(十三分後のカタストロフィ)
(表層だけを見た話として、騎士の日常は変わり映えしていなかった。主が結婚しようというのに変わらないのも難なのだろうが、他国へ嫁ぐという役割を得てようよう広くから分かりやすい気遣いだの敬意だのを差し向けられやすくなった曰くの姫と、その主の下で気儘に過ぎる駻馬のことである。型に嵌る気が無いのは今更のこと。仕える相手が国境の向こうに行ってしまうことにだって、同僚からは純然と労いと祝辞を頂いた。そういう姫で、そういう騎士だ。からりと笑って、男はゆるやかに冬の入りを過ごしている。まるで気構えの無さそうなまま“我が姫”の御身安全を第一に振る舞うのも、単身で城下町をぶらついた後日にささやかな土産を差し渡してみることも、これまで通り。彼女が他国へ嫁いでしまうまで、そんな日々が連なるものだろうと、瞬間瞬間に相対する“彼女”や周囲が思ってくれたら、それが今の本意だった。――裂けぬ心のはんぶんの。発火に至らない熱だけを蓄えるもうはんぶんから、思い付いたような言葉が紡がれるのは、彼女の婚約を知らされて半月ほどは経った頃合い。その日の予定を済ませて彼女を部屋に送る途中に、礼儀知らずの男が眼差しを向ける。)お姫さん、今夜月見しようぜ。――以前に陛下から聞いた場所、オレも入れてくれるって言っただろ? 先に行ってる。(共有した記憶を語る口振りに、当然覚えなど無いはずの彼女は疑問を呈すだろうか。了承以外が返るなら「お忘れで?」なんて軽やかに片眉を上げるところ。仔細の説明はしない。細かなことが噛み合わないのは“半分の姫”の平素だろうから、覚えがないならもう一人との話だと考えてくれればそれで良かった。もう一人のほうだって当たり前に知らない話だけど、国王陛下のご指定、待ち合わせはこれで充分のはず。きっとこちらが何を聞き及んだかも伝わる。そういう時期であるはずだった。だからその夜、男はかの尖塔に居た。纏うは日常をそのまま持ち込む騎士団制服、腰に佩いた一振りの剣も変わらない。最上階までの階段は細身の姫には少し負担があったろうか。思いはすれど迎えに下りもせず、天に開けた露台で一足先に寛いでいる。太い手摺りに腰掛けて、見仰ぐ先には薄曇りの隙間の丸い月。真円ではない。満月はもう少し先だったはずだ。月見には甚く中途半端な天体から、眼差しを塔の階段のほうに向けるまで、さてどの程度時間を要しただろう。)よう、我が姫。ご機嫌麗しゅう。(待ちぼうけでも一方に構いやしなかったから、男の笑みは軽いばかりだ。)
――……月見?(平素と何ら変わりなく、帰室した姉の上着を従者よろしく受け取ろうとしたところ。寒さで色を薄くした姉のくちびるがかたどった音を、緩慢に瞬いてはなぞるように繰り返した。姉の騎士からの贈り物で賑わう背後の窓を仰いでは、切り取られた向こうは日中より灰色の雲が連なっている。月の周期とて、満月にはもう少し日数を要すのではなかったか。自室に閉じこもるようになって以降、日々の代わり映えと云ったら空の模様で把握するしか術はなく。冷たい空気も専ら姉越しに触れるのみで、何処か違う世界のもののようにすら思われていた。)また騎士様のご冗談じゃない?おねえさまがお困りになるのを見て、愉しんでいらっしゃるだけよ。(『でも、』募る言葉が、重なった指先のやわらかさが、姉の不安を伝えて来る。普段はみずからよりもあたたかい指先が、妹と同じように冷たくなっていることに痛ましげな面持ちをしながら、姉が繋ぐ言葉を耳にする。『お父様から、お聞きになった場所、って、』何か、聴いている?――憶えはなかった。けれど心当たりなら、幾らでも。)さあ、……お父様に月見に誘われていたら、おねえさまを連れて行ったわ。お相手がお父様だったとしても、おねえさまが居なければ退屈だもの。明日、騎士様にもう一度お訊ねになってみて。満月までは、まだ日がある筈だから。(慈しむように指先を重ね合わせ、熱を移すように頬へと押し当てる。姉は妹よりも更に隠しごとは上手くない。晴れぬ表情を前にして伏した睫毛を持ち上げたなら、妹はやおら笑みを浮かべた。)あたたかい紅茶、飲むでしょう?それとも一緒に、湯浴みでもする?(――忌み子を産んだことで母は崩御し、幼かった双つ子を寝かしつけていたのは専ら乳母の働きだった。ふたつの体温であたたまった寝台の上、姉のこうべをゆったりと撫ぜながら子守唄を口遊んでいた妹は穏やかな寝息を確かめ、白くまろい額にそっとくちびるを寄せる。そうして妹はひとり闇の中に沈むよう、寝台を降りた。衣裳も足許までも覆う外套も黒一色に染め、父の便りを手に足音を潜めて自室を出づる。姉は知らない。妹のゆきさきを。妹は知らない。姉のひとみからこぼれたものを。白く吐息を染め上げながら、向かうはひそりと聳え立つ尖塔。ひとりとひとつの足音を響かせ、時間を掛けてきざはしをのぼりきった先。そこには歪んだ月を背負う、焔を宿した彼が居る。)………今宵は、月見にそぐわないのではないですか。(訊かずとも知れた。姉を介したのが何よりの証左だ。――彼は遂に識ったのだろう。双つ子をいだく、この国最大の秘めごとを。)
(座した個所に片脚を投げ出した男の姿勢は毎度の不行儀だった。不測に体幹を揺らがせるならば真っ逆さま、全身が地べたと親しくなる頃には鼓動ばかりが天に逸れることになるかも知れないけれど、そのような懸念を持っている様子は無い。見る側にも要らぬ予期は与えなさそうなほど堂々と、それでも焔髪を揺らして吹く風の冷たさが此処が高所であることを示していた。見えた姿に、男は大きく口角を上げた。)そうですねェ。何せ昼にいきなり思い付いたもんで酒もつまみも用意してねえし、ひとしきり挑戦した後に「天の具合が悪いんで満月に仕切り直ししましょう」っつったら、また改めて会ってくださるんでは――という、杜撰な下心だと思っていただければ。(ひらりと宙に上向けた両の手は、どちらも空っぽだ。今宵に宴会の真似事は出来そうにない。月のかたちも、他者の気配が一筋も無い静けさに響く常のような笑い調子も。この場は何もかもがいびつで調和に程遠い。自覚の上で、男は利き手を緩やかに彼女のほうへ伸べた。闇夜に蕩けるような黒一色を手招いて見せる。日中に見た相手と、同じ顔、同じ声。表情や声調など誰しも時と場合で異なるもので、目的も望みも倫理観だって状況に拠る。そういうものだと、思うことにしていた。男にはそれが誠意だったからだ。前提の崩れた今には節穴の笑い話だろうか。別に、男の唇に自嘲が載るような可愛げは無いのだけれど。)お姫さん。あんたはいつから自分の行く末を知っていた?(――穏やかに紡いだ問いは未だ核心を避けている。男の手の内を晒しきるより先に、今少し彼女のことを探りたがった。あたかも互い同じ“行く末”を描いているかの口振りに、実際はどうだかなど知りはしない。彼女の歩みがどうあれ、男はひとまず手摺りに身を落ち着けたまま、ただ静かに露台側へ脚を下ろして胴の正面が向き合うことにはしよう。距離が詰まる様子が無いのなら、手もまた程無く下げておくことにするが。唇が笑みを保ったまま、けれど細めた双眸は和らいだゆえではなく、どこか温度の低さを含んでもいよう。)オレは陛下から直々に密命を賜りましたが。……内容についてのご推察と、それに対するご感想があればお聞かせ願いたいもんですねェ。(言いたいことだけ連ねた結果が謎掛けめくのは戯れだ。それで彼女が困る様子など見られるなら勿論愉しむとも。気安く親しんだご冗談に全て包めてほしいなら、それも面白がる気はある。)
