然要らないから、妬ましくはならない。宿敵に望むのは、ただ一つ。始終厳かに進めど祝福する空気に包まれる中、慎ましやかな笑みを浮かべ、身に宿す憎悪をひた隠しにした。)――婚約が決まったお姫様に、一言頂戴。(失言も失態もなく、いつになく完璧に姉を演じ通したまま部屋を辞し、共に出てきた騎士をゆるりと見上げる。笑みは未だ形作ったまま。菓子でもねだるかのように言葉を求める軽い口調は、先程の場にはそぐわない緊張感に欠けるものであっただろう。)エリックさんとも、来年にはお別れみたいね。寂しい? それともお役目を勤め上げられるのは、騎士様にとって名誉なことなのかしら。(疑念も怒りも憎しみもなく、随分と穏やかな声だった。気になったから訊いた、ただそれだけ。宛もなく歩き始めて、振り返る。着いてきてくれてるのかなって、初めて気になったから。)
(慎ましく一礼をしてから姫に続く形で会議室に入り、姫へ用意された席の椅子を引いては侍従めいたことをごく自然にやってのけ、その真後ろにあたる壁際に控えた。王室の皆々様がお集まりになって、一体どのような話をされるのか。それぞれの付き人が同席を許されるのならば、さほど重要ではないだろう。だが、国王陛下の告げる決定事項に、人当たりの良い笑みの下で息を呑んだ。まだ当分、先のことであろうと思っていた姫の婚約。静かながらも温かな雰囲気に包まれる室内で、驚いている己ひとりが取り残されているような心地であった。姫が気丈に振る舞っているのに、己のなんと情けないことか。見上げてくる瞳を受け止め、努めて柔らかく微笑んだ。)この度のご婚約、心よりお祝い申し上げます。(恐らく、これから幾度と聞くであろう畏まった言葉で祝いを述べる。己らしい言葉では、今はとても話せそうにない。)はい、そのようで。寂しい限りですが、付き人でなくなったとしても私は姫様の健やかな日々をお祈りいたします。嫁がれた後で、いつか姫様を来賓としてお迎えする日も来るでしょう。その際には護衛を任せていただけるよう、騎士として一層精進して参ります。(嫁ぎ先へ付いて行くことが叶わないのなら、己に出来るのはせいぜいそれぐらいであろう。淀みなく言葉を連ねては、先を行く姫の背を見ていた視線が、姫のそれと繋がった。)いかがなさいましたか。私はまだお傍におりますよ。(まだ、と有限を口走ってしまう。はたと気付いて、頭を垂れた。)失言を……、申し訳ございません。そういえば、昨日の夕方にくしゃみをされていらっしゃいましたが、その後お体の調子はいかがですか。(やおら顔を上げては、気遣わし気な目を向けた。)
(婚約が決まったのは自分ではないから、何と告げられようと構わなかった。祝いの言葉へ、にこやかに微笑み返す。ありがとう、なんて姉の代わりに礼を言い出さない自分に、安堵すらしていた。けれど騎士から語られる未来の話に、笑みは早くも薄れていく。)……先を見据えるのが早いのね。得られたとしても、僅かな機会のために、頑張るんだ。(この先どうなるか、想像はできていない。けれど、騎士が努力したとて、その成果を享受するのが、姉だけになるのは確かだった。光景が目に浮かんで、あっという間に声は沈み、すっかり笑みの抜け落ちた顔で見つめる。)謝るようなことではないわ。事実だから。(いずれこういう日が来るのだと知っていたら、秋の日に決心したよりも、もう少し早く、勇気を絞り出せたのだろうか。)……私は元気。元気すぎて、朝から部屋を駆け回ってしまったくらい。隣国の王子様が噂話でもしていたんじゃない。(元気と称する割には素っ気なく、けれど風邪の気配はまるでないから、そう言う他ない。姉の婚約相手に原因を押し付けて、話を逸らそうとする。