(我が暁は堅き砦。)
(全ては滞りなく進んでいた。四季の一つは恙なく巡り、定められた環は円く輪郭を辿り続ける。一介の騎士の手もまた、そのための歯車として役立てられんとする運びなのだろう。なれば問題を先延ばしにすることは得策ではないと、行動を起こすは白鳩が飛んだ日から週を一つ数えるばかりの頃。叶うなら付き従う相手が“彼女”であると確信を抱く瞬間を見計らい、他愛もなき談話に交えて自らの唇で伝えんとした。「鈴を持つ猫は人々が寝静まった後、陛下より鍵をお渡し頂いた例の場所へ」と――喩え騎士と姫の会話に耳を欹てる者があったとて、意図を正しくは汲めまい言い回しで。受け取る相手が彼女なら即座に、二人のみぞ知る意を解してくれると信じて。機会を得られず姉姫のほうへ伝えるに至ったとしても、何らかの言葉遊びと捉えて妹と共有くらいは図るであろう。御膳立てされた舞台へ従順に乗る、彼女もまた誂えられた舞台へ導くような行為は聊か憚られて、単純に星空の下へと誘いを掛けることも案の一つとしては浮かんだ。必然的に想起するいつかの秋夜、自分の耳に囁かれた声と同じように。されど穏やかに移ろう四季の中でも寒冷な今時分、乙女の御身を外気の下に長らく晒すのは忍びなく。何しろ人々も草木も寒さを厭い眠る頃だ。道中に地表を踏み締める都度も、薄く下りた霜が歩調に合わせて音を奏でていた。夜半から夜明けまでの短い刻、ひときわ冷える折にのみ姿を見せる冬月の結晶。共に歩み来ていたのなら、その風雅を分かち合うことも叶ったのであろうか――尖塔の内にて一人待ちながら、とりとめなき思惟を茫洋と廻らせる。結界の隔てを越えて赴く場所とあらば、鍵と称するも強ち間違いではあるまい。細い手で扉が開かれたのなら、細い脚に螺旋階段を上らせるまでもなく男の姿はそこに在る。深閑と静まりかえる空間において、涼やかな音色は微かなれどもよく響く。恐らくは彼女がこちらを向くより幾許か早く、月輪は暁の眸を見つけていよう。同時に石壁へ預けた背を離し、白いサーコートの胸元に手を添える所作。数歩ばかり縮める距離に合わせて揺れるマント。いずれも常と代わり映えせぬ、見慣れた騎士の態であったことだろう。)女人ひとりを、斯様な夜分にお呼び立てして申し訳ない。……大丈夫でしたか。(あくまで平静を保つ声だった。気遣いの問いが心身のいずれに、何を慮って投げ掛けたものであるのかは当人にも曖昧模糊なまま。)
(何事も障りのひとつもなく進む。季節の移ろう時期であった為かあの日から体調が悪いとされていた妹も数日を経てすっかり元気になり、お茶の席のみ限りに末の姫となることもあった。恐らくはそんな侍女込みの席での一幕で、眸が驚きを映し出したのはほんの一瞬のみ。「この前の本の謎掛けね。何の星座に会うのだったのかしら」と返事はのんびりとしたもので、侍女も特別気にする様子はなかっただろう。妹は今までだってこの調子であったから。今宵、空を飾る星座はなんであったか。見頃と言われる神話の星々が舞台から降りようとしている時、世界が最も静寂に包まれる時、唇の存在を隠さんとする白い息が季節の在処を教えていた。あの秋の日によく似た状況ではあるものの、そこに王という他者が明確に存在しているのだからこれがあの時とは異なるのは簡単に理解出来た。王の鍵、例の場所、そして騎士と揃うべきものが揃ってしまった。扉を薄く開けて自室から続く間を確認するもそこに欠ける筈のない灯りの番の侍女の姿が無い。)――……(何故を浮かべる気にもならなかった。そういう日なのだ。今宵はそんな夜なのだ。明るい内に寝台の下に放り込んだ外套を寝衣の上に羽織る。頭からフードをすっぽりと被れば、渚のように白く揺れる寝衣を隠し、施された熱魔法が外気から守ってくれる。あの手紙から”半分”としては用済みとなったことを知った。これ以上末の姫のこの身体を守る必要がないと理解気付けば実に身軽だった。あの秋の日の帰り道と同じで、何も飾らぬ身は例の魔法陣を収めた紙片と父の指輪と騎士の夢の珠だけを胸に抱いて部屋を出る。最後、姉の寝台を振り返ったが当然起きている気配はない。安心して戸を閉めた。その扉の向こう、姉は目を閉じながら、遠ざかるあの音を聞いていた。涼やかな音は程なくして例の場所へ至る。扉を開く前の刹那の躊躇いは音が伝えてしまっただろうか。自らが思うよりもその音はずっと雄弁だ。)平気よ。 ――……ごめんなさいね。御父様でしょう?(こうして他の誰かの存在無く顔を合わすことはあの日以来。目許さえも隠すフードをそっと指の背で持ち上げ眸を覗かせると、今宵も優しき月輪を見上げてほんのり苦い笑みを浮かべた。何も気にする必要はないのだと首を左右に振り、その後で今宵の事を詫びた。一体どのような要件であるのか、幾つもの予想は出来たがいずれも父の、――そもそもこの騎士との出会いだって父の御手によるものであるから、自然と娘として詫びる言葉が出た。)
(無邪気ながら聡い姫に、夢の珠が歌う清音はよく馴染む。彼女の手へと渡る前は長らく男の元に在ったのだから、その音自体は聞き慣れている。にも拘わらずこの手で所有していた頃より遙かに、柔く軽やかに響くよう感ぜられた。件の秋宵も、振り返る日々も今も。可笑しな話ではあれど、理由を今更探すほど頓馬ではないつもりだった。澄んだ声で約された通り絶えず慈しみ大切にされてきたのであろうこととて、確認する迄もなく知れている。)あなたが謝ることなど何もない。(親の行いに対して花唇を割る詫びは、一聴すれば平凡な父と娘としてごく自然なもの。改めて対峙する双眸の光は、カーテンを開きかけた隙間の星影に似て。今宵も曇りなく、穢れなき色をして眼差しを交わらせてくる。何をも疑わず、されど何をも知了しているように。その煌めきを前に何を口にするが正しきか、何を発すれば失言となるか、向き合えばこそ尚更に答えは見つからぬ侭。)我が君。いつか、入り日が映える湖の畔で仰ったことを憶えておいでですか。私は……騎士である自分自身に、そして己を育んだ家に、誇りを持っているようだと。(この身に置く誇りの何たるかは過日に応えて以来、揺るがず動ぜず在り続けてきた。それは秘め事を打ち明けられた後も変わらぬどころか、真心に触れて一層誓いを確固とさせた位。すいと視線を滑らせ、丸窓越しの空を見上げる。冬空は煌々とした一等星が多く見えるも、輝きを結び現れる星座の名には生憎明るくない。外からは単なる壁と、内からは透明な硝子と。偶々通る者があったとて目を欺ける、中で為すことも全て隠し果せる、そんな細やかな魔法が掛かる窓。皮肉なまでに、お誂え向きな舞台の一部だった。)本日は、あなたの父君より……、いえ。キュクロス王より直々に命を受けて参じました。(選び直した語彙の所以は、この王命が父親の本意だなどと到底思えないこと。或いは単に、この心がそう思いたがらぬだけの話か。事実の重さを背に感じながら徐に姿勢を低め、雑じり気のない敬意を込めて跪く。石の床に突く片膝を起点として、全身がじわりと厭に冷えゆくのを感じた。生来誤魔化しを不得手とする唇が、彼女の前でその傾向を強めるは此度も同様に。)存在を民に秘し続けてきた、キュクロスの双子の姫。その片方、輿入れせぬ方を処分せよと。(色の乗らぬ声は、だからと押し黙る逃げも打てず。真実ないし事実のみを率直に述べた。)