目で見るものよりもお腹に溜まるものの方がお好きと仰っていたのに。この数月で随分こころが豊かになったんですね。下心も何も、あなたはわたしに毎日会っていらっしゃるでしょうに。(不安定な姿勢も、高所故に吹き付ける風の烈しさも。まるで物ともしない変わらずの様相に、妹が放つ言葉も変わり映えのしないものとなる。いっそ清々しい程までの、白々しさで。それこそ日々言葉を交わしているかのような気安さは、彼と少なからず重ねた時間が生んだもの。空の手にほんの微かに細められたひとみは、彼の背後に仰ぐ月へと視線を移ろわせる。要領の良い彼のこと、その準備の手抜かりこそまことに月見をする心算がないことを明かしているようなものだった。)敢えてこの日を選んだのかと思いましたが、わたしの思い違いでしたか?……満月は、明るすぎますから。(夜を総べる満ち欠けを眺めていれば、まるで常のように差し出されるてのひらがある。そのゆびさきにつどう温もりをみずからは知っている。けれどぼやけていながらも月の光の差し込む彼のたもとと、闇が支配するきざはしの傍らに佇むみずからと。その境界線は明確で、近付くことも踏み入れることもどうしたって躊躇われるものだった。おのれの力で強く光を放つことの出来る彼や姉と、光源がなければ存在さえも危ぶまれるみずからとは全く異なるいきもので。だからこそ光に強く惹かれる自覚は、もう好い加減に受け入れ諦めなければならなかった。求むるこころを誤魔化すように、ゆびさきが外套の布を握り締める。)――………そうですね。物心つくくらいには。(思案に瞬きを落とし、ほのかに肩を竦めた。この国に生まれた者に、建国神話を知らぬ者はない。17年前、早々にいのちを摘まれることがなかったのは、我が身が王族の血を継いでいたからで、それ以上でも以下でもない。姉ひとりが生きてゆかれればそれで良く、幼少期を懐かしむような眼差しを経て、彼のひとみをしんとしずかに見つめ返した。)………さあ。成り損ないのわたしには、お父様のお考えになることなど何も。――……ただ、(黒衣裳に金糸が垂れる。傾いだこうべは今し方のぼり詰めた階段の影を見遣る。石段に一定の速度で打ち付けられる長い尾っぽ。此方を見上げる金色のひとみが、闇にぼんやり浮かび上がる。黒の体躯は闇に馴染み、まるで元よりこの場が棲み家であったよう。妹は細く息を吐き出し、白い靄を生み散らす。)自分の始末くらい、自分で付けられるのに。信用がないとは思ったでしょうか。過保護と称する方が穏やかならば、そう換えますけれど。(付き人なぞこの身に宛てがわなくとも。妹は何年も前から、いつか来たるこの日を知っていて。そしてきっと、待っていたのだと、そう思う。)
ッハハハ。夢で毎夜お会いしてます、くらいの物足りなさじゃねえか、それは。(姫と騎士との、日々の表層をなぞり続ける言葉繰りにはただ可笑しげに笑った。毎日が示すものを否定する口振りではないけれど、下心の求める先としては偶像でしかない。花弁に例えた可愛らしい主、日中に見たあの少女に向ける一種の忠義は現状に至って翻ったものではないが、眼前の存在とは明確に切り離された。悪びれも取り繕いも纏わず男は細く息を吐いて、日取りの意図には黙していよう。手のひらだけを差し向けた。焔の素養に親しんだ体熱は今時分の夜気を厭いもしない。自然に白む呼気のほうが場違いみたいに空へ流れて、思考は静かに数を数える。十七年。遡っても齢一つしか変わらぬ身は当然覚えているはずもない、当時の重たい十三分間。そう、と漏らした短い音吐が相槌の響きを持つ。)成り損ない、ねえ。……全ての他人が自分の二倍の能力を有する世界とはどのようなものだろうか、とは、あんたに会ってから考え込んではいましたけど。実態としては、あんたは半分にされていたほうなわけだ。……(静かに下げた手は、肘を脚に置いてゆるやかに拳で頬杖をつく。視界に彼女を留めたまま焦点が少しだけ、斜め下へ逸れて。声量は対話のそれを保ちながら声調は独り言に近くなった。曰くの拭えぬ“半分の姫”は、身体は事実として小柄だが機能は揃っている。記憶も思考能力も本来は一人分ずつ。半面ずつしか人前に出なかったのは彼女を取り巻く世界のほうの都合だ。――半分と称するのも此方側からの一方的なもので、比率は偏っていたように思う。瞬き一つぶんの間を置いて、男の眼差しは彼女へ戻る。果たして、己の感覚を素直に数えるなら自分が“彼女”と相見えるのは両手で足りる範囲だろうか。その現実と、暗がりに佇み続ける姿から彼女の想定する行く末を感ずるのは難しくない。脳裏に王の面持ちも淡く浮かぶ。)過保護かもな。(そうして男が浮かべたような苦笑は、王は見せなかった。彼女が直截に問うたら前者のまま肯きそうな印象を、過日の密談からは持っている。実際に彼女の前でどう振る舞うかは無論知れない。無意味なもしもへ思考を流していても、耳はひとつ気配を拾った。す、と眇めた瞳が彼女の視線を追い掛ける。月明りの届かぬ影の中、人間と異なる生き物のかたちを即時明瞭に捉えられはしないけれど、左手が腰の剣鍔に掛かったのは条件反射の域だ。彼女に近付く気配そのものは探る。敵愾心に転ずるかは、今宵の月より丸そうな金眼の移ろい次第となろうか。男の双眸は緩やかに彼女へ戻る。)別の話をする。――オレが攫ってもいいと思ったのはあんただ。もう一人のほうじゃない。それはご存じで?(静かな笑みのままで問う。断言に躊躇いは無かった。)
充分でしょう。私よりも、――………姉にお会いになった方が、余程心は安らぎますよ。(逡巡は吹き荒ぶ冷風に紛れ、くちびるがそこで初めて、片割れの存在を明かした。17年の間、国に秘された最大の禁忌ごと。思えばみずから他者に伝える機会などなく、強ばる身体は寒気の所為にして顔を顰めた。硬い布地を握り込めば、指先が凍えて拙劣にしか動かないことに遅れて気付く。つめたい手にいつも触れてくれたあのやわらかいぬくもりとは永遠に、さよならだ。妹はまたひとつ、白い吐息を舞い上がらせる。それにしても、半分にされていた方、とは。彼の口吻には不思議そうに瞬きながら、逸れた視線の先を見遣る。彼が殊勝な考えをしていたとは露知らず、けれど専ら妹だけが制限を強いられていた訳でもない。緩く傾くこうべは、その不均衡さでも示すかのようだった。)私がひとりぶんを担ったところで、周囲は迷惑したでしょう。ロクサーヌは飽く迄も姉のことで、私は気紛れに姉の代わりをつとめただけ。そもそも姉は、はんぶんにだってなる必要はなかった。私が、我儘を云っていただけです。(ふたりでひとつにならなければ。