騎士が大切に想っているのだと伝えてくれた日から、姉へ向けられた言葉は気にしないようにできていた筈なのに、途端にできなくなっていた。誤魔化すように歩を進めて、自室へ向かおうとしていることに気付き、道を逸れる。いつも騎士を呼ぶのは姉との共用部屋だったけれど、看病のために侍女が行き来する今、戻るべきではないだろう。「着いてきて。」念押しを添え、国の中枢が集う区画を抜けて、扉を開き覗き見る。使用されている形跡のない、豪奢な客室。)今は部屋に戻りたくない気分。拝借してしまいましょうよ。(普段から空き部屋を勝手に使用する身。国賓を丁重にもてなすため整えられた場へ侵入することにも抵抗はなく、悪行へと誘うように、口角を上げる。いつもなら困らせようと楽しんでいただろうに、口元だけが笑みを形作っていた。)
姫様に一目お会いできるのであれば。(それがどれだけ先のことでも、例え機会が巡ってこなくとも。せめて志を高く持たねばと、気高い姫に倣ったつもりであった。姫の表情に翳りが見えたが、元気であるというならば今は言葉通りに受け取ろう。)姫様がお元気にお過ごしのようで安心いたしました。隣国の王子様は随分と良いお耳をお持ちのようですが、多少は慎んでいただかなくてはなりませんね。姫様がお風邪など召されては大変ですから。(姫の健康を願うのは、婚約の有無にかかわらずであるが。大切な人に元気でいてほしい気持ちはいつも、そしてこれからも変わらず己の胸に存在していく。このまま部屋へ戻られるのかと思いきや、珍しい方へと歩いていく姫に従い、客室にやってきたのは先程の来賓話を拾ってのことだろうか。伺うような視線を向けつつ、)姫様のお望みのままに。(結局は快諾してしまうのだ。己も扉に手をついて体重を掛けながら押し開き、客室へ入っていこう。なるほど、調度品は豪華であるが作りや配置は使用人にも分かりやすくなっている。最低限の明かりを灯してから姫をソファーに案内し、己はその後ろに控えようか。姫が座る気分でなければ後ろをついて歩き、絵画や置物の鑑賞会となるだろう。)素晴らしい物ばかりですね、こちらへ招かれたお客様の目を楽しませることでしょう。(残念ながら芸術方面の学が無いため、手が込んでいる物としか思えない。ここに集められたのは、高貴な方が身に付けた知識でこそ正しく評価される品々なのだろう。こんな機会でもなければ、己には一生縁のない部屋だ。付き人として過ごしているうち、少しばかり忘れてしまっていた身分差を嫌でも意識させられる。暗い考えを頭の隅へ押し込み、柔らかな声で話しかけた。)……来年になったら。姫様の成年祝いにワインをお贈りしたいと考えておりましたが、ご婚約のお祝いとして近々お贈りしても良いでしょうか。渋みが少なく、口当たりの軽い赤をご用意します。お口に合えばよいのですが。(控えめに微笑んだ。酒に強くない己が好むワインならば、ワインが初めての姫にも美味しく飲んでもらえるのではないかと。)
(たった一目。それだけで満足する騎士の姿を思い描いてしまい眉を寄せ、ちっとも逸れずに続く気遣う言葉を姉へのものだと捉え、ますます心は乱れていく。万が一にも見られないよう歩を早めたから、目的地へと辿り着くのはあっという間。初めて入る部屋を見渡して、案内されるがままソファーに腰掛ける。後ろへと控える騎士には、身体をひねって視線を向けよう。インテリアを目にする様子に、興味があるのかなと見守り、自身は姉を演じる手前興味がないとは言えず、感想にはこくりと頷いておいた。けれど、続くワインの話に、伺いを立てられてしまえば答えざるを得ない。)……勝手に贈ったら。許可をとるようなことではないもの。(本当は、嫌だった。