(黄昏)
――……レイ、レイ、……こらっ。こっちを向きなさい。……ああ。ほら、やっぱりあなた、熱があるでしょう。(昨晩は、澄んだ夜空に星がひときわきらめいていた。冬の入り、雲のかからぬ宵のあくる日はしんと冷え込む。はじめに異変に気がついたのは妹で、顔を合わせるなり眉を顰めて近づき、目を逸らして誤魔化そうとする片割れの両頬を、掌でそれぞれ挟み込んだ。そのまま額も合わせれば、予想にたがわず。ひとつ、呆れたようなため息をこぼして、しかし慣れたようにほほ笑もう。――われらはふたりでひとり、半分の姫。たしかに“姉”が呼ばれはしたものの、たとい秘密を知る者たちが相手とはいえ、どうして“彼ら”にこまやかな判別ができようか。そこからは乳母と侍女らに看病をまかせ、ひとり、封じの扉を潜った。ご丁寧なことに男装もかたく禁じられたため、道中の支度部屋で召し替えをする。斯くしてこの日、付き人とは、前室の控えの間にてはじめて、たがいに顔を合わせたはずだ。国務会議なども執り行われる、王城の大会議室。入室をゆるされ、主従そろってこうべを垂れたその先で、父たる国王に告げられた内容は。)わた、くし……の、……婚、約……?(ああ、まさしく天が落ちてきたか。まなこをそのかぎりに瞠り、ただそれだけを絶え絶えに問い返した末姫に、いらえる是は祝福に満ちて、あたたかい。詳細を引き継いだ大臣いわく――相手は隣国の王家筋。齢もさして離れておらず、なにより、女人の身で剣をとることに好意的で、たいそうご興味を示されているそうな。「かなうならいちど“手合わせをしたい”と……そう、書簡でおっしゃっていましたよ」。継母たる王妃の、心から安堵したような、うれしげな声音。どういう顔色を浮かべて、返答し、ふたりで辞してきたのだったか。ましてや隣の、いまは数歩後ろをついてきてくれる“彼”の様子を窺うことなんて、とてもとても。回廊から見仰ぐ空はすっかり暮れかけて、みごとな茜色に染まっていた。)――……ジル、(あてどなく彷徨っていたはずの足は、どうやら所縁のあるひとかどへとたどり着いたらしい。春の一日、このひととはじめて、真剣で打ち合いをした闘技場。この季節でも、ほとんど色を変えずに円柱へ絡まる緑の蔦に手を添えて、そちらを振り向くことなくこう問おう。)父上は……いま、さっき。……わたしの婚約が内定した、と……そう、おっしゃった?(確認をしてどうなる、という自嘲も含んだ。そういう可能性を、まるきり考えなかったわけではない。それでも、嫁ぐには難のある、身分の高すぎる女性の常として、大地を祀る神殿に送られるほうが、ずっと現実味があると思っていたから。まだ、しばらくは、混乱から抜け出せそうにない。)
(まごうことなき福音が、そこにはあった。喜びにあふれ、祝福の声はいずれも満ち足りている。話に伝え聞く、さるひとの人柄までもが、疵のない貴石を陽に透かすような光の色を帯びてあたたかい。晴ればれしい会合における一点の影――普段通り姫ぎみの傍らに控える騎士は、礼式にのっとって始終顔を伏せていた。国王直々の言葉を頂戴するときにだけ、感情の浮かびにくい面を上げ、拝した下命を遂行する旨を訥々と告げる。その一度で、場にいるおおかたの関心からはずれただろう。陰鬱たる佇まいの、存在の希薄な男。そういった、常の印象を違えぬふるまいであったはずだ。――姫ぎみと共に部屋を辞した男は、付き従う後ろからその背を注意深く見守った。回廊をゆく、心ここにあらずといったふうの足どりが、それでもこの場所へたどり着いたのは、思うところがあったのか、知らず知らず導かれたものか。まぶたを重く持ち上げて、なかば髪に隠れた目に石造りの柱を映す。)――……はい、姫さま。陛下は、たしかにそうおっしゃいました。(落陽が一面に溶け出したかと思うほどの空だった。円柱の影が石敷きの床を舐めるように長く伸び、男の姿はそのなかに沈んでいる。背を向けて立つひとの問いかけに、まずはのべねばならないことがあると――そう思いながらも、なにかが舌を張りつかせ、言葉を喉もとに押し留めた。)……陛下の御前でも、申しあげました通り……お輿入れの、その日まで……必ず、御身をお護りいたします。(代わりに告げる声は固く、常よりも低い位置から這いずるように彼女のもとへとわたる。男は地に片膝をついて、深くこうべを垂れていた。)姫さま。……もうじき、日が暮れます。こうも、人の目の届かぬところにいらしては……。風も、随分と冷たくなりました。お戻りに、なりませんと……。(顔を俯けたまま、婚前の淑女が日に百ぺんも聞かされるような、もっともらしい抑揚を含めたつまらぬ進言をする。昨日までの男であれば、こういった、頭ごなしに諫める物言いはせずにいた。動揺の見える彼女を落ちつかせようと、その背にそっと触れさえしたはずの手も今は拳に握られて、ただ膝上にある。かつて闘技場に響いた、高らかな剣戟の音などまるで知り得ぬかのごとく。足もとに広がるサーコートの裾、そこに留められた不恰好な縫い跡だけに、過日の片影が残されていた。)
