(花びらと月の音集めてきざはしを、作れど遠い冬の月。)
(あれから月の音色が幾つ夜を満たしただろう。王城に戻れば夢は夢のままで変わらぬ日々が続いていく。王に姉が呼ばれたのはそんなある日であった。困ったことに姉の調子は朝から優れない。しかし呼び出しの様式からしてこれが延期だの出来るものではないのは簡単に知れた。刻限まで粘れど姉の体調は戻らず、戸を叩く侍女の声に最後の最後応えたのは妹であった。正式な場で纏う暗い色のドレスとヴェールならば誰も判別出来ないでしょうと確信して心配そうな姉に微笑みだけを残して自室を出た。着付ける侍女たちもよもやこれが妹とは思うまい。事態は切迫していた。それは騎士に対してとて同じく。姉とは違うだとか告げぬままに廊下を急ぐ。ただその衣擦れの音の中にくぐもった涼やかな音が混じる。何も知らぬ人が聞けば装飾品の音のひとつかと聞き流すようなささやかな音。本当に姉を装うならばそれは置いてくるべきだったのだろう。それを忘れるほどに急いでいた。急ぐ先で妹は恙無く事を済ませ早々に大したことではなかったと自室に戻るつもりであったが、事態はそう温いものではなかった。顔を伏せたままでの「謹んでお受けしたいと存じます」との返答を澱みなく紡げたかどうか。栄誉ある婚姻を結べるという喜びにきちんと笑みを浮かべられていたかどうか。周囲が騒つかなかったということでしか事が無事済んだという理解が出来なかった。一体いつから、どうして末の姫に騎士が、くだんの夜会で話を弾ませたという貴人の存在、幾つもの事象と疑問が一斉に結ばれてそれからより大きな疑問と推測を織り上げていく。皆から言葉を掛けられ微笑んで返す最中も頭の中は騒がしかった。――それでもいつかはこんな日が来るのだとどこかで知っていた。この胸裡に浮かぶのは動揺と納得と、それから自覚も無い醒めた安堵であった。妹自身でも気付かぬそれは妙に心を冷静にさせていた。)……先に戻りなさい。私は少し風に当たってから帰ります。それからお茶の用意をしておいて。ああでもあの子にも誰にも先に言っては駄目よ。私の口から告げたいから。(付き従っていた侍女も様子が常とは違っていた。彼女自身もまた今後の自身の在り方を案じているのだろう。会議室を出てもまだこの身を姉と信じている彼女を先に返してしまう。きっととびきりのお茶の席を用意しておいてくれるだろう。扉の向こうでは何かしら話す声が聞こえるが詳細はわからない。廊下は視界の限りにもう誰もいない。顔をそろりと上げて、月の騎士を暁の眸に映した。)驚いてしまったけど……、やっとこの身がキュクロスの役に立てる日が来るのね。嬉しく思うわ。(王城の中で見せる笑みは常と変わらずお行儀の良いものである。それもまだ多くの人が行き交う場所なれば妹は姉を装うままであった。)
* 2022/11/9 (Wed) 11:35 * No.5
(ひとつの夢を二対の眸で見た宵から幾日か。探る意はなくとも自然に、これまでの暦を遡る時間も含めて幾つか気付きを得た。主要な公務に駆り出されるのは決まって“もうひとりのアルシノエ様”の方であること。月の音色を贈った相手は、目隠しをして遠ざけられる傾向が一層強いらしいこと。だからこそ此度、耳を打った諸々はあらゆる意味で不可解であった。無論、一介の騎士が余計な口や思惟を差し挟む余地など無きに等しく。こうべを恭しく垂れた侭、表情は窺い知れずとも取り交わされる要談は余さず流れ込んでくる。国交のため王室の未来がため、姫君自身にも佳き路をひらかせるに相違ない婚姻――以前のシャティヨン家子息ならばそう、何の翳りもなく喜ばしき事柄と捉えていたのであろう。胸裡に掛かる薄曇りは、極秘のまことを知らしめられているが故か。幸い国の君主であり姫君の御尊父たる御方を前に、模範的な受け答えならば幾らでも用意がある。姫君の声を耳にしながら勝手に湧き上がる介意は隅に寄せ、佳日を臨む言祝ぎののち「祖国を発たれるその日まで、盾となり剣となり誠心誠意お仕え致します」の一言で結んだ。騎士として、付き人として申し分なき態を保って。会議室を辞した後の時間は各々の胸中など何処吹く風と、恙なき一日の顔をして流れゆく。姫付きの侍女に一礼を返し、控えめに持ち上がる暁色を見つめ返した。声音だけで身分を知らしめるような品良き物言いに、風雨の中で気丈に咲くような危うさを感じるのは何の故か。数拍、斟酌の匙加減を見定めるような間を置いて。)……愛猫の鈴のようですね。(一聴して返答の形を取らぬ一言を、彼女ならば正しく酌んでくれるだろうか。いつ衆目が現れるとも知れぬ場ゆえに暈かしたそれは、詰まるところ対峙する存在の認識について。本日顔を合わせてから現今まで、歩みの度に耳を打つノイズに四方や気付かぬ筈がなかった。他の誰が知らずとも、言うなれば形無き合い言葉のような。空気と触れ合わせている折より微かに、されど衣擦れよりも明確に存在を知らしめる音。肌身離さず持ち歩く人間など、男にはひとりしか思い当たらず。)貴女様が本心から嬉しきと思われることならば、私自身もそのように……。……今時分は冷えますが、庭園の方にでも参りますか。(問いの形をとった帰着は、風に当たるとの意向を受けての案。広大な庭は冬支度に取り掛かる頃合いだからこそ、尚も咲く花はとりわけ鮮やかに映える。騎士とて城仕えまで疎かったその風雅を、彼女ならば殊更よく知っている筈と思えた。)
* 2022/11/10 (Thu) 01:53 * No.16
