(祝福のホリスモス)
(わたしたちは、不便をしていたのだろうか。一族の顔触れをひとみだけが冷めた色をして眺めながら、妹は父の言葉を意味もなく思考の端で転がし、遊ばせていた。――双つ子を指定しての厳密な遣いは早々覚えがあるものではなく、とうとう時機が来たと察したものだった。父のお言葉に対して否を唱えたことはなく、けれど此度の報せばかりはお云い付け通りに姉を向かわせるべきか、姉を説き伏せ妹が赴くべきか。妹が姉を護り通すには限界があることを察した過日の公務。結局当日になるまで納得の出来る答えは導けず、当日の朝方、向かい合って眠る姉のあたまを、髪を、頬を、いつものように撫でていた寝台の上で解は弾かれた。)おねえさまはいい子にしていて。大丈夫よ、直に治るわ。ごめんなさい、最近は体調を崩すこともなかったから私も油断してた。帰りにお菓子と新しい薬も貰って来るわ。だからゆっくりおやすみ、私の愛しいロクサーヌ。(跳ね起きるようにして姉の容態を確かめ始めた妹の姿は、我ながら酷く久しく感じられるものだった。いつかのように用意した林檎の果実茶と薬を飲ませ、みずからも一杯を呷る。騎士を迎えた夏の終わり、巡る季節で姉の心身は随分と健やかになった。白のケープを纏い、妹は姉の額にくちづける。公に姿を現すのは宿泊を伴った公務以来となるけれど、姉らしい振る舞いは最早身に馴染みかけていた。)スタンバーグ家の爵位がもう少し早くに上がっていたら、あなたのお兄様の許へ嫁ぐ未来もあったのかしら。そうしたらこの国を出ることもなく、あなたも弟になったのに。残念。(家族の前では大人しく婚約の報せを受け入れてみせたけれど。本来なら早々に自室に引き返し姉の傍らに寄り添いたかったところ、姉に伝える為のことばが上手く、思い至らない。ちいさな歩幅は無意識に通い慣れた薔薇庭園へと向かわれて、戯言の先に彼の所在の有無まで構える余裕はいだけなかった。)バートラムも一緒にあちらの国に来てくれるなら、何の心配だって持たずに済むのに。あちらに騎士団はないのでしょうか。――……ううん、駄目ね。喩え新しくあちらの国で騎士になろうと、新入りのあなたを今みたいにわたしの傍に置くことは出来ない。(嗚呼、全くどうしたら。忌み子としてのこれまでの人生を思えば、寛大な処遇と呼んで良いだろう。友好国の王家の血を継ぐ者、歳も近く、目立った醜聞はない。けれど、――けれど。姉の近しい者が誰ひとりとして存在しない新たな円環に、俗世の穢れを知らぬ姉だけをひとり置くだなんてそんな恐ろしいこと。こめかみに指先を添え、纏まらない音の粒をぽろり、ころりと落としていく。覚悟はしていたのに。この時は気付いていなかった。妹もまた、迫る別離に混乱していたと云うことに。)
(まず一つ得心があった。この少女はやはり王族の一員なのだ。だからその身分で以て、国と国を繋ぐべく嫁ぐ。――粛々とこうべを垂れて、国主たる王の念押しに明瞭な是をいらえた男は、変わらぬ笑みをして姫に添い会議室を辞した。その後の足取りも当然に彼女に連なる。向く先を男のほうから促すこともない。予測を立てて足場に気を配るのを慣れた思考の一つとして、知覚にはやがて薔薇の香りが満ち始めた。外に吹く風は日中でも随分冷たくなったから、花のために整えられた空間のあたたかさは頬にも際立つ。舗装路に二人分靴音を刻む中で、聞こえた仮の話に男の呼気がおかしげに震えた。出し抜けとも思わない。)有り得ましたねェ。こちらの兄も父も喜んだでしょうに。(スタンバーグは国境の領地を預かる家だ。その嫡子と王位継承権を持たぬ末端の姫なら確かに悪くない。むしろその為にこの次男坊がまず宛がわれたのだと謂われたら、一つならず全てが腑に落ちただろう――だがその道筋は既に断たれた。先の話は既定、覆せば外交に差し支える。この少女は、あとひととせのうちには他国の姫となるのだ。その先へ己が随従するのは実際に現実的ではないだろう、女人の輿入れに男の付き人など、近しいほどに要らぬ不信の種になりかねない。男の面持ちは笑みを湛えたままで、視線が緩やかに下向くのも彼女の足取りに難が生じておらぬかを見るため。所作の十全を平素に纏わずとも、踏み入ったあたたかな庭園には既に互い以外の気配は無かった。香しい彩りの中で、小さく細いひとりの後ろ姿を見下ろしている。近日見なかった棘の趣も、かといって日頃相対する花弁の雰囲気とも少しばかり異なって見えていた。やんわりと唇を開く。)……我が姫、(呼ぶ声に彼女は振り返ってくれるだろうか。夏の暮れから三度目を紡いでいない彼女の名は舌の裏に置いたまま、代わりに馴染んだ響きだ。男の耳にまで零れ転がる思惟の欠けらを遮る心積もりはないから、そのまま紡ぐ穏やかな語気まで含め、別に聞き流されたって構いやしないけれど。)国としちゃ目出度い話だ。一騎士としてもお祝い申し上げたい。(男個人から彼女個人へ、とは些か面の異なる、国が擁する騎士団の一員から王室の一員へ向ける平坦な感慨と礼儀のうちだ。滑らかに白々しい言の葉は、その後ですいと伸べた手のひらには乗っていなかった。彼女の視界に入る位置へ差し出す空の手で、刹那ばかり男への意識を乞う。)っつぅのを一旦横に置いといて、オレが持ってた“切り札”の話でも聞いとくか? そろそろ切る必要もなくなりそうだしな。(問いには相変わらず、口にした以上の含みは無い。肯否の二択を窺う語尾上がりで浅く首を傾いで目を眇めた。状況は変わった。既に男の手のうちに興味を欠いてしまったようなら、そう、と拘りもなく下がる程度の。)