選んでくれるのを、楽しみにしていたのに。何気なく言ったことだとしても、律儀に守ってくれるのだろうと疑わずにいたから、こんな形で違えられようとは思わなかった。嫌だって、言えたらよかったのに。震えそうな手を握り込み、努めて平静を装って、後ろに控える騎士を見上げる。)ねぇ、何のために部屋を借りたと思っているの。座らないの。(不満げな声を漏らし、ふたりがけソファーの端へ身を寄せる。テーブルを隔てた向かいにも席はあるものの、言外に招くのは自身の隣。遠慮されたとしても、暫くはじっと見つめて促していただろう。)エリックさんって、結婚してたりする? 婚約者は? 恋人とか、好きな人はいるの?(騎士のいる先に身体を向けて、脈絡もなく質問を投げかける。確かめるように、一つ一つ。そして、ゆっくりと言葉を重ねていく。)いつかはエリックさんも結婚して、子供ができて、温かな家庭を築くのかな。付き人としての実績が買われて、新たな人へ仕えるよう命じられることも、あるのかもしれない。これから送る長い人生の中で、今よりも大切な人ができて、その人のために、生きていくのでしょうね。(それも悲しいことだけれど、そうであって欲しかった。仕方がないことだと、諦めがつくから。別れを惜しむように目を伏して、じわじわと浸食する、どす黒い感情を覆い隠す。己に差し出されていたものが姉のものになってしまうくらいならば、綺麗さっぱり跡形もなく、忘れ去られてしまいたかった。)
(年が明ければ婚約が公となり、ちょっとした贈り物ひとつも許されまい。ならば今のうちにと急く気持ちを、口実の裏側に隠してしまう。)ありがとうございます、良い品をお贈りさせていただきますね。(素っ気ない姫の物言いに、己は慣れてしまっていた。いつも前向きに捉え、そして今も胸を撫で下ろす。座るように促されたが、人目が無くても躊躇してしまうのは当然だった。僅かに眉を寄せて逡巡したのち根負けしてしぶしぶ、姫の隣へ浅く腰掛けた。そして唐突な質問の数々に面食らい、表情を取り繕うことを忘れて驚きを露わにする。)姫様、ご質問の意味が分かりかねるのですが……。(答えるとすれば全て否で片付くのだが、問う姫が何を求めているのか皆目見当が付かなかった。町の酒場で見知らぬ人が開口一番に聞いてくるようなことを、なぜ姫が言うのだろうか。抱いた疑問を、重ねられた姫の言葉から見つけようとした。)……姫様は、こんなときにも私を案じてくださるのですね。お心遣いに感謝いたします。そんな風に生きられたら、どんなに良かったことでしょう。(片手は己が胸に添え、姫が語る幸せな未来を思い描いてみた。小さく息を吐いて、もう片方の手を低く差し出したのは、姫の視線を掬い上げたかったから。)ご期待に沿えず申し訳ございません。もう暫く、姫様を最上として生きることをお許しください。私の心は狭く小さなもの、姫様のように広くも深くもないのです。一度心に決めたお方を、そう簡単には変えられません。(謝罪から続く自らを卑しめる言葉とは裏腹に、温かな笑みを浮かべている。許しを乞うているが、姫に許されずとも拒絶されたとしても、己が最上は変わらないと確信していた。)他にお抱えのものがありましたら、どうぞ私にお預けください。――八つ当たりいただいても構いませんし、悲しいときは涙が止まるまでお傍におります。最近見た夢で、美しい声が語りかけてくれた言葉なのですが、姫様へお渡しせよと大地の思し召しだったのでしょうね。(恥ずかしげもなく夢の話をしながら、親愛なる姫へ真心を込めた双眸を注ぐ。)
