(誰そ、この幕を引くは。)
(ここ数日、季節は急に歩みを進めた様子で、肌を刺す風が冷たく隣を駆けてゆくこどもらの頬が林檎のように赤い。その日々は永かったか短かったか。日で数えれば僅かに幾つか過ぎたくらいで、今日もキュクロスは常通りの平穏を保っていた。幾つかの置手紙を残してヴェリテ家の長男が家を出たことは、暇な貴族の間で束の間ひそやかに話題になれど、彼の姿が変わらず末姫の傍にあることを目撃した人があれば、新たに構える居で婚約の準備をしているに違いない、と勝手に尾ひれがついてそちらは結構な速度で出回っていった。アルバートはあの日以降、自宅に帰っていない。日中は変わらずサラヴィリーナ姫のお傍にお仕えし、夜はひっそりと闇夜に乗じて準備を進め、疲れれば森でも厩舎でもその辺の廊下ででも仮眠をとった。姫君には知られないように振る舞っている、自分のことよりも傍仕えの騎士をご心配される方だからだ。家族には父が何がしか言って止めてくれているのであろう、職場に押しかけられて連れ戻されるようなこともなく、ただ、長男がもう戻らないことだけはわかっているに違いなかった。キュクロスの偉大なる王に剣を委ねられているあいだに、――決着を。)……今宵は澄んで星がとても綺麗にみえるようです。“高い場所”でご覧になりませんか?(そう切り出したのは、お部屋までお送りしていつものように辞する挨拶をする“ついでに”。)夜は冷えますので、暖かい外套を羽織っていらしてください。長い階段を上らねばなりませんから、動きやすい恰好で。準備は要りませんが、――しろがねの懐中時計は忘れずに。(同じ陣の刻まれた指輪を、首に提げた鎖の先から取り出して示せば、場所がどこだかはおのずと伝わるだろう。そして――おわかれの日がやってきたのだということも、彼女ならば。)……お迎えに上がれず申し訳ありません。どうかお足元にお気をつけてお越しください(深く首を垂れて、部屋を辞する。沈んでゆく太陽が、全てを赤く染め上げていく。)

(長く巡る階段を上ってくるひとつの足音に耳を澄ませて、待つ時間は如何ほどだったか。月のない夜なので星を眺めていたら、あっという間だった気もする。長くてもいい。いのちをわけた姉妹が最後の時を過ごすには、どれだけの時間があっても足りないだろうから。ただ、星が輝くうちには、と、お誘いに込めたメッセージが伝わってさえいれば十分だ。)……今晩は。…リーナ様とは、おわかれができましたか?(優しい姉姫に、彼女は別れを告げたのだろうか。それとも、何も言わず、いつもどおりに過ごす夜を選んだだろうか。ひとりでここまで来る道を、彼女はどんな気持ちで歩いたのだろう。ぎゅっと眉を寄せて飲み込んだのは一瞬。膝を折ると、深く首を垂れる)……王命を賜っております。(自分の心臓の音が塔中に響き渡っている気がする。ガンガンガン……この胸の鎚が塔を壊しやしないか、少し心配になるほどだ。)
* 2022/11/21 (Mon) 02:08 * No.20
(おわかれはしなかった。できなかった。いやだ、行かないでと泣かれたら揺らいでしまうとわかっていた。だってわたしも行きたくない。亡霊になんてなりたくない。それでも――あらがう方法も、力も、勇気も、持たぬ身なれば、できることは限られていた。だから、変わらぬ夜を過ごした。いつより大切に。ていねいに。)おやすみなさい、サラヴィリーナ。…ずっと、ずっとだいすきよ。(規則正しい健やかな寝息。灰青の髪をそうっと梳けば、また離れがたくなってしまう。困ったように笑い、妹は姉の頬にくちびるを寄せた。ごめんねとさようならとありがとうと、愛してるをそこへ残す。)