(今宵もうつくしい月は変わらずそこにあった。常と変わらず見上げればそこに。あの秋の日と同じだ。陽が沈む前の束の間の黄金の時間、その誇りは黄金に似た輝きで高く掲げられているのだと知った日。そして今、陽が昇る前の束の間の静寂の時間、その掲げた誇りの輝きは変わらずそこにあるのだろうか。語られる言葉に小さく頷きを返して、聞いているとも覚えているとも応える。月輪の眼差しが丸窓を向いても、誇りの在処を見つめるように月桂を見つめた。)――……そう。(その身が堅い床の上に跪いてもなお、ただ見つめた。父の命を耳にして漸く音が発せられる。己が思うよりも衝撃も動揺も訪れないものだとどこかで醒めた己が呟いた。知っていた。想定し得る結末のひとつだった。ただ想定外であったのはそれを命ぜられたのが月の騎士であったこと。此度は此方が丸窓を向いた。冴え冴えとした空気の中で星は今日も瞬いている。)御父様は優しいの。自ら手を下せない程に。……可哀想な御父様。初めに手折れぬ優しさが更なる苦しみを産むというのに。(小さくため息のような淡い白を零すと、跪く騎士の前にしゃがみ込む。黒緑の外套の裾野が冷たい床の上に広がり、その間からは寝衣を飾る白波のような華奢なレースがそこかしこで泡を立てた。)”私”なんて初めからいなかったのよ。だから平気よ。 ……何か迷っていらっしゃる?(月の清らなかんばせを覗こうとするもそれは叶うだろうか。苦味を消せぬままの目許を隠さんとするフードはそのままに唇は柔らかに弧を描いた。)――いいえ、迷わぬ筈が無いわね。貴方は優しく清らな人。 大丈夫よ。私を手折っても貴方の誇りは穢れない。貴方の志は潰えない。 ……貴方は私の望みを叶えてくれるのだから。(先程までフードを支えていた指先がそろりとその亜麻色へ伸びる。しかし触れるには至らず止まってしまったのもこれまた別の秋の日によく似ていた。穢れたこの身が清浄な存在に触れることは出来ない。暁の眼差しは今までのどの日よりも深い慈しみで満たされ、やはりその愛しき清らな存在を慕うように纏う空気を撫ぜた。心身ともに彼岸に沈むことは彼に出会うまでずっと望んでいたこと。出会ってからもその日をずっと待っていると自ら思っていた。されどあの日気付いてしまった、口にしてしまった彼に出会って知った真なる望み。内緒の約束で伝えたその望みは瞬きと共にそっと今宵の天幕で包んだ。)
(優しい。可哀想。そう象る花唇こそが何処までも優しく、それゆえに美しい声は哀しい譜を辿っていた。父と娘の間に、通い合う情は確かに存在していたのであろう。喩えうつくしい円環を描きはせずとも、子へ注ぐ愛情が切ないばかりに不器用であったとしても。常のように相槌を送れはせぬ分、耳ばかりは確と傾けていた。中途に否やを唱えたい瞬間があっても、正直に澄んだ音を半ばで遮ってしまわぬよう黙して。)じかに命を受けた身ながら、正しい意については今も汲みかねています。直截に、存在を抹消せよとの達しか……或いは単に王室から排除する必要性を、婉曲に示されたものか。(抹消。排除。およそ人間に使われるべきでない表現を一つ重ねる都度、浅く眉根が寄った。仄かな花の香りが近付き、伏した視線の先に白妙の波が映る。かの暁が対顔を望むなら、応じるべく面を上げよう。為すべきを知った上での躊躇を迷いと呼ぶなら、男は微塵も迷ってなどいなかった。)この剣は誰かに仇為すため、況してや命の灯を消すために磨いてきたものではない。――…誇りもまた、外から与えられるものに非ず。自らの意で曇りなく信じ、強く高く掲げるものと。そのようには思いませんか。(父の子として王家仕えの騎士としてひたに務めてはきたが、そればかりに盲目だった訳ではない。静かに述べるは人間としての良識、勲章なぞ関係ないリューヌ自身としての矜持。問いの形で結ぶのは、単なる自己語りに収めたくなかったが故。)ひとたび護ると誓った相手の命を奪い、真の望みを知りながら見ぬ振りをして、なお貫く誇りとは一体何であるのか。俺には解りかねる……理解することを、拒んでいる。俺の志か誇りか、或いはもっと別の……あなたの方がよくご存知の、名を知らぬ某かの思いが。(詰まる処、もしも直截な達しならば承服しかねると。聞く相手が一人であるのを良いことに、飾らぬ本音は滔々と流れていた。)それ程、……あなたの存在は大切で大きいということです。きちんと理解しておかれるように。(終わりかけた秋薔薇の下、可愛らしいつむじを曲げさせた遣り取りを否応なしに彷彿とさせる言い回し。自分こそが件の指摘を受けた側とあらば、説得力の無さには自覚が及びながらも知らぬ振り。稚い意趣返しのようで、紛れもない本心とは眼差しから伝わるだろうか。月輪の眸には何より清らと映る暁の君、その天幕の向こうをも見通したがるように光を捧げた。)
(さて、実際に此の目とてその現場を見たわけでもなければ此の身は父でもない。王の真意など本人以外の誰にもわかりやしないのだ。父の手紙の中身とこれまで交わした言葉を思い描くもそれとてやはりどのようにも取れた。尖塔の底には夜の欠片のコバルトの粒が溜まり、吐息の白さをより際立たせている。しゃがみ込んで覗く月のかんばせはひとつも曇っていなかった。曇っていたのは己のまなこの方であったか。語られる言葉に耳を傾けては時折瞬きを落とす。互いに低い姿勢になりその顔を覗こうとしていれば僅かに見上げる形になった。暁が瞬いて、月の光を受ける星がひとつふたつと煌めきの鮮烈さを取り戻す度に、目深に被ったフードが髪の上を滑り後方にずれる。)……どうして、(とは既に愚問に近しいことである自覚はあったから半ば独り言のように。淀み無く流れる言葉達の何を肯定すべきか何を否定すべきか、最早言葉を返すのさえ忘れて聞きいるも、暗幕を滑る火球のように大きな瞬きがひとつ落ちる。過日、己が紡いだ言葉をそのままに返されるとは思ってもいなかった。同日の「冗談」を聞いた時の反応と同じくひとたび目を円くさせ、それから雪崩れるように表情を崩す。その拍子にフードがとうとう落ちてしまったものだから、先に愛しんだ指先を引いてその背で唇に浮かぶ笑みを隠した。)そんなのずるいわ。(眩い光、尊い輝き、手放し難い温もりを、この身はよく知っている。)……時々意地悪をするのだから。(眼差しばかりが不満の色を抗議のように向けるもやはり負け惜しみの旗色である。その言葉を疑うことはないが虚をつかれたのは確かで、先までの思考が一旦途切れてしまった。頬に落ちる黒髪を指で掬い上げながら、切り替えるように白い溜息を落とす。そうして今度は苦味のない柔らかな眼差しを真っ直ぐに向けた。)――そして、貴方はどうするの?(王命の言葉通りの意を拒まんとする月輪の眼差しは何処へ向かうのだろうか。問う暁の眸はその色の通りの夜明けを待っていた。今宵の天幕の覆いが外された先を。)