元よりひとりでひとつの儘であったなら、例え忌み子としても記憶の齟齬も情緒の違和も他者に咎められることはなかったろう。頻度が少ないからこそ、そのちいさな棘がひとのこころをいたずらに刺激する。それでも姉を護って生きた17年を憂いる訳でもないけれど、恐らく言葉を返すみずからの音吐も独白の調べに似ていただろう。再びと絡む視線は、両の指が余る程度の関わりであるから、余計な緊張を生むのだと思った。――過保護。王には似合わぬ台詞を思考で転がしていた故に、彼の惑いのない動きには思わず淡く口端が緩んだ。呼び掛けた名も、転じた話題の先へ音なく消える。)――………、……仰っている意味が、私には良く、(焦点がぼやけ、彼の輪郭を上手く捉えられなくなる。彼の背後の歪な月だけがやけに恐ろしく見えた。困惑に顰むる相貌も、得体の知れぬものに相対したように震えたくちびるも、頼りない月あかりのもとでは彼に認められたかも、判らない。)………あなたが普段傍に仕えていたのは私ではない。私は今頃、土の中で眠っている筈だった。あなたはただ、姉が持たざる苛烈さに惑わされているだけですよ。(喘ぐように息をすれば、身体の芯が冷やされるように感じる。だのにあたまの芯だけは熱に浮かされたように霞むのは、怒りとも似て非なる知らぬ感情によるものか。)この国に望まれる末姫は、あなたが可愛いと称した本来のロクサーヌひとりだけ。才ある針子を伴って他国に嫁ぎ、祝福の花嫁となる。あなたは立身出世し、キュクロスになくてはならぬ存在となるでしょう。……ただ、それでも。はんぶんの汚名を濯げず、姉に万が一にもさいわいが訪れなかったその時は、――……騎士のあなたが攫って下さる。(流石に後者は省けど、父に便りで希ったすべて。それが妹の描いた最良の未来図であり、何が欠けても何が足されても意味がない。気付かぬ内にこうべは垂れて、露台に伸びる陰を見つめる。垂れる髪は頼りなさげな面持ちを隠せていたろうか。闇より感じる気配だけが、妹を支えるたったひとつの希望のひかり。こぼしたしずかな声音はまるで萎れた花のような、そんな生気の乏しさだった。)――………ねえ、バートラム。魔物は、ひとの骨まで喰らいますか?
(安穏と高揚は別の感覚ゆえ否は唱えまい。それよりも意識が傾いたのは片割れが彼女の唇に“姉”と称されたことで、二人の姫の有り様が胸裏に実像を得た気がした。姉妹。母親の胎の中で二つに別たれ、順繰りに世に出でて、そしてそれが後だったほうの誕生は無かったことになった。元より幽鬼じみた存在に、惑わされている、と言われるならそれも否定はしがたいが。)――……そうか?(口唇を笑み型に結んでいた男がふと鈍い瞬きをして、淡い呼気を転がしたのは、こちらから投げ掛けた問いに彼女が否を示したときだ。浅く首を傾いで片眉が上がる、小さな一言には含み無く意外そうな響きが宿ってしまった。緩慢に頭部を起こすついでめいて、ゆったりと背筋が伸びる。目線の高さは距離を加味してちょうど同じくらい。うん、と次に頷いたのは円環の展望を耳にした折りになるけれど、これが己の配役に対する了解でなく、単に彼女の理想がそれであると理解はしている旨で留まることはさて伝うものだろうか。)そうか。成る程。……知ってて誑かされたのかと少し腹を立ててたんだが、そこが違ったなら良かった。悪かったな。(笑い調子の言葉繰りこそ独白に相応なものだったろうに、出し抜けな謝罪はしかと彼女へ向けられた。場違いに穏やかな語調がが尾を引くまま、)喰らうものもいる。そういう奴は大概、血の一滴も残さねえ。(何故も紡がず不穏な肯定を返した。そうして露台の足場に靴底を付ける。カツと鳴る踵は冴えた月下ではよく響いて、彼女の視界で男の影が少し伸びた。男からは彼女の柔い前髪を見据えている。その先にあるはずの双眸を透かすべく。)お姫さん、オレはな、命は主の為に使える。だが矜持はそうもいかねぇ。――あの可愛らしい我が姫、おまえが謂うところの“ロクサーヌ”のために死は厭わん。けどな、女を攫うのは騎士の矜持に反する。その命令は主からは聞かない。おまえが死んだら反故にするぞ。(柔らかな声でも毎度の不遜で、告げた言は彼女の未来図とは重ならない。掌を返したような心積もりも無かった。己がそれを約したのは今目の前にいる少女、存在し得なかったはずの双子の妹そのひとであるからだ。いびつな円環にこそ関わりを持った男にとって、今さら正しき理など知る由も無い。彼女を欠いて己は組み込まれている図が最良など、既に呑む気は無かった。自身の影を踏んで、緩やかに踏み出した歩みは彼女との距離を削り行こう。闇に沈む魔物の気配へも、そのふちに佇む彼女からも意識を逸らさないまま、靴音を鳴らして真っ直ぐに。)恐らくご推察通り、オレは陛下から“半分の姫”を“おひとり”に正せと命じられてきた。遂行の暁には叙爵を検討して下さるとのことだったが、華々しくも主は婚礼で国を出て、惚れた女が魔物の腹に収まるのなら、オレがこの国に残る理由もいよいよ無くなるなァ。(脅すつもりは欠けらも無い――と言えば多少は嘘になる。それでも声の軽やかさが変わらぬままで、男は彼女に手を伸ばした。彼女のほうが動かなければ、熱を含む右手はその顎を捉えて少し上向かせる所作を続けることになる。こちらからも少し身を屈めて、眼差しを合わせその面持ちを覗き込むために。)
(静謐な空気を、擦り減るこころの水面を乱すのは、いつだって彼の宿す焔だった。何を疑問視することがあるのだろう。何が彼の感情を刺激することがあるのだろう。脈絡もなく告げられた謝罪にも、心当たりもない不本意な言葉にも、妹の眉は怪訝に皺を刻むばかり。御し難い相手とは端から承知していたけれど、此処まで彼の思考の起点が判らないことはなかった。まるで彼は見えない誰かと話しているようで、何処か掛け違えているように噛み合わなくて、それが酷く落ち着かない。得体の知れないものは恐ろしい。だからこそ、みずからが危惧していた魔物の実態には安堵した。――血の一滴も遺らないのは、ただひたすらに好都合。思わずとこぼした吐息が白く濁る頃、視線の先に暗く伸びる影がある。一定を保っていた距離が縮まることに、露台を削る踵の音に、知らず身体は強張った。降る声は変わらず流暢な、けれど紡ぐ言葉は妹の知らない誰かが手繰っているかのようだった。まるで誰かが彼のくちびるを、声帯を、代わりに動かしているかのように。)――………どう、して、(白い肌は寒さだけでない理由で以て、更に熱を失ってゆく。ロクサーヌの存在も、彼の唱える我が姫の矛先も、すべては姉に繋がるもの。だのに彼は、妹のいのちを掬い上げるかのような物云いをする。裏切られたような心地だった。未来図に描いた円環に、誰よりも期待をそそいだのは彼の存在であったのに。妹は癇癪でも起こしたが如く、こうべを左右へ激しく振るう。聞きたくないと駄々を捏ねる、まるで幼いこどものように。)………っちがう、ちがう、………あなたがいつも一緒に居たのは、姉の方だと云ったでしょう。あなたが誰に聞いたかは存じませんが、あなたは知らされる前から気付いていたんですか。