(騎士の望むとおり、サラは彼の“準備”には気がつかなかった。ヴェリテの家を出たことも婚約の噂もこの耳には届かず、父王と話をしたことだって当然知らないままでいる。ゆえに“ついでに”切り出された誘いに、双眸を瞠ったのだ。高い場所。懐中時計。指輪。もうひとつあった鍵――わかったわ、と上擦る声で応じるのが精一杯だった。どうして、塔への扉がこのひとにも開かれているのだろう。父の真意が理解できなくて、騎士がその場を去ったあともしばらく、ひとり立ち尽くしていた。)…こんばんは、アルバート。ごめんなさい……待たせちゃったでしょう?(そうして長い長い階段の先、騎士と末姫だったむすめは星明かりに逢瀬を果たす。今宵の空に似た濃紺の外套から覗くブーツの爪先を、気恥ずかしげに動かした。「寒くない?」両の耳を赤く染め、白い吐息で尋ねる。「…伝えたかったことは、もう言ったわ。」リーナ様とは、という問いには、そう答えて否に代えた。凛とした足取りであわいを埋め、まっすぐに騎士を見上げる。物言いたげな気配に口をつぐんで続く言葉を待っていたが、彼が跪くのに合わせ、視線も追いかけるように下がり――王命を。しずかな声に、冷えた空気をヒュ、と呑んだ。両手をぎゅうと握りしめる。)王命……国王陛下の……お父さまからの、命? アルバートがこの場所を知ってるのも、入れたのも、そのせい? ……わたしをここへ、誘ったのも?(不可解だったことがひとつ消えて、別のひとつが生まれる。王命を受けた騎士がなぜ、姉ではなく妹を呼ぶのか。いまや守るべき末の姫サラヴィリーナは、ひとりとなったのに。――まさか、)……! …アルバート。おまえはここに、残らないのよね? 輿入れまで姉を守って、それで……騎士団に、戻るんでしょう?(こうべを垂れたままの彼を見下ろし、肯定の声を聞きたがる。切り離されたはんぶんと共にこのさびしい塔で生きてゆく――そんな“王命”が下ったのではないかと、愚かにも取り違えて。この期に及んで甘かったのだ。神話を尊ぶ民ならまだしも、父までもがこの命を厭うなど、考えもしなかった。)アルバート、(もういちど呼ぶ。顔をあげてと願いながら。)
* 2022/11/21 (Mon) 15:10 * No.25
(数刻前まで、姫“だった”少女の吐き出す息の白さに、ようやくこの場が冷えていることに気づいた。「寒いことに気が付きませんでした」と眉を寄せて笑う)……そうですか、ならばよかったです(姉姫と最後の夜を過ごした少女の凛とした言葉に頷く。今まで当たり前のように在った日々が急に喪われる感覚は慣れるものではないだろうから。どれだけ時を重ねても、どれだけ言葉を尽くしても、ぽっかり空いた穴が急に塞がることなどない。泣いて、泣いて、泣いて――そうして瘡蓋が傷を覆って新しい皮膚を作るように、時間だけがその穴を埋められる。隣国へ嫁がれるサラヴィリーナ姫の空虚も、いつかは、どれだけの歳月がかかろうとも埋まるものなのだろう――わかってはいても。はんぶんを喪った悲しみを、どうか忘れないでいてと願うのは、あまりに酷だろうか。望まぬ道かもしれずとも新しい未来が待つその人の幸いを遠くから祈り、姫の大切な片割れのひとに、真実の報告を。)……そうです。全ては、国王陛下の御心のままに。(混乱しているのが目に見えてわかって、この事態が彼女にとって予想だにしないものだったのだと再確認する。予想できるわけがない。まだ、たった十七の少女だ。城に囲われ、選ばれし少数の人間との接触しか許されず、王族という希少な人種の生き方しか知らない。従者だった男の名を呼ぶ声が、痛ましい。顔をあげぬまま、声に色を載せぬまま、機械のように言葉を発する)…いえ、私はもう騎士団には所属しておりません。サラヴィリーナ姫をお送りするお役目は、エドに引き継いで参りました。(この身はもう、騎士ではない。末姫の従者でもない。ヴェリテの名も捨てた。在るのはただ、一振りの剣だけ。)……私にはもう、戻る場所はどこにもありません。そして、――あなたにも。(立ち上がり、真っ直ぐにその美しい灰青の瞳を見つめる。一歩、二歩。詰められた距離を元に戻し、少女に切っ先を向ける。磨かれた刀身が、今日はない月のように光る。)陛下は、私に、姫の片方を処分せよ、と仰いました。禁忌の存在をこの塔でひっそりと生かし続けておくという選択肢は、彼の方にはなかったようです(――運命なんてものがあるならば、それはこの小さな女の子にどれだけ残酷なのだろう。ただ、母の胎からふたりででてきたというだけのことが、何故罪になるのだろう。)……けれど、(向けた剣は揺るがない。震えもしない。ただ、笑む顔が歪む。)あなたは、これでようやく自由を手にした。選ぶことができるのです。あなたは、どうしたいですか?(自由とは、考え続けることだと思う。考えなければならない。彼女の足許にはもう、道は敷かれていないのだから。)…私はあなたの剣で、盾です。あなたが選ぶ限り。