(婚約祝いのワインが贈られたなら、姉は一緒に飲もうと誘ってくるのだろう。張り切って準備してくれそうな様子にますます嫌になってきて、眉を顰めた。今後一生、ワインを飲むことはあるまい。無言の抗議と質問責めの果て、隣に座る騎士が差し出す手のひらを、ぼんやりと見つめ呟く。)……心遣いではないし、謝るようなことでもないわ。そんな風に生きたいと望むのなら、きっと叶えられる人だと、私は思うけれど。エリックさんの人生は、エリックさんだけのものだから、勝手にすればいいと思うわ。(彼は時々自分を卑下するけれど、優しくて、詩を書くこと以外は何でもできそうな騎士に、叶えられないものはないような気がした。身体ごと視線を逸らし、背もたれに身を預ける。そんな将来もあるかもしれませんね、とでも軽く流してくれさえすれば諦められたのに。悲しい気持ちはどこかに立ち消えて、あとは抱えたものなんて、へどろのように濁った感情しかない。随分と美化された公務の夜の話に、本当のことを教えてやろうとぶっきら棒に言い放つ。)キュクロス王国の大地は腐ってしまったのかしら。それ、覚えていないだろうけど言ったの私よ。エリックさん、いつも穏やかだから、理不尽なことをしたり、泣いたりする姿が見てみたくなっただけ。(身勝手な話を心遣いだと勘違いするのも、意地悪を優しい言葉だと勘違いするのも、姉がいつも優しく接しているからなのだろう。姉を装っている上で理不尽なのはわかっているのに、何でも好意的に解釈する騎士に腹が立ってくる。八つ当たりの許可も得られたことだし、誤った認識も、何もかも、ぶっ壊してやろう。)ねぇ、エリックさん。(隣に座る騎士へ、肩が触れそうな距離まですり寄って、心の荒れようとは裏腹に密やかな声で告げる。)恋人ごっこしましょうって言ったら、叶えてくれる?
(己が手のひらは姫の視線を拾えたようだが、意図は掴み損ねたらしい。心遣いでないとしても、望む生き方が叶えられると励ましをいただいた心地であった。差し出していた手をそろりと引っ込めて、軽く礼をとり敬服を示す。夢とばかり思っていたあの言葉が、姫から与えられたものだと言われて驚いた。)そう、でしたか……。大変失礼いたしました。怒りを受け止めて、悲しみに寄り添ってくださる、慈悲に満ちたお言葉です。私が平坦でつまらないばかりに、姫様を退屈させてしまったようですね。(それにしても泣き顔を所望されるとは思わず、困ったように笑って濁す。演者ではないから何もなしに涙するのは至難の業であり、さすがにそれはすぐに叶えて差し上げられない。距離が詰められ、良からぬごっこ遊びを願われた。顰めそうになった表情を平穏に保っているが、胸の奥はとても煩く騒いでいる。恐らく、婚約者との過ごし方に悩まれているのだろうと。己はその練習台なのだろうと思えば、少しだけ気持ちが落ち着いた。)姫様の望みとあらば――(秘め事のように囁き、姫の小さな肩へそっと手を伸ばした。拒まれなければ、己の胸元へ優しく抱き寄せてみよう。煩い鼓動が、姫に聞こえなければいいのだけれど。整えられた御髪を乱さないよう遠慮がちに、姫の頭を撫でやろうとする手つきは不器用そのもの。恋人ごっこを承諾したものの、経験の無さからぎこちなさが付きまとう。しばし頭を撫でていた手を下ろし、そのまま姫の輪郭をなぞって顎に添え、可愛らしい顔を上向けてみようか。)姫様、……目を、閉じて。(姫が己の言うことを聞いてくれるかは分からないが、次にすることは決めていた。躊躇いながら顔を寄せていき、姫が大人しくしてくれていたならば、柔らかな頬へ親愛のキスを。)
