(戀の余命)
…なぜ、(とだけ落ちたその声は、受け取る者によって意味の異なる響きを帯びていただろう。なぜ突然。なぜわたしを。なぜ――なぜ、“リーナ”だけにこの決定を知らせるのか。 重要な話があると父に呼ばれて赴いた会議室。告げられた言葉は予想だにせず、すぐには飲みこめなかった。来年のうちに隣国へ嫁ぐ。――ふたりで? 夫となるひとに、この秘密を明かすのか? それは当然に否だろう。≪だから≫リーナだけが呼ばれた。“キュクロスの末姫・サラヴィリーナ”は彼女ひとりの名前になる。並べられた情報だけで解ける、とても簡単な問いだ。)……。 謹んで、お受けいたします。(父王にそう答えた声が、凛と聞こえていたならいい。膝の上で重ねあわせた両手が少しだけふるえていたことに、そばに控えてくれていた騎士は気がついただろうか。あるいは。――姉は昨夜遅くからひどい熱で、起き上がれる状態じゃない。だから名指しされた彼女じゃなく、妹が今この場にいる。リーナじゃないわ、とほのめかす手段は、本当はいくらもあった。「ビビも連れてゆける?」とでも聞けば、父も母も気づいただろう。そうしなかった、できなかった自分に、自分でも戸惑っている。だれかの妻となるのなら、絶対にリーナのほうがいい。わかっているのに、でも、だって――じゃあわたしは? はんぶんになって、サラはどう生きればいい?)……はぁ。おどろいちゃった。アルバートは前から知っていたの? わたしの婚約の話。(騎士を伴って部屋を出るころには、青褪めた顔にも多少は血色が戻っているだろう。渡り廊下を歩きながら、困ったように眉を下げる。普段より口数が多いのは、黙っていると不安が膨らみ、押し潰されてしまいそうだから。意識して笑う。そうでもしないと、眩暈で倒れそうだ。)……「来年のうち」って、いつかしら。約束、1年目から守れないかもしれない。…残念だわ。(教会の紫陽花を彼と見る。そんなささやかな望みさえ、時期によっては難しくなった。何年も一緒にいられるわけじゃないことなど知っていたはずなのに、覚悟していたよりずっと近くに、さようならは在ったのだ。自嘲するように目を伏せる。そして、仕切り直すよう笑った。)…お父さまのお話、あっさり終わって拍子抜けだったわ。これからどうする? いいお天気ね。まだ早いし、どこか行きましょうか。(重要な話と呼ばれたゆえ、身にまとうのもそれなりのドレスだ。遠乗りをするのであれば着替えたほうがいいかもしれない。窺うように彼を見る。稽古に付き合うでも、城下へゆくでも、中庭だっていい――ただ、彼のそばにいたかった。ひとときも離れず、ずっと。)
(なぜ、と、アルバートも真っ先に思った。今日もいつものご公務のつもりでお部屋までお迎えに上がった。あるじが事前にどこまで聞いていたかはわからないが、少なくともご自分の婚姻を知らされる日だとご覚悟があったようには思えない。震えていた。細く華奢な指先は怯えるように微かに震え続けていて、とても痛ましく、ひどく悲しかった。わかっていた筈だ。ご公務で遠方の町で夜空を見上げたあの日、あと何度お傍にお仕え出来るだろうと考えた。年頃の王家の姫君が、むしろ今まで何一つ婚姻の約束がなかったことのほうが違和感のある状況だった。だから、その日は思うより近いのかもしれないと、わかっていた筈だったのに。)……いえ、全く存じませんでした(明るく笑って見せるそれが作り笑いだとわかってしまうから、余計につらい。幼い頃からきっと何度だって、本音をまるごと飲みくだして、大したことないんだなんて笑ってやり過ごしてこられたのだろう。当の姫君よりもずっと落ち込んだ顔をした男なんて、お傍に仕える騎士失格だ。“約束”という言葉にはっと顔を上げるけれど、何一つ返せない。あんな、他愛ないちっぽけな約束さえ、叶えてあげられないなんて。自分の無力さに余計に肩が落ちる。いいお天気だと、そんなことさえ言われなければ気づかないほどだった。――しっかりしなければ。自分で自分に言い聞かせて、ゆっくり目を開けると、少ししゃがんであるじと目を合わせた。じっと、その澄んだ瞳の奥をみつめて、ふわり微笑む)…サラヴィリーナ様の御心のままに。……と言えたらかっこよかったのですが、本日は私の我儘を叶えて頂けませんか?(お顔を見たその瞬間から、今日は“馬が好きで花が好きでご公務に少し緊張される方”のサラヴィリーナ様だとわかっていた。自分と一緒だと思うには恐れ多いが――気持ちが落ちる時には馬に乗るのに限るから)ビビとアイリーンと、今日は宛てもなく遠乗りしましょう(――それだって、あと何度出来るかわからないから、とは、言えなかったけれど。お部屋までお送りして、着替えを終えられたら厩舎へ連れ立って歩こうか。愛馬に鞍を載せながら、ふと、ビビは共に行けるのだろうかと考えた。自分がお供出来ない分、せめてビビが一緒なら安心できるのに、と、アルバートのたいせつな姫君を見る。)
