(倖せな日々の後味を、あなたと。)
(年の瀬が押し迫り、国内は新たな年を祝うため慌ただしくも明るく賑やかな声に満ちていた。この日のために用意した、特別なロゼを抱えて歩く。二重底になっている面白い作りの化粧箱は、外観は至って普通であった。もし警備に中身を改められても蓋を開ければワインが鎮座しているだけの、一見しただけでは仕掛けが分からない箱だ。底へ仕込んだ物の重さは、ワインの重さと誤魔化せる程度である。年内に、と何度か遠回しに催促されたが今日まで素知らぬ顔をして過ごしてきた。握りつぶしてしまったあとで、仕方なく伸ばし広げた魔方陣を使って尖塔の中へ。すっかり人払いがされているのか、始めから人の出入りが無い場所なのか。恐ろしいほど静かな雰囲気に合わせ、足音を立てないように歩いていく。ここに来れば王が言うところの“片方”に会えるのだそう。何とも曖昧な御膳立てだった。ひと気が無いのをいいことに尖塔の中を観察しながら歩いて行けば、やがて見慣れた姿を見つけただろう。)姫様、ご機嫌いかがでしょうか。(過日の再演がごとく、控えめで優しい声を掛けた。姫と顔を合わせてなお、己は未だに王から告げられた秘密が信じられずにいる。)陛下の命により、こちらへ参りました。また、陛下から姫様が……アナスタシア姫が双子であるとお聞きしております。私が今、お会いしているのは妹君様でよろしいでしょうか。(他愛無い話をしているような穏やかさで、愚直に確かめながらも恭しく臣下の礼を取った。)お姿が同じというだけで、お二人を混同してしまったことを深くお詫び申し上げます。(心からの謝罪を述べ、瞳は不安げに揺れていた。許してほしいなどと図々しい願い出ができるはずがなかった、これから姫にする行為も含めて。)
(吐く息が淡く白づく、冬の夜風を頬に感じながら尖塔へと訪れる。魔方陣をかざせば現れる入り口を無感動に見遣り、中を見て回るのもそこそこに。久し振りに外へ出るからと、厳重にも雪のようなましろい毛並みのコートに身を包んでいたものの、適温が保たれる塔内では不要となり、早々に脱いで腕へと抱えていた。たどり着いた先は壁面が硝子張りになった一室。椅子の背もたれへ手荷物を掛けて身軽になった後、窓辺へと身を寄せる。魔法で被膜した特殊な硝子は、内側からは透明性を保ち、外側からは鏡のように空の色を映すらしい。存在を秘すのにお誂え向きだと、冷めた目で外を見渡す。暗闇に包まれ判然としないものの、明るい時間にはキュクロス王国を囲む高き峰々や生い茂る針葉樹が見られることだろう。王城の方は警備に回る騎士たちの姿が遠目にも伺えて、ぼんやりと見下ろしていれば、聞き馴染みのある優しい声に驚き振り返る。厚手の布地をふんだんに使用し、フリルで縁取られた白いワンピースドレスの裾は、緩やかに揺れた。)エリックさん。ご機嫌よう、とっても元気よ。元気すぎて、朝から部屋の掃除をしてしまったくらい。(姿を認め、明るくにこやかな笑みを浮かべて騎士の傍へと近寄ろう。今朝破り捨てた父王からの手紙には、場所と日時の指定と、ただ行くようにという指示しかなかった。何でここに、と思っていれば、続く言葉に目を見開き、顔色を白く染めてゆく。)……謝るようなことではないわ。意図的に、隠していたのだから。(知られたくなかった。何のために。胸に去来する数多の感情に目を伏せたのは僅かな間。キッと睨みつけ、今しがた初めて対面したかのように挑もう。)初めまして、エリック・フォンディライト。私こそがキュクロス王家の真の末娘、アナスタシア・キュクロスよ。(春の日に確かめた響きを繰り返し、真っ直ぐに目を見つめ、高らかに名乗りを上げる。その名は己のものであると、我こそが末娘だと、誇るように胸へ手を添えて。)ずっと言いたかったのだけれど。ご機嫌いかがでしょうかって言葉、嫌いなのよね。今日は機嫌悪くないんですか、って言外に問われているようで。(自身が嫌味を言うからそう感じるのだろうか。辟易と吐き捨て、潜めようとしてきた棘が剥き出しになる。かつては努めて明るく返したご挨拶も、知られてしまった以上取り繕う必要性を感じない。)それで? 国王様から命を受けて、何をされにいらっしゃったのかしら。ご機嫌伺いでおしまいって訳ではないのでしょう。
(開けた暗闇を背に、華やかな白を纏った姫がよく映えた。にこやかに近づいてくる姫に動揺が見受けられ、申し訳なさが募る。意図的に隠されていたと聞けば、秘密は事実であったとようやく認めざるを得ない。何も言わずに、何も知らせずに、姫の背後を取るのはきっと難しくなかっただろう。騎士としてではなく一個人として、不誠実な行いをしたくなかった。けれど、結果的にはどちらでも変わらなかったのかもしれないと、鋭い瞳を向けられて思った。それでもなお、誇らしく名乗られる姫の姿に見惚れてしまう余裕が己にはあったようだ。)お初にお目にかかります、アナスタシア姫様。お会いできて光栄です。(決まり文句なれど、喜びに微笑む様は形ばかりではない。棘のある言葉も初耳であればさぞ驚いただろうが、既に何度かは見覚えがあった。その時は姫の内なる感情が稀に発露しただけだと考えていたが、もしかすると妹君の個性なのだろうかと観察するような視線を向ける。)ずっと、ですか……。もっと早くにお教えいただければ、お伺いを控えましたのに。姫様はお優しいのですね。(使用人が挨拶に困らないよう気遣ってくれたのだろうと、好意的に受け取る姿勢はこれまでと変わらずだ。姫の言葉の端々に距離を感じてしまうが、こちらから溝を深めにいく心積もりで。)私から姫様へ餞別の品をお持ちしました、どうかお受け取り下さい。(抱えていた化粧箱の蓋を開けて中身を見せれば、ワインが一本あるだけだ。目に付いた椅子の座面に蓋を置き、その上にクッションとワインを取り出したあと、改めて箱の中を姫へ見せにいった。飾り気のない細身の短剣が一本、箱の底で綺麗に収まっている。)勅命を受け、姫様のお命をいただきに参りました。姫様ご自身でお命を絶たれるのであれば、僭越ながら見届け役を賜りたいと思います。剣の扱いが不慣れであれば、私がお手伝いいたします。(高潔を謳われるのであれば他者の手に掛かることを嫌うかもしれないと、あくまでも姫を尊重しての提案だった。しかしながら己に寄せられた信用を全て投げ捨ているも同然で、姫を傷つけてしまうかもしれないのも承知の上である。)姫様が生を望まれるのであれば、亡命の伴に私をお選びください。あらゆる手を尽くしてでも、姫様を国外へ逃がして差し上げます。(いつぞや城を抜け出す話をしたことを思い出したが、あの時の姫がどちらだったのか聞くのは野暮であろう。己が殆ど違和感なく傍に居られたのだから、二人の間で擦り合わせが行われていたのは容易に想像が付く。一通り用件を伝え終わり、姫の様子を恐る恐る伺おう。どんな厳しい言葉でも、受け止める覚悟はしてきたつもりだ。)