(いわく「重要な話」だというこたびのお召しは、夕刻にほど近い時間帯。この日の終わりを、よろこばしい報せで締めくくろうと――あるいはそんな意図も籠められていたのかもしれない。国王夫妻のかたわらには、長兄たる王太子と、義姉たる王太子妃。あとは政務に携わるおもだった廷臣が数名。もっとも見慣れた顔でいえば、女官長の姿もそこにはあった。部屋を辞し、えにしによって導かれたか、目の前に現れたさびれた石づくりに、なんとも筆舌に尽くしがたい思いが湧こう。冬を間近に、春の日よりは水気が抜けていささか強張ったような、ごわつく蔦の肌ざわり。幾重にもつるが巻きつき繁る旺盛さは――そういえば、古来より、夫婦や家族を結びつける縁起物。やがて返る、是のいらえ。まなざしは石敷きの床へと落ち、黒ぐろと伸びる円柱の影を見つめながら、)そう。そう、ね……輿入れの、その日まで……姉上たちも、そうだった。国をまたぐ婚姻ならなおさら、キュクロスからの供はみな、途中で例外なく帰される。両国のあいだで、侍女も、護衛も……まとう衣服もなにもかも相手がたのものに替え、身ひとつで嫁ぐのだもの。(持参金や婚礼の品とは、また別のこと。儀礼のひとつ。花嫁の引き渡しはたがいの緩衝地帯にて行われるしきたりで、そこで姫君は、祖国のすべてに別れを告げることになる。常よりも低い位置から声がかかれば、その進言のもっともらしさに、ふと、)……ふふっ。(しかし、喜色をはずませるには遠く及ばず、ただ、あえかな吐息めいて霧散する。そこで遅れて振り返り、返答の代わり、片手を翳すことでいらえとしよう。ささやかな詠唱。ふいに空気の流れが止まる――と、いうよりは、ふたりを膜でつつむように障壁をめぐらせ、間に合わせの風除けとしたのだった。片膝をつき、深くこうべを垂れる付き人の表情は窺えない。否、よしんばその顔を上げていたとして、このあたりを染め抜かんばかりの夕映えでは、視認もかなったかどうか。)――……もう、“ジル”とも、呼べなくなる?(婚前の淑女である。わざわざ確認をするまでもないことだ。けれど、)こうして……ひとつ、ひとつ……手を、離していかないといけないのね……。(春の、小姓然としたなりとは異なる姫君の姿で、膝をかかえるようしゃがみ込む。寂寞の吐露は、されど文字どおりの意味とは少し違った。このめでたい報せは、本来“シェリー”にもたらされたものではない。よもやこの十と七年、ふたりでひとりを演じてきたとはいえ、この国いちばんの禁忌を、そっくりそのまま嫁がせることはしないだろう。友好へのたいへんな侮辱ゆえ。お別れは、やって来るのだ。もう間もなく。王がいちどに迎える妃はひとりと定められ、ここ百年ほどは周辺諸国との関係も安定している。武力はいくさではなく、魔物を相手どるためのもの。無風の世の生まれが気取れることなど、まだ、それくらい。)
(おのれは爵位も持たぬ商家の生まれ、姫ぎみの婚姻が結ばれたあかつきには、繋がりの一切が絶たれ、風の便りにその近状を聞き及ぶだけとなるのだろう。“末の姫”というだけではない彼女を知る以前、男の日々がそうだったのと同じこと。詠唱が紡がれる瞬間、男は冷たい風に吹かれたように身じろいだが、障壁がめぐらされてしまえば、かすかに揺らいでいた髪も静かに垂れるばかり。その姿は、忘れ去られた庭に佇む石像のように、うら寂しい闘技場の黄昏に溶けこんだ。問いかけに返す答えの代わり、地をすべった視線が、影になって細く伸びる蔦の葉の輪郭を捉える。)……では、……離さずに、いてくださいますか。(ため息ひとつにかき消されるほどのささやきだった。暗がりに目が慣れたなら、濃く落ちる影のなかに浮かびあがるものがある。見る者を鋭く貫かんとするまなざし。男は眼窩に暗い熱をくすぶらせ、彼女をまっすぐに見つめていた。)……ジル、と……あなたに、そう呼ばれるのが好きでした。このまま、ずっと……おそばに、お仕えしたかった。(乾いた唇を割る声はほとんどうわごとじみて、追いすがるようでも、慈悲を乞うようでもあった。彼女の手は、民びとが生涯抱えるより多くのものを与えられ、同時にうしない、そしてまた受け入れねばならない。みずからの貴き身をもって、国の礎となるために、花弁のひとひら、糸の一本、よすがにすらゆるされず。子どもの駄々にも満たないと知ってなお、明かす思いを恥じてまぶたを閉ざす。引き絞った弓の緊張を見せていた肩の線が、それを境にふっとゆるんだ。)……たとえ、この名をなくしても……私は、あなたのお声を覚えています。あなたも、きっと、そうではありませんか。(両の指を合わせ、うれしげに見あおぐときの呼吸の弾みかた。手を引いて振り返り、歩みをうながすやさしげな調子。男の胸のうちに刻まれた、なにものにも奪えぬその響き。一方で、“離していかないといけない”と――彼女が言うひとつひとつの、おのれが知らぬその色やかたち、大きさ、はかり知れぬ輝きを思った。握りしめたすべてが、手からこぼれゆくのではない。そうであればいい、と願うが――。)……いつでも、お力になりますと……申しあげましたね、姫さま。なにも、変わりません。……この心は、いつも……あなたと、共にあります。