それもそうよね……って、なんて顔してるの、アルバート。来年からのことが心配?(「きっと騎士団に戻れるから平気よ」慰めるよう言いながら、本当は、彼の沈んだ表情の真の理由を察していた。国王の決めた縁談だ。姫にもその付き人である騎士にも、どうにもできぬことなのに。優しいひとね、アルバート。苦しいわ。とてもとても、苦しい。)っ、そう。それじゃあ……え?(御心のままに、と微笑んだ双眸のやわらかさに戸惑って、想定外の言葉が続けば訝しむような声になる。騎士の鑑と呼んで障りない滅私のひとがねだった“我儘”は、けれど結局、おのれへの気遣いも多分に含むのだろう。こういうときは馬に乗るのに限る。まさしく、そうだった。)…ふふっ、いいわ。いつも我儘を聞いてくれるお礼に叶えてあげる。いちど部屋に戻りましょう。さすがにこのドレスじゃ怒られるわ。(その優しさに甘えて、“仕方なく聞いてあげる”かたちを取る。「すぐ着替えてくるわ」騎士には前室で待っていてもらうことにして、笑みひとつ残し奥へ消えた。)…ねえ。わたしたち黙っていると本当に見分けがつかないの?(姉はまだ熱が下がらない。起こしてしまわぬよう抑えた声で、普段からよく着替えを手伝ってくれている侍女に尋ねた。そうですね、彼女が頷く。「ただ、」もちろんとても似ているけれど、“ふたりいる”と知ったうえで“今はどちらだろう”と注意して見たなら、気づける差異は多少あると。そうだろうな、と納得した。姉はともかく、自分は元来さほど器用なほうではない。“知っている”者すべてを騙しきれるだけの精度は――と、そこまで考えてぞっとする。わたしは今、誰を、なにを、無意識に欺こうとしたのだろう。怖くなって、着替え終えるなり早足で騎士のもとへ戻った。そこで微笑みに迎えられたなら、すこし息がしやすくなる。)――おまえもサラヴィリーナについてゆくの? ビビ。おりこうにね。(厩舎にて姫が愛馬にかけた言葉は、どう聞こえただろう。ここでの“サラヴィリーナ”とはもちろん、他国へ嫁ぐ姉を指す。まだ早いが暇乞いとばかり、あたたかな首に抱きつこう。姉は馬があまり好きじゃない。もし必要ないと彼女が言えば、この青鹿毛だけでもそばにいてほしいと妹は思った。信頼滲む手つきで撫ぜたあと、さて、と騎士に向き直る。)しばらく時間が取れなかったから、ひさびさの遠乗り嬉しいわ。アルバート、どこへ行きたい? わたしはね、まっすぐ遠くまで、とびっきり速く駆けたい気分。
(あるじに「きっと騎士団に戻れるから」と慰められてしまうという、傍仕えとしてあるまじき大失態を犯しておきながら、その慰めの言葉に余計傷つく。そしてそんな自分がまた不可解だ。――隣国へ嫁がれる姫君を最後までお守りして、自分は元通り騎士団へと戻る。それが当たり前の在るべき姿だ。剣を振るうしか出来ない男が、一時でも王家の姫君の護衛を賜るという栄誉に授かった。あと何年か先、何十年か先、そういえばあんな名誉なこともあったなと振り返るのだろうか。共に重ねた時間は“良き思い出”になるのだろうか。――そんなものじゃない。そう思うのに、やはり何一つ言葉にできない。ただ、今は、このお方に心から笑っていてほしいだけ。「光栄です、姫君」とようやくいつもの調子で軽口を返す頃には、どうにか笑顔を作れるようになっていた。着替えを終えた姫と連れ立って向かった厩舎で、互いの愛馬のご機嫌を伺い準備を施していく。その最中、不思議な言葉を耳にした。『サラヴィリーナについてゆく』?――それを、あなたが、サラヴィリーナ様が口にするのか。)……私もです、サラヴィリーナ様。幸いにも、今日はビビもアイリーンも調子がいいようです。あなたを誰も知る人のいない、遠くまで駆けてゆきましょうか(誰も追いつけないくらい速く、誰よりも遠くへ。その気持ちだけは痛いほどよくわかって、アイリーンに、頼むね、と声をかける。そして二頭と二人は、言葉通り今までで一番速く―それこそ城門の衛兵が腰を抜かしかけるほどの速さで駆け抜けた。