* 2022/11/22 (Tue) 06:06 * No.33
(願いは届かず、騎士だったひとの顔は未だ見えぬまま。それだけでどうしようもなく不安で、息がじょうずに吸えなかった。もう騎士じゃない。従者でもない。彼我いずれも、戻る場所はない。続けざまに告げられる言葉のどれもがすぐには飲みこめなくって、けれど聞き返すだけの余裕はなく、声すらも出せなかった。重なりかけた影がまた離れ、冷たい銀の月が昇る。向けられた刃を見、やおら相対するひとの顔ばせを見た。――そうして真実が、明かされる。)  、 ……え、?(刹那、彼の瞳から色が消えた。髪も、服も――否。色を失ったのはこちらの瞳で、それは受け入れねばならぬ現実への強い拒絶だった。頭が、ひどい音で鳴る。声までよく聞こえなくなる。それでも父の、キュクロスの王たるひとの望みは理解した。ほころびなき円に戻ること。まことを嘘に揃えること。)……なん で……? ――…ぉとうさ、(まっすぐ処刑人を見つめながら、そこにはいない父に問う。舌足らずな子どものようにかぼそい、むずかるに似た音だった。くちびるを噛み、かぶりを振る。閉ざした瞳をふたたび開くのは、揺らがぬ穂先を突きつけた彼が「けれど、」と続けたから。)……選ぶ……(うわ言のようにくり返す。どうして彼が笑っているのか、そんなふうに言うのか、わからない。ふるえる声で懸命に、彼からの問いに答えんとする。)どう、……? ……、……どうしたいって、なに?(するけれど結局、惑う碧では答えられなどしないのだ。歩んできた道の終着点を、呆然と見つめるばかり。)自由って……だってアルバートはわたしを こ、……っ、(殺しにきたのでしょう、と、口にすることさえ怖くて。自分自身を鼓舞するように、眉根にぎゅっと力をこめ。そうして、戦いを挑むまなざしで騎士だったひとを射抜く。)……国王のお考えと、わたしにあしたが無いことはわかったわ。でも、…アルバートまで戻る場所がないのは、どうして? “王命”を賜ったのでしょう。果たせばおまえもヴェリテの家も、相応の見返りがあるはずよ。(父の愛の真偽。明日のわが身。そういうものを憂うより、彼の言葉を理解しようとするほうがずっと冷静でいられた。これもある種の逃避だろう。でも、知りたいのも嘘じゃない。)もう王国騎士団の騎士でもなく、末姫の付き人でもない。それなのにまだ、わたしの……“わたし”の剣で、盾だと言うの? 王家の人間ですらなくなった、呼ぶべき名もない女よ。それがどういう意味を持つのか、……本当に、わかっているの?(また、声がふるえてしまう。戸惑いで。怯えで、迷いで――たまらなく、焦がれる気持ちで。)
* 2022/11/22 (Tue) 10:30 * No.37
(それは、愛する片割れと別離し、信じていた父に裏切られ、絶望的な状況に立たされた哀れな少女を混乱に陥れるには十分な、十分すぎるほどの情報量だっただろう。真綿に包むように大切に育てられた姫君だった。騎士も、大切に、たいせつに守ってきた。もし神様なんて存在がいるのならば――いや、そんなものは初めからなかったのだ。この、冷たく、暗い、檻のような塔には、神様も、魔物さえ近づきはしない。)……(何かを答えるのは簡単だった。この剣をおさめるのも。彼女にとって己がいま、父の命でいのちを奪いに来た処刑人でしかないとわかっていても、彼女に畏怖と対峙のまなざしで射貫かれるのは――想像以上に堪える。)……あなたが思うよりもずっと、双ツ子の禁忌は王家にとって忌むべきものだったということでしょう。例えば言葉通り“王命”を果たしたとして…すべてを知り、陛下のご命令で双ツ子の禁忌を正した私が、このまま生かされるとお思いですか?(答えは勿論、否、だ。彼女のいのちを奪って塔を出れば、恐らく間もないうちに自分も誰かに消されるだろう。