(表向き、全ては恙無く進んでいる。当人と周囲の者たちにも無事に知らされ、これから輿入れの支度が本格的に始まるのだろう。新年を迎える準備だけではない慌ただしさがこの先に待っている。さすれば今の静けさは一層に深い。秋の名残の葉の一枚が落ちる音さえも聞こえるほどに。)真に鈴の無い猫が在るべきだったのでしょうね。――行きましょう。(静けさの中に落ちる涼やかな音は此処に立つ者が招かれざる者であったことを示す。尤もそれを知るのはこの場の二人だけであったが。会議室の中での一幕、末の姫という存在に対してではなく姉という個人に向けて贈られた言葉であろうことは簡単に推測が出来た。妹には一人前を阻害する”不便”の自覚がある。次いで何かを言おうと何度か唇がか細く動くが音が出ないどころか、そもそもこれからどうしていいのかもわからなかった。わかるのは早々にこの場を去った方がよいということ。背にした扉の向こうの声が多少大きくなったことから誰かが退出してくるのが想像出来た。暁の眸が床へと落ちて、ふると首を左右に振った。衣擦れの音ばかりが耳を占め、ひとつばかり息を吐き出した後に歩き出す。末の姫に許された園へと至る道の間にも浮かぶ言葉はなかった。他愛無い会話の糸口すら浮かばないのだから、先の話が随分と頭を占めているのだと自ら理解する。やがて控えめな白のクレマチスが艶やかな緑を飾る空間へ繋がるテラスに至ると足を止めた。風は冷たい。)……本当は早く戻って、伝えて、……鈴を抱いた猫は邪魔にならぬよう寝台に潜るべきなのはわかっているのだけど、何故だかすぐには帰れなくて、 その……驚いてしまったから、(取り繕うように先ほどと同じく驚いたからだと付け足した。雪を飾る為に他の季節よりも少しだけ彩を抑えた庭とて人の目がないわけではない。しかし会議室の周辺よりはまだ目も耳も少なかろう。猫の話は少しばかり妹へと寄せられる。鈴を抱いた猫が自室の外にいる限り、もう一人は外に出られない。まさしく物事を停滞させている”不便”が此処に在った。)
* 2022/11/10 (Thu) 11:18 * No.19
(本来招かれたのは鈴を持たぬ方の猫であるらしいと、花唇が象る端的な暗喩から察せられた。思う点はあれど、事の発端から扉一枚隔てただけの場で述べるには至らず。ただ無音のままに胸へ手を添え、平時と同じに礼を取って歩み出す。主への従順な御意のようでいて、この場から離したい本意も含まれていたやも知れぬ。王から彼女へ――基、“末の姫君”へ向けられた言葉は父から娘への純然たる愛情だと、そう解釈できる程にお目出度い頭は持てなかった。花弁のふたひらが身動げば常と同じに音の到来を待てど、微かな声さえ零れぬ様子ばかりが痛々しく胸へ刻まれる。儚い仕草と吐息は迷い星の欠片を落とすよう、流れる沈黙はその御手に抱える荷の重さを物語るよう。冬支度を整える園庭、その風光を臨める美しいテラスへ至っても、騎士の意識は傍らのひとに向けるまま。平静を装う声の水底に、気遣わしげな色がたゆたった。)胸中の整理に時を要することは、何ら悪くありません。内に渦巻くものがあるならば、……それらを抱えたまま帰途へ就いては、心を置き去りにした迷い猫となってしまいましょう。(冷風とまでは至らずとも身に染む風がさわさわと、細い花枝に芝にささめきを寄せるように鳴る城壁の内。腕に掛けていた騎士のマントを広げ、両手を回して細い両肩を包むように掛けた。「失礼を」と短く断りを入れはしたものの、行為そのものは是非を聞く間もなく為していただろう。本日は要人の御前とあり初めから外していた一枚、優しき姫にも慮らせる要素は何一つない筈と践んで。)御心に浮かぶものを、ただ音にしてみるという手もございます。それで幾分お気持ちが楽になる、路の先を多少なりと見霽かされる……とは、残念ながら断定しかねますが。拝聴する耳ならば少なくとも、ここに一対。(傍らには自分がいる。聞いている者は自分のみである。いずれの意をも含ませて結び、聴き手を名乗る男は一旦口を閉じた。蝶と同じに舞い飛ぶ思惟がとりとめを失くそうと、中途でどこかに飛躍しようとも、終止符の在処を見失おうとも構わない。心を貸すことは能わぬとて、少しでも負荷が軽くなるのなら。楚々と咲くクレマチスの白は、暁の星がみだりに人目へ触れぬよう護る朝霞。頭上のパーゴラには終わりを迎えた秋薔薇が絡むのみだが、蔓のみとて二人を見守る薔薇に相違ない。彼女を取り巻く世界が、彩りの一つまで僅かでも優しく在れば良かった。)
* 2022/11/10 (Thu) 23:35 * No.27
(傍らに在る月輪の眼差しと静かに降る声の中に此方を気遣ってくれている様子が膚からも感じられた。凛とした澄んだ空気は葉を落とした枝の間にちらちらと光の粒を遊ばせる。この季節、太陽は少し駆け足気味だ。まもなく一番に夜が長い日を迎えるとあらば尚更に。冷たいと称される月の中に揺蕩う柔らかさを最初に見つけたのは誰か。)……ふふっ、あたたかい。(瞬きを落としている間に纏わされたマント。纏っていたものではないとはいえ、腕の温もりと未だ孕んでいた屋内の空気をゆっくりと身に馴染ませてくれる。その温かさと、)――本当に……、優しいのだから……(芳香という程ではない微かな名残がもうひとつ。本人からか生活からか滲み出た纏う空気のような柔らかいものが自然とマントから感じられる。それに気付いた妹は温かさを受け止めると同時に何故婚約の話を聞いた時に動揺したのかを理解した。そうと自らの肩を撫ぜるようにそのマントへと指先をゆっくりと滑らせる。指先に訪れるのは温もりと風の冷たさと。)……貴方のその清らな心をまた困らせてしまうかもしれないのに。(夢の内で双子の真を話したように更に余計な負担を増やそうというのか。少なくともこの身のことなど末の姫の騎士という職務を優先するならば放ってもいいことであろうに。されどきっと優しき月の騎士は言葉を待ってくれるのだ。その柔らかさに身を包みながら唇をそっと開いた。)今日はね、本当はもう一人が呼ばれていたの。わざわざ指名までして。 二人に伝えるのならばまた別の場を用意出来た筈だから、……先ほどの御言葉は私には聞かれたくなかった言葉だったのではないかしら。(暁の眸は人の気の無い園庭を巡る。全てを焼き付けるように。あの場で王は此の身が誰で在るかなど気にも留めていなかった。起きる筈のない出来事であったのだ。しかし事は起きてしまった。招かれざる者がそれを聞いてしまった。「可哀想な御父様」との一人落とした呟きはまるで他人事のようだった。)……初めからそうだったの。嘆いているわけではないわ。それが正しいことだと解っている。先に生まれた方が世に生きるべきだと解っているの。 正しき彼女は新たな空へと羽ばたいて、私は城の片隅か離宮かどこかで小さな窓を見ながら静かに暮らすのだと初めから解っていたの。(そうでもなければ社交の機会をわざわざ取り上げ、末の姫の立場上決して多くはない機会を全て姉に与えたりするはずがないと妹は推測していた。