(婚姻は今更末姫の一存で変えられる訳もない、決定事項の報告に過ぎなかった。国の民にも秘される双つ子の真実を明るみに出来る筈もなく、姉の指定を受けた召集が何よりの証左。何処の家へ入ろうと、今までのようにふたり揃ってはいられない。風のようにかろい彼のいらえを真剣に捉えることをしないのは、結局そんな未来が描かれる可能性は有り得ることがないからだ。喩えこの国に遺ることが叶おうと、姉が王城を離れることに変わりはない。何をも生み出せない人間に、この城は、国は、居場所も生も許さない。妹が彼と初めて会ったこの場所に、あの頃と同じ花はひとつもなかった。生が噎せ返るように溢れる、季節の廻りの遅い場所。彼の呼び掛けに応えたにしては緩慢な素振りで振り仰ぐ。)………そうでしょうね。国にとっては、厄介者の忌み子をようやっと正式な名目で追放出来る。これであちらの国に厄災が訪れようものなら、それこそ此方では祝祭が開かれるかも知れません。(至って順当な祝辞に対して、返すは姉の言葉ではなかった。晒されたそれは違えようもない、妹のたましいが抱える抜けることのない深い棘。結局張りぼてのやわさしか纏えない仮初の姉の姿。まるでまことにひとつのうつわのなかに、姉と妹の人格を宿す"はんぶん"に成り下がったような心地だった。花びらも震える程の深い嘆息を落とせば、額までもゆびさきが覆ってかぶりを振るう。絡まった結び目も見付からない。あまりに無力で、哀れで、惨めだった。)………ごめんなさい、今のは、やつあたり。間も無くであろうとはずっと承知していたのに、………あなたも一緒であればと、勝手に願いを懸けていたものだから、(片方の血の繋がりこそあれど、歳の離れた姉君方の嫁ぎ先は国内外いずれにも存在していた。ならばと仮定した想定に、みずからは思いの外期待をそそいでしまっていたらしい。彼が妹に代わって姉を護ってくれる。そればかりがせめてもの救いであったにも関わらず、何れをも叶わぬ未来に恐らくみずからは打ちのめされている。伏せた睫毛の先、視界にあらわれたのは剣を振るう大きなてのひら。)――………きりふだ、(自失とした声音だったけれど、記憶は彼とのはじまりの光景を連れて来る。戯言の類か或いはまことにその手の中に存在するのか、確かめる必要性も感じなかったそれが、最期の一縷の望みとなるならば。)――……教えて。あなたの、切り札。(姉を救える手立てがあるならば、何だって、利用する。すっかり冷えた指先が、彼の手中に、収まった。)
(向ける目差しは接触に満たないものなのに、ぴりと小さな刺激を浴びた気がした。まろく柔い猫っ毛の輪郭線に見合わず覗く不可視の棘。また幾らかぶりに感じた気配に思わず唇を引き結んだのは、王室中から忌まれるそれに圧されたせいではない。寧ろその逆、悪戯を知ったように笑いそうになる口唇を曖昧に留めて、男は小さく首を竦めた。)ハハ。それであちらさんが“曰くの花嫁を貰ったせいだ”と言い出したら軋轢になるんじゃないか? それよか平穏に暮らしてくれるほうが万事楽でしょう。(連ねる言葉は結局軽やかな笑い交じりではある。相変わらず、宥め慰めるような口は持たない。そんなふうだから、謝罪を受けたってやはり小さく呼気が揺れるばかりだった。釣り合いとしては己もまた謝罪を述べるべきだろうが、開きかけた唇は、続いて聞こえた声で反射的に噤まれた。それでも継ぐ一音を唇の裏に躊躇わせるのは一瞬に満たない。)――死んで見せようと思っていた。(手のひら、硬い皮膚に嫋やかな細い感触を覚える。触覚がそれを辿りつつ、眼差しは暁色の瞳を覗いていた。男の声は平坦に穏やかで、重々しさも軽薄さも無い。少女の指の背にやんわりと被せる親指は、捕捉に至らず触れるだけ。言葉を切ったことに他意は無いが、結果として束の間ばかり彼女の様相を窺う間に似たろうか。緩やかな瞬き一つ挟んでから、男は唇の笑みを深める。)勿論実際に死ぬ気は無い。そういうことにして、国を出ようかと思ったんだ。両陛下も冥府までは追ってはいらっしゃらんだろうよ。“名誉の負傷”が転じた成果なれば、あんたにもウチにも咎めが降るもんでなかろうし……(己が彼女の騎士とならず、またそれによって彼女自身が損害を得るわけでもない手段。