(天幕が取り払われ、やがて露わになる花顔の綻び。他の何とも紛いやしない、この手で護ると誓った笑顔。一対に閉じ込められた星光の煌めき、その目映さから逸らさぬ月輪もまた僅かに和む。成る程狡く意地悪だと、適切な評に唇もふと緩んだ。)これは失敬。何分初めてで勝手が分からないものですから、姫の寛大なお心でお目こぼし願えれば幸いに存じます。(折り目正しき所作と言葉遣い。傍らに侍る間保ち続けてきたそれらが、本心を晒した今は何処か芝居じみて感ぜられた。知ればこそ、恭しく垂れるこうべも此度は反応を待たずに元の位置へ戻る。近しい距離で向き合うため、途絶えぬ明日へと思いを馳せるために。)お伝えしたはずだ、俺はあなたの望みをお聞きしたいと。(度々躊躇を浮かべて見えた細指に代わり、伸べた手指が漆のごとく艶やかな黒髪に触れる。彼女の手で為せないことは、己の手が行えば良いだけの話だった。望みを聞くとは文字通り、ただ耳を傾けるという意味合いに留まらず。留まれなかったと言うべきか。)末の姫君と彼女付きの騎士を知る者が誰一人居ない、何処か遠くへお連れする。それが今、俺が迷いなく為したいと思っていること。高い山を、広がる草原を、日によって表情を変える海原を……存在を伝えるばかりだった花々が、実際に根を下ろし息づく様を。あなたが見たいと願った全てを、何の障りも隔てもなくお見せできる場所へ。(王家が片割れの妹君を要らぬと、初めから居ないとさえ判じているのなら、必要とする手で連れ去った所で問題はあるまい。傲慢と自覚しながら覆さぬ考えの下。男女間に横たわる力の差を思えば、攫うことは恐らく造作もない。されど伸びてゆく影が一つでないなら、独り善がりの狼藉は働きたくなかった。)厚顔と呆れられるかも知れないが、逃れる手筈は一応整っている……王に背き騎士の任を下りた俺が、この手を取ることを赦されるなら。(この行いが真に背任か、或いは意を得たと見做されるか。先述の通り未だ意を汲みかねているだけに、若輩の心だけでは図りきれぬ部分もあった。されど最早今、何より重視する点は玉座ではなく眼前に。朝露を湛えた早暁の眸は、付き人としての己に命じた――これからも騎士で在って、と。ナスタチウムが咲き乱れていたあの頃とは状況も心持ちも、互いに大きく変容していることは明らか。ゆえに何者でもない男は今、何者でもない“彼女”の意を知りたがった。)
(これまでならば何の違和もなかった仕草のひとつひとつが何処かくすぐったいもののように思えて、もうひとつ表情が柔らかく緩んだ。)姫と呼ばないで。(ふるりと黒髪を揺らしながら返した言葉はこの先の答えの一端ともなるだろうか。彼の言葉の中で気になることは他にもあったが、それが目下の問題であった。姫と呼ばれることに居心地の悪さを覚える。もうこの身は姫では在れない。愛しき手が黒髪に至ることさえ何の戸惑いも躊躇いもなく受け入れられるのだから。優しき御手の主が語る言葉に耳を傾ける表情は穏やかな旋律を聞いているかのように柔らかなもので、時折頷くように月輪の眼差しを受け止めながらゆっくりと瞬きを返した。)……共に聞かせて。人々が歌う声を、寄せて返す波の音を、小鳥が囀る森の潺を。(幾度の瞬きの後、祈りの詩の如く紡ぐのはあの秋薔薇の下で語られた言葉たち。それが何よりの答えとなることは他でない彼こそがわかることだろう。そうして冷たい床も厭わずにその場に膝をついた。傷のひとつも許して来なかった肌であったから、冷たさと同時に痛みも帯びたがそれさえもどこかこれまでの責務から逃れられたような心地がした。両の手を胸の前で重ね、そっと頭を垂れる姿は大地に祈る様か断罪を待つ様か。)――貴方の手でこのアルシノエの“半分”を終わらせて。 それから“私”を未だ見ぬ夜明けへ連れて行って、(願うのは此処で姫である己を終いにすること。そして、城壁の向こうの見知らぬ朝陽を浴びる世界へ何者でもない己として彼と共に行くこと。最早、騎士で在ってと命じた姫の“半分”は潰えようとしている。シャティヨンの家は大丈夫なのかとか、此の身は自分の身の回りの世話すら覚束無い何も出来ない者だとか、尋ねたいこと言いたいことは多くあったが、それらを並べたところで結果は変わらないだろう。そんなもので揺るぐ想いでないと信じていた。今はただ、目を伏せて未だ見ぬ美しき世界を思い描く。願うは今宵も美しき月。幾多の星の中でも一等に冴え冴えとした、それでいて柔らかな光を宿す星。その名は、)リューヌ。(娘の小さな世界に差し込んだ月光。)
はい。(御意、若しくは同意を示して頷きを一度。柔らかにほどけた花顔、温かな頷きの一つ一つに覚える感情の名など、本当は疾うに知っていた。見つめるさなかにふと零れた淡い一息には、おかしみと愛しさを溶かし込んで。)よく憶えているものだ、……お互い様といえばそうだが。(繊細な身が石の床へ座り込むのを、お身体に障ると止めるような野暮は働くまい。細めた月輪と似通う風情で慈しむ手は、ぬばたまの黒から滑らかな頬へ。裁きを待つ罪人にしてはあまりにも清い、崇高なる祈りめく様に水を差すようで、仄かに見せた月の猶予いは一瞬。小さな顔をそうと上向かせては、空いた方の掌を星が煌めく御前に伸べた。主から騎士への信頼ではなく、一人の男に生を委ねるべく重ねられる繊手を待って。)必ずや。歩み来たこれまでも、俺に委ねてくれた今の選択も、未だ見えぬ明日も……あなたの全てを、どうかこの手に。共に夜明けを迎えよう、(明けぬ夜はない――古来より使い古されてきた言い回しには、使い古されるだけの理由がある。時を経ようと決して揺るがぬ真実がある。現に今、千の闇夜は終わろうとしていた。守り抜くと誓った我が君。何者でもない唯一のひと。麗しの花に関する名もまた、己の声に委ねられていたことを四方や忘れよう筈もない。決別と新たな一歩のために、無邪気な約束を今ぞ叶えよう。)エオス。(月と対をなすようで隣り合い、時に淡く重なり合いもする刻の女神。本名の片方を排した、されど確かに彼女を象る一部。真新しい名を一から紡ぎ直すことも、手放させるものの大きさを思えばきっと出来た。されど今後を共にと希えばこそ、彼女を形作った全てを否定せずに見つめたかった。円環に溶け込む形でなくとも命が確かに芽吹き、有り触れた愛とは異なれど親睦を育みもしたであろうこれまでを。近しい場所で咲く花を愛で、城壁の外へ憧憬を寄せ続けた眸の輝きを。垂れ込める雲の中で人知れず落ちた雫も、最早頬を濡らすことさえしなくなった優しき受容さえも。不要なものと忘れ捨て去るのではなく、胸に綴じた上で終止符を打ちたい。そんな一種の我が侭とも呼べよう覚悟の呼称は、果たして優しき音として響くかどうか。たとえお気に召さず叱られたとしても、正直な反応を見られたのであればそれはそれで幸い。面には一片の憂慮もなく、鷹揚に構えきっていた。)