元より生まれ落ちたのはあちらだけ。この身はいつも彼岸に置かれていたのだ。)だからこうなって安堵さえしてるのよ。もう母の面影を残す娘を装わなくてよいのだと。出来の悪い可愛い妹を演じなくてよいのだと。侍女たちに余計な気を遣わせなくてよいのだと。これからはこの国の蓄えを悪戯に消費しなくてもよいのだと。(妹は悲観的なわけではなかった。王城の中で生き抜く内に此の身が如何に余計な存在であるのかを理解しただけのことだった。だから末の姫として生かされる日々が終わることに妙に醒めた心地で安堵していた。何度目かの解っているを音も無くもう一度唱える。全てを言い切ってしまうと、園庭で遊んでいた眼差しを傍へと向けた。見上げる度にあの月の音色が胸の内に蘇り、あの日硝子越しに見せたような柔さを暁に思い出させる。現ではいつだって見えぬ壁が目の前に在った。)……もう、会えなくなるかしら。(すぐに部屋に戻れなかったのは驚いたからではない。)
* 2022/11/11 (Fri) 11:24 * No.33
(凜と澄み渡る空気の中、急いた日脚は今宵も満天の星を連れてくるだろうか。地上に舞い降りた曙の光は無垢な乙女の顔をして、佇む場の空気を柔らに温めている。笑み返すとまではゆかずとも、月輪の一対がごく微かに細められた。明らかに波立っていた湖面に束の間の凪を、そこに映る星影をも目にした心地で。騎士のマントですっぽりと覆い隠されそうな姫君は、常の華奢な御身がひときわ小さく見える。清らなるは柔和で無邪気な笑み音こそ、優しきは花唇が象る慮りの方だと、そんな本心は一先ず仕舞って花の声を聞くに徹した。)姉君の方を是非にと、ご所望の上で見誤るとは、……。見分けが付かずとも鈴がなくとも、空気から悟る位であれば……私でさえ、能うものです。(尊ぶべき王へ、王室へ、ともすれば忠誠と対極にある言葉が浮かびかけるは刹那のこと。喉を越える前に押し留め、寸暇だけ止めた息を静かに吐き出す。飼い慣らした理性と矜持、我が身に植え付けられた騎士の自覚を以て。落ち着いた語りを終わりまで傾聴して知る、彼女を取り巻く事実乃至真実。正しく定められた予定調和、冷酷無残な自然の理。元を正せばごく有り触れた男と女の恋慕、細やかな発端が年々歪みを深めていった結果とも称せられるか。)その仰りようではまるで、主従の縁のみならず……(幾分早く隣へ向いていた視線が交わる。此処までの経緯から、隣国に嫁ぐは片割れの姉ひとりと考えるのが至極当然。つい先日真実に肉薄したばかりの男でさえ、類推するまでもなく思案の余地もない程に。涼やかな音色は故にこそか、輿入れによる別れを惜しむより遥かに重く鼓膜を響ませた。胸奥に突如として吹く風もまた、木々のざわめきより不穏な音で通り抜ける。恐らく地上に於いて、胸騒ぎと呼ばれよう類の感覚とは知れた。)あなたの存在そのものが、永久に絶たれてしまうかのようだ。(末尾が掠れないよう留意して言い切る。装う、演じる、蓄えの消費。脳裡で反復する都度、胸が内側から引っ掻かれるように疼いた。うつくしい声は自らを無価値なものとする言葉選びを、さも瑣末な事柄のように――否、瑣末な事柄のようにしか語り得ないのだろう。遣り切れなさを一度の瞬きで押し潰す。)それにしても実に、可笑しなことを仰る。あなたの所為で困った記憶など、この手には持ち合わせがないものですが。(意識的に柔くしたトーンで述べるは少々遡り、先の彼女の呟きについてと伝わるか。下りていた片手はヴェールから零れたぬばたまの髪へ向かい、不敬も思惟の外に置いて柔く触れた。労るように、慈しむように。)嗚呼、捧ぐ言葉を選びかねた覚えなら幾度か。……いずれにせよ、それで我が君のまことを知れるのならば本望でした。今も。思うにあなたは、もう少し我が侭になっても良い。せめて……本心からそれを望む、男の前では。(言葉を選ぶのは男の性質なれど、彼女と音を交わす際は聊か顕著であったやも知れぬ。傍に侍る付き人として、主たる相手に真を尽くしたいから。穢れを知らぬ花を前に、万一にも触れ方を過って傷付ける真似はしたくないから。ただ偏に、笑ってほしいから。騎士もまた末姫の自室へ、細やかな我が侭すら到底赦さぬ現実へと、この御身を早々に帰してしまう気は起きなかった。)
* 2022/11/12 (Sat) 01:21 * No.39
(此度のあの場では騎士を除いた誰もが気付かなかったのは仕方がないことであったのだろう。このような形で父の命を断りも無しに違えたことがなければ、悪戯でさえ起こしたこともなかった。日頃は聞かぬ騎士の少々滑らかでない言葉たちにほんの少し驚きを露わにして瞬くもその後に可笑そうに唇が綻んでしまうから指先でそれを隠した。見誤りも彼の物言いも構わぬのだと首を左右に振る。こんなちいさな発見やちいさな喜びが季節を巡った分だけ降り積もった。柔らかだった春の芽は夏に瑞々しく緑を深め、そして秋に新たな色を覚えて去った。双子もまたそれぞれに二人が共に存在出来る自室を去る日が来るのだ。自然の流れ。人々の暮らしの礎となる、王国で紡がれ続ける円環の理。)”私”なんて初めからいなかったのよ。主従の縁もまた”私”と貴方のものではないの。(円環の理の中に在った異物。月の騎士が結んだ縁は末の姫とのもの。此の身が末の姫という存在から切り離されれば主従という繋がりすらもなくなってしまうのだろう。妹自身のことは相変わらず瑣末なものとして語る口振りだ。表情とて悲しみだの嘆きだのに囚われることもなくて、ただ空を行く雲を数えるような穏やかさであった。)……(凪いだ眸は優しき手の行方を見詰める。隠すとまでは行かぬも人の目を避ける髪は王と侍女を除けば人の手を知らない。どうして触れるのか。彼に触れられているものがまるで自分のものでは無いような不思議な気持ちに襲われた。その指先を見つめ、腕の稜線を辿り、再び月輪を見上げる。柔らかな言葉は幾多の何かを閉じ込めている暗い場所へと隙間から月の光を差し込ませるように降る。)――”私”が口を開けば皆が困った顔をしたわ。”私”が黙れば皆が安堵したわ。 ……リューヌ、(王も王妃も侍女たちも、姉も、皆が優しかった。此の半端な身を大切にしてくれていた。それに報いる為に大人しく生きてきたのに。ある日目の前に現れた月はあまりにも眩しかった。照らし出す世界はあまりにも鮮やかだった。やさしい光を崩さぬような我が侭を、彼を困らせぬような此の場を収められるちいさな我が侭を心の内から探してみたが何も見つかりやしない。)――どうしたらいいの。私はすごく欲張りですごく我が侭だわ。 ……これでは貴方に何も言えない。(深く深くに在るのは欲深い望みばかり。見上げていた暁の色はたちまちにして朝露を宿らせてしまう。それが零れ落ちない内に両手で顔を覆って俯く。露の重さに項垂れた。)