なんで意地悪されてるのに卑下するの。勝手に楽しんでるから平坦なままで構わないわ。(謝罪されようと気が晴れず、口にしたお願いは倫理観に欠けるものだと自覚があった。囁く響きに目を丸くして、引き寄せられるまま騎士の胸元へ身を収める。――すべてが姉のものになるくらいなら、今まで築いてきたものを壊してしまおうかと思ってたのに。頭を撫でられるうちに悪どい気持ちはあっという間に萎んで、こわごわと広い背に腕を回そう。顔を押し付け、鼓動を耳にして口角を上げたけれど、高鳴る早さは己も似たようなもの。輪郭をなぞる指先がこそばゆくて、吐息のような笑みを零し、顔を持ち上げられれば視線は交わろうか。短い指示に顔を赤く染め上げて、)は、はい……。(応える声もか細く、緊張でいっぱい。ぎゅっと目を瞑り待っていれば、訪れた頬への感触に、ぱっと瞼を開く。)……目を閉じたら、口にするものではないの。(頬に手を添え、拗ねたように言ってみせて、胸元目掛けて頭突きを試みるのは単なる照れ隠し。恋人ごっこの続きが許されようなら胸元に収まって、ぽつぽつと心のうちを語る。)――昔ね、乳母がいたの。面倒を見てくれて、色々なことを教えてくれて、よく遊んでもらっていたわ。今思えば仕事の範疇かもしれないけれど、可愛がってもらえてると思ってた。でも、子供が待っているからって故郷に戻って、手紙のやり取りも徐々に減っておしまい。その時思ったの。みんな、それぞれ生活があって、大切なものがあるから、仕方がないんだなって。(悟ったように、平らかな声だった。言葉を求めているわけではなく、自ら話して聞かせたのは伝えたいことがあったから。)だから、最上として扱ってもらえるのは、嫌じゃないわ。あれこれ私のためを考えてくれたり、世話を焼いてくれたりするのも。(ことあるごとに謝罪し許可を乞う騎士に、短くも精一杯素直な意思表示。同じものを姉が享受しようとも、この先姉だけが想いを受け取ることになろうとも、こんな大それたことを願い叶えてもらえるのは自分しかいないだろうから、それで満足することにした。)
(姫から与えられるあらゆるものを、好意的に解釈する嫌いがあるのは認めよう。意地悪をされているとしても、生憎そんな風には感じられない。どんな形であれ興味を持たれているならいい、求められないよりはずっといい。姫を大切に思う気持ちなら既に存在しているのだから、恋人ごっこは泣くよりも易しい。もちろん後ろめたさや罪悪感は感じていたが、ふたりで遊びに興じてしまえば次第に薄らいでいこう。)口付けは、姫様が想いを寄せる方と交わしてください。(謝罪の代わりに、教え導くような助言をひとつ。真似事で許される程度に留めるのは、姫を思えばこそだ。胸元へ重みをやわく抱きとめて、姫の話に耳を澄ませる。どちらかと言えば、立場の近い乳母の気持ちが察せられた。)姫様にそう思っていただけて、とても嬉しいです。私の勝手な想像で恐縮ですが、乳母だったお方は姫様を大事に思っているからこそ、お手紙が書けなくなったのではないでしょうか。……私も、許されるならば姫様にお手紙をお送りしたいですから。(叶わぬことと分かっているため、寂しさを滲ませながら言う。姫君が使用人と頻繁に手紙のやり取りをしているというのは体裁が悪いと伝わるだろうか。親しい間柄であったとしても、世間的の目は厳しいものだ。)姫様に折り入ってお願いがあります。恋人ごっこは此れ切りにしてください。騎士や付き人が皆、誠実な者ばかりとは限らないのですよ。力づくで姫様を奪うことも出来てしまう、時には魔物よりずっと怖ろしい存在であるとお忘れなきように。(興醒めなのを承知の上で注意を促したが、己が言ったところで説得力は皆無かもしれない。現に今も、こちらからは姫を離そうとする気配がないのは伝わるだろうか。少し考える素振りを見せて、再び口を開いた。)姫様に私の秘密を教えましょう。実は、私は魔法が使えます。