(ひとつひとつを胸の最奥の宝石箱にしまって、花びらを数える夜に幾度取り出しただろうか。なにひとつとして取り零したくはない大切な結晶たち。いつか月を失った日々にそれを眺めては時を過ごすのだとばかり思っていた。宝石箱を抱いて深く暗い淵に眠るのだと思っていた。けれどそれらは過去のこと、もう此処に半分の姫などいない。いるのは――。頬への訪いに最初に揺れたのは睫毛の先。目醒めを知ったように上向く顔と同調して瞼が持ち上げられた。新たに生まれて初めて見る今宵の月はやはりうつくしい。)貴方が”私”を教えてくれた。(此の身が誰であるのか。鼓膜を震わせ、胸の深くにぱたりと落ちる光の一粒の音。これまでも幾度名乗り幾度聞いてきたというのに、新たな生命を吹き込まれた記号はまるで違う輝きでたったの一粒から光が広がる。触れられぬのに温かささえ覚えるほど。それは全てを大地に還すでなく、忘れ得ぬとこれまでの千夜の最後の一夜を新しき朝陽に繋ぐ音であった。)……ふふっ。ちゃんと忘れないでいてくれたのね。(朝露を湛えた暁の眸で見上げては唇が微かに笑う吐息を零す。今にも胸の光が溢れてしまって涙落としてしまいそうだ。そして想いを重ねられたという事実に仄かに浮かぶはじらいを誤魔化すように、不安にも思ってすらいなかった悪戯を持ち出した。名前のことも、この存在のことも、忘れないでいてくれた。楽しげに揺らした吐息、そして共に踊るように衣擦れの内に溢れる涼やかな音に気付くと片方の手をそっと外套の内側へ戻した。)……私はもうアルシノエじゃないから此処でさよならね。(未だもうひとつの手は愛しき温もりに寄せたまま、空いた手がそっと傍の床に置いたのは魔法陣の描かれた紙片と、その上にあのちいさな指輪。父にはきっとこれで全てが伝わるだろう。さよならであることも、もう双ツ子の妹が何処にもいないことも、全てが。この身が持つのは夢の珠ひとつだけで十分。他はもう何も要らなかった。)ね、まずは何を見せてくれるの。
俺が見つける前から、あなたは確かに存在していた。知らしめられたのなら光栄の至り。(今宵の星は曇りを払った分殊更にうつくしく、されど過日に見つめてきた眸の空模様とて全てが尊きものだった。今にも零れそうな暁の雨滴を誘っているのは、他ならぬ己の存在である。その事実に業よりも誉れをより深く実感して、罪深き男は不届きさを自覚するまま月輪を細めた。)他の何を忘却に帰したとしても、エオスの言葉だけは憶えている……そう在りたいと願っている。いつも。(家路との決別に要らぬ口は差し挟まず、短くも清らかな別れの言葉を黙して聞く。瞬きのさなかに、思い描く。常に彼女を案じていた侍女を、愛故に幾つの葛藤を飼い慣らしていたか知れぬ王を。ひととせに満たずとも確かに主として仕えた、彼女の片割れであるアルシノエその人を。元騎士にその資格があるのか存ぜぬまま、逃れる身で都合が良いとは存ずるまま、大凡ひとりで占められた胸の端にてそっと物思った。彼女が睦んだ人々の明日も、各々の形で幸いを描いていれば良いと。)何なりとも。エオスの眸が輝く場所、その歌心が求める彩りの先に。差し当たっては、……ああ。(伸べた侭の掌に華奢な指先が着地したなら、その手を握り返して共に立ち上がる。労るばかりの丁重さよりやや強く、愛馬の手綱よりは優しく引いて。さも今思い付いたかのように重量のない一声を零しては、唇に緩やかな弧を描いた。)出逢いの日、あなたに捧げた魔法の続きでもご覧に入れようか。(同時に空いた手の指を高く掲げ、軽く鳴らした。瞬間。互いの佇む足元を起点として、俄につむじ風が巻き起こる。煌々たる光が辺りを包む。月星の輝きを一所に集めたかの如く、視界の全てを真白に染める程。繋がる手の感覚だけが確かなまま。そうして風も光も止んだ頃、二人の姿は塔の内から跡形もなく失せていよう。冷えた石の床にはただ別離の証左である紙片に、ヘリオトロープの環が王の記憶と寸分違わぬ形で転がるばかり――想い出のよすがを残して、番ったばかりの鳥は飛び去った。眩き光明の間に目を開けていたにせよ閉じていたにせよ、曙の双眸へ次に映り込むものは雪華舞う夜色。儚き脚が立つ大地は、灯りも疎らになった城下の街並みを臨める丘の上。寒気は衣の熱魔法により和らげられ、草木を揺らす風の音は佳き耳を掠めるだろう。それは獣も花も眠る時分、深閑たる静穏に満たされた国領の外れであった。)
(言葉を失って、じっと見上げるのは数秒。それから「そうね」と小さく返して満足げに唇に緩やかな曲線を描かせた。指輪とさよならをした指の先でそうと目尻に溜まりかけた露を拭う。)ずっと私は世界の何処にもいないのだと自分では思っていたのだけれど、そうではなかったのね。 ……でも、まだ少し慣れないわ。貴方が私を呼んでくれるのがとっても不思議で、それから何だかくすぐったいの。(いないと思う心がある時点でそこには存在していたのだろう。此の身は一般的に見れば確かに窮屈ではあったのだろうが、その籠の中でも確かに大切にされ愛されていたという自覚はあった。不意に生まれる仄かな寂しさは当然のことで入って来た扉へと一度視線が向いた。扉の向こうでは表向きはいつもと変わらぬ静謐な夜が続いてるだろう。確かに在る眠れぬ人々の想いを夜の帷で隠して。)私の眸が輝くのは私自身ではわからないわ。貴方だけがわかるのよ。(戯れの言葉を連ねながら引かれるままに立ち上がる。少し長く体勢を低くしていたものだから少々ぎこちない動きにはなったが、それよりもその手に込められた力と温もりに浮かべる表情が明るいものとなった。見上げる眸は言った傍から期待に瞬くがそれも束の間。)リューヌ、(恐れることはないが驚きが身を襲う。思わずその名を呼んで、歩みを一歩ばかり寄せた。自然と柔い力で重ねていた手に力が宿り、縋るように指の先を握る形になる。まずは風が、次いで光が、訪れた。冷たい壁に囲まれていた暗い空間に、風が起こり、光が生まれる。自分自身が目を開けているのか閉じているもかもわからぬ時を超えれば、初めに気付いたのは風の音。知らぬうちに閉じていた瞼を持ち上げると光を浴びた目は一瞬何の判別も出来ずに幾度か瞬いた。頬にむつの花が宿り、その度に溶けて風に攫われる。言葉が戻るには少し時間を要しただろう。漸く光の覆いから逃れた曙の眼差しがあちらへこちらへと彷徨って、月輪を見上げる。)リューヌ。灯が星のようだわ。街がおもちゃのようだわ。 もう鈴蘭は咲いているの? 身体は疲れてはいない?(驚きと新たな世界に煌めく眸はなんでも報告したがって、なんでも聞きたがった。煌めく眸に映した世界を報告する。そして風が髪を梳くのもそのままに黒髪を踊らせながらあの日の続きに夢を見て、大きな魔法ではなかったのか、負担はなかったのか、これが先の言った手筈で在るのかと聞きたがる。)――……すこし、怖いわ。(それからその後に白い息に隠れるようなか細さでぽつと呟きを連ねたのは、広い世界と出会い生まれた心細さ故に。星の下で一人湖に向かった時の心によく似ていた。それでもあの時とは異なるのは宿した涼やかな音と、結んだ手の存在。もっと此方を向いてくれと、もっと存在を感じさせてくれと強請るように指を小さな力で引いた。)