* 2022/11/12 (Sat) 11:48 * No.42
“アルシノエ様”は紛れもなく、立派な主でした。思慮深く聡明で凜とした……私でなくとも仕えることを誇りと感じるに相違ない、姫君として生きるに相応しい方。恐らくはあなたが誰よりご存知かと思われますが、それでも、……あの夜。私はそちらの存在でないことを承知の上で、漸く承知できたからこそ。夢の音色を“あなた”にこそ贈りたいと思った。(無垢なる笑顔に出会って、間もなく四つめの季を迎える。瞬きの裏に描いたのち「我が君、」呼びかける声。定めへの嗟嘆ではなく、よく頑張ったと労うような穏やかさを帯びて。)あなたは、人の心をよく知る方だ。知るばかりでなく、見過ごさずに尊ぼうとする……心穏やかでいたいと希う皆の思いを、叶えようとしていたのだろう。ただ一人で、存在を無に帰してまで……けれど私は“皆”に当て嵌まらなかった、それだけのことです。(普段なら己も、波乱や番狂わせは好まぬ性分に類されよう。生まれ落ちた命を無碍にしてまで得る安寧は言語道断で云々と、殊勝なる正義の心を述べる気はない。ただ、労しい。有り体に語られた事実、その渦中に居たか弱きひとりの在り方が。痛ましさはごく僅かに顔貌へ表れれど、愁眉へと変容する前に夜明けへ溶かす。この穢れなきひとは斯様な現実を、優しい世界と見做して受け容れ続けてきたようだから。眼前でにわかに宿せる朝露は暁を充たし、繊手で覆われた所で御心までは隠しきれぬ。やや姿勢を低めては、自分より年下のむすめと対峙するように――実際そうなのだがという点はさておき、面の高さを合わせんとする。届ける声音は意識する迄もなく物柔らかになった。)それでは今暫し、お心の宝石箱に仕舞い置かれますよう。時が経ってもその我が侭……願いが続くようならば、私の耳にのみ密かにお教えください。(誰しも心に宝石箱を抱えるものと、そう知らしめてくれた唯一の君。ジャカランダの御前で渡された言葉に手を加え、騎士は烏滸がましくも路を示した。黒髪に触れていた手指は一度するりと下ろし、元の通りに背筋を伸ばしてはヴェール越しにこうべを撫ぜる。遙かな外つ国では非礼に当たる行為とて、ここは互いが生まれ育った故国ゆえに寛恕されよう。代わりに相手は仕える対象かつ妙齢の女性、幼子扱いを叱られる程度は妥当であるが。相手が真に震える幼子や愛猫ならば、躊躇うことなく抱いて宥めもしていただろう。傅くのではなく見下ろすまま、忠義とは異なる至情を月の輪に籠めて注いだ。)
* 2022/11/12 (Sat) 19:27 * No.47
(身動ぎに呼応して、最奥で今も鳴る夢の音色はあの星空の証として大切にしている。そしてそれは大切な想い出の品という以上に末の姫ではなく妹として存在することを、この世界で音を奏でることを、許してくれる唯一の物のようであった。双子の片方にだけ贈られるものがどれほどこの心を勇気付けたかなど今はまだ口には出来なかったが。)……貴方を皆に入れてはいけない?(顔を覆い、止め処なくはらはらと浮かぶものを隠しながらも耳にはうつくしい声が届く。幸い嗚咽が漏れるほどまでにならなかったのは、ふつりと浮かんだ疑問の為か、それとも不意に常より近く柔く耳朶に触れるその声によってか。濡れた指先に己の睫毛が触れて惑うているのだと報せる。そろりと指先が僅かに動き、朝露宿る睫毛越しに月のかんばせを見上げようと試みた。しかしそれが為される前にふるりと睫毛がひと震え。露ははらりと頬を滑り落ちた。優しい感覚が頭に降る。それが何であるのか理解するのに数秒要したが、困惑する眼差しが視界から得る僅かな情報でなんとか状況を把握する。)――ふふっ……(唐突な常の、常よりも更に柔らかく弱い揺れる吐息。くぐもった月の音色が呼応して秘めやかに歌う。)……ごめんなさい。折角、貴方が心の宝石箱に仕舞っておけばよいと許してくれたのに。私、貴方に伝えるいつかを夢見てこれから過ごせると思ったのに。 私、嬉しくて……、胸がくすぐったくて……。 あのね、……今、我が侭がひとつ叶ってしまったの。 ……私、もっと貴方に触れたかったし触れてほしかったのよ。(正しき作法の内でなければ何人たりとも触れてはならぬこの身、王の御腕の内にいる間は、そして婚約が決まった今は尚更に。触れることも触れられることも許してはならない。それを望んでいると言うなど品性に欠ける我が侭だと一度は飲み込んだが、ついほろりと唇から零れ落ちてしまった。涙を隠していた指先は滲む悦びを隠す為へと役目を変える。遠い月を見上げることも出来ず、暁の眸は濡れながら地を彷徨う。そして話題を変えようと先に彼が述べた言葉を拾い上げるのだった。)ああ、そうだわ。……貴方が皆とは違うのなら、どうしたら私は貴方に報いることが出来るのかしら。私は貴方に頂いてばかりなのよ?(胸の内に咲く幾多の花。形として残る月の音色。そして我が侭さえ不意に叶えられてしまった。口元は変わらず隠したままに指先だけでそうと涙を拭う。次にいつ会えるともしれない身は今日の残された僅かな時を胸の裏側で憂いながら。)
* 2022/11/12 (Sat) 23:11 * No.50