(落陽があたりをにじませて、付き人の表情さえ杳として知れない。蒼穹はすっかり染め抜かれ、しかし、そのうちに目が慣れると、影のなかに浮かぶひとつの彩を捉えることができた。輝石のまなざし。束の間、呼吸も忘れて魅入られる。まるで彼のささやき以外の音が、この地上から絶えてしまったかのように。)…………、(ああ、と思う。熱にうかされるような響きが、ひどく抗いがたく耳朶を打つから。――“ジル”と、相手を呼ぶのは、なにも妹にかぎった話ではない。当然の共有として持ちかけた日、姉は、いかにも年ごろの娘らしい好奇心を刺激されたのか、城下の収穫祭のあれやこれやを詮索したがったものである。そういう双子のじゃれ合いも、いまとなってはなつかしい。)――……、(どうしてか、泣きたくなってしまう。「俺は、あなたの騎士ですから」と、「離さぬと誓う手は、ただひとつだけ」と――秋の終わりに告げてくれたひと。胸のうちで、嵐が吹き荒れているようだ。ひどい誘惑に駆られる。燭台から手燭へともし火を移すように、焦がれるに似た熱が、喉もとまでせり上がりかけて、そして、)~~~~ッ、(寸でのところでそれを呑み下しては、その代わり、彼のほうまでその身はんぶん、上肢ごと差し伸べてくずおれるよう、この膝をついてでも相手の膝上の拳をとりたがった。さも追いすがり、慈悲を乞うかのごとく。)ええ。ええ……憶えているわ。……わたし、どうして、そんなによくしてくれるのだろうとたまらなくなって、それでも。たしかに、うれしかった。うれしかったの。(忘れはしない。ひとつひとつを区切りながら言葉にして、やはり、涙ぐむことなくほほ笑もう。)あの日、髪にもらった花はね、完全に水気が抜けて赤茶けてしまう前に、どうにか押し花にすることができたから……そうして大切に、とってあるのよ。(これもまた、大役を担い嫁ぐ身であれば置いてゆかねばならぬものだ。されど。暗いよろこびが過ぎりかけ、恥じるようにまなざしを伏せた。――“レイチェル”が、めでたく輿入れの運びとなれば、同じ名、同じ顔、同じ声をもつおのれもまた、もはや王城にとどまることはかなわない。いまはまだ、この身の振りかたすらもわからないけれど、顔を上げて、背筋もしゃんと伸ばしていよう。あなたの前では。)心づよいわ。ほんとうに、いつでも、……いつまでも、心は……ともに、あってくれる?(秘密を知る者は、少なければ少ないほどよい。巻き込みたくはなかった。まだ“知らない”のであれば、引き返すこともできよう。それが、先の衝動をかろうじて呑み下せた理由。このときは、信じていたのだ。愚かなほど。)あなたが、いつの日か……その妻となるひとを迎えて、子を、生してもよ?(だから言えた。末姫らしい、からかうような口ぶりで。)……なんてね。そこまではさすがに言いません。でも、憶えておくわ。ありがとう、ジル。
(握る手の甲に、人の体温が触れる。それで、静かに目を開けた。膝をつくその姿を捉えるや、反射的に腰を浮かしかけ、けれど押し留めた男の手は変わらぬ形で、彼女のもとへ委ねられる。拒絶とは違う、紙一重の均衡を崩すのを恐れた力の入りかたをして、拳の骨がわずかに浮き上がった。)……よくしてくださったのは、あなたではありませんか。あなたを知って、私は……このかたが、私のあるじなのだと……。(知ってほしい、と、知りたい、と――ひどく拙くぶつけた想いを、残らず受けとめてくれたひと。痛いほどに鳴り続けた、胸の鼓動を覚えている。ああ、と掠れた声が漏れた。花など飽きるほど贈られるだろうに、脆い記憶を小箱にしまいこむように、あの日の思い出を残しておいてくださったのだ、と知って。)……ありがとうございます、姫さま……。私は……だめにして、しまいました。ハンカチも……申しわけありません……。(触れ合わぬほうの手で、衣の胸もとより、畳まれた手巾を取り出しておのれの片膝に乗せた。叱られると思ったわけではないが――ずっと言い出せずに、“借りた”という名目のもと、肌身離さず持ち歩いていたそれ。汚れを落とそうとして、魔法を使わぬ古くからのやりかたで苦心した結果、繊細なレースはすっかり形が崩れている。その一端をつまんで広げると、干からびきって元の色さえわからなくなった花弁がはらはらと剥がれ落ちた。いずれも他人の手を借りれば済んだものを、すべて台なしにしてしまった。子どもじみた独占欲を抱いてよいおかたではないと、初めから承知していたのに。)……はい、姫さま。この心は、あなたのためにあります。……いつまでも、ずっと、あなたの幸いを願っています。(おのれが捧げられるのは、この身ひとつ、心ひとつ。それでもいつの日か、兄たちと同じく妻を娶り、かわいい子をなして。抒情詩にうたわれるような、うつくしい一頁としてこの日々を振り返る――そういった未来を、束の間、思い描いた。隠修士にでもなって、遁世の果て、どこか遠い地でひとり骨を埋めるほうが、よほどましであると言える。近く重ね合わせたがるまなざし、男の両目に宿る熾火の熱は隠しようがない。しかし彼女が、この別離を穏やかなものとして迎えようと心を砕いているのがわかったから、薄い唇はほほ笑みの形にひらいた。)いつか、生まれる子に……おまえの父は、王城で……姫ぎみにお仕えしていたのだ、と話しても……とても、信じてもらえないでしょうね。私自身、……ずっと、不思議でしたから……なぜ、選ばれたのか、と……。