エオスの居場所を用意するまでに、世界の方が少々手間取っていただけだろう。何処にもないのなら俺が生きる場所、帰る家になれたらと……そう思い立つ者が他に現れなかったのは、……(これも幸いと言うべきか、言わざるべきか。浮かぶ事柄を音に変容させれば稚き独占欲のようにも思え、皆までは紡がず胸底に沈めることとした。光の中で呼び声にゆっくりと返す頷きは、心配は要らないと言葉に代えて告げるようでもあったか。知らぬ間に雪雲が流れてきていた模様で、尖塔への道中に降っていた星はなりを潜めている。されど夜明けの眸が宿す恒星はひときわ眩く、時として言葉より雄弁にその素直な心を語った。無垢な少女めいて弾む声音、瞬きの度に鮮明さを増して光る星。飾らぬ言葉選びは純真そのもので、眩げな眼差しと共に一息が淡く落ちた。)ああ。こうして一望すれば小さな灯りが、一日ごとに星の命を燃やし生きているのだろう。鈴蘭が咲くまでにはあと一つか二つ、季節を経る必要があるが……道中か到着地か、他の場所でも出会う機会はある。(互いが生まれた街の春祭りに、何の気兼ねも無く参じられる未来は流石に得難い。それでも生き続けた路の先に見える希望を、ささやかなれど示すことは難しくなかった。)大丈夫、それほど大きな魔法を使った訳ではない。負担が掛からない距離までしか来ていない、というべきか。この先は自力で……否、家と相棒の力を借りて行こうかと。(旅路をゆく体力まで削いでしまっては元も子もないと、魔力に頼るのは此処までである旨を示して。指を引く淡い力に応えるよう、もう姫ではない人の双眸を見返す。どうしたのかと問うまでもなく心掛かりは知らしめられたから、安堵を誘うよう表情を和らげた。)未知の前で、足が竦むのは当たり前のこと。けれど忘れないでいてほしい、あなたは……エオスは独りではない。不安も恐怖も、感じればその都度教えてくれたら良い。消し去れずとも、共に持つ位ならば出来るから。(そのまま手を取り直して両のかいなを己が首へと誘い、掬うように抱き上げることは叶おうか。外套越しの背と膝裏を両の手で支えながら、草の地面を歩むハーネスブーツの足取りは危なげなく。まるで羽を抱くような軽さとは裏腹、この手が負う責任は重く大きい。命を護るのみならず、今後の生を預かるということ。確かな誇りを胸に置きながら向かう先は高く伸びた白樺、その根元。彼女にも見覚えがあるであろう白毛の愛馬が、主の到着を利口に待っていた。)
(終いまで耳にすることは叶わなかった言葉達。小さくなった家々を視界の端に収め、その先は何だったのだろうと思うよりもふつりと疑問が浮かんだ。確かにこの身は居場所を得たようであるが、そも居場所があった人はどうであるのか。手離させてしまった自覚がある。浮かぶ疑問をそのまま紡ぐのは最早言葉を我慢せぬ証のようでもあった。)では、リューヌの生きる場所は? 帰る家は? 私はなることが出来る?(温かな家の灯は遠く空の星は近い。優しい人であるから否定などされるわけがないのは解っている。にも関わらず尋ねずにはいられなかった。)季節……、春が来るのね。リューヌが私を見つけてくれた春が来るのね。(冬の軍勢が空を覆う日はまだ先で、春の精が花開かせる季節はそのまた先。遠い季節の美しき庭を思い描いては表情を緩める。懐かしさだけでなく確かに先の希望がある。庭でしか見られなかった花々を今度は道中に、到着地に、様々な場所で見ることが出来るのだから。)それならいいのだけど……。 リューヌ、ありがとう。もう私、独りでは――(負担が掛かるような魔法でないと知ってそっと息を吐き出す。次いで柔らかな表情を見上げた先に見つけて、睫毛をはらりとひとつ揺らした後に、唇を開くも描いた言葉は初めしか音にならなかった。かいなが導かれる先に不思議を覚え、それを理解するよりも先に足が地を離れたものだから思わず音にならぬ跳ねた声が漏れる。首に回した腕の片方がずれて胸元の布地を掴む。視線がうろうろと彷徨い、その後で自らが摘んだ布地を上へと辿って、もうひとつ跳ねた声が漏れる。)――ね、リューヌ。リューヌが近くにいるわ。(冷静になれば背にも膝裏にも大きな手が確かに在って、熱魔法のそれでなくその場所が熱くなる気がして見上げた顔がそっぽを向く。その視線の先に白毛の馬の姿を見つけた。それをきっかけに鮮やかに蘇る秋の日の眩しき陽光、そして出立前の一幕。表情が一度失せる。)……共にお城の外に出た日があったでしょう? あの日ね、御父様は「騎士に命を預けられそうか」と私に言ったの。旅のことを言っているのだと思っていたのだけれど……、こんな日を考えていたのかしら。(失せた表情は柔らかな縁取りを伴って再び月のかんばせを見上げる。今までよりもずっと近くにあるから眩そうに目を細めた。そうだったらいいという夢のような空想かも知れない。唇からふふと吐息が漏れた。もしそうなら父も姉も胸を痛めないでいてくれて、彼の家が罰せられることもなかろう。真実を確かめる術は無いが、娘は父の愛を信じていた。)
帰りたいと願う場所……という意味なら、エオスの存在は既に我が家だ。(言わんとする所の最奥は淡く察すれど、詳らかな所については後程説明するとして。今は廻る四季に思いを馳せ、伸びゆく影が一つきりでないことを知らしめる。彼女は知るまい。掴まれたサーコートの下、厚手の布地越しに刻む鼓動が幾らか速まったことを。尤もそれも初心に弾む鈴の声を聞き、あどけなく目線を散らす暁光を映していれば、微笑ましい心地と差し引きされて早々に凪ぐけれど。)ああ。一等近くに居る……離れはしない。もし今後生きる中で、共に在らぬ瞬間が訪れたとしても。恐らくそれは別離ではなく、あなたの元へ帰ろうとしている中途なんだ。(至近距離から落とす声音もまた、囁きの音量で穏やかに凪いでいた。背けられた花顔に緩く小首を傾ぐ辺りは、矢張り善処が必要な鈍さの一片であろうか。彼女の面もまた心静かな凪へと移ったなら、忘れもせぬ秋つ方を振り返る。その間月輪は路の先を見据えていたが、柔らかな眼差しが再び此方を向けば己も視線を送り返し。)安全とは言い難い道中を気に掛けられたのかも知れない、いつか訪れる日まで馳せられた思い故かも解らないが。いずれにしても娘を思っての問いと思われる、……それで。