“あなた”が心を秘めて押し黙れば、私はその先を見通したくなる。口を開き、お気持ちを伺えた時にこそ安堵する。……“あなた”お一人の存在を抑え込み、その上で上手く廻る円環があったとしても……私は皆のように、それを良しとして受け容れることができぬようです。(長年にわたり真実と寄り添ってきた皆を、他ならぬ彼女自身が感謝を捧げているであろう面々を、この晩秋に真実と直面したばかりの己が責める謂われはあるまい。ただ如何に刷り込みが如く教え込まれてきたとて、神話を尊ぶのと一人を蔑ろにするのとでは話が別であると知った。少なくとも、男の中では。柔らかく鈴鳴る笑み声に、月影色の双眸をひとたび瞬かせる。ほどなく同じ唇から所以を知らしめられれば、ふ、と淡い吐息が落ちた。)失礼、想像より遥かに可愛らしい我が侭であったものですから。楽しみを奪ってしまうのは本意ではありませんが、この場でひとつでも叶えられたのであれば僥倖で……もし他にも望まれる事柄がおありなら、残りはそのまま仕舞い置かれても構いません。(婚礼を控えた淑女、それも王室の姫君に触れるなど、成る程進んで望むのは好ましくないことかと腑には落ちる。されど柔く触れさせるだけの掌、これが真に希われた我が侭とは。これを望む眼前のひとが欲張りとは、随分手厳しい評もあったものだと。これが彼女を取り巻いてきた常識なのかと、幾度目かの実感に至りもした。淡くも素直な声の本音は何処までも澄んで耳に届き、この穢れなき人が課せられてきた業を思えば胸裡は如何ともし難く疼く。報いる、と無音のままに復唱して一拍。)私は、(暁の眸から零れた星明かり、冬の陽を受けた煌めきに月輪の輪郭を僅か狭める。一旦口を噤んだのは問われて浮かぶ願いが、騎士の殊勝さとかけ離れている自覚があったから。)俺は、あなたの望みを聞きたい。瞬きと共に潰える今日ばかりではなく、明日の向こうを思ってほしい。もし此度のことで“半分”の役割が終わるならば、今後どうしたいか、……叶えられるか否かは置いて、あなたの求める未来に。心の声に耳を傾けて、聞こえたものを教えてほしい。今でなくとも構わないから。(言い終えると同時に木々を揺らし通る風が、互いの髪を冷たくも優しく梳いてゆく。皮肉なほどに美しい冬天をすいと仰ぎ、暁の君へと戻る視線に籠もるは自嘲か或いは。失敬にも触れた手を傍目が捉えてしまう前に、秘め事を綴じるように離れさせる。欲深で身勝手なのは恐らく己のほうだった。)
* 2022/11/13 (Sun) 19:49 * No.59
(誰もがそれで万事好しと思っていたわけではないのだろう。そも、本当に円環を整えるのならば初めに手折ればよかったものをこうして生かされているのだから。されど、まことに言葉に成す人などいないのは確かだ。小さな胸の奥でじわと何かが震えてはそこにあった感情の色を塗り替えていく。押し黙り秘めた気持ちは常に同じ色へ染めて、感情と想いを一定に整えていたのに、知らない色が広がる。)でも、いけないわ。(ぽとと落葉の音で呟いたのは誰に向けてか。整えた感情で動かなければ。大きな窓の部屋が良いと口にしたように、仮初の我が侭を無邪気に発していれば、姉を見習いなさいと言いながら皆は落としどころとしてうまく回ってくれている。誰も罪悪感なんて抱かずに済むのだ。円環を外れぬように計算した望み以外を口にするなんて。)……可愛らしくなんてないのよ。とてもとても大切で大きなことなのだから。(僅か眩しげに細められた眼差しが夢の形で描くのは星空の下でこの手に灯った温もりのこと。やがて顔は上げられて、ようやくその月輪の眼差しを見ることが叶おうか。見上げればついと頬を煌めきが再び滑り落ちたが、今は新たに生まれることはなく唯の濡れた暁の色だけが見上げる。初めに睫毛が震えたのは月の騎士の一人称に向けて。次に暁の星がちらちらと瞬いたのは続いて行く言葉に向けて。風が先に触れていた髪を揺らし、濡れた頬の温もりを攫おうとする。)……望むのも、願うのも、いけないの。だって私は……、(輪を掻き乱し、災いを招くのだと、――だから御前は生者であってはいけないのだと。整えられた感情の横で誰かが喧しく説こうとしてくる。それは、)私……(自分自身で作った戒め。王城の中で疎まれずに生きる為の戒め。暁の眸が天を仰いだ。その目に星は無い。秋薔薇の蔓越しに見上げる空はとても澄んでいて、高く高く遠い。長くは無い時間であっただろうが、それまでの会話を途絶えさせるには充分の沈黙の筈だ。不意に暁の色は舞い戻り、月の色を見詰めた。)……私は私の知らぬ世界の話が聞きたいわ。(のどけき春の日をなぞるように言葉を紡ぎ、秋の日をなぞるように指先を天に向けて手のひらを見せるようにそうと手をもたげた。此処に硝子は無い。)――それからね……(この身がどう流れるのか今はまだ何もわからない。明日も変わらぬかもしれないし、明日には何処ぞにやられるかもしれない。報いることが出来るのはもしかしたら今日が最後かもしれないから――、という綺麗事を心の内で並べながら、手のひらと唇とそして今は無き暁の星は騎士ではない彼を待つ。)
* 2022/11/14 (Mon) 00:16 * No.63
(テラスの床にはらりと落ちた言の葉は、儚き立ち姿を律するようでもあった。急拵えの返答を取り繕う真似はせず、代わりに緩く首を振る方向は左右。いけないことなど在りはしない、何も駄目ではないのだと、城壁の外に居た己が与える赦しに如何程の意味があるかは知れぬ。ただいつ何時も“彼女”の味方であると、涼やかな音色と共に捧げた誓約ばかりは示し続けて。)この耳には紛れもなく可愛らしい声で、細やかに紡がれた願い事とお聞き受けしましたが。であれば俺は、あなたが抱える……大切で大きなことに立ち会えた、のみならず触れられたと。稀有なお言葉をお聞かせ願えた果報者ということですね。光栄の至りに存じます。(真面目な面持ちで礼を一つ。内容そのものは偽りなき本音ゆえに冗句の響きよりは重く、されど夢の珠を贈った宵の礼謝よりは幾分軽く。間近で女性の涙を目にしておきながら、更に言えば自らが泣かせたに等しい状況でありながら、心が不可思議に凪ぐとは無礼の極みだろうか。何処に触れても滑らかな頬に示指の背を滑らせ、転がり落ちる星光の一欠片を掬い取る。沈黙を挟み、夜明けの一対と共に向けられた柔き声。それが本来編みかけていたものと同じであるかは判然とせぬまま、宛ら覚え込んだ詩の一編が如く情景を描かせた。穏やかなれど鮮明なる光彩で、忘れ得ぬ人の笑顔を網膜に焼き付けた春日。紫雲の前で落とされたとそっくり同じ音の葉を、よもや失念していよう筈もない。)俺の言葉で良ければ幾らなりとも。