(ふたりで一人の立場に追い込んだ癖に、ずっと隠してきたのに、どうして双子の真相を打ち明けてしまうのか。騎士を睨みつけたのは、父への怒りによるものだった。騎士に知られてしまったことについては、あまり考えたくはない。)気遣いなんかではないわ。お姉様を、装っていただけ。お優しいお姉様はご機嫌伺い程度で気分を害さないもの。(相変わらず強く当たっても微笑む姿に勢いは衰えて、ぶっきらぼうに、見出された優しさを否定する。たとえ元気でなくとも、心配を掛けないよう明るく振る舞う姉に倣って、問われるたびに元気だと答える他ないのが一層腹立たしい。己の心に嘘を吐かないよう、わかりにくく皮肉にするのが常だった。)……餞別の品?(騎士が抱えていた箱を遅れて認識し、現れる瓶を、呆然と見つめる。婚約を知らされた後日、姉に贈られた赤ワイン。案の定「一緒に飲みましょう。」と誘われて、断って、秋の日の約束について話をしていたから、憎たらしくも気遣わしげに何度も誘ってきて、結局は開封すらせず姉の部屋へ飾られている。贈り主には「大切な時に飲ませてもらうわね。」と伝えて、お返しに刺繍を刺したハンカチーフを贈るのだと話していたけれど、あれは完成していただろうか。)……ワイン、私にも用意してくれたのね。(硝子灯の光を受けて煌めく淡い朱色を椅子に置かれるまで見届けて、勅命の話に処分する気なのか、と会得する。幽閉など、生温い考えだった。ゆっくりと、笑みを湛えて近付いて、箱の中で出番を控える短剣を奪い取るべく勢いよく手を伸ばす。一体何度、ワイン一つで傷付かなければならないのだろう。こんな形で、贈られたくなどなかった。)ふざけないで、人の命を何だと思っているの。お姉様の婚約が決まってさぞお邪魔でしょうね。いいえ、その前からずっとそうだった筈よ。どうして、今更。(これは、父にぶつけるべき怒り。わかっていても、それに従おうとする騎士へ、憎しみを込めて睨みつける。)国外に出るなんて、考えたこともないわ。……お父様がね、訊いてきたことがあるの。「騎士に命を預けられそうか」と。答えは、「いいえ」よ。自死も、死への幇助も、亡命も、すべてを断ると言ったなら、敬服すべき国王様の命じるがまま殺してしまうのかしら。(そうなのでしょう、と確信すら持って、敵意はギラギラと瞳に宿る。短剣を得られていれば両手に握りしめ、後ずさって距離をとり、その切っ先を向けよう。公務に城を立った日、父から問われた言葉に意味はあったのだろうか。何ら期待も込められていない目をしていたから、どう答えようと変わらなかっただろうけれど。その日に知った騎士の強さを思い浮かべる。絶対に敵うはずがなくとも、決して命は預けまい。城から抜け出す話だって空想話で、一度やってみたいと思った程度。)
お優しいお姉様、と。……まるでご自身はお優しくないかのようにおっしゃるのですね。(憐れみと残念な気持ちが半分ずつ混ざった声色となる。“アナスタシア姫”の基準が姉君で、妹君は合わせていただけだというならば、どれほど生きづらい人生なのだろう。想像するに余りある。ロゼワインに対する反応から、赤ワインの礼に繊細で美しい刺繍を施したハンカチーフを贈ってくれたのは、姉君だったのかもしれないと何となく察する。今日のために用意した本当の贈り物は、正しく本命に受け取ってもらえた。役目を果たして空っぽになった箱を、椅子の方へ床を滑らせるように放り投げておく。小さな姫でも扱いやすいように、なるべく軽い剣を選んだ。作りはしっかりとしていて十分な武器であろう。姫の憤りは至極当然であると思われたが、いざ突きつけられると胸が締め付けられた。だのに、己の表情は未だに穏やかさを保っている。人から強く当たられたとき素直な感情を表さないのは自らを守る術で、長年染みついた行動は簡単に変わらない。)ふざけてなどおりませんよ。私なりに妹君様の最良を考えて参りました。選択の余地があるうちに、ご決断いただきたいだけなのです。(姫を手酷く追い込むことになっても、己が知る事実を全て伝え、その上で身の振り方を考えてほしかった。もしも衝動のまま自決するなら即座に止めるつもりでいたが、切っ先はこちらに向けられていたので安堵し、剥き出しの敵意に胸は痛むばかりだ。)つまり、私が命を預けるに相応しくない騎士だとおっしゃるのですね。さすが姫様、私の技量をよくご存じで。陛下を敬う気持ちはもうありませんが……そうですね、姫様が誰かの手に掛けられるぐらいなら、いっそ私が。(腰に携えているサーベルには触れぬまま、ゆっくりと歩いて姫との距離を狭めていく。姫が一歩踏み出せば、短剣が己に届く位置までやってきて、両足を揃えて立ち止まる。姫がさらに後ずさるようならば同じだけ前に進んで、両者の間隔を維持しようとするだろう。)聡明な姫様なら、もうお分かりなのではありませんか。キュクロスでは生きられません、姫様も、そして私も。妹君様の次は私、姉君様が嫁がれた後は秘密を知る使用人たちが処分されるでしょう。私がもし陛下ならば、全てを片付けてしまいたいですから。(視線を横へ逸らして、想像しうる最悪の結末を口にした。実際どうなるかは分からないが、さほど大きな差異はないと思われた。溜息を吐いてから、再び姫に目を合わせよう。)私は姫様に生きてほしい。国外に出ることを考えていただけませんか。どうしても難しいというのであれば、今ここで私を殺してください。(己が左胸に手を当て、狙うならここだと示してみせる。)
(優しくない。彼はよく己の言動を好意的に解釈するけれど、認めればすべて姉だったと認識するのだろうか。事実だから黙って頷いて、本当に初めましてのようだと、自分で言っておきながら心が重たくなる。暢気にも箱の後片付けをする騎士を理解できないものを見る目で追いながら、彼の弁解を短く言い捨てる。)そんな私のため、要らない。(自ら死ぬか、殺されるか突き付けられて、たとえ父王の命だとしても、生きる道を示されようと、いつも優しい彼が別者になってしまったようで、恐ろしかった。手中に収めた冷たい温度へつられるように、冷ややかな笑みは浮かぶ。)ふふ、そう聞こえるよね。意地悪な言い方をしてしまったわ。本当は、誰にも命を預けたくないだけよ。……でもね、その力を魔物に向けようと、私に向けることはないって思ってた。エリックさんは、殺そうと思えば、私のこと、殺してしまえるのね。(公務に遣わされた日、決死の思いでようやく忠誠を受け取れるようになったというのに。裏切られた心地に声が震え、距離をつめてくる騎士に身を強張らせ後ずさる。変わらずに向けたままの切っ先と剣呑な眼差しは、語られる最悪な結末に揺れていく。)……やっぱり、そうなのかな。何がしたいのだろう。双子を忌避するのなら、産まれてすぐに、殺してしまえばよかったのに。(うわごとのように小さく呟き、両の手にある短剣を握り直す。顔色を伺って、遠巻きにする使用人たちを鬱陶しいと思う。けれど、己のせいで死んでほしいとは思わなかった。)……考える必要はなくなったわ。(どうして騎士を殺すだとか、殺されるだとか、そんな話をしなければならないのだろう。)私はエリックさんのこと、殺せないよ。エリックさんとは違って。(悲しむ心とは裏腹に、随分と穏やかな声だった。命を差し出されようと未だ恐ろしかったけれど、騎士へと向ける激情が過ぎ去り安堵に微笑んで、剣先を下ろす。怒りも、憎しみも、その矛先は正しく向けるべきだ。)お父様を、ぶっ殺してくる。(身に宿す憎悪を殺意に変えて、緩く笑みをかたどりながら積年の恨みに顔は歪む。乱暴に宣言を放って、階段をくだるべく出口へと駆け出そう。足の速さだって敵う気がしないけれど、これ以外の道は考えられなかった。)