城を抜けて、城下町を抜けて、草原を走り、深き森を抜け――ああこのまま隣国まで行けるのじゃないかなんて愚かな妄想が生まれるほど、まっすぐ遠くへ、来た。そして森を抜けた先、疾走の果ては、唐突に切り立った断崖だった。)………本当にただただ真っ直ぐきてしまいましたね…(夕日に包まれて赤く染まった辺りを見渡す。あまりの計画性のなさと突拍子のなさにようやく思い至って、やや弱った様子で馬上の姫君を見て――ぶはっと、思わず吹き出してしまった。騎士にしては珍しく声をあげて大きく笑いながら、すみません、と一応謝る)何だか可笑しくって…(目尻に涙さえ浮かぶほど笑って、ひどくすっきりした。近くの木に馬を結んで食料や水を補給した後、どうぞ、と姫君にも水筒を手渡す)……サラヴィリーナ様、ここにはあなたと私と二人しかおりません。(話してほしい、とも、泣いていいのだ、とも、言わなかった。ただ真っ直ぐに、夕焼けを映して真っ赤に染まる瞳を見つめる。不思議と凪いだ気持ちだった。)
(誰も知る人のいない遠くまで。本当にゆけたら、どんなにか。言葉にしない気持ちさえ余さず汲みとってもらえるような心地で、息が苦しいのに嬉しくて、浮かべた笑みがすこし歪む。)それ、とっても胸が躍るわ。遅れないでね、アルバート。(実際はいくら得意とはいえ騎士の速度には及ばないのだが、心ばかりは彼を追いていってしまうくらいの気概でいる。――駆けて、駆けて、まっすぐ駆けて、落暉かがやく断崖まで。)……本当にね……(呆れ声。“宛てもなく”走るにもほどがある。顔を見合わせれば、彼が堪らずといった調子で笑い出した。こんな笑いかたの騎士を見るのは、はじめてだったかもしれない。驚いたが、そうやって笑う彼のことも、嫌いじゃなかった。)ありがとう。…落ち着いた?(先刻の様子を揶揄うように尋ね、水筒を受けとる。無心で馬を走らせたおかげか、心はすこし軽くなった。輿入れまではまだ日がある。ひとまず今夜、状況を整理して。あの場で聞きそびれたことを、お父さまに確認して――。暮れゆく初冬の空を眺めながら、明日のことを考えていた。騎士に秘密を明かすつもりは、この時点ではなかったのに。――でも、)……アルバート、(ここには二人しかおりません。しずかな瞳で彼が言う。たったそれだけで、繕ってきたものなど崩れてしまうのだ。彼が見ている。見てくれている。ざあっと強く、風が吹き抜ける。)アルバートは、……おまえのサラヴィリーナ姫のことが、好きでしょう?(是が返るを疑わぬ声。愛しているという意味ではなく、人として慕ってくれているでしょう、を幼稚な語彙で言った。頷いてほしかったけれど、頷かないでほしいとも思う。だって、皆に慕われるサラヴィリーナは、)わたしじゃないの。ぜんぶ、ずっと、……わたしじゃなかったの……(――ああ。言ってしまった。知らないままでいてほしかったのに。嫌われたくなかったのに。きゅっとくちびるをきつく噛む。泣きたくない。泣くべきじゃない。大嘘吐きの“成りそこない”。)母の胎で死んだ片割れなんていない。ふたりとも生きてるの。わたしは妹で……アルバートがそばにいるべき本当のサラヴィリーナは、姉のほう。顔合わせの日に会ったのも、ひとの名を覚えられるのも……子どもたちと仲良くなれるのも、婚約も、ぜんぶリーナなの。(そしてきっと、おまえが好きなのも。ふるえる声はけれど取り乱さず、おごそかな告解に似る。夕陽を溶かした瞳でサラは、サラのたいせつな騎士を見た。まるで、断罪をねだるように。)
(赤の絵の具をぶちまけたように現実味のない、見事な夕焼けだった。もうすぐ紫紺の割合が大きくなってきて、宵闇が訪れる。冬めいてきたこの頃の夜は冷える。時間はあまり残されていなかった。――自分と“彼女”の、時間。真っ直ぐな問いに、返事が出来なかった。何か口を挟めば、もう二度と彼女の本音を聞けなくなってしまうような気がした。――ああ、泣いてしまわれる、と。そう思った。絶対に泣かないのだと決めておられた方が、泣いてしまう。そう勝手に心配したけれど、彼女は決して泣かなかった。きつく噛みしめられた唇が痛々しい。最後まで全部、一言も吐息さえも漏らさずに聞き拾って、今日だって変わらずに澄み切った瞳を見つめ返して、今までアルバートのなかに引っかかっていた些細な違和感がひとつひとつ潰れてゆくのを自覚した。沈黙は如何ほどだったか。