(大きな手だ。おのれの掌ふたつで、ようやく拳ひとつを覆えようかというほどの差がある。それでも同じ、剣をとる者の手の甲。ぐ、と関節が力んでわずかに骨のかたちを浮き上がらすさまは、しかし、けして拒絶ではない。それがわかるから、ひどく浅ましくも心の底から安堵した。うれしかった。たがいが、たがいを、相手こそが「よくしてくれた」と感じている。こんなときなのにそれが少しおかしくて、かすかな笑み声が呼気へと混ざろう。)ふふ。でもね、わたしに言わせるなら……あなたこそが、はじめによくしてくれたのよ。(これ以上はおそらく平行線の、ささやかな張り合い。過ぎし春の日、あの手合わせが、どんなにこの胸をよろこびで満たしたか。もっと伝えられたらよかった。衣より取り出された、見覚えのある手巾を見とめてなおさらそう思う。)ううん。いいのよ。わたしだって、大切な約束を……ひとつ、だめにしてしまうもの。(名目上は、末の姫君はひとりきり。国の大事を控えたいま、もはや抜き身の刃を用いての“また”はゆるされるまい。はらはらと剥がれ落ちる、干からびた花びら。――花は咲いても、いつかは枯れる。それが、はやいか遅いかの違いだけ。障壁を解けば、たちまち風に攫われるだろう。せめて、この闘技場で散ることができてよかったのだと、そう、考えるようにしなければ、また、身の上を重ねてしまいそうだった。苦心の跡にまなざしを落として。)ジルが、その手で……染みを落とそうとしてくれたのね。……ありがとう。せっかく、そうして心をくだいてくれたのに、もう、これくらいしか、差し上げられるものがないから……だから。このまま、このハンカチを――……あなたのもとに託していっても、いい?(添える手の、その指先に頼りなく力を籠め、そろりと視線を持ち上げる。贈り物としてはまず間違いなく落第もよいところで、かえって失礼に当たる可能性も否めない。けれど。)“わたし”の心の代わりに。(そばに置いて。忘れないで。想っていて。そんな希求が、たしかに透けた。「なにも得物の柄にくくりつけろ、というのではないわ」。冗談めかすその補足を、上手に楽しげに、口にできていればよかったが。)……まあ。どうかしら。それはそのときになってみないと。(「いつか、生まれる子」。ああ――そういう切り出しかたをしたのはこちらのくせ、いざ彼が紡ぐと、胸の潰れるような心地がした。はっきりと、まなこに遠く羨望が過ぎる。流れに従いいらえを返さねばいけないことはわかっているのに、こぼれる音吐は道を外れて、)――……いい、なあ……。(熾火の熱に浮かされて、気がつけばうわ言めく吐露が口をついていた。それは、家庭を築くことのできる相手に対してか、それともその妻となるひとに対してか、そのいとし子にか。)い、まの……わすれ……、(て、と続くはずの言葉。あわてふためく全身が、あつい。)
あの日のよろこびは、私の……生涯にわたって道を照らし続ける、光です。(もともとが、奇跡のような一瞬だったのだ。また、が二度と叶わずとも、あの春の輝ける空の色は変わらない。そっと向けられるまなざしを受け、頷いた。求められ、与えることを知るひとだと、過日、そう感じたのを思い出す。手の表に触れる指のたしかなぬくもりが、言葉にされぬ想いまでをも深く、深く染み入らせるようだった。)……たとえ、幾千の勲章を賜ろうとも……そのお言葉に優る光栄は、ありません。どんなときも、決して離さず……我が心の、導べにいたします。(手巾にかかる指の先が、愛おしむ手つきで白い布地を撫ぜる。いつでも、いつまでも、この心はあなたのそばに。言葉を寄せあって、互いに心を交わして、これ以上なにを望もうか。畏れおおいほどの幸福を胸に、この先も生きてゆけると、そう思った。だから――微笑の薄れた唇が、なぜ、と音なく動く。いつものように、悪戯っぽいからかいを滲ませた末姫の顔の奥から、“それ”が現れるのを見てしまったために。なにも持たぬ少女のような、無防備な羨望がこのひとにもあるのだと、あたりまえのことを考えるよりも先に――)姫さま、(地を這う影が人知れず領土を増やすように、おもむろに身を乗り出す。大きく広げた五指を彼女のおもてへ迫らせ、清らな瞳の上へかざして視界を覆い隠した。ぐっと手のひらを押しつけると、指の背に頼りなく引っかかっていた花弁、色褪せた最後のひとかけらが、白くやわらかな頰へすべり落ちてゆく。)――逃げて、しまいましょうか。(ひとところに絡みついて姿を変えぬ蔦の、乾いた葉擦れの音も今はない。)