(要らない――同じ響きを、以前にも耳にしたことがあった。あのとき感じた痛みが甦り、息が詰まる。そのまま黙してしまえば、肯定を意味するだろう。明言を避けたとしても、今更言い訳はしない。殺そうと思えば、殺してしまえるのは確かだ。けれど、どうしても殺そうと思えなかった。姫の意思を仰ぐ形で自死あるいは亡命、どちらかの選択を迫るしかなかった。どれもこれも一蹴されてしまっては、他に差し出せるものなど命ぐらい。穏やかな声と下がる切っ先に糸口が見えた気がして、心が緩んだ一瞬、反応が遅れた。)姫様、お待ちください!(行く手を阻むべく姫の前に立ち塞がろうとするが、横をすり抜けてしまわれたのなら、手を伸ばして引き留めようと試みる。)闇雲に立ち向かってはいけません。(――もし、姫があのペンダントを、ヘリオドールの輝きを身に着けていたとしたら。そして、騎士を恐ろしいと認識していたならば、秋風の妖精こと加護魔法が正しく発動するだろう。姫を守り助けるべく風が吹き、騎士は何の防御も取れないまま頬や指先に小さな切り傷を受けるだろう。それでもなお、伸ばす手を緩めないであろう。)無防備な私を殺せないあなたが、近衛に守られている陛下を殺めることなどできませんよ。誰にも預けない命で、何を成されたいのかお聞かせください。あなたは、生きたくないのですか!?(どうして、今更、産まれてすぐに、そんな呪いの言葉を連ねるのなら、生存を望んでいるのではないかと強く問いかけた。姫の肩なり腕なりを掴めたならば、痛めつけない程度に、けれども強い力を込めるつもりでいる。それが叶わずとも、姫の注意を引くぐらいはできただろうか。優しい騎士の姿をかなぐり捨てた男を拒絶したい気持ちが姫にあったならば、意を汲んだ風が男を容赦なく突き飛ばすだろう。――加護と呼ぶには強すぎる魔法を掛けていた。だいすきな姫を、守るために。)
(国王に楯突こうだなんて、無謀だとは思っていた。たとえ成功しようと、王位継承権から遠く秘された存在、無事では済まないだろう。“誰かの手に掛けられるぐらいなら、いっそ私が”短剣を握る腕を取られた時、頭を過ったのはこの言葉。外とは隔たれた空間、突如うまれた風に結われた髪はたなびき、風の向かう先をたどれば傷を作る騎士に目を見張る。服の中にしまい込んだペンダントが原因だとはすぐに思い至った。)ちょっと、離しなさいよ!(逃れようと身を捻り、眉を吊り上げ睨みつける。片手でもたつきながらも留め具を外し、首元から抜き去り放り捨ててしまえば、騎士を傷つける風はすぐに止むだろうか。語気を強める姿に首を竦めはするものの、想定していた止められ方とは異なって、恐れは戸惑いへと変わっていた。強く握られる力にも恐れは感じずに、負けじと言い返すように声を荒げる。)何を成したいって、復讐に決まっているでしょう! 私、お父様のことが、赦せないの。お母様が命を賭して授けてくださったこの身を、産まれなかったことにされて。ずっと死ねばいいのにって思ってた。ましてや、一度ならず、二度までも殺そうとするだなんて。(命を奪われずとも一人の人間の立場が奪われて、殺されたようなものだった。使用人の命を懸念したのは、背中を押すほんの少しのきっかけに過ぎない。)失敗したって、別にいい。……生きていたって、嫌なことばかりだもの。(声を落とし、抵抗を止めて視線を逸らしたのは後ろめたさの表れ。母に授けられた命を誇りに思い、他者から害されるのはゆるせなくても、自分自身では大事にできていない自覚があったから。)エリックさんはさ、(おもむろに騎士の名を呼び、見上げれば視線は合おうか。暗く静かな響きと共に、彼の瞳に映し出されよう己が中の空虚を覗き込む。)うまれてきた意味を、考えたことはある? 強くて、賢くて、詩を書くこと以外は何だってできそうなのに、人の役に立てなければ、何の価値も自分に見出せないエリックさんは、今までに思い悩むことはなかった? お母様を殺し生まれ落ちたのに、産まれることなく死んだことにされて、できることが何にもなくて、誰のためにも生きたくない私は、いつだって考えているよ。
(他者に対して、こんな乱暴に接するのは生まれて初めてだ。相手の意思を尊重しない、礼儀に反した最低の行為だと分かっていながら、姫の腕を掴む力は硬いまま。力加減を間違えないよう注意を払う、妙に冷静な己がいて嫌気が差した。ペンダントが姫の手を離れ、守るべき対象をなくした魔法は停止する。吹いていた風は解けてしまい、どこへなりと消えてしまった。静けさを取り戻した一室で姫の叫びが響き渡り、自らを守ることを放棄した男はすんなりと顔を顰める。王に対しての不快感の表れだった。)復讐にも色んな方法があるのはご存じありませんか。仮にその手で命を奪えたとしても、陛下にあなたの本意が伝わるとは思えません。母君様を想うのであれば、どうか御身を第一にお考えください。(逸らされる視線を追いかけながら、再三しつこく生を願い出る。姫が王を赦せない気持ちが培われる経緯は納得するが、お気持ちは分かりますと軽々しく口にはできなかった。抗う意思が感じられなくなっても、姫の腕をまだ手離さない。)うまれてきた意味を……。(視線は確かに重なっているのに、己ではない何かを見ているような虚ろな瞳が心配になる。問いかけられた言葉を胸の中で反芻して、そっと目を伏せた。)何のために生きているのか、そんな風に考えることはよくあります。先程おっしゃいましたね、「産まれてすぐに、殺してしまえばよかったのに」と。私も、同じように思ったことがあります。(その一点においては共感できそうで、僅かに愁眉を開く。)赤子だった私を孤児院の前に捨て置いたのが両親なのか、あるいは赤の他人だったのかは定かではありませんが……私はその見知らぬ誰かに、姫様は母君様によってこの世界に送り出されました。私たちは考え続けることを課せられたのかもしれませんね。(罰というよりか、一生の宿題のような。前向きに捉えようとするのは、前を向いてほしい人が目の前にいるから。問いに明確な回答をしているわけではいので、はぐらかしていると不快に思われるかもしれない。だが、うまれてきた意味も生きる意味も各々が自ら導き出すべきもので、そして解を出すにはお互いまだ若い。姫の腕を掴んでいた力を緩め、その腕を伝い、短剣を握る手を恭しく掬い上げてみようと。)姫様は、姫様のためだけに生きてよいのです。必ずしも誰かに命を預けなければいけない道理はありませんし、自尊心の高い姫様を尊敬します。できることが何にもないなどと、御冗談を。虐められているように見えた私のために、馬車から飛び出して声を上げてくれたのはあなたですね。とても嬉しかったのですよ、まるで私を心配していただいたようで。(あの出来事を思い出せば、あのとき摘み取ったはずの感情が再び芽吹いて、微笑みながらするりと口にしてしまった。)うまれてきた意味を、もっと広い場所で考えてみませんか。例えば、海が見える町で。