断罪を待つには非情に永く、結末を定めるにはあまりに短い時間、)……甘いものの召し上がり方が、(ようやく喉奥から絞り出した声は、まるで自分のものでないように響いた)違うなと、思っていたのです。私が二度目にお会いした“サラヴィリーナ様”は、母の焼いた甘い菓子をとても美味しそうに、たくさん召し上がってくださいました。その後再び同じ菓子をお持ちした時は、お茶の時間だというのにひとつ召し上がるのが精いっぱいというご様子で……(疑問はそんな些細なきっかけから芽吹いた。熱いお茶の飲み方、ビビへ向ける思い、照れた時の癖――共に過ごすうち、本当に些細な、常に隣で見ている者しか気づかない、けれど修正することも合わせることも難しいであろう僅かな差異に、もしかして、という推測は何度も脳裏に浮かび、その度不敬であると打ち消してきた。“半分の姫”の、真実。それは彼女“たち”個人で画策できるものでないとなれば、国ぐるみで隠匿されていると考えるしかできなかった。自分は今、恐らく引き返せない線上に立っているのだと思う。)…最初は、双つの人格をお持ちなのだろうかと、そう思っていたのです。けれど……ご体格が、違うのです。(コルセットで締め上げて、厚みは潰せるかもしれない。ドレスを纏ってしまえば社交場では気づかれないのかもしれない。けれどアルバートは騎士だ。肩の輪郭、筋肉の付き方、顔色、呼吸の間隔……女性の化粧や衣装にはとんと目がいかないけれど、常に隣で守るべきあるじを見誤ることはない。)確信を持っていたわけではありません。あるじが従者に告げないことがあるのは当たり前のことで、疑うことさえ許されることではありません。今まで黙ってお傍に従っておりましたこと…どうか、お許しください。(片膝をつき、深く首を垂れる。真実を打ち明けるのは、どれだけつらかっただろう。苦しみを強いることをわかっていて、それでも直接言葉にしてほしいと願ったおのれは、罪深い。)……初めてお会いした日の姫君が“リーナ様”ならば……私が、剣と盾であると忠誠を誓った“あなた”の名前を、教えてくださいますか。(本当の名前を尋ねるのに、どれだけの時間かかったのだろう。ずっと隣にいた筈なのに、なぜか初めてお会いするような気さえして、少し緊張していた。)
(好きでしょうに返る声がなかったことに落胆し、救われた。いつだって誠実に言葉を受けとめてくれる思慮深いひとだから、むすめは素直になりすぎてしまうし、聞いてほしくなってしまう。話せば戻れないと知っていても。)……、(真実を聞いた途端に豹変するようなひとではないとしても、僅かなり失望の色は滲むだろうから、それが怖かった。けれど沈黙の先で響いたのは、ふたりのサラヴィリーナを真摯に見つめてきた騎士の言葉。動揺に、睫毛がふるえる。)……えっ……?(知っていた、気づいていた、と、言われたにほとんど等しかった。戸惑うように眉根が寄る。甘いものの食べかた。それは、サラのほうがリーナに寄せられる。もっと注意すべき点だった。でも、からだは――体型の違いは、ちゃんと隠せていたはずなのに。無意識に、胸もとで手を握る。)……なんで……じゃあアルバートは、双ツ子かもしれないと思っていたのに、こんなに優しくしてくれたの? ……わたしにも?(上手にやれる日とやれない日とがある不器用なひとりじゃない。ぜんぶ上手なむすめと、ぜんぶ下手なむすめのふたりなのかも、と。思っていながらそばにいて、“ぜんぶ下手”にも笑ってくれたのか。 )どっ……どうして謝るの? 黙っていたのはこちらのほうよ。なにも知らないおまえを……お父さまが、勝手に選んだのに、(お許しくださいと膝をつく騎士に、尋ねる声が上擦る。望んで付き人になったわけでも秘密を暴いたわけでもない。謝ることなんて、ないのに。――名前を、と求められて、胸の奥がせつない熱を持つ。なぜだか緊張している彼に、かわいいひとね、と思った。あの日の“わたし”がわたしだったこと。それを彼が知ってくれているなら、それだけで十分だとも。くしゃりと歪む顔は泣きそうで、けれどたしかに笑っていた。)…お父さまやリーナはわたしを、……聞いたって意味がないわ。わたしはもう、おもてには……アルバートの前には、出ないから。(答えそうになり、かぶりを振る。周囲が区別するときの“サラ”だって、ただの記号でしかない。このひとに伝えられる名前など、生まれたときから持ってない。――「その忠誠もリーナのものよ。」すげなく突っぱねたあと。スカートの裾も構わずしゃがみこみ、両膝を地面につける。そうやって、こうべを垂れる姉の騎士とまなざしを合わせたがった。)……騙していて、ほんとうにごめんなさい。今の話は忘れて。この先だれかに聞かれても、絶対に、なにも知らないと言ってね。(禁忌に触れたと気づかれてしまえば、きっと無事では済まない。彼や彼の家族たちをこの身の穢れで汚したくなかった。みずから線の内に引き込んだくせ、なんて勝手なのだろう。真剣な碧のまなざしが、ふ、とゆるんで自嘲へと変わる。)……失敗しちゃった。忘れ薬を用意して話すんだったわ。