国王陛下にとって、王家にとって、この国の安寧を守るためにひとりのいのちを奪うことなど、蟻を踏み潰すくらいに簡単なことだ。震えながら、それでも気丈に問いただす声が、たすけてほしい、と叫んでいるのが聞こえるようだ。恨まれるより、憎まれるよりも、つらくて、悲しい。)考えるんです。あなたはもう、キュクロスの姫じゃないし、王族でもない、ただひとりの無力な少女でしかない。家族を失い、財産を失い、キュクロス国内ではひっそりと生きていくことさえ難しいでしょう(剣をおろす。距離を詰めてしゃがみこんで、ゆっくり目線を合わせる。伝われ。伝われ。伝われ。がちゃん、と、剣が冷たい床に落ちる音が響いた。)――それでもあなたに残されたものを数えてみて。健康な体、乗馬の技術、今まで得た知識、ビビ……“あなたが選ぶ限り”、俺もいる(“あなたに”選んでほしいのだと、伝わるだろうか。あなたがたったひとこと願ってくれるだけで、あなたのためにやれることがまだこんなにある。)もう、誰かのために生きなくていい。誰に望まれなくても、あなたはあなたが選んだ道を歩む権利と責任があるんです。(ようやくいつものように気の抜けた顔で笑えた。言葉とはこの時のために在ったのだと思えるくらい、もう言うべきことは何もない。)……それでもそのいのちをもう要らないというなら、俺が責任をもってこの手で終わらせてさしあげます、姫君。(さあ、選ぶのは君だ。)
* 2022/11/22 (Tue) 17:50 * No.40
(娘を殺すことも厭わぬ父なのだと知ったばかりだというのに、それでも甘い考えを捨てられなかった自分がはずかしい。彼から問い返されてはじめて、それに気づく勘の鈍さも。ゆっくりと瞳を見開く。)そ、んな……そんなの、おかしいわ! アルバートはなにも知らなかったのに……わたしを“処分”してもしなくてもどのみち……っそんなの、(もう戻る場所は、どこにもない。言葉の意味を理解したのならその不条理に打ちのめされる。拒否権はなかった。初めから。従者を命じられたあの日から、結末は決まっていたのだ。)……、…アルバート……(わたしは、ただの無力な少女。彼の口からあらためて聞き、こころぼそさに眩暈がする。こちらの目線に下りてくるように体を屈めた彼の飴色を、怯える碧でじっと見た。金属の無機質な音が響けば僅かに肩をふるわせる。でも――あなたに残されたもの。ひとつひとつと紡がれたそれは、すべて、“サラ”だけのもの。胸が締めつけられて、そのうえ。数えてみて、と諭した声に、たしかに重なって聞こえたのだ。どうか私を、俺を選んで と。 ――夢みたいだった。)どうして……?(声がかすれる。どうして彼は、ほしかったものをすべて与えてくれるのだろう。認めて、ゆるして、やわらかく笑って、選ばせてくれるのだろう。うるむ瞳が彼を映す。願いはあった。生涯ずっと、明かさぬつもりでいた願い。伝えても、いいのだろうか。こわごわ伸ばしたほそい指先が、深い深いこころの底に隠していた希求に今、触れる。)…アルバートは皆に慕われてるわ。両親に、かわいいきょうだい……騎士団の部下はもちろん、わたしの侍女たちもおまえが好きよ。女のひとにも人気でしょう。(「…浮いた話は聞かないけれど。」ちいさく肩をすくめて、一拍。)……しあわせになってほしかった。大切なひとたちと、キュクロスで。(従者の任を解かれたあとも、ずっと、笑っていてほしかった。そうであるべきひとだった。ありふれた、ささやかな幸い。当然に叶うと思ったのに。)捨ててほしくない。…ほしくなかったわ。わたしと関わっていなければと、どうしても思ってしまう。……でも、(そこでひとたび伏し目になり、ほそい息を吸っては吐いた。それからゆっくり視線を持ち上げ、選んでよいのだと笑ってくれた唯一のひとを見つめよう。)キュクロスではもう、叶わないのなら……戻る場所が、ないのなら。わたしのそばにいてほしい。わたしの剣と盾で、いてほしい。(選びたい。あなたのことを。あなたとともに歩む道を。)…離れないで、アルバート。わたしと一緒に、ここから逃げて。おまえと――あなたと、いきたい。わたし、まだ…っ……死にたくない……!