中でも風を扱うのが得意です。(姫の察しが良ければ、いつぞやの妖精がまやかしだったと気付かれてしまうだろう。今ならば、謝って許してもらえるのではないかと甘えが出てしまったが、これはほんの前置きだ。)他にも覚えがありまして、何かお望みのものがありましたら魔法を掛けて差し上げます。例えば「姫様が私の名を呼ぶだけで、私がどこに居ても何をしていても、姫様の前に現れる」といった召喚魔法はいかがでしょうか。一度きりの発動となりますが、隣国ぐらいなら十分飛んでいけるかと。(平然と穏やかを保って提案したのは、考えようによっては危ういもの。それでも、もう暫くと願った最上を証明する何かを残してみたいと思ってしまった。)
……両想いが一番よね。(頭突いてもびくともしない身体に顔をうずめて、細々と理想を口にする。恋人ごっこを提案しておいて、本当は純粋な恋愛に憧れがあった。表向き、政略結婚を肯定する姉だって同じように。)気にせず送ってしまえばいいのに。わかりやすく大事にしてもらえないと、わからないわ。……エリックさんは離ればなれになっても、役に立てているなって実感持てるの?(廊下で交わした話を掘り返す。忠誠を疑う意図はなく、純粋に感じた疑問だった。降ってくる改まった物言いに、頭を持ち上げ聞く姿勢をとるものの、意図を汲み取りきれたかどうか。)世の中に悪人がいるのは知っているし、エリックさん以外には頼まないけれど。……他の人にもお願いするように見えてる? それとも本当は嫌だった?(節操なしと思われているなら心外だと、抗議する声に不満は込められる。渋々受けた可能性を考慮すれども、それにしては拒む様子がないことに首を傾げて、こちらも離れる気はなく騎士の腕の中に収まったまま。)魔法も使えるなんて多才ね! だから妖精に好かれているかしら。召喚魔法って、そんな便利な使い方があるのね。エリックさん、実はすごい魔法使い? 何で秘密にしてたの? 呼ぶタイミングによっては大変なことになりそう。帰りはどうするの、一本道?(秋風の妖精の存在はすっかり信じ込んでしまっていた。語られる魔法の話に声のトーンは上がって、矢継ぎ早に質問を飛ばしていく。優秀な姉とは異なり魔法の才はなく、過剰に褒めてしまっている可能性もあるかもしれない。隣国にいる筈の存在が使えるのかと頭を過ることはあれど、繋がりを残せるのなら残したくなって、いそいそと首元からペンダントを引っ張り出す。)召喚魔法がいいわ。妖精と一緒で問題ない? 普段から身に着けてるの、これくらいだから。(本日の装いは襟元が詰まった正礼装。秋と冬の境目に適した、暖かなベルベットを背景に、ヘリオドールは輝く。)
(実感――絶妙に痛いところを突かれてしまい、言葉を詰まらせた。先程のように騎士として誇らしく答えてみせれば、きっと姫を安心させられるはず。だが、虚勢を張るには些か距離が近すぎる。僅かに強張った肩の力を抜いて、情けない本心を覗かせる。)お役に立てていると信じなければ、やるせないじゃないですか。姫様が遠くに行ってしまう、と思うだけで私はとても寂しいです。(最上の傍らで生きる歓びを知ってしまった以上、これからは騎士であることのみを生き甲斐にはできないだろう。腕の中で身じろぎし首を傾ける姿や、不満げ声すら可愛らしく心地よく聞こえてしまうのが、ごっこ遊びの影響だとしたら何と恐ろしいことだろう。己と限定されたのが嬉しくて、つい口が軽くなる。)姫様は好奇心旺盛な一面がありますから、恋人役が私でなくても構わないかと思いまして。私をお選びいただき、ありがとうございます。私も姫様だからお受けしましたし、義務や責任でキスはしませんよ。