馬の背に、あなたを乗せて……朝も、夜も、駆けづめて。いつかたどり着く、異国の地で……羊を飼って、暮らしましょう。すみかを定めず、鳥のように生きる人びとをまねて……草原や、沼地……砂丘を、ずっとわたり歩くのもいい。あなたは……そこで、なにを望んでも、なにを羨んでも、よいのです。(堪えるように握られていた拳は、いつしか彼女の指先を離れて、その背を強く抱く。焼けただれた喉奥から、無理やりに押し出すような声でつづる夢語り。よこしまな意志を持つ者が、まっとうな身なりをして耳もとでささやき、気高い精神をそそのかし、堕落させようとするときの愚かな響きだ、という自覚があった。それが苦しげに聞こえるのは、甘言にたぶらかされる心ではないと知るゆえに、必ず踏みとどまるひとと知るゆえに、最後はその小さな、彼女自身の手で確実に断たせねばならない思いだとわかっているからだった。)……ねえ、レイチェルさま。今すぐに、逃げ出してしまいましょう。
(秘密があった。それは、われらが出生にまつわる禁忌とは違う、のどけき春の陽ざしのそれ。――めぐる季節、妹が付き人と手合わせに興じた回数は存外に少ない。真剣でない得物をたがいに握り、晴れ晴れと対峙するのは、いつとて姉のほうである。けれど、それで構わなかった。そういう気持ちを思い出す。手巾に託し、交わす心。これをともに、たしかな餞別とできたらよかった、のに、)…………ぇ……、(なにが起きたのだろうと考えるよりはやく、視界が翳る。その掌で覆うようにしての目隠しであると悟ることができたのは、干からびたみしきの最後のひとひらが、この頬をついと掠めてすべり落ちていったあと。)――……、(耳もとに吹き込まれる、ささやくひと言。その肩がいちど、小さく跳ねるか震えるかして、頼る先をなくした両の指先は宙をたゆたう。そのうち、背に腕がまわされるのがわかって。)逃げ、る……? あなたと……ふたり、遠い……とおい、異国の地へ……、(王領の端で出会った、あたたかな羊飼いの一家を想起した。いざないは、これまで以上に抗いがたい響きをもって胸を打つ。――彼は、言ったのだ。生きようと伸ばされる手を離さぬと。望めば、きっと叶えられる。明日をも知れぬ身となろうと、いかに束の間の逃避行となろうと、生命を懸けてでも必ず、その身を、心を尽くしてくれるはず。だから、)ああ……、(万感のため息がこぼれ落ちた。)……そう、できたら……どんなに、いいか……!(茜さす夕陽が、すべての境目をぼかしてゆく。わたしは誰。あなたは誰。つい先ほどたしかに呑み下したはずの熱が、ふたたび喉もとをせり上がる。――告げてしまえ、と、耳朶の裏で蛇がささやいた。甘言は、正面ではない横や、斜め後ろからそそのかすのがいちばんよい。視界を塞ぐも同じこと。困ったことに、“わたし”にはこたえられてしまうのだった。ああ、だって、嫁ぐのはこの身じゃあない。なのに。)~~~~ッ、……でき、ない……。(身体の中心から、ずたずたに引き裂かれてゆくようだ。言葉とは裏腹に、指先はたまらず騎士のサーコートにしがみつく。いつしか、覆いの内側よりあとから、あとから、涙があふれてしたたっていた。)だって、わたし……まだ、呪いを、そそげていない……!(相手を巻き込むこと。それもまた、おそろしいことのひとつである。されど、挙げるならやはりこれしかない。血は呪いに打ち勝つか。それが双子をなす根幹。)――……きっと、それがわかるのは、“レイチェル”の終わりになるのでしょう。(姉が嫁ぎ、祖国の礎となると世に知らしめるその日まで。あるいはひとが、その臨終の間際にこれまでの人生の善し悪しを振り返るように。)だから、まだ、逃げない。でも、……ッ、でもっ、――……ジル、いまはまだ……このまま、(どうか抱いていて。苦しげな夢語りが、おのれの願望ゆえの幻聴でないのなら。)
(沈みゆく陽はすべての境界をぼんやりと濁し、曖昧に溶かして混じりあわせる。人びとの目をくらませ、足を惑わせて、道を踏み誤らせる黄昏どき。たった一度、ほんのわずかな気の迷いで、取るべき選択を外れたとて、誰に責められるものか。そううまく言い逃れて、衣にすがる手を取り、有無を言わさずどこかへ連れ去って、永遠に隠してしまえたらよかった。そうできたら、どんなにいいか――さらけだされた想いが胸に突き立って、内側から心の臓を熱く燃やす。手のひらを濡らす涙が、肌に焼きつくようだった。男の硬い指の腹は、ためらいがちにまぶたの薄い皮膚を撫で、こぼれ落ちるしずくをぬぐい取ろうとし、しかしあふれてやまぬことがわかると、おのれの肩口へそっと、その頭を抱えこむ。細い身体を胸もとへ寄りかからせ、そのまま足を投げ出してしまえば、男の姿は円柱の影から逸れて、半身だけに茜色の陽を浴びた。眠れるいとし子をやさしくあやす仕草で、二本の指で一定の拍子をとり、やわらかく背を叩く。繰り返し、繰り返し。そうしてしばらくのあいだ、自身は顔を上げて、生まれて初めて夕焼けを目にした者のように、強すぎる光を瞳いっぱいに差し込ませていた。