* 2022/11/23 (Wed) 12:37 * No.48
(世の冷たさを、人の汚さを、知らぬことを愚かだと言う人がいる。けれど、それは知らぬまま生きられる愛情と環境に恵まれた幸運なだけだ。愚かか否かを決めるのは、知った後、ではどう動くか、ということなのだと思う。箱庭を放り出された少女は、今それを知ったばかりだ。受け入れたくない真実が現実なのだと絶望に満ちた瞳で、なのに目の前で自分に剣を向ける男の心配をする。――陛下。あなたの箱庭で育った少女は、こんなにも清らかで純粋な心を持ち続けてお育ちになった。それは奇跡だと思う。だからこれ以上、剣を向けられなかった。甘いかもしれない。それでも、その純白の心を守りたい気持ちが勝る。潤んでぼやけたその瞳に、間違いなく“伝わった”のだとわかった。一世一代の言葉が実を結んだ。それは至上の感覚だった。肌が粟立つほどの幸福を覚える。)……、(何かを覚悟したようにその口から紡がれる、滑らかな声にただ耳を傾ける。それは、決意表明だ。薄青の瞳が力を持つ。“死にたくない”――強い本能は、なんと美しいのだろう。こんな状況だというのに、一瞬呆けて見惚れてしまった。「ああ、」と感嘆が呼吸に紛れて無意識に漏れる。)……最高です、我が姫君(彼女の脇に手を差し込んで立ち上がり、小さな子を“たかいたかい”するようにそのまま高く抱き上げる。)あなたがそう言ってくれなかったら、あらゆる準備が無駄になるところでした(一緒に生きる道を選んでくれると信じていたけれど――もし、ここで死ぬと言われたら、自分は果たして本当に彼女の心臓を貫けただろうか。他の誰かに託すくらいならと覚悟していたつもりだけれど――、もしもの未来に、答えは出ない。でもそれでいい。彼女は生きると決めた。ならば自分は全力で、彼女の剣で、盾であるだけだ。突然の抱き上げに、彼女は驚いた顔を見せてくれるだろうか。満足するまでそのままくるくる回った後、すとんと彼女を降ろすのと同時、ひとつだけ告げておこう。)先程、わたしと関わっていなければ…とあなたは仰っていましたが、それは違います。(慰めでもその場凌ぎでも彼女のためでもなく、ただ見える真実を。)“王命”を賜った際、私は陛下に、何故私だったのかと尋ねました。陛下は「ヒューバートの息子だから」とだけ仰いました。陛下の忠実なる腹心の、父の子だからだと。(あの日から、何度も、何度も繰り返し考え続けた。凪いだ声で、答え合わせをするように語る。)…陛下は、最初からあなたを処分するつもりなどなく、私に託すつもりだったのだと思いました。陛下の信頼する父の息子だから、私なら、全てを捨てても王族でなくなったあなたを守ると、信じて。あくまで推測でしかありませんが。…その上で、あなたの覚悟を試すような真似をしたのは私の独断です。申し訳ありませんでした。(深く腰を折り、頭を下げる。許してもらうまで、何度でも謝るつもりだ。)
* 2022/11/24 (Thu) 00:38 * No.58