(視線を逸らした先、床に転がるヘリオドールを見遣る。大切にすると言った言葉を反故にしてしまったけれど、秋風の妖精が眠っていると信じていたとしても、同じことがあれば同じように投げ捨てる気がした。)……わからない。私のせいで使用人に死なれても気分悪いし。お母様には悪いけれど、私の命は私だけのものだから、好きに使うことにしているの。(父王への復讐。目的はきっと、それだけではなかった。どこまでも深く沈んでゆける空洞に蓋をされ、騎士の顔をぼんやりと眺めながら耳を傾ける。)エリックさんも、あるんだ。捨てたのが両親なら、最低ね。勝手に課せられるとか、最悪。……ゆるせないけど、本当に殺してくれてたのなら、苦しまなくて済んだのに。(ぽつぽつと悪態を吐き、終わりに口にしたのは共感してくれたからこそ打ち明けられた心のうち。掬われるままに手を持ち上げられて、大きな手のひらを見つめる。まだ投げ出さずにいてくれるんだなって、心もすくい上げられるようだった。元気づけるように、掛けてくれる前向きな言葉を一つ一つ受け取って、思い出の中から己を言い当てられ目を見開く。)……うん。それ、私。エリックさん、理不尽なことでも受け入れて断れなさそうなんだもの。私もその日、どれだけ大切なのか伝えてくれて、嬉しかったわ。お姉様の振りをしていたけれど、少しは私のことも想ってくれているのかなと思えて。(森の中で受け取ったものを思い起こし、今もなお尽くしてくれる言葉の数々に心は浮上し、視線が定まれば微笑む姿が映り込む。国の外へと誘う言葉に、口元へ手を寄せようやく想像を巡らす。山に囲われたキュクロスから抜け出し、今よりもっと広い場所で生きる未来を。)――亡命するにしたって、よく考えれば森を抜けなければならないし、追手がかかるかもしれないし、命を預けるということになるのだろうけれど……。いいよ、エリックさんがいてくれるなら、生きても。(自尊心が高いとせっかく尊敬してもらったけれど、“お心が不安定”という噂通り、先の発言を撤回してしまうことにする。悪戯に笑って、剣を握り込む指先を開き、命を預ける意志表示。)私、一人じゃ何もできないお姫様だから、私だけの騎士になってくれる? うまれてきた意味を、生きる意味を、一緒に考えてよ。(自分の命を人質にとる卑怯な真似になるけれど、欲が出てしまったのだから仕方がない。連れ出しておしまいと言い出しやしないか懸念に眉を寄せ、掬い上げてくれた騎士の手を、逃がさないと言わんばかりに短剣ごと両手で挟み握りしめよう。)
私はともかく、使用人が皆さん揃って居なくなってしまったら、嫁いだ姉君様に良くない噂が付きましょう。陛下が懸命な判断をされることを祈るばかりです。(最悪の結末を口にしておきながら、姫の心労を減らすべく比較的救いのある可能性を語る。落ち着いて考えてみれば、国のために双子の秘密を隠し通そうとする王なら使用人全員を殺しはしないだろう。妹君に関することを口にできないようにするなり、それこそ姫は一人だったと記憶を改竄するなり、手間はかかるが魔法を使えば丸く収められるはず。母君の気持ちを推測で話すのは憚られたが、姫の確たる信念を喜ばれるのではないかと思われた。)苦しくて、思い悩むのは、それでも生きようとしているからなのでしょうね。(吐露された姫の思いに頷き同意を示しながら、自らに言い聞かせるように呟いた。考えて止まないのは生きることを諦めていない証左だろう。姫に良い驚きを与えられ、告げた思いがちゃん届いていたのが嬉しくて目を細めた。)私は知らず、お二人を見ておりましたが……どちらも大切に思っております。と言うのは、欲張りで狡いのでしょうね。(姫が一人だと思っていたから仕方がないとはいえ、二人であったと知った今でも最上は変わらず“アナスタシア姫”なのだ。簡単にどちらか一方を選べるものではないと先に白状したものの、それとは別の特別な想いが存在している。姫が生きることを選択してくれたのは喜ばしいが、後に続く思いがけない言葉の数々が琴線に触れた。多少の切り傷を負った手を握られても動けずに、間を置いてたじろいだが、求められるなら一層応えたがるのが己が性だ。したたかな姫に敬服し、真摯に忠誠を誓う。)姫様の望みとあらば喜んで。これより私は、あなただけの騎士です。うまれてきた意味を、生きる意味を、共に考えて参りましょう。ひとりでは難しいことでも、ふたりなら手が届くかもしれません。(過ごしてきた日々の中で妹君を見つけられたのは良かったが、己はまだ妹君のことを殆ど知らない。一人じゃ何もできないというのが謙遜なのか事実なのか分からないからこそ、可能性を話してみたくなる。)姫様は何もできないのではなくて、させてもらえなかったのではありませんか。これから色んなことに挑戦されてはいかがでしょう。もしかしたら、剣の扱いがお上手かもしれませんよ。(上着の内から短剣の鞘を取り出して、そっと刃先を収めよう。短剣も贈り物には変わりないのだけれど、姫にとって不要であればこのまま預からせてもらおうか。空いているほうの手で床に落ちたペンダントを手招きすれば、ふわりと浮き上がり手中に収まる。こちらからは姫の手を解きがたいため、拾い上げる動作を魔法で横着した。まだ魔力の残るヘリオドールを感慨深く見詰める。)これをあなたがお持ちだとは思いませんでした。ご婚約されたのは姉君様だと陛下から伺っておりましたので……。失礼ですが、あの日の姫様は……あなたでしたか?(そうだとしたら、どんな気持ちであの話を聞いていたのだろうかと懸念する一方。召喚魔法の対象者が――恋人ごっこと称して気安く触れてしまったのが、目の前の相手だとしたら今更に気恥ずかしさが込み上げてきた。ペンダントを見下ろす形で姫を直視することから逃れているが、姫からは恥じ入る男の面持ちはよく見えたかもしれない。)
……だと良いのだけれど。(使用人を切り捨てるような口振りだなと、感じてしまうのは穿った見方なのだろうか。頭のいい騎士がそう言うのならそうなのだろうと信じたい気持ちと、悪い方へと傾きがちな思考が綯い交ぜになって、掬い上げてくれた今も胸の中に留まっている。思い悩まずに生きられたならよかったのに。彼の前向きな捉え方で言うのならこうなるのだろう。)……ううん、お姉様を装っていた私が狡いのよ。(双子だと知られ、気になったのは最上の定義だった。けれど姉の振りをしながら、忠誠も厚意も想いも期待するなど、理不尽な話だったと声を落とす。自分だけの騎士になるよう求めてしまうのも、もっと狡いことだった。)快諾、してくれるのね。忠実に命令をこなして、ご懸命な判断を賜われるよう祈らなくていいのかしら。王国に仕える地位も名誉も、大事な人たちと会う機会も、すべて捨てることになるというのに。(最悪な未来の話を聞いた時、騎士の心配はまったくしていなかった。優秀な彼ならばきっと重宝されるだろうし、万が一があっても風のようにどこへでも逃れられると思っていたから。処分へと唆す口振りとは裏腹に、本当に、そんな日が来ればいいなと握る両手に力を込め直す。)特に禁止はされていないし、何をやっても駄目だと思うけれど……。でもそうね、やってみたことがないことも多いかも。剣が得意だったら、魔物退治にでもついて行こうかしら。(劣等感にそっと目を逸らし、浮かぶヘリオドールを眺めた後、視線の先は刃が覆われた短剣へ。自決用の武器だったのだろうと思うと気が重たくなって、捕らえていた手を解放し、回収してしまうことにする。こんなもの、二度と差し出されたくなどない。)ヘリオドールならお姉様も持っているわ。婚約の知らせに呼び出された日なら私。意外と誰も、気付かないものね。信用されているお姉様の振りをしたらお父様のこと……何を恥ずかしがっているの?(動機は異なれどお揃いに拘るのは姉も同じ。ヘリオドールの有無で判断しないよう断りを入れて、会議室に呼び出された日のことを思い起こす。「一人前」あの時には既に処分を決めていたのだろうか。短剣を手のひらで転がして思考が物騒な方に向きかけた折、ふと目に入るのは恥ずかしそうな騎士の顔。珍しい表情だなとまじまじと見つめ、脈絡がないように思えて首を傾げる。話の流れからすると恋人ごっこしか原因がないものの、今更すぎた。)