後者は強いて言葉で確認しなかったが、そういう方策という話だったと認識している。笑う男が切れる札は、言うなれば単に己が身の全てであった。身分も血縁も惜しむ素振り無く、全て置き去りに円環の外へ逃れるだけ。決して冗句ではないが、いっそ穏当なほど落ち着いた響きになったのは、別に今これが彼女にとっての“切り札”に成り得るとは自分で期待していないからだ。ただ、)オレはあんた一人なら攫える。(足した言葉も飾りではない。直前まで、別にこんな一言を続けるつもりはなかった。音吐が転げ落ちたのは今だからだ。伏せるように細めた視界に映るのが、未だ得体の知れない棘を持つほうの彼女だからだ。姫君の手を取ったまま、力加減の変わらぬ手指は何ら応えを求めるふうもなく、先に手の内を明かした身として、思考が眼前の存在へ移ろうだけだ。)それで今は、何に困っていらっしゃる?(少し身が屈むのは、物理に生じる距離を厭うてその瞳の奥を探りたいゆえ。他者の気配が無い空間で声は僅かに低くなった。変事を迎えた今日まで、存外に心安いまま付き人の立場にあったが――自分が彼女個人を何も知らないという事実くらいは自覚している。)
(平穏に。その単語に閃くものがあったとするならば、彼の国に於いての双つ子の出生に対する認識についての疑問符である。キュクロスの王国同様、災厄齎す忌み子との扱いを為されているのか。それとも或いは、双つ子の片割れなどと奇異なひとみを向けられることもなく。王国の末姫として、ただひとりの花嫁として待ち望まれ迎え入れられる奇跡が訪れるのか。許より薄い期待も、この手中には幾つも選択肢を残しておきたい。彼の切り札を欲したのだって、秘める力は花びら程度のかろさとばかり、考えていたからだ。)――………、(ほんの微か、指先が動揺を帯びて震えた。長い前の髪の下で細い眉が不快そうに顰められても、重なった視線を逸らすことはなかっただろう。その真意を確かめるまでくちびるは重く閉ざした儘。しかし結局、まことに求め得る答えは返されなかったものだから。)………どうして、そこまで、(ちいさくこぼした声には困惑が含まれ、何処か弱々しく彼の耳に届いたかも知れない。晴れやかに笑むばかりの騎士のこころに息衝く深淵を、みずからはずっと判らない儘で居るものだから。)王族に絡む命とならば確かに名誉なものでしょうが、忌み子であるわたしの付き人など、世間一般の登用とは異なります。あなたの家の仔細についてわたしは存じませんが、ご令兄との間柄とて頗る不良な訳でもないのでしょう?王族の信頼を命を懸けて欲する程のお家柄でもない。家は関係無いと仰るならば、それこそあなたほどの剣の腕前をお持ちなら、これから幾らでも騎士団の中で躍進していける。それを何故、容易く捨ててしまえるのですか。(言葉は幾らだって溢れた。まるで糾弾でもするかのような響きさえ含み、くちびるは甘い香りの含む湿った重たい空気を食んだ。幾度か音の粒を掻き集めようとしたけれど、結局調べを見付けられぬ儘にくちびるだけが淡くひらいて、結ばれる。そんな躊躇の隙を縫って放たれた言葉のおそろしさ。――いとも簡単に妹の心臓を灼いた相手は、きっと何も知らないのだろう。結局、焔色のひとみから視線を伏したのは妹の方が先だった。)――………あなたの方が、余程この国には必要ですよ。(つとめて呼吸をしたならば、思考に冷静さを取り戻そうとする。姉の最良の日を迎える為に幾つもの未来図を展開させながら、妹は強ばりかけた頬へ、忘れかけた姉の成り損ないの笑みを刷く。)そうね、……あちらの国に嫁いで、もし幸せになれなかったら。何れの国にも不幸を呼び寄せ、良好な縁を断ち切ってしまうことがあったなら。きっとわたしは、あなたに攫って貰えば良かったと後悔をする。そんな愚かな自分に、困っているかしら。(低くなる目線からも声音からも逃れるように、戯言めいた台詞を転がす。重ねた手をほどかんとしたならば、既にもう片方の手の甲がみずからの額に重ねられ、自嘲の名残る表情を隠していたことだろう。あんなにも固く絡まった結び目のほどき方が少しずつ見えて来るかのようで。それでいて少しずつ、みずからの境目が曖昧になるかのような心地だった。)
(広い世界の全容を測るには、王国を囲う峰々は高い。あるいはその境近くに生まれたがゆえの発想ではあったのかも知れない――円環を焼き崩した先、後ろ盾の一切を失くしても生きてゆかれようと思えてしまうのは自尊の賜物だ。仮にそこにもう一人、己以外の存在を絡め取ったとて。そうした自負があればこそ、直截に問われれば少しだけ呼気が途切れた。思考に重ねて息を詰めた束の間に、緩やかな瞬きは変わらない。)……。(講じる手段と最終的な目的は時に懸け離れているものだ。男がどうしたって、彼女が心に求める未来の形に思い巡らせたとて、その根幹にある望みを透かしきれないように。逡巡は数えるなら半拍、脳裏にだけ目まぐるしく多くが巡って、男は唇を開く。)