――やがて、泣き濡れる呼吸が落ちつく様子を感じ取れたなら、おとがいに手をかけて、少し上向かせようとする。叶えば頰に流れる涙の跡、睫毛にかかるひとしずくまで、ていねいに手巾を添わせて。)……あなた自身で……そそがねば、ならないのですね。遠く、遠く……たとえ、誰の手も、目も届かぬところへ逃れようと……あなたが、心に勝利のあかしを打ち立てる日まで……その呪いは……。(独白めいた声色が、“呪い”と、そう口にするときにだけ、わずかばかりの翳りを帯びた。ゆっくりと、なにかを強く抑えつけるような瞬きののち、埋み火の熱をまとっていた瞳の色は、いつしか穏やかな湖面のそれへと変わりゆく。)……よいですか、姫さま。ジル、と……その呼び名は、もう二度と、口にしてはいけません。……けれど、……もしも、手が……この手が、あなたの支えとなれる、そのときは……、(正しい従者の顔をして、秘めごとを潜ませた。肌守りの石をそっと握らせるように。)どうか、約束してください、レイチェルさま。ジルをきっと……あなたのもとに、呼んでくださると……。
(世に生まれ落ち、生きながらえた双子は母を知らない。それでも乳母が、こわい夢をみたのだと、夜更けにそろってむずかる幼い末姫たちをあやし、ふたたび眠りへといざなうときの手つきの――その心地よさは知っている。それに似ていた。こうべをやさしく抱き寄せられた先で、彼の肩をしとどに濡らし、嗚咽も堪えきれずにしゃくりあげている。ふたりをつつむ障壁に、音消しのまじないもかけておくのだったと、ふやけた思考で過ぎらせつつ。しかし幸い、たがいのほかに、王城のはずれを通りがかる者は居らぬよう。どんなに悲しく、やるせなくとも、いつまでも泣いてはいられないものだ。――そのうちに呼吸が落ち着き、涙も少しずつ引いてゆくころには、相手の身じろぎを感じて。おとがいに手指を宛がわれ、静かに上向かせられると、腫れぼったい目もとの逃げ場がないので、決まりが悪そうにそろりと視線を彷徨わせた。丁寧に、その最後のひとしずくまでが拭われてゆく。つられて呼気がこぼれ落ち、)……ふ、……難儀な、ものでしょう……。でもね……そう。こればかりは“レイチェル”が、みずからあかさねばならない、から。(ほんとうに困ったものである。「呪い」と至上の命題を口づかせるたび、かえって、この身が縛められてゆくような。けれど、それ以外の生きかたを知らない。ひとりでも。――ゆっくりと、織布を垂らすような瞑目ののち、まぶたのとばりが持ち上げられた。穏やかに凪いだ、動揺をちらとも来さぬ湖面のまなざし。よく知っている、あなたの瞳。)……でも、ジ――、っ!(言われたそばから反故にしかけて、あわてて両の掌でくちびるを塞いだ。もう幾度めか、ああ、と思う。このひとはいつも、けして多くないかぎりのうちから、これ以上ない福音をくれる。束の間、想像した。忌み子としての生の終わり、ただひとつ、たしかに呼べる名があるということ。)ふふっ。そのとき、かりに――……しわくちゃの、おばあさんに……なっていても?(きっと返るいらえを期待して、楽しげに、うれしげに声をはずませて。)ありがとう。約束するわ。そのときにはきっと……“あなた”を、呼ぶわね。(どんな守り石より助けとなる。握りしめるようほほ笑んで、たしかにそう頷いた。わがキュクロスをまもる霊峰の中腹、神殿、と称せるかもわからぬ人里離れた石窟での遁世の果て。その臨終の間際、皺枯れた指先をやさしく掬い上げる騎士の手を夢想する。愚かでも。この先も生きてゆけると、そう思った。)あなたの、お父さまやお母さま、お兄さまは、……どんなかた?(あたりを焼くほどの夕映えは、すでに鎮まりつつあろう。じきに日没だ。それでも、どうしても離れがたくて、最後の悪あがきに少しだけ。)
(細く震える肩。あふれ出す嗚咽。胸を締めつけるような息づかい。心のままに明け渡されるかなしみ。そのすべてをただ静かに受け取っていた男は、年端も行かぬ子を抱くようにして、腕のなかの面差しをしっかりと覗きこむ。)いいえ、姫さま。私は……あなたを、誇りに思います。(倒れ伏して涙に暮れるより、立ち上がって剣をとる道を選んだひと。泣き腫らしたまぶたに、冷たい指で触れる。斜陽は銅の輝きを過ぎて、辺りは薄暮のなかに沈みかけていたが、男の網膜にしがみつく光の残像が彼女のもとへまといつき、潤む瞳のなかを漂ったので、その澄みきった色は一層きらめいて見えた。そこにうれしげな微笑が戻ると、男もまた、まぶしげに目のふちを細めるほほ笑みかたをして。)そのときは……私も、老いていますから……しわの、数え合いをしましょうか。ひとつひとつ、教えてください。あなたが……どんなふうに笑って、泣いてきたのか……。(「約束ですよ」と告げながら、本当は、と胸のうちに諭す。言い聞かせる。本当は、おのれの名など忘れてくださるほうがよいのだ。切り立つ峰々を越えて、若き花嫁はやがて母となり、彼女に似て愛らしく育つ御子に、みずから剣を教える。