(姉君を装っていたのは双子の秘密を隠すため、ひいては二人が生きるためであり、姉妹のどちらかに非があるわけではないと思われた。狡いと責めてくれれば良いものを、まるで妹君が悪いような言い方に引っかかりを覚える。真剣な表情の中で一瞬、苦々しい顔を垣間見せた。)姫様が一時的にでも命を預けてくださるのですから、私も相応のものをお渡ししなければ釣り合いが取れないでしょう。私が差し出せるものはこの身ひとつ。地位も名誉も欲したことはありませんし、大事に思っている皆さんは逞しい方ばかりですから、私が突然いなくなっても大丈夫ですよ。(姫が生きてくれるのなら、全てを捨ててしまってもいい。元よりそのつもりで今日を迎えた。握られている手に加えられた更なる力は、まるで祈るかのよう。ゆるく瞬きを繰り返し、柔らかな感触を享受する。寄せられていた信頼を裏切った己に対しての恩情が、却って心苦しい。)……言い訳がましいと思われるでしょうが、姫様の御命を大地へ返すつもりはありませんでした。いっそ私が、姫様を攫って何処かに隠してしまえたらとも思いましたが、それでは陛下と何ら変わりないと考えを改めました。この短剣は姫様の選択をお助けするためのものです、ご自身を守る術は多いに越したことはありませんからね。(死を望むのであれば自決用として、生を望むのであれば護身用としての贈り物であった。たとえ剣術に覚えがなくても、先程のように対峙する相手へ向けて牽制ができる。丸腰と、武器がひとつあるのとでは心境が違ってくることを、戦いに身を置く己がよく知っていた。)姫様にご同行いただけるのなら心強いですね。後程、剣術をお教えいたします。(魔物退治は危険だとまだ見ぬ可能性を潰したくはなかったし、本当に得意であれば姫の自信につながるかもしれないと歓迎する姿勢を取る。冗談であったならば、それはそれで一向に構わない。)姉妹で同じものをお持ちなのですね、私が魔法を掛けたのはこちらだけのようで……。あのときは、無遠慮に触れてしまい申し訳ございませんでした。あまつさえ、姫様を独占したいなどと大それたことを……。(あの場限りと割り切っていたはずなのに、姫から向けられる視線を感じて勝手に頬が熱くなる。けれど、姫が平然としているのならば変に意識をしているのは己だけと分かり、少しだけ安心した。躊躇いがちに姫を見遣り、ゆっくりと話し始める。)これから向かう町で、姫様は素敵な殿方との出会いがあるかもしれませんね。その方と想いを結ばれて、ご結婚されて、めでたくお子様を授かり、温かな家庭で過ごされることが、きっと何より陛下への復讐になるのではないでしょうか。そのうち陛下が崩御された知らせを耳にして、そっと笑って差し上げるのがよろしいでしょう。(あの日に姫が描いてくれた輝かしい未来図を、今度は己から。本当は、そんな風に過ごすうちに復讐などすっかり忘れてしまうのが一番良いのだけれど、姫が王に向ける感情は簡単に片付くようなものでもないだろう。)私は姫様の騎士として、そして良き隣人として、いついかなる時も変わらずお力になります。お付き合いされている方と上手くいかないときは相談相手に、旦那様と喧嘩したときは仲裁役になりましょう。こちら、お返ししてもよろしいですか。(留め具が壊れていないのを確認してから、姫に首飾りを返そうとする。加護魔法が発動することはもうないだろうと判断してのこと。許されるならば己の手で姫の首に付けて差し上げたいが、遠慮されたならばペンダントを差し出すのみに留めよう。)
ふふ、そう。街の子供たちはしっかりしてるのね。どちらかというと、エリックさんは会いたくならないのかなと思ったのだけれど。(すべてを差し出してくれるような言葉へ後ろ暗い喜びに笑みを零しながら、突然いなくなれる人なんだな、と悲しむ気持ちもあった。彼は否定するだろうけれど、いつかそうやって、大事だからこそ身を引いたと解釈した乳母のように、黙って消えてしまうのだろうか。別離を仕方がないことだとは、もはや思えなくなってしまっていた。)……じゃあ、なんでワインの箱に入れたの? 私、とっても傷ついたわ。ワインの約束したの、私だったのにお姉様へ贈ることになってしまうし。断らなかった私が悪いから諦めてたのに、約束してたことまで穢された気分。(意思を尊重したことだと繰り返し弁明されれば、気になるのはワインのこと。一体どういうつもりかと恨めしく椅子に置かれた瓶を睨みつける。約束がなくなった日、姉の振りをしていたのだからと受け入れながらも、傷ついた心を更に抉られたようだった。護身用と称されよう短剣もじとりと見遣りながら、教えてくれるという言葉には頷く。魔物退治なんて足手まといにしかならなさそうだから冗談だったけれど、歓迎されるならやってみようかなという心持ち。)――え、(独占したいなどと言っていただろうか。記憶を辿って、自分が適当に解釈して言った言葉だったなと思い至る。本当にそうだったのかなと動揺して、後ろ手に短剣を弄っていた。)えっと、そう。お姉様とお揃いにしているの。魔法で区別がつくのね。全然使えないから、盲点だったわ。(迂闊だったな、と既に姉を装う必要もないのに考えてしまうのだから長年の習慣は恐ろしい。「謝るようなことではないわ。」と謝罪に向ける言葉も、癖のようなもの。あの時は平然としていたのに何でだろうと騎士の様子を伺っていれば、かつて己が言ったことを返され、目を瞬かせる。)生易しい復讐ね。結婚なんて、考えたこともなかったけれど……。ふぅん、エリックさんは、私が他の人と引っ付いてもいいんだ。見たくないだけなんだっけ。独占してくれても、攫って隠してくれても、いいのだけれどね。(先程の言葉は何だったのだろうと不機嫌に投げつけ、自分では何にもできないお姫様の如く、ペンダントを付けてとねだろう。)