双つ子の何れもが生きていること、入れ替わりながら公の場にあらわれていたこと。知らされてもなお、見分けがつかないのではないですか。わたしたちの違いを暴いた人は居ない。父だって、――……気付かない、(正しく姉の婚姻を報せる召集がそうだった。双つ子の違いが判るのはこの世界でたったふたりだけ。血の繋がる実父が判らないのなら、彼が見分けられる筈もない。後退ろうにも背後は石壁。彼の手によって上向き、睨めるように見上げるひとみには、はじめて烈しい感情が灯ったかも判らない。)わたしたちの秘密を知るあなたを国は易々と手放さない。ならば家督争いに巻き込まれることも、ご令兄との関係が綻びることもなくなる。あなたが国を出る必要なんてない筈です。何で、――……何が、不満なの、(姉にとっても、そして彼にとっても最良の選択の筈だった。波立つこころはやがてひとみを滲ませ、くちびるを強く噛み締める。)ロクサーヌが欲しいなら、数年を待って攫ったら良い。おねえさまだってあなたのことは慕っています。姉も、私も、………おなじ、でしょう、(酷い矛盾だった。みずからが混乱していることは承知していて、けれどそれ程までに彼のこころが判らなかった。幾重の時を束ねた姉よりもまるで妹の手を取るような、そんな誤解を招くような言の葉を紡ぐその真意。近付いた距離で、焔の揺らめきを覗く。)――……腹が、立ちましたか。秘されていたこと。(誑かすの意図が言葉遊びとして、寒空に適切な言葉を探る。騙していた訳ではないけれど、結局似たような結末だった。睫毛をひとつぶ、しずくが濡らす。)
どうして?(反復はただ彼女の言葉をなぞり、思案と並行して、男の双眸は彼女を捉える。耳に入る否定、当惑、疑念と失望。棘と呼ぶにはあまりにも脆く頑是ない印象に転じた存在は、人ひとりという観念を改めてあやふやにさせる。そう思った次の瞬間に、強く睨まれれば思わず笑みを深めてしまった。眼差しの合ったまま、少し目を眇める。)知らされねえもんを敢えて暴く趣味はオレに無え。誰にだって訳のわからん二面性はある。大体、種明かしの後に“だと思ってた”なんて後付けは鬱陶しいだろう?(語尾上がりは返答を求めたものではなく、苦笑を帯びたそれは言い訳には似た。零す呼気が白く夜気に流れて散っていく。)よく考えたな。オレが家を出たがった条件は十全にクリアだ。いい根回しだったよ――ただ、(過日この最大の秘密を知らされる際に、国王から篤い信頼をわざわざ言葉にされたこと、目に見えた形での褒賞を示唆されたこと、愚鈍の皮を被っても何ら咎めを受けなかったことに。彼女の気配を感じたことは確かだ。いつか彼女が護りたがったものが何を示すかも、推察ながら合点がいった。賛辞は偽りなく彼女の発想と行動に向けられたが、ゆるりと白い顎を撫ぜる男の手指は解放の兆しは見せない。意識的に鈍い瞬きを挟んで、指先は彼女の唇を辿りたがった。歯列に巻き込まれた個所が傷を持つ前に、籠る力を逃がさせたくて。――半端に途切れた言葉の先はそれから、)おまえたちは別もんだ。同じじゃない。(瞳を覗き込んで囁いた。ひかりの下で暁色だと判じていた双眸は、男自身が月光を遮った暗がりではもっと宵に寄って見えた。恐らくもこの虹彩は差異にならない。それでも初めて知る色に意識を注ぎながら、水膜が睫毛に移ろうのを見ていた。緩慢に一度身を屈める男は、剣から離した左手を彼女の身体へ伸べる。冷え切った壁から引き剥がすように腰へ腕を差し込んで、抱き寄せる所作は彼女が些少暴れたところで解けはしないはずだ。塔の闇に沈む魔物を含めた、隠し武器などが容赦なく向けられでもするなら別だろうか――腕と胸に抱き込んで姿勢を直す男は、ひとまず同じ高さに目線を重ねたい以上の意図や害意は無い。生来の体格差で見下ろすでも、膝を折って差し上げるでもなく。叶えば連ねる続きは同じだけ月光りを浴びるまま。)秘されてたことには、腹は立ってない。おまえがオレを見誤っていることには多少立っている。……不満はおまえの設計図におまえが居ねえことだ。オレが欲しいのはおまえ。姉のほうじゃない。(笑みの凪いだ真顔、努めて淡々とした口振りの中に、ふつふつと熱が灯る。根回しは良かったが、聡明、狡猾、どちらの評を捧げるにも彼女は一つ重要な点を見落としている。男の感情の起点は彼女自身だ。敢えて断言で排しても、主であるもう一人のロクサーヌのことだって無論気に入ってはいる。意志や望みを尊重したいし、幸せになってほしいとも思う。だがそこに、騎士や従者の枠を外した思慕が入るかは別で。静かに双眸を細めて、焔の気配を震わせた男はまた小さく口の端を上げる。)おまえがおまえだと、言われる前に気が付かなかったと、それが御立腹ならどうぞ引っ叩け。おまえにはその権利がある。泣いて喚いて自分は自分だと訴える権利がある。――おまえは腹が立ったか? 秘されていたこと。(なぞる言葉で、此度は主語が移ろう。秘された当人へ。)
(焔を纏った何か別のもののように思われていた存在も、向けた鋭い視線に笑みを深められようものなら、その姿が酷く懐かしく思われた。たった1つの歳の差をして、その掌の上で転がされ弄ばれているような感覚。それでいて引いた境界線を妄りに踏み越え暴くことのない冷静さに、判らぬことを取り繕いもしない真摯さにわたしたちは信頼を寄せていたのだと自覚する。然しながら狭い円環に閉じこもっていた双つ子ならまだしも、二人称すら転じさせる彼はまるで妹を選ぶかのよな物云いをするものだから。くちびるをなぞる指先の感触に反射的に肩が跳ね、思惑通りに結び目が緩む。馴染む血の味はまだ遠く、まるで生娘のような反応を示したみずからにまなじりが歪む。憎らしく、忌々しく、だのに、降り積もる言葉からは、逃れられない。)――…………、(ふたりはひとつになれない。けれどひとつになることを希求して、ひとつになることを求められた17年。焔に灼かれるようにして、やがてころりと頬を滑ったものは、べつべつの存在であることを突き付けられた哀しみなのか、それともこころの底では誰かに認めて貰いたかったからなのか。思考は回転を放棄して、みずからに巣食う感情すらも暴けない。故に身体は熱の許へと大した抵抗もなく引き寄せられる。体動に伴ってまたひとつぶふたつぶと押し出されたしずくをこぼしながら、知らない色をした彼の眼差しをただ、見つめていた。)――……私が居たら、意味がないでしょう。折角"はんぶん"がひとりになれる、またとない好機なのに。(言葉を返せたとしたら、精々その程度。全く愉快なものだった。正確にはふたりがひとりに欠けるものを、世間ははんぶんが満ちると祝福をする。円環の崩壊を前にして、妹は酷く重たげにこうべを俄かに左右へ振るった。)……立つ訳がありません。………私はずっと、秘されたかったのですから。(そして叶うなら、処されたかった。17年前、姉が生まれ落ちた13分後。呑気にこの国で命を繋いだその愚かさを、魔物の腹の中で灼かれながらひとり、その罪を贖い続けたかった。