(キュクロス王家の末姫は“双ツ子”として生まれつく筈だったから、半分なのだ、とは、この国の者、特に王城に近しい者ならば一度は聞いたことのある、下賤で下世話な噂話のひとつにすぎない。時に恐れられながら、時に面白がられながら、ひそひそ、ひそひそ、と当事者の手の届かぬところでまことしやかに囁かれるのだ。両親ともに王族に近いヴェリテ家では聞くことはないが、アカデミーで、騎士団で、酒の肴とばかりにアルバートも幾度も耳にした。だから末姫の傍仕えを、との任を受けた際、最初に“半分の姫”の噂がよぎった。けれど、お傍で日々を過ごすうち、――そんなことはどうでもよくなった。)…申し上げた通り、確信があったわけではないのです。ただ、サラヴィリーナ様がおひとりであろうと、半分であろうと、――双ツ子であろうと、私が“この方”をお守りするのだと決めておりました。(ならば最後まで、何も知ろうとしないまま、国益のために婚姻されるサラヴィリーナ姫を笑顔でお送りすればよかったのかもしれない。それが在るべき従者の姿なのかもしれない。けれど、我慢できなかった。泣くことさえ器用にできない彼女を、これ以上“ひとりぼっち”にしたくなかった。そう、二人でひとりを演じておられた筈なのに…泣きそうな顔で笑う彼女は、途方もなく孤独に見えた。)……“あなた”は、もう私とはお会いにならないと、そうおっしゃるのですか?リーナ様が隣国へ嫁がれるのならば、“あなた”は、これからどうされるおつもりなのですか…(彼女だって今日初めてこの話を聞いたに違いない。急に明日からの身の振り方を問われても困るばかりだろう。そんなことがわからぬままに問い詰めるほど意地の悪いつもりはなかったが――呼ぶべき名前さえ教えてもらえなかったことに、自分で思うよりも傷ついたのかもしれない。膝をついてしゃがみこんで、ごめんなさい、忘れてね、と、明日をも知れぬ我が身より先に従者を気遣う。そういうところだ、と思う。代わりに泣いてあげられたらよかった。優しくて、優しくて、優しくて――途轍もなく不器用なこの方の、代わりに。自嘲するような冗談に、生真面目に首を横に振る)…残念ながら私は忘れ薬ごときでこの記憶を失くすことはないと思います。幼い頃からあらゆる薬に慣らされていますから…絶対に、忘れません。(それは、今更引き返すつもりはないという、従者なりの意志表示だ。あるじのだいじな秘密を暴いた。しかも国家機密だ。今や一蓮托生の秘密を共に背負うつもりなのだと、どれだけ言葉を尽くせばわかっていただけるだろう。それにしても、と顎を手で擦る。考え事をするときの癖だ)……ご婚約されるのはリーナ様のほうだとあなたがご存知なのは、…本当は今日陛下に謁見されるのはリーナ様がご指定されていたということでしょうか?(何らかの都合で姉姫の都合が悪くなり、急遽妹姫のほうが向かって姉の婚約話を聞いた。すっ、と目を細める。)……だとしたら陛下は、父親失格ですね。娘の区別もできていないということでしょう(歯に衣着せぬ物言いは騎士らしくなく、吐き捨てるような言い方はとても国王陛下に向けるものではない。それをあるじに見せるなど――アルバートは自分も“良き騎士”の皮を一枚、めくってみせた。)