私が一番に離れがたく、そして会いたいと望んだのは姫様です。あなたを失わずに済むのであれば、何を引き替えにしても構いません。(姫の気遣いを感じながらも、こちらの意思は変わらない。仮に勅命を果たしたとしても、己が正気を保って生きられるかどうか怪しいものだ。もしも姫が国のために死を選択したならば、後を追うつもりでいたことは胸の中に仕舞っておこう。)今日があなたとお会いする、最初で最後の機会かもしれないと覚悟して参った次第です。ワインも短剣も、どちらもお贈りしたいという私の自己満足でした。それ程までにあの約束を……、ご気分を害してしまったことをお詫び申し上げます。(至近距離で深々と礼をするわけにもいかず、気持ち程度に頭を垂れて詫びる。短剣を持ち込むためにワインを贈る約束を利用したのは申し訳ないが、姫が約束を楽しみにしていて尚且つ一度諦めていたとは。知らなかったといえ、姫の心を踏みにじってしまったのをひしと感じて一心に謝罪する他なかった。――生易しい復讐は、双子の片方を処分したい王の思惑に逆らうものであり、最大の復讐であるとも考えられた。己が姫から聞かされたとき素直に受け取れなかったように、姫にすんなり聞き入れてもらえるとは思っていなかったが、そんな風にも生きられると可能性は提示しておきたかった。しかしながら独占欲を滲ませたあの発言を引き合いに出されてしまい、言葉に詰まる。)それは、その……、姫様が真に御心を寄せられる殿方であれば、……時間はかかるかもしれませんが、私は祝福したいと思います。(見たくないのも祝いたいのも、正直な気持ちであった。姫と向かい合ったまま、細い首の後ろにおずおずと手を回してペンダントを付けさせてもらおう。無事に付け終われば、両手を静かに下ろしていく。)姫様は私を転がすのがお上手ですね。広い場所に出られたなら、私が取るに足らない男だとよくお分かりになることでしょう。それでも、もし私に独占されても良いと思われるのであれば、いつか教えていただけますか。私は姫様をお慕い申し上げております。これが恋と呼ばれる気持ちなのかは分からないのですが……、お恥ずかしながら初めて感じるものでして。(自信なさげに一度落とした視線をどうにか持ち上げ、身を低くして姫と目線の高さを合わせに行く。うるさく騒いでいる鼓動を押さえつけるように、己の胸元に手を添えて。)確かに申し上げられるのは、あなたが私にとって特別な存在だということです。世界で、だったひとりのあなたが大好きです。(成年を経て恋のひとつを知らぬとしても生きるのに何ら問題ないと、気にも留めなかったが日々が今は悔やまれる。どんなふうにこの熱い気持ちを伝えたらよいのか困り果て、詩心も持ち合わせていないとくれば在りのまま告げるだけ。)
……うん、ありがとう。命令を下されたのがエリックさんでよかった。(表情に出したつもりはなかったのに、不安を読み取ってくれたかのようだと笑みは浮かぶ。他の者に処分を託されていたなら問答無用で殺されていただろうと思い至れば、彼を恨めしく思うのもお門違いというもの。)どんなワインを選んでくれるのかなって楽しみにしていたのよ。一生飲まないって思ってたけれど、贈ってくれるというのなら頂戴するわ。短剣も、これから森を抜けることだし、護身用として受け取ってあげる。(剣など初めて握るというのに、己の小さな手にも不思議と馴染む。八つ当たりをして気が晴れれば短剣への恨めしい気持ちも消えて、剣術を習うのも楽しみになりそうだった。)――ふぅん、お姉様の婚約の時といい、健気なことね。(姉に言われた時は笑顔で受け止めた祝福の台詞も、当事者になってみれば嫌な心地。肩にのる毛先を避けて、華奢なチェーンを持つ節くれ立った手を迎え入れよう。躊躇いがちにペンダントを付けてくれる様子を、いつもなら意地悪く見ていただろうにムッと眺めて、ヘリオドールは定位置へ。離れていく騎士の手の傷を目で追っていれば、唐突に始まる自己卑下に顔をぱっと見上げ、告げられる想いに目を丸くして固まる。)いつから、(ぼやくように呟き、目と目が合って告げられる“たったひとり”への言葉に、ようやく気付く。騎士に己という存在を認識されて、姉に向けられた想いなのではないのかと疑うことも、すべてが姉のものになることも、なくなるのだな、と。密やかに積もり澱んでいた感情は流れ去って、後に残ったのはかつての問いへの答えだった。)エリックさんは、取るに足らなくないわ! こんな面倒な私に、言葉を尽くしてくれるのはエリックさんくらいよ。たとえこの先長い人生の中でそんな人が現れたとしても、悲しい時も苦しい時も寄り添って、何度も掬い上げようとしてくれたエリックさんじゃないと嫌。(真っ直ぐに目を見据え、きっぱりと、騎士の自己卑下も、他の人との未来も否定する。優しくしたことはないけれど、己が騎士に向ける感情が、彼だからなのは明確だった。)私ね、ずっと人目を避けて、お姉様を装って生きてきたの。でもずっと一人きりでいるのも嫌で、春の日に見つけてくれて、中庭を一緒に回ってくれて、元気づけてくれて嬉しかったわ。“半分”って思われるんじゃないかって避けてた時期もあったけれど、駄目なところを見せても蔑まず受け止めてくれて、退屈な毎日だったのに楽しい時間も過ごせた。何度も厚意を踏み躙ってきたのに、エリックさんが伝え続けてくれて、厚意を厚意として、向けられた想いを正しく受け取ることもできたの。今でも下手だし、エリックさん以外からは全然受け取れない、どうしようもない私だけど、エリックさんから受け取れるならそれでいいとすら思ってる。(目の前の騎士でなければ駄目なのだと、想いを告げようとして急激に恥ずかしくなって、ついっと目を逸らす。)私も、エリックさんのこと、嫌いじゃないわ。(肝心の言葉は素直に言えなかったけれど、本意が伝わっていないようであればいくらでも言葉を尽くせる自信があった。騎士から受け取ってきたものは、今までにたくさんあるから。)
(いつから、騎士の分を超える想いがあっただろうか。いつ、と明確に言えないのがもどかしい。明るく優しい姫を好ましく思ってはいたが、より魅力を感じていたのは物怖じしない真っ直ぐな姿や、己を巧みに翻弄するいたずらなところであり、それが目の前にいる彼女だと確信したのが今夜だった。それでもどこか一歩引いていた気持ちに、否定の言葉を伴って姫に踏み込まれた思いだった。恋心やときめきと呼ばれる甘やかなものを上回り、深い感銘を受ける。語られる言葉を取りこぼさないように耳をそばだてた。)……嫌なことばかりではなかったのですね。(良かった、と呟きざまに涙が一粒零れ落ちる。生きていたって嫌なことばかりと先の発言には触れられなかったが、かといって気にならなかったわけではなく。己にとって幸せな時間であったように、姫にとっては楽しい時間であったのだと、心からの安堵がひとしずく溢れてしまった。)こんなにもたくさんのお言葉をいただける私は果報者ですね。姫様のお気持ちを大切にさせていただきます。これからは、姫様に想われている私自身を大事にしましょう。ですから、姫様もご自身を大切にしてください。(濡らした瞼をゆっくり瞬かせながら願い出た。受け取ってくれるのであれば、遠慮なく思いを口にしてしまおう。相手を思うが故にへりくだるのは美徳であるけれど、いざ聞かされる側になるとあまり気持ち良いものではないと気付きを得たため自戒も込めている。姫のことを面倒だとも、己の思いを踏み躙られたとも、そんなことを感じたことは一度たりともないとそれとなく伝われば幸いだ。)では、私たちは晴れて両想いということで……愛しいナーシャ。(胸元に添えていた手を徐に伸ばして、姫の頬にそっと触れてみようとする。姫がきつく目を瞑ったりして緊張しているようであれば、前髪にキスを。もし、恐れずに目を閉じてくれるようならば、触れるだけの口付けを。