生きていると、兄上がオレを諦めてくれない。(平坦な声に、恐らくも初めてぎこちなさが過ぎった。自身の手から離れゆく彼女の手を留めるために手指が動いたのも初めてだったかも知れない。痛みを与えぬよう加減はするけれど、ほどく途中の所作を邪魔して、体熱を感じていた左手が緩やかに五指を折り込む。目差しを遮るほうの手には触れずにおくが、男の視線はその柔手も貫かん風情で逸らさない。)ご存じか知らんが、実はこれでも出来がいいんだ、オレは。……オレが家にいたら周囲が勝手に跡目争いに担ぎ上げる。だから出たんだが、あれは人が良すぎてな、そういう諍いの種をわかってない。戻って来いとうるさい。……“姫の付き人”にでもなればまァ手を引くだろうと思ったし、今のところそうなってんだが……(――順当に歩めば兄の小間使い。に、真実おさまれるならきっと構わなかった。実態はいずれ引っ繰り返る。あの嫡子は有能ではあるが些か柔らかすぎるのだ、此処で日頃見る花弁のように。舌が歯切れの悪さを含んだところで、己があの“可愛らしい主”に兄を重ねていることに思い至った。唇が笑ったまま少し眉根が寄って苦笑が滲む。それに並行する思考がもう一つあって、ゆると首を振った。あの、と思い巡らせるのはそぐわない、彼女は事実眼前に居る。わかっていても、時折別のもののように見做したがる感覚を横に除けて、意識を戻すために目を眇めた。厄介な女を其処に映したまま。)期待したより解任が早そうなもんでね。平穏無事にあんたを見送っても、こちらの悩みは変わらんわけだ。オレはあれの居場所を喰いたかねぇんだよ。(わざとらしい溜め息は、常の調子を取り戻してきたと謂える。独白に近い調子の言葉尻を紡ぐころ、右手も彼女の手元へ伸びた。目許を遮る手のひらへ、つい、と硬い指先を滑らせんとするのは不躾な戯れのよう。他者との婚礼が決まった女人に向けるにはそぐわない、いやそれ以前に王室の姫に対して許されるべきでない、一片の情を含めて。)だから手札を切りたいのはオレの都合だ。――姫君に対しては、きっと厄災などとは縁遠く、祝福の花嫁として大役を果たされますよと励ますべきところか? 今更お行儀のよい騎士をお求めならそうして差し上げますが。(笑い調子の軽口ばかりが、平素のように。)
(そのいらえは予想だにせぬ音の並びをして、意識せぬ儘に上向いたひとみが初めて揺らぎを見せた彼をうつした。みずからへと引き寄せようとした手を咎められたこととて、記憶の限りに存在しない。狼狽えるようにひとみは惑えど、奥底で涼やかに燃やされる焔に魅入られたように視線が縫い止められてしまえば、蜘蛛の巣に掛かった愚かな虫螻に等しい。本能的に感ずるのは恐怖にも畏怖にも似て、けれどまたそれらと異なる様相をしていた。――世の中には数多のいのちが存在をして、まるでわたしたちがいちばんの不幸を背負っているかのような思いもしたけれど。然しそうでもないらしい。双つ子でもなければ忌み子でもなく、五体満足な身で家柄も不足無し。だのに生を謳歌出来ない彼のような人が居る。)――………難儀な御人、(その声音は何処か慈しむような。そんな余韻にも聞こえたのは、追憶の彼方に誰よりも近い存在の気配を感じたからやも判らない。何処へでも渡り歩いて行けそうな彼が、ひとりの兄君の存在に囚われている様が微笑ましくも不憫に思えたからやも知れなかった。差し伸べられた体温が触れてはあえかに指先が震えながら、振り払うことも逃れることもなく、瞬きだけが重く落つる。)厭なくらいに承知しています。わたしの付き人に留めておくには、あなたの出来が良過ぎて困ることくらい。――そしてそれを知るのは、わたしだけではないと云うことも。(諦めたように力をほどけば、おもてを隠す手は剥がれ落ちて棘の扱いに手間取るすがたが遺っただろう。笑みも怒りも纏えず、無防備で居心地の悪そうな。彼の働きを評価する言葉を連ねゆく先には、窮する気配を宿すくちびるが淡く曲線を歪ませる。)わたしがこの国を出た暁には、あなたにはまた別の任が国より下されることでしょう。あなたは十分見合う働きをしましたし、今更国があなたを手放すことも出来ない。ご令兄との関係性を慮るならば何れの途が良いのか判断はむずかしいところではありますが、………ただ、まことにあなたのいのちが追われるご覚悟もなさっていて下さい。あの人たちは、みずからに流れる血と等しいものしか、信用出来ないものだから。(血は水よりも濃く、ならば一体何で濯げば良いものか。彼が付き人としての任を無事果たしたとて、国最大の秘め事が彼に不用意に明るみにされやしないか、国を統べる彼らが疑いを晴らすことは未来永劫ないのだろう。彼が事実を知らずとも、その真偽なぞ構いもしない。彼の国の双つ子の扱いは不透明として、少なくとも17年もの間騙され続けた国の民たちの叛逆は避けられまい。彼が国の権威の懐刀となることに、彼の生家を取り巻く人々が核となる兄と弟にどのような視線を寄越すかは判らぬとして。竦ませた肩は国に、運命に振り回されるきょうだいへの同情の片鱗を示したか。)家を継ぎたくないのであれば、相応の理由は国に用意させましょう。生きて国に尽くす選択肢は遺せます。………それでも、(重ねた手に、指先に。躊躇いがちに込められたそれは、何処か縋るような色は含んだか。困ったように微苦笑を覗かせ、暁はやわく小首を傾ぐ。)――……それでも、わたしと心中の途を選ばれますか。バートラム。