そうした幸いの日々を、涙に濡れた約束など思い出さぬくらいに満ち足りて、彼女が生きてくれるのなら――。)……私の……家族、ですか。(思いがけぬことを尋ねられたというふうに、軽く瞬く瞳を横へ向けて、なにを話そうか、と考える少しの間があった。もうすっかり涙をぬぐい終えた頰に手巾をあてて、ふたたび輪郭をなぞる。)兄たちは……立派なひと、です。私とは、歳が離れていて……それぞれに家庭があるので、顔を合わせることは、少なくなりましたが……。(決定的な軋轢があるというのではない、けれど親しく言葉を交わさなくなって久しい間柄に特有の、静かに横たわる距離を感じさせる言葉の選びだった。逸れたまなざしを戻して、手巾をすべらせる指先を止める。)姫さまの……ご家族は、どんなかたがたですか?(一介の騎士の立場から見上げる王族の顔とは違う、彼女により近しいものとしての彼らのありようを、これまでいく度も想像に描いてきた。すこやかに培われてきたのだ、と窺い知れる性情に触れるたび、彼女の傍らに常に寄り添う存在があることを感じとっていたからだ。その拠りどころとも呼べようものが、先の祝福に満ちた顔ぶれのなかにあったのかまでは、男には判ぜられぬことだったが――彼女を支え導いてきたものが、あたたかな光であればいい、と思った。)
(「あなたを、誇りに思います」。いましがた落ち着き、引っ込んだはずの涙の勢いがぶり返し、みるみるうちに視界がにじんでゆく。しかし、うまく伝えられたらいい。こたび降るのは、けして、悲しみゆえの雨ではないと。ほほ笑みを交わし、ふたり、糸にする前の毛束を、たがいの指先をつかって撚りあわせるような夢語りをしよう。家族。ふいの思いつきをそのまま口にしたような、なんとも拙い引きとめかた。思案の横顔をしばし見つめて。)そう……。齢が離れていて、すでにあちらにはご家庭が……。(どことなくおのれの年長の兄君たちにも通ずるような。立派な、という形容にはしかと頷いて、しかしながら、)わたし、の……?(思わず虚を突かれたような、意外そうな呟きに。末子ともなれば当然、もっともあとに生まれたわけで、物心がついたときにはみな、多少の差こそあれ――王族としての振る舞いというものをそれなりに叩き込まれ、身につけられたかたがたばかり。ゆえ、問われてはじめて考えた、という体たらくでどうにか頭をひねっていた。)そう、ねえ……。まず、すぐ上のお兄さまがたなのだけれど……これがまた幼少からまあ、やんちゃで。……なのに、剣の稽古はお嫌いなものだから、しつこくついてまわって、追い立ててゆくことも多かったわ。(とは、彼もいつかに小耳にはさんだ逸話であったかもしれない。)……お姉さまがたについては、前にも言ったわね。いちばん上のお兄さまはご立派なかただし、――……うぅん、と、お父さま、は……。(父親というよりは、国王として見仰ぐことのほうがほとんどの相手。それでも、もう少しだけ振り返る。)さっきみたいに、じかにお目にかかることは、そうそうないのだけれど……そういえば、昔、わたし……が、剣をとると決めたとき。父上が、たいそうよろこんでくださったと聞いているわ。でもね、兄上いわく……そのときは感極まるように、涙ぐんでもいらしたんですって。だから、もしかすると、ちょっぴり涙もろいかた、なのか、も……、(語尾へ向かうにつれて勢いがしぼんだのは、あまりに子どもじみた当てずっぽうだという自覚がさすがにあったからだ。ほんのりと、恥ずかしがるよう目もとを染めて。)ただ……これはまた、別のときの話なのだけれど。お兄さまがね、「玉座とは孤独なものだ」と、そうおっしゃって。……わたしには、国を治めるむずかしさは想像もつかないのだけれど、それでも、もし、かりにお父さまが涙もろくてさみしがりなかただったと、したら。ううん、しなくても。……お母さまを亡くしたあと、継母上が来てくださってよかったと、思う。(肖像画でしか知らぬ母。いちばん身近な片割れは、“家族”の範疇には収まりきらない。)ふふっ。わたしも、たくさんの縁に恵まれたもの。(乳母、侍女、剣の師、それから、)……あなたも、もちろんそのひとりよ。あなたは、なぜ自分が選ばれたのかと、不思議だと、そんなふうに言っていたけれど……。(つい先ほどは、いらえることができなかった内容だ。いまは背筋を伸ばし、胸を張って告げられる。)どんな理由があっても、なくても。わたし、あなたが――……“レイチェル”の騎士で、よかった。心の底から、誇りに思うわ。
(やがて薄暮のなか、封じの扉の前まで送り届けてもらったのち。知る者がごくわずかにかぎられる、秘密の庭の片隅から、ごくごくかすかな、ひどく弱々しい、鳥の鳴き声が聞こえた気がした。)…………まあ……。おまえ、どうしたの。群れか、つがいとはぐれて……秋のうちに、南へ渡りそびれてしまったの。(枯れ葉の積もる庭木の根もと、くすんだ夕焼け色の、小さな小さな頭部をしかと見とめた。たまらず掬い上げ、回廊のともし火のもとであらためる。過日にまとった男装のような、灰色がかった青みの腹。)もう大丈夫よ。……ここの侍女たちは優秀だから、春までのんびり、あたたかくしていなさいな。(ふるい童謡に、鳥の葬式を謳うものがある。捨て置けばたちまち潰える命。されどひとの手に託せば、繋いでゆけるものがあった。――斯くて定めの今日は暮れてゆく。さやけき星と、月あかりを戴いて。)