――けれどきっとそれはもう、叶わない。)――…………疲れました、(身体の強ばりがほどかれていけば、諦めたように彼の体躯に重心を預ける。認めたくないだけで、きっと何処かでは判っていたのだ。棘さえも燃やし尽くす焔を前に、みずからなど到底敵う訳も無いのだと。働きが緩慢となった思惟の端くれに、赤き女王陛下が過ぎる。ヴェール越しに伝わらなかった体温が、今や直に伝わる距離に在るのが我ながら信じがたかった。そういえばあの時みずからは彼が良いと口にしたのだったかと、伏したまなうらに過日を描く。他意はない心算だったが、最早みずからの感情の起点にも終点にも上手く信用が置けない 。彼を引き剥がすことも出来ず、大人しく重なる距離に甘んじていることが何よりの証左なのやも、知れない。)………あなたは今宵、何を求めて此処にいらしたの。魔物の代わりに私を喰らってくれるのですか。それとも、心中に?(彼の忠誠を誓う先が姉であると明確にされた今、未来図を描く妹の命に応えては貰えない。ならば国王より拝した命は如何様に処理する心算かと、冷えたゆびさきが彼の騎士服の裾を柔く、つかまえた。)
(彼女は既に主たる立場でない、けれど呼ばう名を知らない。濡れた頬が月光を吸うのを見ながら、だからまた「おまえは、」と不躾な二人称だけ唇を衝いた。ささめきが揺れて独白に似る。)厄介な女。――じゃあ改めて、当てが外れて引っ叩きたくなったらどーぞ?(ふいと笑みを引いた語尾上がりが揶揄めく悪ふざけ。やんわりと頬をくすぐる手指も戯れに近しく、右手はそれから緩慢に猫毛に回った。弛緩した小さな身体の重みを受けて、五指は宥めるようにその頭を撫でる。気安い手付きも不敬だろうが、この少女が真実ひとりの姫であるなら、騎士たる己が己に赦さなかった。所詮ずっと意図せぬまま、あの可愛らしい主とこの厄介な女が別であればいいと思っていたのだ。喉の奥で低く笑って、男は塔の暗がりへつま先を向ける。)ハハ。おまえが、オレが攫いたいのがおまえだと知っていて、意図的に姉君に誘導してたっつう話なら心中してやろうと思ってたんだがな。どうやら違ったようなんで、陛下の賭けに乗ってやるさ。(踏み出す歩みは月夜を惜しまず屋内に戻り行こう。差し込む光が遠退いて、視界はすこし暗くなる。金眼の一対は未だ少女を見ているだろうか。傍らを通るときにそちらへも意識は向けた。留まるようでも付いてくるようでも厭う気は無いが、距離が開くようなら腕に抱えた彼女のほうへ「置いて行くか?」と一言問いはしよう。その、魔物へ視線の端を残しつつ、)ご自分で始末を付けろと言われたら、魔物に喰われるつもりだったんだろう? じゃあ陛下としても、単におまえに死んで欲しいならそうすりゃいい。なんでオレが噛まされてると思う。(緩やかに階段を下りながら、紡ぐ疑問は彼女に回答を促すふうではない。何せ正しき答えは男も知らず、推察と願望を織り交ぜた話だ。ただ如何な密談であれ飽くまで殺害処分を否定されなかったのも、王冠を共にする現奥方の様相を思い返せば得心もゆくもので。この少女は表向きは死んでいなければならない。重苦しい十三分を経た今も猶。貫くべき虚偽の上に歩を進め、男は相変わらず軽薄そうに笑った。)おまえにはこのまま不逞の騎士に攫われてもらう。陛下の要望は“半分の姫”がそうでなくなること、オレの目的はオレが兄上の円環から消えること、おまえの願いは姉君の危機にオレが動ける状態であることで、――我が姫には直截に訊き損ねたな。なんだったと思う?(此度の問いは、幾らか彼女を窺う色が交じった。下層へを歩みながらちらと近しい瞳へ視線が向く。壁に間隔を開けて設えられた松明が並ぶ暗がりに、互いの面持ちがどれほど汲めるかは知れないが。)国は出るが、ロクサーヌ姫のことは気に掛ける。何かあれば駆け付けてはやる。……我が姫はオレと、おまえを信じてくれると思うか?(己が大人しく王国の騎士に収まり続けたとして、嫁いだ先の主が遠い“切り札”を信じてくれる他無かったことは、彼女の未来図でも変わりはしなかったはずだ。なればこのまま姿を消しても、円環の外からでも、生き延びて我を貫き、忠誠を捧ぐ姫の心身が危ぶまれるようなら迎えに行く、その心積もりであることも同様に考えてくれるだろうか。最後らしい最後など何も演出しなかった。ただ当たり前のように、変わらず傍に居続けるかのように振る舞った身でいて、こればかりは男にも賭けでしかない。すこし調子を下げた語気が、地下層へ踏み入る靴音の中に紛れる。)
(歪んだ月よりも白い肌は冴えた冷たさをしているのに、彼が触れては仄か熱を帯びるような錯覚がした。いつもみずからをあたためてくれていた姉を思えば、ちいさな足は露台に貼り付けられそうになる。いちど強く目蓋を瞑り、震える呼気を深く吐き出したなら、数多の感情を引き剥がし、人生のきざはしを下る決断をした。金の丸い目を見遣るひとみは頼りなく揺れ、その思案の間に距離が生まれゆく。――逡巡をした。姉の傍に置くべきか、捨て置くべきか、或いは。けれど結局、彼の問いを契機にして、妹は声を反響させる。「アイリス、」双つ子の血の味がひとしいものかは判らねど、みずからの血を幾度も吸わせた獣の存在を、姉の傍に置くには不安が残った。やがて松明に照らされるは、艶やかな黒の毛に覆われた、豹に近しくも牙と爪だけでなく垂れる尻尾も鋭利な鈎を複数纏う魔物のすがた。姉も妹も魔力は常人のはんぶんずつしか持たないけれど、ふたりでまじないを唱えれば、何とも奇怪なことに相乗した効果を発揮した。ふたりぶんの封印をほどこされ、尖塔に立ち入るまでは猫のような様相をしていた我らが愛獣。歳が10を迎えた頃、庭園に迷い込んでいた獣を妹が人知れず連れ帰り、みずからの命を喰らわせる為に育てた魔物のざらついた足音を、背後に聴く。)私の絶命を見届ける誰かを、必要としたのではないですか。例え親としても、醜いすがたをわざわざ目にしたくはないでしょう。それにあなたなら、私を喰らった魔物ごと灼き尽くしてしまえる。適任だと思いましたし、悪くない最期だとも感じました。あなたの焔は、うつくしかったから。(灰の雲を照らした剣の軌跡を思い返す。父への感情も、心証も、今更大きな変化は持ち得ない。自らの死を以て正史の通りにひとりへ戻る姉を護ってくれるのであれば、その他は特段必要でもない。揺らぐ感情の矛先はいつだって、)――………おねえさまは、(幾つも描いた未来図に、斯様な結末は描かれない。それこそ姉に成り替わったみずからが嫁ぎ、彼に姉を攫わせ国外へ逃亡させる似付かわしい絵は描いたけれど、万が一にも過酷な環境に姉を置くことが躊躇われて握り潰してしまった。姉には誰しもが疑うことのない、祝福の未来を捧げたかった。けれどその代償に、寂しがりな姉をひとり遺すこととなる。姉に従順な騎士を、伴って。死よりも重い罪に縛られながら、17年いのちを分け合い続けた姉へ思いを馳せる。途切れた声音、震えそうになる呼気を飲み干して、心底慈しむように眦が撓む。)人を疑ったことのない、やさしいひとだから。みなの幸いを、誰よりも強く望んでる。