(喉の奥が低く笑ってしまった。難儀とは。成る程相応な響きが存外に優しく聞こえたのは己の耳の都合だったろうか。外聞だとか、慣例だとか、建前だとか、そういったものの一切を切り捨てられぬ家名というものは個人が気儘に生きるにはなかなかに難がある。うつくしく世話の施された庭園を始め、手抜かりなくととのう王城の柱の彫り一つにすら数多の舞台裏があるのだろうから、果たして王国全土には如何程の難儀が溢れているものか。裏を何も見ぬで良いなら、伸ばした指先一つ、なめらかな皮膚を撫ぜて体熱を感じることも甚く容易いばかりだった。騎士が扱う剣よりよほど柔く、相手取る魔物の毛皮より脆く、自身が魔力で生む焔ほど熱くもない。そういう小さな存在が少しだけ己の指先を痺れさせたことに、男はゆったりと双眸を細めた。重なる視線を何処かおかしがるふうでもあって、零す呼気が柔く。)そりゃ困ったな。(自ら有能を豪語して、あっさりと肯定される事態に生じた面映ゆさはまた刹那ほど。人並み以上の自尊心持ちとして喜ばしいのも本音だが、そう広く認知されてもまた宜しくないのが男の都合である。果たして実際に彼女以外の貴人らが男の出来をどれほど評価して下さっているかは露知らぬ話だが、囲われる、乃至は狙われるという可能性はどうにも一蹴できない。民の信心の拠り所たる王室に綻びをもたらした末の姫への扱いを見れば、彼らが異物に手厳しいのはただ事実だ。片眉を上げて、視線は少しだけ伏せられる。)――ハハ。逐一矛盾してんなァ、……今更か。(不信が高じて囲うのも、忠義を示して離れるのも、思えば似たようなちぐはぐを抱えてはいる。元より調和には程遠い性質なれば、ひょいと首を竦めた男は改めて彼女へ眼差しを宛てた。己が行く末に、彼女の立場からの口添えは心強いものではあるが――それに是非のどちらを唱えるより先に、男の手はまた緩やかに持ち上がる。柔手を捕えた左は解かぬまま、感じた微細な圧へゆったりと力を籠め返す。一度は下がった右手が再び彼女のかんばせに近付いて、遮るもののない今はその頬へ指の背を滑らせようとした。叶えば今少し彼女を上向かせる促しも含もう手付きは、男が見下ろす角度を深めてその視界に影を深めようか。)オレはあんたのほうに訊きたいんだがね……我が姫。(焔色の髪が肩を滑る間に、声量は囁きに近く落とされた。他に拾う者も無い場でなら、まっすぐ彼女の耳まで落ちるだろう。)名を持たぬあんたは何処へゆく。王族の娘としてのあんたに、この十七年を取り返すほどのさいわいは順当な途の先では見込めないか。……手放した先がそんなんなら、離してやる義理がねェよ。(“遺す”と聞こえたそれが、まるで国境の峰よりも遥かな隔壁を得るように思えたものだから。懸念は少しずつ箍を緩める。彼女が意図して秘めたいものがあるならば、それを無理に暴く気は今とて無い。ただ触れたい個所に熱を添わせる過程にそれがあるのなら、探る指先は遠慮も持たずにいよう。)
(飄々とした風情ながら、人には見せぬ葛藤をその胸のうちがわで飼い慣らしていたのだろう。不要なものと自在に操る焔で燃やしていたのかも知れない。だのに彼の思惑は外れ、赤々と燃えるその焔はいたずらに他者の注目を引いてしまう。冷酷にもなりきれない元来のやさしさは重なる時間の少ない妹さえもなお知るところであり、そしてまたみずからも利用しようとしている。持ち上がる指先を視界の端に捉えながら、妹は逃れることをしなかった。頬に触れる感触に、惑うような瞬きをしながら、微か、擦り寄るような仕草を見せた。碌な懐き方も知らず、そこらの幼子や動物の方が余程愛らしい反応を示しただろう。伏した視線は指先に誘われるが儘に彼を仰ぎ、やがて笑みに崩れる吐息が溢れた。)さあ、どうでしょう。生憎と、どなたかの許に嫁いだ経験がありませんから。精々祝福の花嫁となれるよう、励む心算ではありますが。(混乱の波は徐々に静まり、姉にとってのより良い選択を描く筆を執る。仄かに哀愁を浮かべたひとみも、ひとつふたつの瞬きでその色を薄められたら良い。気負わずにいれば自然とくちびるは笑みに似た緩みを描く。姉を護る為に研ぎ続けた棘も、直に不要のものとなる。)……ねえ、バートラム。血を分けたきょうだいと云うものは、矢張り掛け替えのないものでありましょう。あなたがご令兄を護りたい気持ちを、わたしも少しくらいは判る心算でいます。