(ひとりであろうと半分であろうと双ツ子であろうと、守る。その言葉にますます困惑して、おろりとまなざしが揺れた。だって同じ言葉で誓うには、それらはあまりにも違いすぎる。)どうしてそんなふうに言ってくれるの? わたしとリーナでは全然……返してあげられるものが……(たとえば笑顔ひとつ取ったって、その価値はまるで違うのに。確信がないながらもリーナとサラ、ふたりに変わらぬ忠誠をそそいでくれた彼を見つめる。望んではいけないと知っているのに、名前を聞いてもらえたことに、この身を案じてもらえたことに、どうしようもなく慰められた。だから、泣きたくても笑えたのだ。)どう、って……わからないけど……でも、そうしたほうがいいでしょう。準備もあるし、お祝いだってちゃんとリーナが受けるべきだわ。ひとりで毎日やってゆくことに、少しずつでも慣れないと。それに、……リーナがそばにいるほうが、アルバートだっていいでしょう?(これからサラはどうするのか。サラ自身にもわからないゆえ、返す声には不安が滲む。きちんと答えられない代わりに“そうあるべき”を重ねたあとで、騎士の心を問い返そう。疑問のかたちを取ってはいるが、ほとんど確認の響きだった。かけらの卑下すら滲まないのは、当然そうと思っているから。もし彼が戸惑うようであれば、きょとんと瞳を丸めさえする。)…っふ。そうくると思わなかった。さすがヴェリテ家ね。(下手な冗談に嘘でも笑って、忘れてくれたらよかった。心から願っていたけれど――そんなひとではないことだって、本当はもうわかっていた。忘れません。はきと告げる声に目の奥がじんと熱くなるから、強がるように笑ったあと、音もなく眦をほころばせた。それはささやかだが嘘のない、サラだけが見せる動かしかただ。)…そう、……えっ?(謁見について思案する言葉にそのとおりと頷こうとして、「父親失格」と断じる声におどろけば動きが止まった。数度まばたきして、彼を見る。騎士の鎧の隙間から覗いた、ひとりの青年の顔を。他者のために悲しみ憤る、ひどく優しいひとの顔を。)…お父さまばかりなじって、皆にリーナだと思いこませたわたしの演技力は褒めてくれないのね?(くやしいわと肩をすくめる。もちろんこれも冗談だ。)……そうよ。かならずリーナが来るようにと、わざわざ指名されて……でも彼女、昨日から熱がひどいの。だからわたしが代わりに出て、…本人より先に聞いちゃった。――だけど、納得はしてる。“キュクロスの末姫”にふさわしいのは、最初からずっとリーナだもの。(どちらかに縁談をと言われれば、誰もがリーナを採るだろう。「わたしだって選ばれても困るわ。」内気で口下手な妹の素直な感想もこぼしつつ――サラヴィリーナが嫁いで、“あなた”は。その問いにやっと、答えよう。)…この名前と顔を姉に返して……亡霊になって、生きてゆくわ。だれも訪れない城の地下や……ずっと遠くの修道院に入ることになるのかもしれない。なにも聞いてないから、知らないわ。…でも、きっと大丈夫よ。すこし窮屈で、退屈で……すこし、さびしいだけよ。
…なにか与えていただくために、お傍に仕えていたわけではありませんから(困ったように苦笑して、差し出せた言葉はたったそれだけ。どうしたらこの方にわかって頂けるだろう。望まずとも権力の頂点に生まれ落ち、自分の立場や身分が誰かの人生に良くも悪くも影響を与えるものであることを、きっと幼いうちからわかっていた。それゆえに、自分の周りにいるひとは、皆自分に“なにか”を求めていると、そのために傍にいてくれるのだと思ってしまった、悲しいひと。彼女をそう育んできた環境と周囲が、憎い。そして更に痛ましいことに、妹姫は、瓜ふたつの姉姫に劣等感を抱いている――、)……あなたは少し、(膝をついて目線を合わせてくれる彼女の頭を、ぽん、ぽん、とあやすようなリズムで撫でる)ご自分を過小評価しすぎなのだと思います。私は、“サラヴィリーナ様”という、可愛らしい姫君が好きでした。それは、リーナ様が半分、あなたが半分、お二人で一生懸命作り上げた姫君でしょう?(ふたりでひとつ――そのために記憶を擦り合わせて、癖を真似て、口調を統一して、双ツ子だからといって並大抵の努力と我慢ではなかった筈。頭を撫でる手は、次第にくしゃくしゃくしゃ、と髪をかき混ぜる強いそれに変化していった)どちらが欠けても、サラヴィリーナ姫はこうして皆に愛される末姫にはなれなかった。もっと…あなたは、もっと、ご自分を褒めてあげるべきです。(こんなふうに魅力的に、柔らかく笑えるのに。あんなにもたくさんの人に囲まれ、傅かれても、彼女は自分の本当の価値を知らない。ただの姉姫の穴埋めだと本気で思っているのだと、このごく僅かな時間でさえわかったのに。国主たる国王陛下を詰るなど恐れ多いことだが、彼女たちの父親だと定義して物申せば、その目は節穴だと本気で思う)あなたの演技力は勿論承知の上ですが、その上でも父親としてあまりに見えていないものが多すぎるでしょう。