あなたは王に……父君に何と答えたのかな。(自惚れでなければ騎士として仕え始めた当初から、姫としても信を寄せられているとは感じていた。ゆえに疑問より確認の意として投げ掛けつつ。白樺の下へ辿り着けば、抱く手に力を込めて持ち上げる。大人しく留まっていた馬の背へ、双方を気遣いながら慎重に乗せた。自らもその後ろに跨り、彼女の背中から腕を回して手綱を掴む。常歩の合図を送れば、主の手に慣れきった相棒は緩やかに蹄の音を鳴らし始め。)実家には先日、一度だけ便りを出していた。家名を継げない旨の詫びと……ネージュをこの場所に連れ出しておいてほしい、という頼みを。(訓練にも出立にも同行してきた愛馬、ネージュ――Neige、雪の白。由来など一目瞭然の名付けについては確か、雑話の中で彼女にも教えたことがあった。先程口にした手筈の内容を簡単に説けば、遠廻りではあれど親不孝を寛恕されたことも伝わろうか。)一方的な決別を言い渡して、半ば強引に赦しを頂いて。それを見逃して頂ける程には……親の愛に恵まれたのだろう。俺も、エオスも。(注がれる親愛の形は大きく違えど、確かにそこに在ったのだと。最早自分達の心でしか完結し得ないそれを、勝手ながらも信じればこそ。発つ足取りに、幾らの迷いも生まれはしなかった。)
(星のように夜に灯を点す家々、その家のひとつとなれたのだろうか。星となれたのだろうか。これから先にその実感が生まれるのかもしれない。今は未だ名付けられて間も無い、世界に生まれたばかりの星である。)私が我が家だから帰ってくるのね。……リューヌ、私を選んでくれてありがとう。(抱き上げられた驚きから落ち着けば、サーコートを掴んでいた指先から少しだけ力を抜いた。その場所へ加えてしまった力を隠すようにそっと撫ぜる。秋の日には触れることすらまだ躊躇っていたのに気付けば一等近くに在る。それはとてもとても嬉しいことで密やかに、否、隠し切れない白い息が溢れていたかもしれないが一人俯いて笑みを咲かせた。そうもしてる内に馬上に押し上げられてしまう。勿論、乗馬の類などしたことがないから目を丸くさせながら緊張に身を強ばらせた。指先が馬に触れるとその波打つ生命の鼓動と温もりに気付き、そして白樺の枝が風に揺れる音に空を見上げた。枝は勿論、空も近い。馬の呼吸が水の中のように緩やかに身を揺らしていた。)……知らないことばかり。これが貴方の見ている景色なのね。(初めての世界に触れている間に後ろに跨った彼へ声を掛けるべく肩越しに振り返る。蹄の音と同調する揺れを想像して構えれど流石に対応は出来ずに慣れるまでには暫し時間がかかるだろうか。それもまた知らないことで心が踊った。)ふふっ。気になる? ……「勿論よ」と答えたの。 貴方は……、本当に美しくて眩くて清らかな騎士であったもの。私達の誇りよ。(父にとっても姉にとっても、そして末の姫であった己にとっても、申し分のない騎士だった。それは恐らく騎士団にとっても国にとっても同じく。だからこそ手を伸ばすことに躊躇いもした。清廉なる月に触れてはならないと思いもした。されどそれも今はあの尖塔に置いて来てしまった過去のこと。)きっとね……、貴方の御両親も同じ気持ちであったと思うの。だから私は貴方の御両親、それから私の家族や国の民のことを忘れてはいけないのよ。(それぞれを育んで来た家族を、抱いていた国を思い、もう一度大地に寄り添う星々へと眼差しを向けた。明くる朝、世界はきっと変わっているのだろう。揺れる馬上であったから片方の手だけをそっと胸に寄せて目を伏せた。勤めのひとつとしてこれまで何度も何度も唱えて来た王室に伝わる大地への祈りと祝福の言葉を手のひらの下、胸の内に浮かべた。父と姉とそれから皆が幸せで在るように。)……ネージュを連れて来てくださったことが答えなのでしょうね。 まさかこうして乗せてもらえるなんて思わなかったわ。(離れる故郷への想いを一度終いにして、馬の背に指先を滑らせた。彼が与えてくれたたくさんの未知の中のひとつに確かにこの雪の白の名も在った。その時は物語のように聞いていたものだ。)
(目許と頬を弛めての頷きは“どういたしまして”とも“此方こそ”とも取れよう。撫ぜる手の優しさも、惑う姿も、全ての視認は叶わずとも直に感じ取れる近さ。共に在りたいと願う心身には実に有難かった。)強く掴まる必要はない、真っ直ぐ背筋を伸ばして。進む先の景色か、空を見ているといい――…そう、そんな風に。(城壁の内、複数の意図で傷が付かぬよう大切に育てられた姫。乗馬の経験が皆無とは仕えた日々からも今の様子からも知れたことで、手綱を握る男は見守る眼差しを長閑に寄せた。一応ささやかな指南めく声を送りはすれど、旅路の感覚に慣れれば充分といった様相でごく穏やかに。自らもまた彼女に倣い、無窮の夜空を見上げもしながら。)馬の背は、思いの外高いものだろう。俺も幼少の頃、初めて乗った時は身震いした記憶がある。知らぬ景色に高揚もした。(深窓の姫君であった人が覚える緊張と、ポニーを走らせた少年のそれとでは無論全てが重なる訳ではない。ただ未知の前では心が竦む、されど決して独りではない。その一つを例示する物言いは、きわめて温良に夜気へ溶けた。常歩の振動に合わせて鳴る、澄んだ珠の音と同調するが如き声で。)ああ、予想が自惚れでないことを確かめたかった。そう在るべく努めてきたから、……光栄に思う。それぞれに彩は違えど懸命に、任を全うしてきた麗しの姫。あなた方の騎士として仕える日々は、俺の誇りだった。(騎士として、彼女の花唇から高評以外を賜る機会は無きに等しかった。そこに暦を足すことは二度となくとも、新たに掲げ直した今は未練の欠片もなく懐かしむのみ。懸想に疎い男への叱りさえも優しく可愛らしい、唯一の人。過去を抱きしめ現今を生きて、明日を見据える気高くうつくしい人。長い睫の下で廻る思惟は皆まで知れずとも、清けく澄むものに相違ない。淡く察すればこそ、水を差さぬよう黙して寄り添った。)もうじき国領の外に出る。(城下町が遠景と化し始める頃、静かに落とす一言は端的な示唆。引き返せない場所まで赴くこと、生まれ育った地に永き別れを告げる事実への。最早確認の必要などなく、互いの心も覚悟も決まり切っているとは承知済みだが。夜半とはいえ国境を正面から突っ切るリスクは冒すことなく、変わらず緩やかな歩調の愛馬を進ませる先は謂わば抜け道。その在処を指し示すが如く、森の入り口から存在を主張する白――細い路の両側から広げた枝が、雪に飾られ撓垂れてアーチを象っていた。天蓋となった玉の塵が、鈴生りの花々にも似て月星の双眸に映り込む。逃亡者への餞としては余りに柔らかく、夜にも溶けぬ白は宛ら門出を寿ぐような清廉さで。)……見事だな。(感慨や感嘆を表す唱歌、あるいは詩。いずれの心得もない唇はただひとひら、率直な所感を愛しき君と共有するに留まった。)