(いつか全てを識ったとして、きっとあたたかく赦されてしまう。それが余計に辛く思われて、わななく口端を誤魔化すように吊り上げた。)……いつか後悔しても知りませんよ。見分けがつかないばかりか、おねえさまでない私を攫ってしまうなんて。………ほんとうに、出来の悪い悍馬、(戯言も次第に涙声に溺れ、くちびるを噤む。それでも不規則に震えてしまいそうになるのを抑え付けるように手の甲を押し当て、幾度も、頷いた。彼が姉を気に掛け、いつの日か再び護ってくれるとするならば。せめてもの救いに、思われたから。)――……バートラム。私はもう、あなたの姫ではないのでしょう。ロクサーヌの名も騙れない。だから、(しずかに呼吸を落ち着けながら、心許ない揺らぎに照らされる濡れたひとみは彼をとらえる。彼の手綱は終ぞ握れぬ儘、彼がそそぐ忠誠も未来永劫遠く離れた姉の許。だからこそ。)――……私の為には、死を躊躇って。私を攫うなら、あなたが死ぬ時も一緒に、(連れて行って。落ちるは囁きに似て、指先は彼の服の裾を握り込む。結局彼の返答を待たずして、視線も伏せられることとなるけれど。)
(彼女の唱える呼び声に合わせて、男も魔物をもうひとたび振り向く。階段に影を伸ばす姿は成る程人を喰らう種であると理解できた。置き去りにすれば今宵此処で人間ふたりを喰らったという濡れ衣を被ることになったろう生物へ、今歩みを連ねさせるならこの一頭は彼女が要するものと理解を改めておくことにする。)ッハハハ! そりゃ光栄、(淀み無い歩みの途中に呼気だけが一瞬止まって、すぐに屈託ない笑い声が上がる。我が身が操る焔を最期の刹那として“悪くない”と言ってもらえるなら、諸々の脈絡をさておいて賛辞だと受け取った。男の肩が揺れる振動は彼女の身にも伝うただろうが、勿論それで少女を取り落とすような懸念は与えない。細く吐く息で肺腑を整えて、やがて歩みは地下の一本途を進んでゆこう。松明も数を減らした先で、突き当りには真円を敷いた魔方陣が浮かんで見えた。月光と同じ色をして。)そうだな。(――確かめるすべを残さなかった騎士に、傍を離れる主の心持ちについては結局期待をするしかない。それでも相槌は純然と和らいだ。各人が描く多くの理想の、すべてを十全に叶えることは難しい。ただ密やかに思いと策を巡らせるばかりの果てに、あの花弁が恙無い幸いを得てくれたらいい。嫁いだ先で孤独を感じることがなく、元より不要な切り札だったと結論付いてくれることが何より望ましい話だ。主の残る地上への途を振り返らずに、男はやがて魔方陣に手を伸べた。利き手の掌に焔の魔力が籠って、真円の中心を緩やかに撫ぜる所作に合わせ壁にひずみが生じていく。)言っておくがな。(男の手が光源になる暗がりで、紡いだ語調は可愛げも無く平素通りになった。すいと双眸が彼女を向く頃に、交わる視線はきっと僅かばかり。ちょうどその折で伏せられてしまったものを無理に追い掛けんとしないのも変わらぬ有り様で、ただ意識的に身を寄せはした。柔い髪に自身の唇を近付けて、低い声はその耳元へ。自分たちと金眼をした魔物の息遣い以外が無い中で、聞き零しようもなかろうとは承知の上ながら。)好きだぜ、お姫ぃさん。(男のほうも少し瞼を伏せて囁いた。血筋や地位を指し示した響きではない。例え話の一つのよう、それくらい貴く慈しむべきものを語るために市井の民が冗句で交わすような、柔らかで甘い呼称だった。――それからまたすぐに、眼差しと思考は魔方陣へ向き直る。)安心しろ、おまえ相手に勝手に命懸けにはならん。ひとりにはしねェよ。(生きる上でも、死ぬ上でもと。紡ぐ間に、壁だった個所に空間の歪みが整った。転移装置だ。「アイリス」と魔物にも促す声を掛けてから、男は躊躇わずに彼女を抱えたまま身を進めよう。ひと呼吸の間を挟んで、景色は外に転じた。仰げば遠い天に明るい月と、それを黒く抉る王城の影が見えるだろう。城下町を囲う外壁の外は静かなばかりで、吐く息はやはり白い。積雪にはもう少し日が要る時分、見渡せば一頭の軍馬が控えているのも見付けられようか。騎士団の飾りでなく幾らかの荷が鞍に括られている。ざく、と冷え込んだ下草を踏む靴音に魔物のそれも無事重なるだろうか。冬の深まる時節で男は口角を上げて、)オレはな、ひとまずおまえと春が見たい。……なあ、なんて呼ばれたい? 姉君と同じものは不本意なんだろう。何か考えておいてくれ。見分けくらい今後は付けてやるから、疲れたらまた“オレがいい”って言ってくれ。(連ねる要望にいらえを急かすふうは無い、けれど、出し抜けではあろうか。いつだか耳にした一言は、彼女が紡いだものだとは思っている。あるいはそれを寄る辺にして、濡れた頬を拭い慰める暇も無いまま何もかもを手放させて、この腕に攫ってしまいたいのだから。)
(転げる笑みを誘うような物云いをした心算はないもので、咄嗟に表情が顰められる様はまるでこれまでのふたりに似ていた。異なるのは重なる体温と、笑みの名残が伝わる距離に置かれること。何より主従の関係が崩れたことだった。魔法陣に重なる掌はあまりにまばゆい。月の光と焔の熱とが絡まる魔法陣をひとみが眇めて眺めていたのはきっと、その煌めきの向こうに姉のすがたを描いていたが為。いのちを棄てることをせず、彼に捧ぐ決断をしたことをこれからもからく思うことはあるのだろう。姉の孤独をまことの意味で理解することは、片割れの妹でもむずかしい。故に姉をひとりにしてまで選び取った選択を、過ちにはしたくなかった。握り込む指先に力を込めて、感情の水面に揺れるこころを手懐けようとしていた、そんな折。)――………、………(くちびるのかたどった呼気と甘い音吐が肌を、鼓膜を、心臓を、灼こうとする。ひとみは驚きに瞠られ、睫毛がしずくの粒を弾く。姫の呼称は姉の名を呼ばぬようにみずからが強要をしたもので、だのにこんなにひどくこころに絡む、したたる蜜のような甘さは不揃いな記憶のいずれにも存在をしない。妹は、斯様なうつくしいこころをそそがれるような器ではない。纏う棘は少なからず彼を傷付けたこともあっただろう。けれどもう、きっと。彼の存在を手放すことも出来ないのだと、そう思う。)――………約束ですよ、バートラム。(こぼした願いは転移のはざまに捨て置かれず、彼の許へと運ばれただろうか。双つ子以外のにんげんに慣れぬであろう魔獣も、彼の言葉にいらえるように尖塔のそとへ連れられた。誰よりも重たい歩みをする魔獣とも、人里より離れた場所で途を分かつことを決めながら、騎乗の経験も乏しい馬を、ただぼんやりと眺めていた。)何れにしても、国の外へ出るお心算だったんですか?………私には名前なぞ必要なかったですから。これからわざわざ私を呼ぶのは、あなたくらいのものでしょう。あなたの好きに呼んで下さったら良い。だから応えられる距離に、ちゃんと居て。(彼がこの夜の先をどのように描いていたかは知らない。吹き付ける寒さは尖塔の天辺と変わりはしないのに、何処か夢見心地な思いがして。ただ、まるでいつか双つ子を見比べる機会があるかのように紡がれた言葉が、例え気休めだとしてもこころをまろくあたためた。