……私の部下なら、何度か頬を張り飛ばしてますね(まあ実際は陛下にそんなことは出来ないだろうが――もし彼女が望むならしてみせようと思うくらいには、アルバートは怒っている。「わたしだって選ばれても困る」と、思わず漏れ出た正直な感想にはふっと相好を崩したが、先程の己が投げかけた問いへの答えを聞いて、押し黙る。まだたった十七の、王家の姫君が、――花が綻ぶように笑う彼女が、)……そんな人生を、(言いかけた言葉は、けれどすぐに引っ込めた。――もどかしげにかぶりを振り、「いえ、なんでもありません」と言葉を引き取る)……そろそろ冷えてきましたね。侍女長も…リーナ様も心配されているでしょう。戻りましょうか(気づけば目を奪うほどだった紅は沈みきりそうだ。手を差し伸べて、ふと思い出したように笑いながら、)ビビはあなたといたいと望むでしょうね。リーナ様とは気が合わない様子でしたから(――彼女にもっと教えてあげたい。完璧に見える姉姫の不出来な部分。あなただけのいいところ。あなたの価値はあなた自身が作り上げたのだということ。)
(苦く笑う彼の顔ばせを見て、こちらのほうが困ってしまう。あの星の夜のように伸びてきた手が優しく頭に触れるのなら、おとなしく撫でられながらその言葉に耳を傾けていた。が、すこしずつ手つきが乱暴になってゆけば困惑にまばたいて、)…な、なに……? …っねえ、ちょっと、……!(上擦る声であらがうだろう。末子でも一応は姫なので、この触れかたは経験がない。けれど不思議と嫌ではなくて、幼い子どもに戻ったような、くやしいような甘えたいような、おもはゆい心地がするのだった。)……ちゃんと、半分かしら。(まだ反論したがっている。過小評価。どちらが欠けても。もっと自分を褒めるべき――差し出された言葉は身に余り、受けとることをためらう。それでも彼の気持ちも掌のぬくもりも疑いはしないから、)…わからないわ。わからないけど……、アルバートがわたしの分もわかってくれているから、それでいいわ。もう十分、褒めてもらった。ありがとう。 …うれしい。(わからない、と素直に告げたあと、はじらうようそっと笑おう。乱れた髪も直さぬまま、喜色も隠さず浮かべたそれは少しあどけないかもしれない。このキュクロスに生きるほとんどのひとが自分のことを知らなくても、彼がこうして見つけ、認め、褒めてくれたからそれでいい。王の頬を張ることだって厭わないと、怒ってくれるから。「だめよ。アルバートにぶたれたら、お父さま飛んでいってしまうわ。」悪戯っぽく口角を上げて、気持ちだけ受けとっておく。)そうね。そろそろ帰りましょう。リーナ、熱下がったかしら……数日はおとなしくさせてね。大丈夫って言うかもしれないけど、それは無視していいから。(出会ったころとおなじように頼みながら、伸べられた手を取る。そういえばといった調子で騎士がビビとリーナの不仲を笑えば、ふふっとおかしげに息を漏らしながら、泣きそうな気持ちだった。馬の扱いは、姉より得意。でもそれがなんの役に立つだろう、と、ずっと思ってきた。でも――そういうわたしだからこそ、彼と今ここに立っている。「おまえだけはリーナよりわたしが好きなのよね。」愛馬を撫ぜたあと、あらためて彼に向きなおれば、心をこめて紡ぐだろう。)――…そばにいてくれる騎士が、アルバートでよかった。ありがとう。
(そうして、ふたりは帰路につく。ずいぶん長い距離を駆けてきたのだと、あらためて驚いた。一晩中走っても城に戻れないのではと思うほど――でもやがて慣れ親しんだ灯り、姉の待つ城は見えてくる。どれだけ名残を惜しんでも、ふたりの時間は終わってしまう。騎士は部屋まで送ってくれるだろうか。侍女が迎えに出ていれば、もっと早いのかもしれない。どちらにせよ別れぎわには、意を決したような「っあの、」の声で彼を引き留めたがるだろう。)……わたし、まだ出ていいかしら。(会いたいと言っても、いいかしら。 リーナもサラも半分ずつ、等しく好きでいてくれるのなら。おずおず見上げ、そっと笑う。もう出ないと自分で言ったくせ、翻意するのははずかしいが――どうか頷いてくれたらいい。)おやすみなさい、アルバート。明日からもまた、よろしくね。(この恋を胸に抱いて生きてゆくことが、赦されたならいい。あとすこしだけ。最後まで。おわかれの冬が、やってくる。)