ですが、確かに……姫様が他の方とこんな風に過ごしているところは見たくないですね。(己が警戒しているのはあくまでも他の人の存在であり、姫の御心を疑うつもりも責めるつもりも一切ない。らしくない言葉は無意識に零したものだった。魔法について様々な興味を示されたのが意外でまじろいだ。王室の見聞を広めるという名目のサロンが開かれた際に、姫は魔法学者の難しい話を理解している風だったが、巧みな話術がなせる業だったのか。あるいは単純に、己が打ち明けた秘密を歓迎してくれているのか。どちらにせよ、嫌悪されなかったのは幸いだ。)ほんの少し、魔法が得意なだけですよ。子供の頃に風を起こしたとき、皆で育てていた花を薙ぎ倒してしまう失敗を犯しました。それからは無暗に使わないようにしています。(古傷のような昔話をはにかみながら話した。姫の元に行くことばかり考えていたため、帰りの方法を訊ねられて答えられず苦笑する。姫が何かを取り出そうとしているのを見受けて、そっと視線を外側へ向けた。動きが落ち着いたのを感じ取ってから、これまたそっと視線を戻す。美しい黄金の石を頂くペンダントトップを人差し指で掬い上げた。)かしこまりました。これなら重ね掛けても大丈夫でしょう、それでは――。(深く息を吸い、目を薄めて詠唱を始めよう。)幾度の日が昇り落ちて、幾重に月が満ち欠けてなお、倦むことなく包括するはひとつなぎ。泡沫の最果てに、汝が我と乙女を繋ぐ楔となる。(編んだ魔法をヘリオドールに押し込めるため、唇を寄せていく。そして、射るように姫を見詰めた。三拍数えたあと指先からペンダントを解放し、背を伸ばしてにこやかに笑う。)魔法を掛け終わりました。他の方がこのペンダントを身に付けても、私を召喚することは出来ませんのでご安心ください。一本道ですが、帰りは自力で何とかします。
(会議室を出て寂しいかと問うた時も、離ればなれになった時のことを問うた今も、ただ気になって訊いただけだった。返ってくる言葉は何でもよかった筈なのに、やるせない、という言葉に本心が伺えた気がして、思わず笑みが零れる。)ふふ、そう。寂しいのね。泣いてくれたっていいのよ。(気遣う素振りをまったく見せないのだから、“心優しいお姫様”とは程遠い。)つまりは独占したいからエリックさんだけにしてってことね。はじめからそう言ってくれればいいのに。(やっぱり節操なしと思われているような気はしたけれど、感じ取れる好意に不満げな声はけろりと直る。恋人の真似事を頼むなど悪意を持っていたから言えたことで、恋人ごっこは今日限りの遊びとなろう。魔法がほんの少し得意、とは謙虚な姿勢から出たものと捉え、称える気持ちは変わらずに。語られる昔話に植木鉢が割れ、花が散る悲惨な光景が浮かぶ一方、はにかむ表情にどう反応すればいいか分からず、神妙な面持ちを携えておいた。)それは……ショックね。自分だけで育てていたならまだしも。(華奢なチェーンの先、小振りなヘリオドールを掬い上げられ、つられたように上体を反らす。間近で見られる魔法に目を輝かせ、淀みなく紡がれる言葉へ耳を傾けよう。いつまでも繋がりが絶えぬよう、捧げられた祈りのように感じられて、強く向けられた眼差しに緩く微笑み返す。魔法を込める美しい所作と、離れる指先を目で追いかけていれば、ふと覚えたのは既視感。重ね掛け。)秋風の妖精さんなら、一本道でも大丈夫そうね。風に乗って、どこにだって行けそう。(ペンダントで眠る妖精の正体にたどり着き、ツンと分かりやすく顎を上げる。何も気付かずに喜んでいたのが気恥ずかしかった。からかう意図がなかったのはわかっているから、少しすれば気を取り直し、話を戻そうとおもむろに口を開く。)私、エリックさんとのお別れは、仕方がないことだと思っていたの。