……来年の花祭りもきっと、知らぬ音と彩りに溢れることでしょう。(広がる大地、果てを知らぬ空、人々が心を寄せて止まぬ海原。世界の広さと比してしまえば、小国の旧き家に生まれ育った月の見識など狭く浅い。その一片として出逢いの日と通ずる話題を渡しては、静けさに身を委ねて口を閉じた。花の唇が見せた、新たな譜を描く兆しを邪魔立てせぬように。これまでを意図的になぞるよう擡げられた繊手に、呼応して持ち上げた男の手が重ならんとする。近しい場所で向き合う水鏡のように、記憶に新しき秋日を辿り直すように。拒む様子が見受けられなければそのまま、心とは裏腹に労苦を存ぜぬ細指の先と絡まるだろう。)はい。(女人と関わる経験自体が希薄だった騎士は何一つ察せられぬ代わり、何一つ強いも急かしもしない。相槌を以て先を促し、浅く首を傾げば亜麻色が揺れる。穏やかに注ぐ視線の先には、蔓薔薇の翳りに隠れやしない花顔。望みを聞きたいと願った耳を、心をただ一人に傾けて待っていた。)
* 2022/11/15 (Tue) 00:22 * No.71
(いけないと、赦されないと、ひとつひとつ堅く結ばれていた紐をほどいていくように心を覆うものがとけていく。月明かりと涼やかな音を手に小さな願いを抱えた自らという幼子を迎えに行くのだ。閉ざしていた願いは、存在を隠された”半分”と同じ。常と変わらずに廉直な調子で紡がれる言葉へ若干の弱った様子を滲ませて息を吐き出した。とはいえ呆れというような色にならぬのは、その根底に慕わしく思うものがあるから。)そうよ。それだけ貴方が大切で大きいということなのだから。……ちゃんと理解しておいて。(その慕情と呼ばれるようなものが伝わっているのか否か、やや不満げな眼差しは頬に触れるささやかな訪いに黙る。それでさえまた我が侭が叶う瞬間で此の身には大事なものだ。ふわと緩みかける唇で、何故願いが大切で大きなことであるのか理解してくれなどと付け足すも負け惜しみの響きが勝る。そしてそれよりももっと確かなてのひらに宿る確かな温もり。自らのものよりも幾らも大きな手が其処に在る。此処に在ると示すように指と指が僅か交わる。そして初めて出会った春の日を此方の呼び掛けに応じて謳い返してもらえたことに、暁の中で再び星が瞬いた。感情を言葉にせぬも、眼差しと唇の弧が悦びを伝えるだろう。優しき月輪を見上げ、佳なる亜麻色に吸い込まれるようにそっと一歩だけ身を寄せる。僅かでも近くなれば指先はより温もりを求め、暁の星は太陽が昇り切る前の束の間に忍びながら月を見詰める。空いている方の手がそうと弧を描く唇の横へ添えられて、その場所から紡がれるものを隠した。円かな太陽の王の城の中、他の誰にも聞かさぬように。)高い高い山を見てみたいの。広い広い草原を見てみたいの。それから深い深い海を見てみたいの。この目で見てみたいの。(城壁を越えて、秋の森を越えて、星を抱く湖を超えて、国を分かつ山を超えて、なだらかに広がる平野を超えて、渚の泡を超えて、その先へ夢の幕を広げる。)どんな音が聞こえるのかしら。この耳で聞いてみたいの。……そして、歌いたいわ。何も気にせずに……、大きな声で。(春の祭りも、塩田も、獣が生きる森も、全部此の手で触れたいのだと果てしなく欲深い望みを囁くほどの声でありながらも世界へ放つ。願うだけなら赦されるだろう。思うだけなら誰も気付かぬだろう。ずっとずっと昔から城壁に区切られた空を見上げては考えていたのにすっかり黙ることに慣れていた。)――内緒よ。(彼への報いは自らの願い。他の者にはきっと与えることはないだろう。幼い頃から握らされたヘリオトロープの指輪の重みを夢の珠の音色が忘れさせてしまった。一際柔らかく微笑んで秘密を分かつ。その月輪の双眸に、その清らかな御心に、もしも記憶に残るなら一等うつくしく在りたかったから。)
* 2022/11/15 (Tue) 11:58 * No.75
光栄に存じます――…という認識のままでは、若しやご不満でしょうか。では善処しましょう、他ならぬあなたの望みとあらば。(年相応の表情はやはり可愛らしいと感ぜられるものだが、重ねてはまた機嫌を損ねそうだと胸中に仕舞っておく。触れ合うことを切願として語ってくれた、剰え念押しさえしてくれた可愛い人。一歩を縮められて退きはしないものの、頬に触れさせていた指がぴくりと反応する程度にはリューヌも男である。ほのかに鼻腔を擽る甘やかな芳香は、姫の自室に飾られた花か夕べの眠り香か。そういった方面の遊び心が乏しい堅物はただ、優しきそれを彼女の匂いとして受け容れるのみ。らしくもない青い揺らぎは、そうと自覚する前に幸か不幸か沫雪と溶ける。澄んだ心の声を現の声として聞く頃には、面持ちも心も穏やかに首肯を送っていた。一つ一つに続きを赦す相槌としてのみならず、男自身の同意も確かに含まれた頷きを。)ああ、良いですね。聳える山は近くで仰ぐ程に嶮しく、草原を吹き抜ける風は時に激しい野分ともなる。高い天を映す海の色もまた、澄み切った青や陽の紅ばかりではない。日によって異なる表情を見せ、空が泣けば共に泣く。優しく美しいばかりではなく、されど希望の色を確かに宿す……とは、あくまで俺が感じることですが。あなたの眸に映した時、如何様な感想を伺えるのかは興味深い。(内緒話の淡い声音で語られる、真っ新な心に予てより描かれていたであろう夢。ささやかで有り触れた、未知ゆえの鮮やかな彩りを纏う夢想。どれ一つとして取り落とさぬよう、先と同じに身を低めて聞き入った。)俺としても世界に溢れる音を、あなたに知らしめたい……否、共に聞けたら尚良いと思う。人々が歌う声を、寄せて返す波の音を、小鳥が囀る森の潺を。その中で浮かぶ旋律があったのなら、教えてほしい。あなたの声で。(歌を失くした、半分の姫君。国中で聞かぬ者など無きに等しい噂を、この騎士とて情報の一環として脳裡に収めていた。自然変異か呪いの類かなどと勘繰る真似もせず、ただ面妖なこともあるものだと所感を抱くに留めて。王家の血脈に生じた異分子、尊ぶべき伝承、教え説かれた事々以上の深淵へ思考を向かわせることもなく。ゆえに今、初めて気付いた。)そう、……歌は常に、あなたと共に在ったのか。何処にも失せてなど、…(もう殆ど言い終えていたに等しい言葉は、秘め事の一語と気配とを察知して切る。代わりに優美なる花の笑みをまた一つ胸に綴じて、紡がぬ音の先へ思いを馳せた。風に乗りたがる心の調べを、一体幾つ閉じ込めてきたのか。星の瞬きが辿らんとする音符を、幾つ無音に帰してきたことか。背を元に戻して取る礼は受け取った言々句々に、御意と感謝の双方を兼ねて。)