けれど、あなたはすこし、優しすぎてしまうのでしょうね。それから、存外に不器用。(揶揄するようにいたずらに語気が弾む。そうして彼の手から今度こそ、自らの指先をほどいてみせた。主従の間柄であること、或いは育ちの影響もあるのだろうか。何処か諦念のような達観のような、年齢に比して大人びて見える彼の執着の向く先はきっとみずからではない。万が一に逡巡が見られようものならその肌を指先で宥めるように撫ぜたろうけれど、何れにしても分かたれた指先はかたわらの薔薇の茎へ伸びてゆく。)この国の為に生きていて、バートラム。国を相手取ることが大仰と仰るならば、わたしの為に、生きて。あなたが励んでいるならば、わたしも尽力出来るような気がします。(偽りとしても容易にいのちを投げ捨ててしまえる彼へ。棘も厭わず桃色の花を手折っては、彼に向き合う格好をしてつま先立ちをした。足りない分の背丈は埋まらぬけれど、彼の耳殻に茎を引っ掛けるようにして、その焔色に咲かせてみることは叶おうか。)……でもね、どうしても、辛くなるようなことがあったら。あちらの国で、生きてゆけなくなったら。その時は、(棘の齎す痛みなど些末すぎて今更痛覚が騒ぎ出すようなこともない。けれど一度躊躇いがちに握られた手指は、彼の心の臓の在り処を確かめるように彼の胸許へ添う。鼓動も感じられぬようなささやかな。手許に視線を伏した儘、くちびるが落とした声音はふたりきりの距離でなければきっと風に連れて行かれたであろう果敢無さで。)――……その時は、攫いに来て。あなたの命を、ロクサーヌにください。(そこに片割れが居なくとも。彼の存在は、姉の希望の光となると信じていた。)
(棘だ花弁だと脳裏に言葉でひらめかせても、触れたのは当然に貴人の柔肌だった。碌に陽の光も浴び足りなさそうな箱入りの姫。果たしてこれが国境の向こうでいかな生活をするかも上手く想像できないくせに、思い巡らせきるより先に、指に返った少女からの接触のほうに意識は取られる。思わず想起したのは小動物だが、獣よりも随分不器用だと、妙な微笑ましさすら覚えたところで彼女の口が同じ単語を紡いだ。)そりゃあ初めて言われた。(つい感心したような声音も漏れる。優しい評なら嫌味か華美な賛辞の類でかで向けられたこともあれど、不器用扱いは自己評価に心外ですらある。とはいえそれで気分を害したなんて風情は無しに、男は喉の深くを震わせた。生家を出た事由など聞かせたのは彼女だけなのだから、彼女だけが寄越す評があることは自然だ。とくべつなその一人が手の内から体温を抜き去ってしまう折り、少しだけ力を籠めたのは頑是ない餓鬼の振る舞いに似ただろう。我ながら意図的な悪ふざけなれば、一度宥めていただければ十二分とばかり解いて――瞳の動きだけが細い手指を追う。茎の手折れる青いにおいに、鉄の気配が交じらないかは気になった。運ばれる柔い色味は武骨な男には似合わぬだろうに、その所作の狙うところを察しても動きはしない。男のほうが身を屈めてやらないのは、さて彼女の目には不敬に映るところだったろうか。)――……っふ、(耳殻の裏に感ずる小さな棘に、やっぱり呼気が笑ってしまった。おかしげに口角が上がるのを自分で抑えはしない。自嘲の欠けらを強いて隠しもしなかった。貫かれるにはささやかなばかりの触れ方に、心臓は棘を得た気がする。もたらした手を再度取ることの叶うなら、急かずも無遠慮な捕捉は細い手首へ優に五指を回してしまおう。皮膚の下に透かす体熱は今もきっと男の方が高い。)別たれた先でこの駻馬を御せるつもりでいらっしゃる? ……まァいいが。花嫁の幸いと、横取りの隙を同時に願えとは、相変わらず無茶を仰いますねェ。(笑い調子は平素の軽口の響きをした。呼気を転がすまま目を眇めて、男は緩やかに片膝を折る。焔に差し込まれた一輪が零れ落ちない動作で、仕える者の位置取りを目線の高さで示して見せよう。眉根を寄せたのは束の間、面持ちは瞬く間に不遜を取り戻す。)御意に、我が姫。――……ロクサーヌ、(刹那未満に空を食み、ふたりきりの距離でも聞き取られるか淡いような声量で、囁きは確かに眼前のひとを呼びたかった。男は我が身の愚かを知らない。自身が手段も権利も持たぬままにあることを知らないから、眼差しの先と受け取る暁色の擦れ違いも正しく解してはいない。淡い違和感のようなものは、“はんぶん”の彼女が持つ特質の一つとして未だ浚われぬまま落ちていくんだろう。そうして目差しだけが気負い無く彼女の手許へ下りて、薔薇を摘んだ柔肌を窺おうと試みる。手のひらを上向けて広げさせる仕草は緩やか、撫ぜる手付きは皮膚の裂けた気配があるなら直接にはならないが。)オレが治癒魔法が専門でないことはご存じない?(はずもない、と思うのでこれはまた単に軽口だ。)