どちらにせよ、名残惜しい気持ちを抱えながら身を離していくことになるだろう。)このまま姫様に触れていたいのは山々ですが、それではあっという間に朝を迎えてしまいますね。(小さく笑いながら背筋を正し、またも魔法で横着して手元に引き寄せたロゼワインを上着の外ポケットへ。ワインボトルは吸い込まれるようにしてポケットの中に入っていった。次にましろい毛並みのコートを引き寄せて、姫の細い肩にふわりと掛けようか。)突然の出立となりますが、荷物持ちは私にお任せを。持っていきたい物があれば、私の手を握って強く思ってください。こんな風に呼び出せます。(外側に片手を伸ばして手のひらを翻せば、自室に置いてきたハルバードが現れてすぐさま掴み取る。そうして、もう片方の手を姫に差し出した。余程大きな物でなければ、姫が願った物が同じように呼び出せるはず。)陛下には姫様の件を一任していただきました。最後は森で後片付けをするとも伝えており、一頭の馬を外に用意しております。陛下がどれだけ私を信頼しているか、見物ですね。……時に、姫様は空中散歩に興味がありますか?(ハルバードの矛先を窓辺に向けて、楽しそうに口元を綻ばせた。『後片付け』が亡命のための方便であると正しく伝わっていればよいのだけれど、不快にさせたならば詫びるつもりだ。)お許しいただけるなら、あの窓を叩き割ります。あそこから夜空を歩いて行けば、地上を歩くよりも早く馬に辿り着けましょう。(それから、陛下へ最後の嫌がらせでもある。敢えて目立つ方法で、城を出ていかないかと誘ってみた。姫が難色を示すならば、静かに尖塔を抜け出して行こうかと。)
(――気持ち、伝わったのかな。騎士のことを語っていたというのに、話の矛先が変わり、呆気にとられてしまう。話の行く末は気になるし、そういう人だとは知っていたけれど、まだ気にしてくれていたんだなって、温かな瞳から落ちるしずくが、心に広がっていくようだった。)……嫌なことしかないわけではないの。エリックさんとお話するようになって、楽しいなって思うことが増えたわ。ただ、嫌なことばかりに、目が行ってしまうだけ。(たとえば騎士が己の意思を尊重してくれていたのに、些細なことで目くじらを立ててしまったように。嫌なことの筆頭である姉だって、嫌なところばかりに目が行ってしまっているだけなのだろう。騎士と自分の言葉に思い至って、両の目からひとつずつ涙がこぼれ落ちる。指先で拭い去れば後には続かず、おしまいなんだなってぼんやりと思った。)……自分を大切にするって、難しそうね。(騎士とは異なり事実しか言った覚えはないけれど、騎士もそういうつもりで自分を卑下していたのだろうか。語られたことを噛み砕いて理解しようとする最中、降ってきた両想いという言葉に目を見張る。どういう好意を向けてくれているのか、あまりよくわかっていなかったから。触れる指先の手付きと、名に込められた想いと、両想いという理想が意味することに頬を赤らめ、教わった通りに目を閉じる。)最上は、私だけがいいな。(自分だけの騎士で、両想いなら、たった一人であるべき最上になれるのだろうか。唇へ触れる感触に頬が一層熱くなり、彼が身を離すのに合わせて俯き隠そう。)……さっきまで恥ずかしそうにしてたエリックさんはどこへ行ったの。(朝まで恋人ごっこみたいなことしたいのかなって、その時の光景が蘇って、今更恥ずかしくなって耳まで赤く染めていた。)――ふふ、駆け落ちみたいね。宝石類は処分させてしまったし、持っていきたいものも特にないけれど……。(今日はたくさん魔法が見れるなと、ワインがポケットへと納まるのを見届けて。掛けてもらったコートに袖を通し、自分のポケットに納めるのは護身用の短剣。差し出された手の傷を軽く爪の先で突っついて、手を握ろう。強く思い描きぎゅっと握れば、現れたのは自室に置いていたテディベア。)気が向いたから、会わせてあげただけ。エリックさんが独占してくれるみたいだから、置いてって構わないわ。(両の手で抱えるのにちょうどいい大きさの、ふわふわな手触りのぬいぐるみを差し出し、行き先を押し付けよう。)空を歩けるの? やっぱりエリックさんってすごい魔法使いね! それとも私、埋められてしまうのかしら、ふふ。信頼されていなかったとしたら、お父様の見る目がないのねって嘲笑ってあげる。(空中散歩にはもちろん興味津々。楽しげな騎士につられて『後片付け』に冗談を返す程度には、復讐心は立ち消えていた。)時短のために窓を壊してしまうなんて、とっても悪ね。追っ手、かけられてしまうかしら。思いっきりやっていいわよ。(にやりと口角を上げて、嫌がらせに賛同の意を示す。邪魔にならないよう騎士の背中側へと下がり、閉ざされた空間に風穴が開く様を見守る態勢。晴れて空中散歩となれば騎士にしがみついて、自分の足で歩けるようなら恐るおそる足を踏み出し、お任せなら安心して身を任せていよう。)ねぇ、エリックさんは海が見える町でどんなふうに暮らしたい? するお仕事とか考えてる? 私は全然思い浮かんでいないけれど、エリックさんと海に行きたいわ。(この国を出て生きる未来はそのくらいしか思いついていないけれど、たったそれだけで生きてもいいかなって思えた。)
(ひとつ、ふたつ、落ちていく輝きを美しいと思った。澄んだ双眸がこれから目にするものが、嫌なことよりも嬉しいことや楽しいことが多くなるように。願うばかりでなく、より一層の最良を尽くそうと決意する。)……あなたが私の最上ですよ。(間際で目を閉じて、柔らかな感触を分け会おう。きっともう、最上も特別も眼前の彼女しか在り得ない。先刻に姫君のどちらも大切だとほざいておきながら、容易く姉君への忠誠を下げてしまうのは気が咎めたが、今や己は姫だけの騎士となった。愛しい人には、不安よりも安心を与えたかった。)さて、どこへ行ってしまったのでしょう。もう帰ってこないかもしれませんね。(などと嘯くが、これから先も不意に羞恥を覚えるだろうし、姫の恥じらう姿を見られるのは悪くない。ひととき浮き立つ心は、得物の重みを手にすれば引き締まる。手の傷を甘く痛めながら、姫の思いに導かれて己が魔法が呼び出した物に笑みが零れた。握られた強さが、物への愛着の証であろう。)姫様のお友達をこんなところには置いていけません。テディベアさん、初めまして。これからよろしくお願いいたします。(挨拶と共に会釈をし、抱えるようにして受け取ると、ぽんぽんと軽く叩いてまずは手のひらに乗る程度に小さくなってもらう。それから優しくポケットに収めた。折角のふわふわな姿を、ワインボトルと同じく吸い込ませるのは忍びない。姫の冗談には密かに胸を撫で下ろしつつ、王に対する変化が見受けられて嬉しかった。)悪い私を、嫌いではないでしょう? それでは遠慮なく、派手に参りましょう。(ハルバードを両手で握り、斧の部分を力いっぱい振り下ろした。けたたましい音が鳴り響き、砕け散る破片は微かな光に煌めきながら落ちていく。氷柱落としの要領で、残った硝子を突き崩し、夜風に髪を靡かせながら姫を夜空へと誘うべく手を差し伸べた。散歩と言うには独特の浮遊感があり、ふかふかのクッションの上を歩いているような感覚が近いだろう。だが、歩くのにそれほど支障はないはずだ。