(やがて薄暮のなか、封じの扉の前まで送り届けてもらったのち。知る者がごくわずかにかぎられる、秘密の庭の片隅から、ごくごくかすかな、ひどく弱々しい、鳥の鳴き声が聞こえた気がした。)…………まあ……。おまえ、どうしたの。群れか、つがいとはぐれて……秋のうちに、南へ渡りそびれてしまったの。(枯れ葉の積もる庭木の根もと、くすんだ夕焼け色の、小さな小さな頭部をしかと見とめた。たまらず掬い上げ、回廊のともし火のもとであらためる。過日にまとった男装のような、灰色がかった青みの腹。)もう大丈夫よ。……ここの侍女たちは優秀だから、春までのんびり、あたたかくしていなさいな。(ふるい童謡に、鳥の葬式を謳うものがある。捨て置けばたちまち潰える命。されどひとの手に託せば、繋いでゆけるものがあった。――斯くて定めの今日は暮れてゆく。さやけき星と、月あかりを戴いて。)
〆 * 2022/11/18 (Fri) 04:12 * No.93
(優秀な兄たちは、今やダニエリの中枢に座している。絵に描いたような家族愛、というわけではないが、心から厭うて遠ざけ合う仲でもない。ただ、たまの食卓を囲むとき、話題を探して気まずく目を逸らし合うような。幼いころからそういう関係を保って、ここまで来てしまった。均衡を崩さずにいるのは、互いの性分ゆえである。付きびとの任を終えたら、と思う。久々に顔を見に行こうか。今ならきっと、腹を割って話せるだろう。いつか言えなかったことも。昔語りに耳を傾けながら、兄ぎみがたからやんちゃな気質を受け継がれたのだろうか――とは口にせずにおいた。けれど話のほほ笑ましさにつられて、手巾を添わせる指つきは、まなじりをくすぐるようなそれになる。いまだ潤む瞳のふちに戯れるばかりの指先が、離しがたい思いの表れであるとそろそろ気取られる頃合いだ。下ろす手で細い肩を支えて、抱きかかえていた身体をそっと起こす。日暮れが近い。あらゆるものごとには、区切りをつけねばならない。)きっと、陛下は……姫さまの志を、お喜びになられたのですね。(王家のありかたというものは、男からはあまりに遠い位置にあるが、伸びやかな精神を固い椅子に縛りつけるような、選択ひとつ自由にできない貴族社会のことならよく耳にする。ゆえに、世相を考えればこれは稀有なことと思えた。彼女を通して知る王の姿を、先のあおぎ見た面差しにひとつ重ねる。娘の意志を重んじ、成長を喜んでは涙する父の顔。)……おいたわしいこと、でした。(“お母さまを亡くしたあと”――翳るまなざしが、かつての不幸を静かに悼んだ。いとし子をその手に抱くことなく、はかなくなられた母ぎみ。もうひとりの小さな命。)王后さまの、お支えはもちろん……姫さまがこうして、すこやかにお育ちになられたことが……どんなにか、陛下のお心を慰めただろう、と思います。(玉座の孤独とは、おのれには到底はかり知れぬ、厳しく、険しいものであるのだろう。国王とは、王族とは、時に親や子の結びつきすらも離れて、孤高にあらねば立ちゆかぬのだ。だから――先の場があたたかな祝福にあふれていたことが、改めて男の心を安らがせた。形あるものを持ち出すことがゆるされずとも、編まれた願いはまとってゆける。生涯、彼女を凍えさせぬ衣になる。えにしもまた、と頷いて、)……、私、が……、(息を呑んだ。その言葉が、胸に歓喜を生み、熱い血を四肢にめぐらせる。瞳は大きく揺らぎ、酸素を求めるように開く唇は、けれど言葉を持たない。ただ手巾を胸に抱いて、深くこうべを垂れた。)
(固く閉ざされた扉から数歩もゆかぬ柱の影で、男は王の側近に呼び止められた。手渡されたのは、書簡、ではない。丸められた羊皮紙。結び紐の端に押された王家の封蝋には、おのれには判別しがたい術がしかけてあるようだった。紐解いたことを確実に知らせるものか、他者の手にわたらぬようにするものか。いずれにせよ大仰な、といぶかしむ男が顔を上げると、人影はあとかたもなく消えている。いやな予感が首筋を這いのぼった。見据える回廊の先は暗い。長い夜が訪れようとしていた。)
(固く閉ざされた扉から数歩もゆかぬ柱の影で、男は王の側近に呼び止められた。手渡されたのは、書簡、ではない。丸められた羊皮紙。結び紐の端に押された王家の封蝋には、おのれには判別しがたい術がしかけてあるようだった。紐解いたことを確実に知らせるものか、他者の手にわたらぬようにするものか。いずれにせよ大仰な、といぶかしむ男が顔を上げると、人影はあとかたもなく消えている。いやな予感が首筋を這いのぼった。見据える回廊の先は暗い。長い夜が訪れようとしていた。)
〆 * 2022/11/20 (Sun) 20:51 * No.102