冷たい空気を吸い込んで、みずから踏み出すちいさな一歩。いつか魔物に裂かれた左のかいなにひたいを寄せて、ぽつりと落とすはただ、ましろに。)――………疲れないと、云っては駄目ですか。(円環を断ち切った焔の騎士との記憶が廻る。いつしかまなじりには、仄か薔薇の蕾のような淡い色が差していた。)あなたでなかったら、攫うことも攫われることも赦さなかった。………ちゃんと、知っていますか。(彼の言葉の真似をして、この国を、片割れを、失くす間際に問い掛ける。妹にとっては姉の存在こそ特別で、けれど光を失ったからとその欠落を彼で埋める訳ではないことは、伝わるだろうか。伝えられる、だろうか。重たく感じるこうべを持ち上げ、この時ばかりは彼を見上げた。眉根を寄せて、くちびるを引き結んで、躊躇いながらも薄い手の甲を差し伸べる。いつもはみずからが振り払っていたその手を、求めて。拒まれずに触れられたとしたら体温はひどく冷たいものだろうけど、みずからはもう、彼があたためてくれると知っている。やさしい耳触りの言葉は得意ではない。けれど、たったひとりの。血の繋がりも何もない、まったく別のいきものの、彼へ。この身のすべてを懸けても、悔いはない。)他には、何もいらない。――………バートラム。あなたがいい。あなただけがいい。だから、私を、あなたのたったひとりにして。(空っぽだったはんぶんは、彼のこころでひとつに満ちる。)
(つまるところそれは互いの素なのだ。立場を違え、過分な不敬が単に親しみと慈しみの熱にくるまれるようになったところで、男の振る舞いは変わりない。見据える先も淀みなく切り替わっていく。随分と高度を下げ月も遠退いた大地の上で、白い呼気は自分のものより馬のそれが目についた。騎士団で互い馴染みのある一頭は成人男性二人乗っても悠々駆けられる体躯があるから、国境も越えよう道行きに連れるには充分。歩み寄った先で懐いて鼻を鳴らす葦毛の馬へと、鼻先へゆったりと手を差し伸べてから首筋を撫ぜる、無音の挨拶の傍らで肯いた。)その可能性が一番高かったな。お陰様で、思ったよりは持ち物が増えたが。(左腕と胸に抱えた相手を荷呼ばわりするのも毎度の不躾だったろうが、笑い調子に悪気はない。生来の性質が悪いだけで。そうして瞬き一つの間を挟んでから、男は彼女に双眸を向ける。名の無い少女をそこに映して、焔の一対が細められた。)……ほう。(意図もせず、何となし据わった発声になった気はする。彼女が無謀を口にしたような風情で、じ、と眼差しを注ぐ間に彼女の面立ちは伏せられてしまったけれども。たっぷり二拍の後に零した呼気がまた和らいで、弛んだ唇を閉じたままに彼女の言葉に耳を傾けた。――天は明るくも半夜の光源は月、肌に刷かれた色彩をきちんと見極めるのは存外に難しい。だから今それをそうと察したのは単に期待の所為かも知れない。男の瞬きが鈍くなって、そこに微か丸みを帯びる。鍛えた身体に本日は難が無い。今後とて剣を振るうことは多くあるはずだし、相応に負傷することもあるだろう。怪我を彼女にまで及ばせない自負はあってこその決断ではあるが、慰撫と感じた仕草に自身で知らず喉が詰まったようだった。臓腑の浮くような感覚がガキめく高揚を伴って、吐く息が微かに震えた。鷹揚と身を返し、葦毛馬に背を預けて程無く彼女と視線が合う。右手も当たり前みたいに、その手を受け取った。掌の薄さも指の細さも、剣を握るような生業の男と比べずとも嫋やかで気に掛けずにいられない。誰ぞ相応しい身分の者へと渡す気になどならない、――触れれば離したくなくなることを知っていた。ひどく冷えたその肌へ皮膚の硬い手指を添わせて、男がその柔手を握り込むことに逡巡は無い。次に開いた唇は、またどうしたって弧を含ませた。)……おまえの、(紡がれる声音は低い。何を抑え込んだつもりも無いけれど、思案交じりに連なるそれは拍の遅いものと鳴った。)記憶や想いにあるもんは、忘れたり消したりしなくていい。誰を赦さなくてもいいし、これまでを受け入れなくていい。どうせオレは自分に無理なもんは無理だとしか言わん。それで不本意をさせることもあるだろ、だから、……好きにしたらいい。(例えば。姉を想うことを止める必要も、父王への認識を変える必要もない。半分という環境に秘された事実や、そこからこうして攫われた今宵のことが疎ましく思ったままだっていい。それでも、なるべくなら穏やかな熱とひかりを浴びて生き続けてほしいと、望まずにもいられない。彼女自身がそれを、己を選んでくれたらとも。一度静かに唇を噤んだ後で、男は少し目を伏せた。それでまた、唇をその耳朶まで寄せたがる。)オレが“エナム”と呼んだらおまえのことだ。おぼえておけ。(囁きが掠れる。我が身の一義、始まりのひとつ。――人には何かしら逃れられないものがあるはずだった。貴人であるなら猶更、数多の権利と引き換えに責は負わねばならない。その理すら焼き棄てよう我欲を火種にして、円環の外を目指すとしよう。顔を上げたらニィと口角を上げた。眦が年相応に淡い朱を宿したことが彼女の目に止まったかは知れない。手のひらを彼女の腰に回し、改めて細い肢体を宙へ持ち上げたら、葦毛に括った鞍へ横向きに座させて。その背後へ自身もひらと身を乗り上げたら、視界は互い良好、背凭れに充分な身をして荷の一番外側にあった外套を彼女ごと被る。)アイリスは走れるか? こいつも外は馴染みねえか。まあゆっくり行こうぜ、どうせこの駻馬が即時収集に応じねぇのもいつものことだ。早々騒ぎにもならんだろうよ。――どこか行きたいとこ言うなら今のうちだぞ。(軽やかな問いのいらえがどこからあったにせよ、馬の足はまずは緩いばかり。楽天家を装って脳裏に幾重も行路を巡らせながら笑った。)
(秘められた双つ子はそれこそ社交の仕来りなぞは教育を施されたものなれど、名を捨て去れば何をも持たぬ赤子に等しい。王族の血筋程度しか誇れぬこの貧相な身体に遺るものなどなく、不敬を咎めるどころか微苦笑滲ませた同意を含むだけ。)……随分、重たい荷物になってしまいましたね。(今宵の未熟な月の色に似た馬がふたりぶんの自重を物ともしないことすら知らぬゆえ、気遣わしげな眼差しが黒のつぶらなひとみに向けられた。いつかそう遠くはない未来。やさしい彼の足枷とならねば良いけれど、何せ難儀な彼は苦労をそうとは感じさせぬ振る舞いばかり長けている。それこそ彼の兄君を思って死すら装ってしまえるくらいには。何れ妹のいのちが潰えていないことを覚った王家が追手を寄越さぬとも限らない。彼の肌をなぞる指先が知らず慈しむような所作に似たのは、ひとりにしないと躊躇いもせずに契ってくれた彼への一抹の憂いもあっただろうか。但し些細な声音の違和を拾おうものなら、ゆうるりとあかつきの視線が宙へ向かう。低く訥々と紡がれた言葉を咀嚼して、妹はやがて淡く呼気を漏らしていた。何処か笑みさえ含んだ、不出来を窘めるような、そんな気配を滲ませて。)それを今に云うなんて、酷く意地が悪いですね。そうなれば私はあなたを赦せなくなる。