さすがに王城の警備が気づくだろうが、すんなり尖塔の中には入れないだろうし、夜空の暗さに紛れてしまえば二人の人影を目視するのは難しいだろう。今しばらくは時間が稼げると踏んでいる。先を見据えた話から、姫の前向きな姿勢が伺えて顔を綻ばせた。)私も是非、姫様と海に行きたいです。果ての見えない水たまりと聞いてはいますが、実際に目にしたことはないので興味があります。暮らしは……そうですね、姫様が一緒で、衣食住が足りていれば多くは望みません。仕事は着いてから考えます。(行き当たりばったりの計画性のなさに、姫は呆れてしまうだろうか。仕事が選り好み出来るか不明確であるが、カフェの給仕かパン屋が妥当な線だろう。鍛錬はこれからも続けていくが、他国に行ってまで武を誇るつもりはない。城下町の上空をまたぎ、町外れの木の下で隠すように繋がれていた馬の元へ降り立とう。何者かが待ち伏せてやいないかと周囲を見渡したが、人の気配はなくひっそりとしており、臆病な馬も大人しく佇んでいた。王が本当に己を信頼していたのか。もしかしたら、なけなしの親心かもしれないと思いたがるのは、好意的に解釈しすぎだろうか。訝しみながらも、まずは姫を馬に乗せて、己は姫の後ろへと跨ろうか。二本ある手綱のうち、一本を姫に預けよう。馬の背に手を添えるだけでは不安定だろうと判断してのことであり、馬術に心得が無くとも構わない。)ここから森を抜けて進みましょう。――姫様、とお呼びするのはこれが最後です。愛しいナーシャ、良ければ私のことも親しみと愛を込めて『リック』と呼んでいただけませんか。(今の呼び方に不満など一切無かったし、さん付けも姫らしくて良いのだけれど、申し出るに丁度良い機会だと思われた。もし、たった一度でも呼んでもらえたならば相好を崩しただろう。追手を避けるため明かりは持たず出発し、星を読みながら途中で道を逸れ、風を頼りに暗い森の中を進み往く。追手が差し向けられるなら出来れば知らない顔がいいと思うが、見知った顔であれ容赦はしない。今夜は可能な限り遠くへ向かうつもりだが、姫に疲れが出ていないかしきりに確認しつつ。――無事に海が見える町に辿り着いたならば、愛しい人に一輪の花を贈ろう。二人きりの新たな日々を祝福して。)
〆 * 2022/12/2 (Fri) 10:36 * No.136
(人にはそれぞれ大切なものがあって、何かを選択する時には優先順位をつけなければならず、騎士が言う最上を正しく一人にするのなら、姉になるのだろうと思っていた。切り捨てられるのはいつだって自分で、今日の日まで姉の振りをして、共有してきた時間も圧倒的に少ないのだから当然なこと。だから、己だけの騎士になってくれるというのなら、これから少しずつ、最も大切な人になれたらいいなって思っていたのに。最上。俯き赤らめた顔を綻ばせて、じわじわと訪れる喜びを噛み締める。)ふふ、どんなエリックさんでも、別にいいや。(最上の立場を求めるのも、どんな彼でもいいのも、もちろんこれまでの彼があってこそのもの。)……お姉様はお友達が多いから、友達なんていないって言えなかったの。近しいものを挙げただけ。(つっけんどんにテディベアが友達であることを否定しながら、小さくなる姿をちらと伺う程度には気になる模様。己の言葉を引用したかのような台詞には、動揺と共に思いっきり視線を逸らす。)き、嫌いじゃないわ。(日頃真面目な騎士が、己のために悪いことをしてくれて、嬉しいとすら思っている。軽々とハルバードを扱う様を眺め、外を隔てるものがなくなれば吹き込む風は冷たくも心地よく。星の瞬く空を映し落ちてゆく硝子を背に、月明かりを帯びる金糸が靡く様の美しきこと。誘われるがまま差し出された手に腕ごとしがみついて、塔から足を一歩踏み出そう。おっかなびっくりしながらも、雲の上を歩くかのような感触に目を輝かせ、空中散歩を満喫していた。)エリックさんも海を見たことがないのね。水たまりなら雨水が溜まった窪みでもいいのに、どうして心惹かれるのかしら。……ねぇ、亡命する準備はばっちりしていたのに、その先は考えていなかったエリックさん。海の見える町で、私と一緒に暮らすってことでいい? 一人じゃ何にもできないお姫様だから、嫌と言われても住み着くけれど。私、洗濯も料理も買い物もしたことがないから、覚悟して頂戴。(確かめるように顔を覗き込んで、自信満々に宣言するのは共に在るための口実。何もできる気がしないのは相変わらずだけど、騎士が提案したように、試しにやってみよう。働く間も一緒がいいなと思い浮かべて、足手まといがいると彼の選択肢を狭める気がしたから、大人しくしているつもり。眼下に広がる城下町の、明かりが灯る夜の町並みを楽しんでいた折、地上よりも強く感じる一陣の風に顔を背ければ、小さくなった王城が目に入る。――手紙のことは何も告げずに出てきたけれど、お父様がすべて説明なさってくださることだろう。大好きな妹に妬み憎まれ、散々心配してきたのに別れを告げられることすらなく立ち去られて、かわいそうなお姉様。己の性格の悪さを隠したままで騎士を騙している気もするけれど、いつか、心穏やかに話せる日が来るのだろうか。生まれた日を同じくして、己さえいなければ“半分”とは呼ばれなかった、妬ましくて憎くて仕方がない、たったひとりであるお姉様のことを。)さすがエリックさん、お父様からの信頼も厚いのね。……エリックさんが、隣国へ行かなくてよかった。(頭の片隅にあった懸念を一つ零し擦り寄って、馬の上へと乗せてもらおう。亡命という一大事を楽しんでしまう不謹慎な態度を抑え、速く移動するには安定した体勢がよかろうと、行儀悪くスカートで跨ぐことにする。)ふぅん、愛を込めて欲しいのね。気が向いたら呼んであげてもよろしくってよ、リックさん。(敬称を付けてしまえば普段とあまり変わらないものの、親愛を込めるのも呼び捨てにするのも照れくさいから、意地悪く笑んで誤魔化してしまう。馴れ親しんだ姫様呼びを惜しむ気持ちはあるけれど、愛を込めてくれるならいいやと己は想いを享受する相変わらずの狡さ。初めての乗馬へ緊張に身を強張らせながらも、背に感じる騎士の存在に安心して、こっそりと楽しんでいた。暗く冷え込む森に、侍女が選んだ厳重で暖かなコートは役に立ち、引き籠もりの体力はそんなにないけれど、何ともない振りをして先を促す。魔物と遭遇することがあれど、国を抜ければ暢気な心が顔を出して寄り道に誘ってみよう。幾度日が昇り沈んだか、やがてたどり着くのは海が見える町。双子を忌む国から出たところで己は己のままで、すぐに人を疑って厚意を不意にするし、些細なことで怒り悲しみ、うまれてきた意味を思い悩むことになるのだろう。けれど彼がいるのなら、それでも生きていいかなって思えた。どうしようもなく孤独だった心がいつの間にか満たされていたように、ひとりでは難しいことも、ふたりでなら叶えられると信じてみたかった。差し出された騎士の手を掴み引っ張り込み、屈んでもらえたのならそっと目蓋に唇を落とそう。)これからよろしくね、私だけのリック。(彼の心が風のように移ろうことなく、いつまでも最上で在り続けられますように。)
〆 * 2022/12/3 (Sat) 23:55 * No.141