* 2022/11/16 (Wed) 00:49 * No.78
(善処という言葉ひとつにも彼の人となりが表れている。微笑ましいものを見るように眦に柔さを描き、頷きを返した。善処する未来があるとも知れないから今のその気持ちを受け取った。受け取る場所で仄かに帯びる切なさに今は目を伏せて、ただ満足げに。先には濡れた朝焼けも、今は最後まで晴れたままでありたい。)風が唸る朝、太陽が輝き過ぎる昼、それから雨が激しく窓を叩く夜。とてもとても怖かったの。風や太陽や雨がではないわ。生き延びてしまった私の所為ではないかと、御前の所為だと罰を受けるのではないかと、怖かったの。……誰も何も言わなかったし、誰も何もしてこなかったけれども。 もしも双ツ子の咎から逃れられたら貴方のいう希望が見えるかしら。 見たいものがまたひとつ出来てしまったようだわ。(きらきらと輝くだけでない世界、曇る日も酷しい日もある。それらを見る小さな暁の眸は自然の雄大さに触れるよりも自らの存在を呪った。災害が起きれば審判を待ち、凶事が起きれば断罪を恐れた。震えた子どもも十を過ぎれば恐怖に慣れてその日を待ち望むようになる。窓から厳しい自然を見て覚えた感情を不意に思い出しては懐かしげに微笑んだ。そして、夢の中ならば違うものが見えるのではないのかなんて泡のような希望を抱く。距離が近くなるとマントに覆われた時に感じた名残をより傍で感じる。花の香がそれと混じり合うように夢と夢が手を繋ぐ。指先と指先が触れ合う度に繋がる夢が新たな輪郭を得る。世界はうつくしく広がっていた。)……ずっと歌いたかったわ。でも同時に捨てたかった。それがなければもっと早くに私は……、いいえ。今はやめましょう。(紡ぎかけた言葉は潰える。今は夢ばかりを描き、笑顔のままでいたかったから。彼の背が戻り、亜麻色と月桂が遠くなれば離れ難い指先を引いた。手のひらへと惜しむように一番長い指先を滑らしながら。引いた軌跡の分だけ切なさが胸を苛むが、それでも時計の針は進む。)そろそろ戻りましょうか。お茶を用意してくれているのに待たせてはいけないから。(それは夢の終わり。幾多の吐露を重ねるのは決まって夢の中。そして太陽は昇るのだから密やかに歌う夜は必ず終わる。先に返した侍女は誰にも何も言えずに一番困っていることだろう。彼女の為にも早く戻らねばと夜の帳のようにこの身を包んでいたマントにそっと手を掛ける。)
* 2022/11/16 (Wed) 16:06 * No.81
(気取らず澄んだ声で語られる嘗ての記憶、その断片を一つ一つ拾い集めては相槌を打つ。一人で抱えてきた時間をこの手の内で並べ直し、じかに触れて数えるが如く。花弁の数を増やした希望まで聞き届け、静かに開く口に迷いは一切なかった。その畏怖や愁いを聞く者が誰一人として居なかったのなら、この物言いもまた初めて手向けられるものとなろうかと推察しつつ。)あなたは悪くない。あなたの所為であったことなど一つもない。誰も何も、あなたを罰しはしない。……長らく、怖い思いをしてきましたね。(柔らかな否を繰り返す音吐は、教導にしては穏やかに。なだらかな音程は子守歌に近しくも、眠りより目覚めを促すように。常とは異なり言葉を選るまでもなく、時雨の音を躊躇いなく降らせていった。今は麗しの笑みばかりが咲く花顔の最奥、確かに震えて蹲っていた幼子の影へと。)窓を打つ風は空の声、厳しくも優しくも鳴る。時に輝きすぎる陽光も、雨が降れば恋しがられる。逆もまた然り……自然の万象はあなたも俺も与り知らぬ所で、ただあるがままに息吹いているだけだ。ただ、……こういう時に、呼びかける名が無いとは不便なものだと。伝承による障りとして今、俺が感じるのはそれ位でしょうか。(恐怖も哀しき慣れも、本人のみぞ真に知るもの。皆まで解することはできずとも、せめて共有された分だけ寄り添うことが叶えば良い。そんな願いの終わりに一言零した非難未満の本音は、二人称を重ねる中で感じた不服。呼名とは単純な行為ながら、親愛や思慕を表すすべとしても用いられる。曙の美を体現したが如き人には、ミドルネームの三音も無論よく似合っていた。然れどそれとて“半分”の一方に過ぎぬと、もし彼女が判じるのであれば軽々しく呼ぶことは控えたく。愛し愛されていた筈の歌にさえ、いっそ別れをと希いかけていた姫。市井では富も名誉も存在すら認識せぬ幼き子らが、何を禁じられる筈もなく思い思いに歌っていたというのに。)――…必ずや、(覚悟か、決意か、見果てぬ夢か。抱いた全てをdefinitelyの一言に閉じ込め、帰室の促しを契機に男の佇まいも付き人のそれへと正す。マントに掛かる細指を躊躇いなく包む手だけが、騎士でない在り方を残り香めいて伝えていようか。)お部屋まではどうぞ、差し支えなければそのままで。(日の傾きと共に風は冷たさを増し、華奢な御身に殊更染み始める時節。寒さ凌ぎに従者の外套をひととき借りた所で、別段傍目に不自然なことはあるまい。)
* 2022/11/17 (Thu) 01:01 * No.88