(はじめて。台詞が妙に鼓膜を響かせたのは、みずからが彼の記憶に刻まれやすい何かを与えてしまうことに気後れを感じているが為。ひとみが眇られたのは小さな棘がまたひとつ、人よりも鈍麻な心を咎めるように、いたずらに触れた所為かも知れない。或いは悪童のような戯れに確かな体温や触感がついて回ることへの動揺か。頑なに接触を拒んでいたのは姉の騎士であるからなど、所詮は建て前に過ぎない。何処かで判っていたからだ。一度触れてしまえば、みずからには足りぬその熱を惜しく思う、浅ましい欲が生まれかねないその恐怖を。――聡い彼が意図を判らぬ筈もないのに、長駆が保たれた儘であれば不服そうにおもては顰む。それでもやがて焔は薔薇の花を宿し、代わりに呆気なくも手首は彼に囚われた。)あなたは都合が良いからと、悍馬のなりをしているだけでしょう。……先程あなたが仰ったように、世の中は矛盾ばかり。けれどあなたはどのような無茶をも叶えて下さる騎士であると、わたしは信じています。あなたはやさしい、わたしの自慢の騎士ですから。(御すことなど到底叶わぬことと知っていた。けれど人好きのする姉の姿を偽れば、妹では伝えられない沈めた感情を手向けられる気がするものだから。揶揄するようなかろやかな響きで、けれどその言葉の水面に確かな信頼を浮かべていた。それにしても、先刻までは傾けてもくれなかった癖をして、花を落とさぬように膝を折る彼には全く困ったもの。――ただ、彼の名で確と呼ばわれた名に虚を衝かれた思いだった。それは確かに双つ子に与えられた名であれど、みずからの持ち物であるとの認識は欠しく。くちびるは震え、焦点を揺らしたひとみも、やがては笑みを繕うだろう。淡く、朧に。何処か、落涙を堪える、幼子のよに。)――………はい。期待しています、バートラム。(そこに生じた確かな揺らぎは、国を発つことに対する惜別とでも思われたら良い。規則性を見失った鼓動をあやしていた所為で、無防備になっていた手掌を振り払う余裕はなかった。幾つか血の玉が浮かぶてのひらはわずかな時に晒されたろうが、間を置かず彼のひとみから隠すように握り込まれる。)専門でなくて良かったと安堵しているところです。あなたに傷の面倒まで掛ける訳にはいきませんから。(甘い拘束は振り払うこととて容易と踏んでいた。傷の少ない手を彼の腕に添え、薔薇の香りで身を浸すように深く、深く、呼吸をして。)……もう戻って結構ですよ。わたしはシビルに言伝があるので、此処で。(思考の整理は粗方終えた。妹の優先事項はいつだって姉が最上であり、体調を崩す姉の許へ急がなければならない。けれどそのちいさな脚は、一歩を踏み出す前にほんの少し、影を深めようとする。)――………バートラム、(みずからは後幾つ彼の名を音にするだろう。後幾つ焔のひとみを、髪を、その声を、確かめることとなるだろう。詮無い思考に区切りをつけるようにひとつ瞬き、しずかに、笑みのふちをかたどった。)あなたが、騎士で良かった。(我が。ロクサーヌの。――私の。それらのいずれも音には出来ない。それが、妹の選んだ途であったから。彼の身体を押し遣る反動で後方へ蹈鞴を踏む。別離の足音を立てた妹が、名もなき片割れに戻る最期の調べ。)出逢えて良かった、バートラム。
(見仰ぐ視界で、彼女の双眸が揺らぐのを見た。――なぜを問うには心当たりが多い。幾重も転がす思考で少女の内情を分かったつもりになった、つもりは無かったけれど。雁字搦めの中心に佇む少女を前に、男が今見せるのはあたかも献身的な振る舞いで膝を折る姿勢のみだ。当人が望もうと望むまいと、また資質が足ろうと足るまいと、姫君には姫君の成すべきことがある。彼女が今すぐにそれを降りる心積もりが無いのなら、恭しく仰ぐ角度から焔色の一対は逸れずにいる。柔くも厚い花弁に棘を秘そうとするひとだから、発露し向けられるものをわざわざ払いたくはなかった。期待。信頼。有り触れた矛盾や、降り積もり続ける淡やかな齟齬も違和感も。全てを含んで眼前の存在であるのなら。しかしまあ――男のほうも少しだけ、腹のうちの露呈を押し留めるために目を眇める一瞬はある。細めた双眸を瞬かせて、寄せた眉は他愛も無さそうな苦笑の気配だけ帯びて見せた。眼差しを下げた先に出血の様相など捉えればそれも相応になるだろう。今まだ誰の目があるわけでないことを承知しながら、取り繕って笑み零すことは我ながら板に付いている。)ハハ。よかったですねェ、お転婆姫の後始末までオレの職務に入ってなくて。シビルには面倒掛けてやってください。(軽やかな揶揄に中身など無い。平素より大人しくしてくださる姫が怪我をしたところは見たことが無かったように思うし、男の基準で物を考えれば大した程度にない。専門でなくとも簡易な治癒のすべくらいは心得ているが、彼女自身か乳母に委ねるほうが後が良いとは判じた。重さを纏わぬまま解いた手から改めて彼女の体熱が抜けてゆく一瞬だけが、微かな寂寞を胸裏に差す。きっと彼女が意図したはずもないささやかな棘として受け取って、空になった手は、そのかたちのまま今しばらく宙に留まる。