好きにするなら私は、アイリスに食べられてしまいたかったのに、――……なんて云ったら、あなたは困ってくれますか?(長く垂れる焔色の髪を耳殻に掛けるよう、差し伸べた重なる手のもう一方は届くことが叶うだろうか。顔色を下の目線より仰ぐようにして、妹は笑みの端くれをくちびるに乗せる。最早尖塔には戻れず、いのちを繋ぐ選択を、彼のものとなる未来を決めてしまったにも関わらず。きっと幾ら乞われたとて、みずからは姉の存在を土に埋めることは出来ないし、父への情を深めることも難しい。こころには深く棘が根差し、17年の間に随分と捩じれたかたちになってしまった。然様なみずからを赦してくれた彼のこころの在り処を探すよう。時間を掛けて尽くす言葉は、決してうつくしく達者なものではないけれど。)確かに切欠はあなたが与えて下さったけれど、抗う術は幾らでもあった。あなたにただ流されて此処まで来た訳じゃない。私が、あなたを選んだの。――……だから、あなたも好きにして。これまでのように誰かの為にではなく、あなたの為に、あなたの好きに、ちゃんと生きて。(侯爵の家を継ぐ兄弟、双つ子の呪いをいだく主従、彼を囲う円環とて決して穏やかなものばかりでない。みずからを連れる彼が何処までその自由を果たせるかは判らねど、彼のたましいがのびやかに健やかに燃えることを求めていることがひとひらでも伝われば良いと、彼の相貌を見つめていたその矢先。――吹き込まれる囁きに、周囲の音が聞こえなくなるかのようだった。何処か幼く見える表情が暁の硝子に灼き付いて、瞬きさえも忘れかけた頃。不意にぶれた視界に、それこそ生まれて初めて発したような頓狂な高い声が転がり落ちた。不安定な体勢を支える先に求めるは当然と彼の逞しい体躯で、凭れるようにしながらその服を縋るように握り締める。分厚い布地がかぶされば咄嗟にまぶたを瞑り、――ひらけた先は、見たことのない世界の、夜明けの、はじまり。)――………、………海が、見たいです。(今までの妹であったなら。彼の好きなようにだとか、何も判らないからだとか、求め得ることのむずかしさに選択権を放棄することが殆どだった。姉の願いを叶えることこそが最上であり、よろこびであったこれまでの人生。随分と色の薄まった吐息で睫毛を揺らし、くちびるは逡巡の果てに望みをつかむ。姉が嫁ぐ峰々を越えた彼の国は、大海を臨むらしいから。)降って来るかのような満天の星空、雨上がりにあらわれる虹のたもと、棘のない薔薇が咲き乱れる花園、あなたが剣を振るわずに済む平和な地、――……双つ子が祝福とされる国。(外套に沁み込ませるように散らされる不揃いな音の粒。全て叶えられるとも思っておらず、ただ、彼を困らせてみたい気持ちはあった。見世物になるには静寂が支配する闇の途切れ。存外悪くない高い視界もやがては閉ざし、彼の体熱に擦り寄るような仕草を見せる。相も変わらず懐く仕草は拙いけれど、唯一を赦し、無二を覚えたひとりの名を呼ばうことに、もう抵抗はしないから。)連れて行って、バートラム。(円環を越えて迎える燃えるような夜明けはきっと、あなたとだからうつくしい。)
〆 * 2022/12/2 (Fri) 02:25 * No.135
(今や、或いは未だ、何をも持たぬ身である自覚はあるくせに、存在そのものを明け渡すような口振りは厭わないようだからやってくれる。軽いとも重いとも言葉にし兼ねてただ喉の奥で笑う男は、覗き込む先から早速零れる不服にも実に楽しげに口角を上げて見せた。)残念ながら困るこたねぇなァ。ご要望は却下、以上だ。(彼女が己を変に気遣う義理は無いが、望む全てを通して差し上げることも無い。単にそんな技量は無いもので。どうしたって叶わぬ何かを後ろ暗く抱えることを馬鹿らしいと知ってくれたら、それでよかった。だって生まれてからこれまでに、円環の内側を自ら塗り固めてきた多くが簡単に割り切れることはない。自分たちはたぶん、――そうやって兄に姉に、依存することに長けてきた。護りたくて力を纏い、孤立することで秘されたがった。それが何より賢いと事実として置く傍ら、歪を育てている自覚もあって。睫毛の影が窺える距離で、男も静かに瞬きを繰り返す。薄く開いた唇が、一度そのまま閉じられた。)……。(誰かの為なんて殊勝じゃなかった、随分好き勝手にしてきたさと、仮に彼女が言ったら己は虚勢だと受けて笑ってしまう。嘘ではないが満ちてもいない。だから自分でそれを言えなかった。かそく震えた呼気が、間を置いてまた、くつ、と可笑しげな揺れ方をする。明瞭に肯くような可愛げはやっぱり持ち合わせちゃいなかったけれど、腕に籠る力に、短く彼女だけを呼ばう音の連なりに、伝うといい。誰の代替でも擦り替えでもない、他ならぬ彼女が、男が己の為だけに連れ去りたい唯一であると。)――っふ、ハ、(それにしたって箱入り育ちの素っ頓狂な声は単純に面白かった。中々主導権を返して差し上げられない身を鞍に落ち着けるのと粗同時、顕著に呼気を弾けさせたのは機嫌が上振れた所為が大きいが、悪気の無いなりに揶揄はあったような。何せこの先はお行儀を叱るような教育者も居ないし、身体的な面では多少なり図太くなっていただく必要もある。まあ自身のほうが頑強さも世渡りも誇っているゆえ、よもや御身に労働力を求める心積もりは皆無であるが、馬上で揺られるだけでもそれなりに疲れるだろう。道行きが如何なものになるか、明日のことすら白紙のふたりに馬の控えめな嘶きと魔物の息遣いが添わる。手綱を繰る男の腕の囲いから声が返ったことは、問うておいて少しだけ意外だった。思わずと片眉を上げて、景色と路を見失わぬ程度に彼女の方にも眼差しが向く。)ああ、いいな。(まず零れたいらえが簡素だった。山に囲われたこの国には縁遠い、遥かな水辺には潮の風が吹くという。己も生まれ領地の端、山間からちらと臨んだことがある程度の概念は、まなうらに描くにも未だ夢を見るかの心地だった。少女の柔らかな声が夢のふちをなぞる。現とのあわいに四足ずつの蹄と爪が途を踏み締める音が連なって、安寧のかたちは、いつしか触れられるものになるだろうか。)……そりゃあ考えたことがなかった。そうだな、そういうのも、あるか。(白い呼気が流れて、円環の綻びは小さな欠けらを散りばめて、思想の端に燃えてゆく。一国における厄災の象徴が、揺るぎない祝福である別の国。大地を治めるものとして、神話も王命もそういうものと受け止めてきたけれど、自分たちにはもうそれを定めとする理は無いのだ。ともすれば魔物が共存を叶えている土地だってあるかも知れないものと、同行の一頭へも束の間意識が流れよう。腹の底に生じる熱のせいで、吐く息のほうがどうしても白む。曖昧に弛む頬を唇を結んで少し耐え、単に笑みを深めた後に、)うん。(我ながら頑是ない一言で肯いた。そうしてこれまでの何もかもを置き去りに進む。憂いと祈りを数えた時間は、世界からは刹那に等しい。全てを崩した後にまた、飽かず重なってゆくだろう。花降る彼方の夜明けから。)
〆 * 2022/12/4 (Sun) 05:29 * No.144