(そうして、ふたりは帰路につく。ずいぶん長い距離を駆けてきたのだと、あらためて驚いた。一晩中走っても城に戻れないのではと思うほど――でもやがて慣れ親しんだ灯り、姉の待つ城は見えてくる。どれだけ名残を惜しんでも、ふたりの時間は終わってしまう。騎士は部屋まで送ってくれるだろうか。侍女が迎えに出ていれば、もっと早いのかもしれない。どちらにせよ別れぎわには、意を決したような「っあの、」の声で彼を引き留めたがるだろう。)……わたし、まだ出ていいかしら。(会いたいと言っても、いいかしら。 リーナもサラも半分ずつ、等しく好きでいてくれるのなら。おずおず見上げ、そっと笑う。もう出ないと自分で言ったくせ、翻意するのははずかしいが――どうか頷いてくれたらいい。)おやすみなさい、アルバート。明日からもまた、よろしくね。(この恋を胸に抱いて生きてゆくことが、赦されたならいい。あとすこしだけ。最後まで。おわかれの冬が、やってくる。)
〆 * 2022/11/17 (Thu) 17:06 * No.90
(幼子のように扱ってよい立場でも年齢でもない方だとわかっているのに、思わず頭を撫でてしまう―しかも今日に限ったことではない―のは、“頑張りましたね”“ちゃんと見ていますよ”と伝えたいからだ。確かにあなたがここに存在して、一生懸命生きていたことを知っている者がいることを、彼女にきちんとわかってもらいたいから。彼女の存在が公になることはきっとこれまでもこの先もないけれど。)……はい、ちゃんと、半分でしたよ(これが、捻じ曲げられた王家の秘密の終焉。過去形で括って全部飲み下してしまえれば楽なのに。)あなたの十七年にも及ぶ努力をまだまだ褒め足りませんが……あなたが喜んでくださるなら、よかった(嬉しい、と無邪気に笑う顔が、この少女の本来ありのままの笑顔なのだろうと思うと、これを知らないなんて陛下も隣国の御婚約者殿も勿体無いと僅かな優越感に浸る。事態に反して意外に能天気な己の思考には笑ってしまうほどだ。姉姫への気遣いは真顔で受け取って。愛おしそうに愛馬と語らう妹姫を眺めていると、急に改めて礼を言われて――思いきり照れた。「……勿体無いお言葉です」としか返せないあたり、口下手は相変わらず治る気配がない。)
(夕刻…とはとても言えない時間に着いた王城では、入り口で心配して待っていた侍女長にこってり叱られ、平謝りするしかない騎士であったが、必要な時間だったと思うから後悔はない。どんなに痛ましい真実であっても、本人の口から聞けたのだから。リーナ姫のご様子はまた明日以降お伺いすることにして、一礼して去ろうとしたところにかけられた声、)……ええ、勿論。御心のままに。(笑って返せただろうか。泣いてしまいそうになったなんて彼女には知られたくない――だってこれが、恐らく、“彼女”の初めての願いじゃないか。サラヴィリーナ姫として、ではなく、名も知らぬ彼女の、あまりにちっぽけな願い。アルバートに許可を取る必要なんて勿論なくて、でもどうしても、いいよ、勿論、と言ってあげたかった。)それでは、おやすみなさいませ、サラヴィリーナ様。――どうか良い夢を。(こうして彼女にその名を呼ぶのは、あと何度許されるのだろう。その時彼女は、そして自分は、どんな選択をして、どんな道を行くのだろう。行き先は今宵の闇の中に真っ暗だ。――どうか、どうか、彼女が怖い夢を見ずに眠れますように。)
(夕刻…とはとても言えない時間に着いた王城では、入り口で心配して待っていた侍女長にこってり叱られ、平謝りするしかない騎士であったが、必要な時間だったと思うから後悔はない。どんなに痛ましい真実であっても、本人の口から聞けたのだから。リーナ姫のご様子はまた明日以降お伺いすることにして、一礼して去ろうとしたところにかけられた声、)……ええ、勿論。御心のままに。(笑って返せただろうか。泣いてしまいそうになったなんて彼女には知られたくない――だってこれが、恐らく、“彼女”の初めての願いじゃないか。サラヴィリーナ姫として、ではなく、名も知らぬ彼女の、あまりにちっぽけな願い。アルバートに許可を取る必要なんて勿論なくて、でもどうしても、いいよ、勿論、と言ってあげたかった。)それでは、おやすみなさいませ、サラヴィリーナ様。――どうか良い夢を。(こうして彼女にその名を呼ぶのは、あと何度許されるのだろう。その時彼女は、そして自分は、どんな選択をして、どんな道を行くのだろう。行き先は今宵の闇の中に真っ暗だ。――どうか、どうか、彼女が怖い夢を見ずに眠れますように。)
〆 * 2022/11/19 (Sat) 18:12 * No.100