話が突然で驚きはしたけれど、少し考えれば当然なことだったなって。でも、魔法を掛けてもらって欲が出たみたい。やっぱりお別れは、嫌になってしまったわ。(寂しいとは素直に言えなかったけれど、ようやく正しく別れを惜しむことができて、ヘリオドールに視線を落とす。片道切符なら呼び出す場所を誤魔化せず、そもそも姉のふりをしていたら近況だってろくに話せない。この魔法を使うのなら、自ずと出自を明かすことになろう。双子であることは絶対に、知られたくはなかった。騎士とは完全に、決別しなければならない。けれど考えないようにしている己が行く末、孤独でどうしようもなくなった時、結んでくれた繋がりは、心の寄す処になる気がした。)魔法、掛けてくれてありがとう。呼びたくても、呼べないかもしれないけれど、大切にするね。(騎士へ視線を戻し、にこやかに礼を述べる。己が乳母からの手紙を待ちぼうけた時みたいに、悲しませないよう言い訳を添えて。――父王に命じられずとも、双子の真相を隠すのは己の意志だった。人目を避けて、ただただ引き籠もるだけの日々。何のために生きているのだろうと、思うことがある。それでも国と民のために生きる姉のように、大切な者のために生きる騎士のように、誰かのために生きることはしない。他ならぬ自分のためだけに、この命を使いゆく。)
〆 * 2022/11/18 (Fri) 07:14 * No.95
(泣いてしまえれば、姫を引き留めることが叶うのだろうか。子供じみた浅はかさで真剣に考えそうになって、やめた。)男の涙など、一体何の役に立ちましょうか。(自らに向けて薄ら笑いを浮かべる。女性の涙には強い力があるというが、成年を経た男が人前で泣くのはいかがなものか。姫は泣き顔に興味があるのだろうかとぼんやり思った。独占と指摘されてようやく、忠義と似て非なる感情が芽吹いていたと気付かされる。あとで丁寧に摘み取っておかないといけない。花嫁に男の使用人が付いていけないのはこういうことかと理解した。花婿側の気持ちの問題とばかり捉えていたが、こちら側の問題でもあったのだ。)お気遣いありがとうございます。幸いにも怪我をした子はいませんでしたし、いくつか助けられた花はありましたので。(苦い経験ではあるが学びはあったし、院長のおかげで皆から爪弾きにされることもなかったと付け加えて話しておこう。今日まで魔法を捨てずに独学ながら色々と体得してきたのは、自らを守るため。此度は、姫との繋がりを守るために。姫が未だに妖精を信じているのならばとあえて触れずにいたが、とうとう正体に気付かれてしまったようだ。けれど、直接問いただされないうちは厚意に甘えてしまいたい。多くを望めない身なれど、姫に別れを惜しまれるのは十分すぎる幸福だった。)仕方のない世界で儘ならなくても、御心は姫様だけのもの。ご自身のお気持ちを、どうか大切にしてください。(「私も嫌です」と言えない代わりに、姫を尊ぶ。姫の立場であればやすやすと呼ばれないのは想像が付き、ペンダントごと魔法を大切に扱ってもらえるのは、まるで己への気遣いにも感じられた。)はい、その時をお待ち申し上げております。(とても遠くに据えた希望であるが、ただ別たれるよりは救いがあり、やるせなさも幾許か埋められるはず。最も、姫が己を呼ぶほどの事が起こらないのが何より一番なのだが。恋人ごっこは姫が飽くまで。さすがに食事の時間が近づけば、控えめに終わりを申し出たかもしれないが、望まれるならば今日はいつまでも付き合おう。姫の艶やかな髪を優しく引き寄せて、毛先に触れる程度の口付けを――。)
〆 * 2022/11/19 (Sat) 12:58 * No.99