(彼への報いだなんて名目はとうにその意味を失っていて結局妹自身のこれまでの吐露ばかり。柔らかな否は過去のひとつひとつの澱みを掬い上げるようで、世界を濯ぐ清浄な雨の降る夜明けを思わせる。柔らかな音で目覚める朝は朝陽の輝く時より幾分か空気も優しい。幼い暁の眸は優しくもうつくしい音に「しらなかったわ」とまた笑んだ。人は災害や凶事に理由や責任を求める。理由があれば納得し、責任の主を見つければ自分は被害を受けたと言えるから。時に国において王室や神話はその役目を担い、末端の姫もそれを理解していた。ただほんの少しだけ他の者よりも重かったが。そしてまた末の姫も自らの命の理由をそこに見出して納得していた。だからいつか途絶えるであろう命に名前などという感慨も無く、――否、あったのかもしれないが、ともかく今は個の記号が必要など思いもしなかった。)以前そのままで呼べばいいと……、ああ、いけないのね。(何の不便がと思うもこの想い出に名前を付けねば確かに姉に迷惑であろう思い至る。ややのどかな調子で応え、少し悩む素振りを見せた。とはいえそう簡単に思いつく筈がない。)……貴方が呼ぶのだから貴方が決めてみて。シャティヨンの地の言葉でも、今宵の空の模様でも、明日一番に目についたものでも、なんでも構わないわ。今まで通りでだって貴方が新たに決めてくれたという意味を持つからそれでいいのよ。 次に会う時に教えてね。……そうしたら、それまで貴方は私を忘れないでしょう?(それもまた必ずに含まれるだろうか。まるで次がなければ解けぬ呪いのように彼の心へ忍び込む悪戯を仕掛けて微笑みを強めた。どんな呼び方だって構わない。その清らかなまなこが何を映しているのかを知りたかった。そしてその眼裏にかすかでも残りたかった。)ありがとう。御言葉に甘えてもう少しだけ。(あと少し、月へと近づいた階段を降り切って地上に戻るまでは、地平の向こうへ沈むまでは、このままで。指に触れる手の温もりに睫毛を伏せた。それはそれぞれに幾分か冷えた膚であることと時の経過を伝えてくるのだろう。)――行きましょう。……ね、昔話をして。ちいさなリューヌの話をして。(歩き始めて少しも行かぬ内に不意に強請る。秋の日のように少し遠回りの経路を選んで聞けたのはどこまでか、ほんの僅かでも触れられた昔話には輝く暁が応えるのだろう。)今日はありがとう。……アルシノエをこれからもよろしくね。(足を止めたのは自室の前。正確には自室へと続くひとつ前の間の扉の前だが、此処より先は騎士にも許してはいない空間だった。奥の部屋ではきっと姉が何があったのだろうかと待っている筈だ。そうしてマントをそっと外して返そう。その折には出来得る限りで最上の笑みを添えた。記憶の中にあるだろう濡れた暁の色を塗り替えられればよいと願いながら。名残惜しくも部屋に妹は消え、騎士の存在にすっかり馴染んだ応接室へ侍女がすぐに案内することとなる。次に応接室へ現れて、温かなお茶と共に何も知らぬ侍女も交えて言葉を交わすことになるのは顔色の良くなった姉の方で。妹はといえば、誰もいなくなった奥の自室でヴェールもドレスも脱ぎ捨て早々に寝台に潜り込んだ。白い海の中、この身に宿る仄かな名残に意識を委ね、波間に夢の珠を転がす。今は数える花弁も無ければ次の季節も見えない。飢えたこの身が何かを羨み出す前に今までと同じように何度も何度も心の中で唱えた。「明日も明後日も世界が円くありますように」と。例えその世界に自分がいなくとも。)
* 2022/11/17 (Thu) 15:04 * No.89
物分かりの良い方で助かります。(一人の人間を識別する符号として。歌の心得などない騎士が、彼女ひとりのために唯一風へのせられる調べとしても。他の誰とも紛わぬ響きを求めるのは自己本位かと、自覚はあれど撤回はしない。口調も悩む仕草もしなやかに柔らかく、待つことは何ら苦ではなかった。その先で得られた返答に意外さを感じ瞬きはすれど、いじらしいまでの純な願いを退ける理由はなく。)承知しました。あなたがそう仰るなら、次までに己の中で考えて……定めておきましょう。(一から考えるか、既に知るものを尊ぶか。このかいなに選択を委ねて頂けることを権利と、手ずから与えて頂いた名誉と捉えれば吝かでない。既に胸中で定まるものはあったが、その花唇が紡ぐ望みに反してはならぬと胸に納め。花色を濃くした甚く可憐な笑み、そこから敢えて目を逸らす月輪の心裏はといえば。)しかしながら、心外とまではいかずとも少々遺憾なものですね。その仰りようではまるで、約束がなければあなたの存在を忘却に帰してしまうと……それ程までに俺があなたと、おざなりな向き合い方をしているとでもお考えのようだ。(仏頂面で淡々と。職務中の男を知る者ならさしたる違和も抱かぬであろう、されどつい先刻までと比せば俄に温度を排斥した態の語り。優しき花の心が然様な意を込める筈がないと、無論よく知った上で。何のことはない、稀有にも覗かせる小さな意地悪だった。年下の愛らしき少女を揶揄する悪い大人、もしくは想い人の反応を楽しむ少年のような。即座にすいと視線を重ね合わせて「冗談です」と続けはしたが、その表情すら真顔とあっては果たして如何なる捉え方をされたものか――忘れぬと率直な誓約を口にすることは簡単で、だからこそ簡単になど言う気は起きなかった。一寸先が闇ならば、闇を照らすは舌先のみならず現の光が相応しい。)あなたが聞かれて面白い話かどうか、……いえ、愚問でしたね。斯様な未知で宜しければ、道中にお教え致しましょう。(乞われるままに記憶を辿り、幼年から少年時代を振り返る。厳しくも誇り高き父を尊敬し、優しく芯の強い母を敬愛し、剣と魔法の稽古に明け暮れていたこと。深夜まで書斎に籠もって、使用人に要らぬ心配を掛けたこと。学びの過程で佳き友と出会ったこと。緩やかな歩みといえども限られた道程の中、何処まで話せたものかは星を宿した眸の反応次第といった処か。綺羅星が殊更瞬く話題を、取り分け長く仔細に話すよう意識していたために。)我が君の信を裏切りは致しません。私は今もこれからも、己が誇りと信念の示すままに。(立場を弁え直した証左のよう、平素のものに切り替える一人称。礼には及ばぬと首を振って告げる言葉もまた偽りなく、淀みなく。自室の空間を窺えぬ扉の前、一旦その花顔と離れるのは常通りの運びだった。そう、一旦。改めてのお目通りは程なく叶えど、静々と現れた姫の歩みに鈴は鳴らない。経験則から知れていた結果に、失敬な落胆なぞ抱かない。ただ、ここに居ない誰かを密かに案ずる位は赦されたかった。面には決して表さず、如才なき受け答えを絶えさせることなく茶を喫している。今日も今日とて互いに節度を守り、非の打ち所無く姫君然とした“アルシノエ様”と会話を交わしながら。この唇から伝えられずに呑み込んだ祈りは、いつ何時も彼女と共にある夢の珠に託して。 良い眠りを。良い目覚めを。 明日も明後日も、あなたの世界が円くあるように。世界が、あなたに優しくあるように。)
* 2022/11/19 (Sat) 02:04 * No.98