御意と言葉でいらえる男が姿勢を崩さなかったのは、先に彼女のほうが歩み出す気配を認知したためだ。急かしも引き留めもしないが、笑う男はそのまま見送る側に回る気でいる。降り注いだ声には浅く首を傾いだ。確とこの身を示す名の響きに、当たり前に反応して。)――そりゃあどうも。光栄です、我が姫。(細めた双眸がやんわりと撓る。飾り気無く喜色を見せたその声音と面持ちと、今ひとたび伸べかけて、曖昧に宙を撫ぜた五指の有り様が飽かず矛盾した。うっかりでもそのまま転げてしまいそうならまた手中に収めたがるところではあるが、そうではないものと、意識的に止まって。靴音はやがて遠ざかるんだろう。小柄な少女に見合うその調べが芳香の空間に溶けてゆくのを、男は黙したまま聞くことになる。身動ぎを厭って衣擦れ音も纏わぬまま、それからやがて息を吐いた。ゆる、と首を回す動作に付随する髪の流れがどこかに引っ掛かって、思い出したように片手が自身の耳元を辿る。手に取れた一輪は自己評価としては己に似合いそうもなかったけれど、その不釣り合いさに呼気は笑ってしまって、溜め息代わりに鼻先に寄せた。息を吐くでなく細く吸って、視界を伏せるは束の間。)……――先が長ぇな、(零すひとことはまた誰の耳に届くものでもなかった。静かに立ち上がれば、男もやがて場を辞そう。年明けにはきっと、王国中が喜びを見せる。いつかの十三分間を塗りなおすように、別れを奏でて。)
〆 * 2022/11/18 (Fri) 05:41 * No.94
(身を翻したちいさな歩幅は、澱みを見せずに歩みを進める。棘を纏って、情感を削ぎ落したかのような相貌をして。けれど薔薇の馨しい気配がすっかりと薄まった頃、その足は途端に頼りなく、覚束ないものとなる。乳母に与えられている部屋が双つ子の自室に程近く、平素は滅多に他者が寄り付かない故もあるだろう。睫毛を濡らし、気付かぬうちに頬をころりと滑ったそれを煩わし気に指先が払う。瞬きをすれば余計にあふれて滲んで、ただただ、忌まわしい。扉を打ち、いらえが与えられる間も、待たず。まるで背後で閉じた扉の退路を塞ぐよう。膝を抱えて蹲るすがたは王族より血を引くにしてはあまりに無作法で、あまりにちいさな身体をしていた。『姫様、』降って来る声に、こうべを持ち上げることも、出来ない。――妹に、姉の知らないすがたが在るように。姉にもまた、妹の知らないすがたと云うものが在る。姉には見せたくなかった。知られたくなかった。姉の盾となり矛となるみずからの弱さなど。不要なものだった。けれど捨てきれず、幾度も存在を思い起こさせようとするこころが、疎ましかった。)――………調べて、シビル。(かすかな声は、国王より知らしめられた国と王子の名を告げる。それだけで乳母には仔細が知れたことだろう。不必要な言葉なく、ただ従順ないらえに安堵したように金糸の散らばる身体の強張りが俄かにほどける。身辺を探らせるのは騎士となった彼以来。磨かれた大理石の床に、影となるみずからの表情はうつらない。)………それから、甘いお菓子と、紅茶と、薬も。(予め承知していたように、ぞんざいで端的な返答にもあたたかな相槌が返される。『おふたりぶん御用意しますね。』此処には乳母と妹とのふたりきりだから。問い掛けでも確認でもなく、ただ用命に対する了承の意を耳にしてまた思い知る。ふたりでひとつであるけれど、しかしふたりはひとりになれないこと。ひとつぶ、ふたつぶ。大理石に、しずくが落ちる。)――………、……うん、(妹は姉に依存している。姉が体調を崩せば、まるで同調するように心身の均衡が崩れるのは双つ子であるからなのか、単に心因性のものなのか、覚えがない頃からの兆候の理由は終ぞ妹には判らなかった。依怙地な妹の性質を良く理解している乳母は、白いケープの上に毛布をかぶせたきり、慰めも労わりもせず早々に支度に取り掛かってくれている。平素は幸いな対応も、今ばかりは反響を誤魔化せない理由となった。――酷い、裏切りだった。妹には姉が居れば良かった。姉だけで良かった。違えようもない最上。それなのに。思考が彼の声音を幾度もなぞり、彼の揺らぎを反芻させる。そんなみずからを、ただただ、許せなかった。)おねえさま、お加減は?シビルがあたたかい紅茶を用意してくれたわ。少しでも召し上がって。(自室の扉を潜る頃には、何も変わらぬすがたをした妹が居る。乳母の部屋を出る間際に噛み砕いた薬も、姉のやわらかな笑顔には敵わない。帰室した途端飛び掛かってきた魔獣をてのひらでいなしつつ、事の次第を確かめようと気怠げに起き上がる姉を気遣わしげに見遣った。本来ならば、健やかな際にお伝えしたかった事柄だけれども。されどきっと、憂いばかりの未来でないと、信じて。)――………おねえさま、お話があるの。(父の示した未来を辿るのに、13分も必要ない。)
〆 * 2022/11/18 (Fri) 11:48 * No.96