(指南の声に素直に従って言われるままに倣うが、幾らか進む内に初めの緊張感もゆっくりと薄れていった。それでも街道のような整えられた平坦な道を歩むわけではないから時折驚きをそのままに呼吸を弾ませることもあるだろう。とはいえ眼差しは物珍しげにあちらへとこちらへと舞い踊った。)ちいさなリューヌのお話ね。貴方にも初めての時があったのならば、私もいつか一人で馬に乗れるようになるかしら。(幼少期のお話に喜びがそのまま語尾に乗る。今まで知らなかった彼のことを知る度に娘はいつもこうして喜んだ。そして今も変わらずに心の宝石箱に仕舞い込むのだ。ただ以前と異なるのはそれが未来に向けた言葉へと結ばれていくこと。此方は幼少期から身体を激しく動かすこともない身であったから恐らくはなかなか険しい道になるだろうがその自覚は未だない。それもまた壁の外の世界を知ることで徐々に理解していくのだろう。されど今は夢を広く広く未来へ羽ばたかせていた。)……いつかお手紙ぐらい出せたらいいのだけれど、難しいでしょうね。 これからは私一人だから貴方のことをもっときちんと……、そうではないわね、貴方はもう仕えるのではないから……、何かしら。(姉は父以上に心配していることだろう。聡い人であったからある程度の予想も納得もするだろうが、片割れを失うのはまたそれとは別の話。とはいえ王宮の中へと、更には輿入れしてしまえばいよいよ此方から連絡を取ることは難しくなるだろう。見上げた空は同じく姉の上にも広がっているというのにどんどん遠くなっていく。ふつふつと首を擡げる寂しさ、それを疑問が覆った。前を向くように言われたものの振り返ってその顔を見上げる。共に歩んで行くのだとその手を取ったものの、名前を与えようとするとどうにも難しく、はらはらと瞬き数度の間を見つめた後で誤魔化すように笑みを作って再び前を向いた。心の内でのこの身に流れる血の勤めとしての別れと祈りとを済ませれば、どこかぽかりと胸には空洞が出来たようだ。これまでに心身共に大きく占めていたものたちを一気に置いて来たのだから当然なのだろう。いつか忘れてしまう祈りの言葉たちに目を伏せた。次にまつ毛を持ち上げたのは短い言葉を聞いてから。)……綺麗ね。鈴蘭に光が燈っているよう。 ――平気よ。リューヌがいるもの。(時折銀糸のように枝から滑る雪が天と地とを繋ぐ。雨音よりも柔らかい音は雪を踏む音も三つの呼吸音も包んで隠した。さよならは疾うに済ませた。故郷を思う心は存在すれどそれは足を止める理由にはならない。振り返れど歩んで来た道を目に映すことはなく、愛しき顔を見上げてにっこりと唇に弧を描いてみせる。片方の指先をそっと先に触れた胸元に寄せて、何も心配は要らないのだと。「ネージュも」と付け足す唇は一層に笑みを濃くした。)
エオスはどういう訳か、俺の昔話も好むようだから。(彼女の面輪に喜びの花が咲くならと、初めて問われた時から折に触れて話すようになっていた。それが騎士としての義務感ゆえに非ずとは、勲章を手放した今だからこそ誰より自覚する所で。淡い寂寞を感じ取れば、見上げ来る眼差しに柔く応えるは当然のこと。)真白な未来について、何も確約は出来ないが……出来ないからこそ、思わぬ所で重なり合うこともある。進むべき道を、一つに定める必要はない。(人目はおろか鳥も蝶も眠る時分、見張る者は何一つない森の中。六つの花が咲く一枝に馬を寄せ、ひとときばかり脚を止めさせた。何事かを説く前に「エオス、」静かに落とす呼び掛けは、暫し話を聞いてほしいとの合図。場を整えるかのように風は止み、柔い静寂が辺りを包んでいた。)人が溢れる環の中で、ただ一人の眸にだけ星影が見える。ジャカランダも鈴蘭もナスタチウムも、その星が煌めくならば季に関係なく咲けば良い。星も雪も、共に眺めれば殊更に美しい。(それは邂逅を果たした瞬間から、確かに動き始めていた想いの内実。付き人として侍る前から耳に届いていた毀誉褒貶など、第一印象の足掛かりにもならなかった話。)そういった想いを恋と呼ぶならば俺は、出会った時からずっとあなたに恋をしていた。(人心とは往々にして形容しがたいものでありながら、名を付けて音にするのが望ましい場合も在る。とは、過日から男なりに善処を試みて考えた結果だった。弥以て伝えるならば、正面から見据えて告げたかった言葉。言い切る声は清々しく、同時に自覚も色濃きものとなって。)その人の笑顔のため手を、力を尽くしたい。幸いが訪れる場所へと連れ出すならば、他の誰彼ではなくこの手でと。そんな切願を愛と呼ぶなら、此方はいつからか知れないが……俺は、あなたを愛している。心から。(形の良い額に、愛おしみ触れるだけの口付けを落とす。ひとたび重なり合った眼差しに源を発する想いが、ここまで途絶えることなく心身を満たし続けた証として。)何でも構わない。旅の先で家を構えるのでも、方々を渡りながら恋人として在り続けるのでも……いずれ新たな命を迎えるも、二人きりで歩むのも。時には心の宝石箱を開けて、過去を振り返り懐かしむのも良い。共に考えて定めてゆけたら、それが幸いだと思うから。(再び手綱を取り、ゆっくりと蹄の音を刻ませた。ギャロップには程遠い緩やかな歩調。共に進み始めたばかりの二人には、恐らくこの位が丁度良いとばかりに。)夜明けには、初めの目的地へ着くだろう――…疲れたらこのまま、俺に凭れて眠ってしまって構わない。(月星の心を知ってか知らずか、愛馬の作り出す振動は高揚より安寧を運ぶものへと移り変わる。夜を徹しての護衛にも慣れきった元騎士は、未だ消耗の一片も見せずに行く先を見据えていた。)
(戻る言葉へ不思議そうに少しばかり首を傾ける。しかし眼差しは疑問や不思議をそのまの形で浮かべるわけではなく、言葉遊びの延長線の上にいる愉しげな装いを纏ったものだ。)リューヌはちいさな私の話を聞きたくはない?(時折見せる戯れの言葉は踊るように揺れる。昔話を好む理由がこれで伝わるかどうかは知れぬが。高い壁の中ではこの身の立つ場所故に幼い頃の話は避けがちだった。幼い時に何をしていたか、何を考えていたか、閉ざしていた過去への扉も今はその鍵が解かれているのだから、先にはきっと昔話をすることもあるのだろう。そして過去が現在と交錯するたびに浮かぶ寂しさはこの先もきっと潰えることはないが、それでもその寂しさに添う温もりが近くに在るのをもう知っている。浮かぶものは悲しみばかりでは無かった。)そうね。いつか……。(そんな日がもしも訪れたら同じ色の眸にまずは何を言おうか。何から詫びようか。眼裏に蘇る影絵は無数の想い出を描き出した。離れてしまえばどれもこれも鮮やかな想い出の顔しか覗かせない。連なる影絵は現在に近付くたびに色を増して、それから――)なあに。(うつくしい月へと繋がる。柔らかな月が降らす声に再び振り返った。国境を越えた後の話だろうか。ほんの少しだけ緊張を帯びたが、降る音は想像したものよりどれもこれも甘く優しい言葉であった。冴え冴えとした輪郭で降る月の清らな音が、このように柔らかく蕩かせる響きを持つことを他の誰が知ろうか。曙の眼差しはその言葉に触れて、滲むように眦を緩める。胸の最奥に収まりきらないのは受け取った言葉から生まれるたくさんの感情がすぐいっぱいにこの身を満たしてしまうからだ。)……すこしだけ抱いていて。その言葉を受け取るのが私だと教えて。(エオスはこの身に与えられた唯一の響き。彼を疑う気持ちは微塵も無い。それでももっと喜びを深く感じたいのだとねだる。馬上であるから多くは求めぬものの腕の一本に指を滑らせた。)私が触れたいのは貴方だけ。共に夢を見たいのも貴方だけ。名前を与えて欲しいのも呼んで欲しいのも貴方だけ。……私のこの気持ちも、恋と、愛と、名を付けて構わない?(尋ねるもののそこに疑問の音は無く、それは確認と戯れとの狭間。そして返答を待たず、ひとひら笑みを挟んで言葉を続けた。)――私、恋してみたいし、愛してみたいわ。……ずっとしてはいけないと、貴方に想いは寄せてはいけないと思っていたから。 だからこれからはたくさん貴方に恋して愛するのよ。(まだ疲れてもないものの、肩の力を抜いてそのままトンと後ろへと身を任せる。その場所で見上げる方がずっとずっと近い。空よりもずっと月が近い。月輪をじと見上げては唇は微笑みを増す。)私のうつくしい人。貴方のあたたかさが私に恋と愛を教えてくれるわ。(次に指先が向かったのは末の姫である内はけして触れてはならなかった美しい月へと。頬から顎へ、伸ばした指は月に届いただろうか。届かなくとも急く必要はもうこの世界に存在しない。)そうだわ。欲張りな私の我が侭のひとつを聞いてくれる? 私ね、貴方と夜明けを迎えてみたかったの。(初めて会った日、一日一日とその日の末の姫を優先するように伝えた言葉があったからこそ浮かぶ我が侭である。そっと小声で彼の胸元に忍ばせる秘密の我が侭。日々の移ろいを共に過ごす幸福をまだ知らない。夜の深い場所、朝の浅い場所、時の経過を埋めるように並べた花びらの数は想いの数。どれだけ数えても願いは叶わない。手は届かない。月はそれほどまでに遠かった。)リューヌ、(柔らかい月の真下で名を呼ぶ幸いの深さはどれほど言葉を尽くしたところで正しくは伝わらないだろう。されど涼やかな音を絶えず纏いながら一際咲く柔らかな笑みが今その身が幸福であることを容易く伝えてくれるはずだ。今宵、新たに世界に生まれた娘が初めに歌うのは月に向けた恋の歌。唇に乗り切らない想いは数えた花びらの分だけ。明日も明後日も月無き夜に並べた花びらの音を娘は歌うのだろう。何度だってそのうつくしき名を呼んで。)
〆 * 2022/12/1 (Thu) 21:31 * No.134
聞けるものなら。ああ……成る程、そういうことか。(自らに重ね合わせれば、学び途中の心も理屈でなく腑に落ちる。彼女を培った全てを見つめ尊びたいと希う心が、過去の姿にも興味を抱くのは日が東から昇るよう確かなこと。弁えるべき立場があった頃は進んで求めなかった事柄も、今後は本人の花唇から知る機会が得られるのであろう。より不確かな姉妹の再会の可能性、その折に交わされる遣り取りについては、心を寄せこそすれ深く思いを巡らせすぎぬよう慮って。己は今この瞬間、己一人へ手向けられる柔らかな音を。そこに籠もる至情か愛情をのみ、真を尽くして受け取り返そうとした。)お望みとあらば、幾らなりとも。(愛馬は自らの背で思う存分言と心を重ね合わせる恋人同士に、不服そうな様子一つ見せず辛抱強く待っている。そんな忠義深さに内心感謝しながら、乞われるままに恋しき人を片手で抱き寄せた。大切な相手に万一危うい思いをさせては元も子もないが故、利き手は変わらず手綱を放さずにいるけれど。色恋の類を知らぬまま生きてきた胸裡に、甘美な色をした音の欠片が降り積もる。芽吹いた想いの生長を促す慈雨、或いは心を染め上げる花弁雪に似て。澄んだ声が本心を語り聞かせてくれる合間、夢の珠がオブリガートの如く幸いを歌う音も届く。皆まで聞き終えてから、寄せられた身を当然の如く受け止めて眼差しに応えた。)あなたも承知の通り、俺は生憎そういった方面に明るくないが……“してはいけない”と抑制していた時点で、既に想いは溢れかけていた、と。恋も愛も、ただ名を授かる日を待つばかりだったと……そう解釈されるものではないか?(此方もまた腕の中のあたたかさに恋を、愛を教えられたからこそ浮かぶ答。それが正答か誤答かを判ぜられる程、理屈で容易く割り切れる類のものでないとも解っていた。)心の赴くままに。抱く想いに揃いの名が付くのなら、それは俺にも喜ばしい。(輪郭をなぞる細き指の感覚は、紛いなく初めての恋だと知らしめるような繊細さで。程なく耳を打つ願いもまた、我が侭の内にも数えられない控えめさだった。愛しい存在へ落とす眼差しと共に、諾と示す声音も和らいで。)ああ、勿論。刻が来たら教えるから、それまで楽にしていてくれ。(共に夜明けを。先に自身が表明したのは比喩に近しく、此度のそれは直接的な意味合いだろうと受け取って。いずれにしても造作なく叶えられることと、願いを叶えるのは己の役目だと、光が燈った雪花を見渡しながら森を抜ける。如何に心穏やかな道行きでも、夜を徹しての移動は当然に体力も気力も使うもの。馬の歩みも相俟って自然に睡気を誘ったなら、その眠りが深くなった頃を見計らって蹄の速度を速めさせる。起こさぬよう静けさを保ち、マントで庇うように確と抱いたまま。眠る様子が見られなければ若干案じる気配も漂わせようが、為すことは変わらない。護る手は騎士としてではなく、ひとりに惹かれたひとりの男として揺るぎなく。宵の中を駆けてどれ程経ったか、愛馬の足取りが襲歩から速歩へ、それから今一度常歩へと落ち着く頃。「エオス、」小さな耳へ、その存在へ授けた唯一の響きで呼び掛けよう。)直に夜が明ける。今なら共に暁日を見られるだろう。(初めの目的地と称した小さな港町の手前、潮風が渡る海沿いの路にて。目覚めの視界が捉えるは恐らく、一面に広がる夜色の海洋。月天に瞬き始めた明けの明星、それだけが灯りとしてぽつりと存在する宵の空間。やがて水平線から昇り来る朝陽が、うつくしい眸にも眩く優しく映れば良い――世の人は曙を蔑ろにし、日々訪れる明けの空に感謝を抱くこともない。それでも月は夜明けに寄り添い続ける。月の輪が見えぬ闇夜とて、厚い雲を隔てた先で暁の星を想い続ける。懸想と共に夢を持って。例えば富、例えば名誉。小さくともこの先に得るそれらを悪戯な運命が奪おうとしても、奪われるままに任せれば良い。尊き手で拾い集めた花弁の何をも、何人たりとも奪い去れはしない。別けても焼き付けた夜明けの光、唯一無二の想いを歌った至上の調べを。共に築いた月星のきざはしは間違いなく、永久に二人のものであるのだから。)
〆 * 2022/12/4 (Sun) 02:02 * No.142