(伝わった。伝わってきた。音にしなくともまなざしに、その熱に、託されたものがある。たしかに受けとりながら、やっぱり信じられない心地だった。それでも――これほど優しくゆるされ、強く望まれてしまったのなら、もう抗えようはずもない。グラスから水があふれるように、こころが叫ぶまま伝えた。そばにいたい。生きていたい。必死に足掻き、訴えた。そして――)…え、……! や、っあ、アルバート……!?(言いきるなり逃げるように目を伏せ、彼のいらえを待っていると。耳に触れたのは予想だにせぬ、最高です、の言葉だった。聞き返すため顔をあげるけれど、それより早く彼の手が伸び、からだがふわりと宙に浮く。「なに……っ?」眼下のひとを見つめる声が戸惑い、上擦った。空気を含み翻る外套。その下に、いつか彼が褒めてくれた桃色が覗いていた。)……アルバート。あの、準備って……?(両の踵が石の床に降り、空中で聞こえた“準備”という言葉について尋ねたがる。が、彼もくちびるを開いたので順番を譲ることとした。密命を受けたときのこと。父が告げた「彼だった」理由。そこから浮かびあがってくる、王の真意と娘への思い。“私なら、全てを捨てても”。その言葉に苦しくなるけれど、おなじだけ、その決意と勇気に慰められる自分もいた。)……顔をあげて、アルバート。(抱きあげられたとき思わず掴んだ彼の腕を遠慮がちに撫ぜ、「どうして謝るの?」と問う。こちらも覗きこむように屈んで、まなざしを重ねたがった。ねだったとおり彼がこちらを見てくれても、頭を下げたままでも、やがておだやかな声音でおのれの思いを語りだすだろう。)嬉しかったわ。選ぶべきだと……選んでいいと、言ってくれて。アルバートがわたしを“試”さず「こうするべき」と最初から言っていたら、きっと、頷いていた。考えずあなたに甘えてた。(みずからが歩む道なのに。恥じ入るように眉を寄せる。)――ありがとう。わたしの覚悟、ちゃんと言葉にさせてくれて。生きる権利と、…責任を、わたしの手に持たせてくれて。……すごく、嫌な役だったでしょう。(その“独断”に感謝こそすれ、腹を立てることはなにもない。だからもう謝らないでと、願いをこめて彼の袖を引く。)それに、……お父さまのこと。そうだったらいいなと……思うわ。確かめる機会はもうないから、あなたの見たものを信じたい。そうすればお父さまのこと、…きっと好きなままでいられる。(たとえ真相は違っても。あなたの見つけた真実こそを、この胸に抱いてゆきたいと。笑みと呼ぶにはぎこちない。それでも、精一杯やわらかな表情を浮かべて告げるのだった。)それで……わたし、どうしたらいい? なにか手伝えること、あるかしら。
* 2022/11/24 (Thu) 11:56 * No.61
(彼女が怒っていい理由なんて山ほどある筈だ。最初から陛下のお言葉を伝えなかったこと。選んでほしいと思う答えがあるのに、意図して教えなかったこと。――剣を向けたこと。抱き上げてくるくる回したこともか…?目まぐるしい環境の変化と非日常の混乱の中、至らなかったのはおのれの力不足で、一個人としての彼女の尊厳を傷つけるものであった。そう深く反省していた男の腕を、小さな手が、なぜ謝るのかとそっと撫でる。嬉しかった、と何の含みもない響きに、思わず顔をあげれば本心なのだとわかるまっすぐなまなざしが向けられる。思いが間違いなく伝わること。願っていたかたちで、望んでいた大きさで、きちんとその手に受け取ってもらえたこと。気遣いさえ滲ませて差し出された礼の言葉に、緩くかぶりを振る)……いえ。いいえ、…――本当に、ありがとうございます…(先程の熱弁で言葉を使い果たしてしまったのか、それしか紡げぬへっぽこぶりだったが、続く彼女の“お父さま”に込められた響きに、満足げに頷く)……はい、俺もそう思います。真実がもう永遠に闇の中ならば、――自分の信じたいように信じていいのだと、思います。陛下を…“お父さま”を、好きなままのあなたでいていいのだと。(彼女には誰かを恨んで、憎んで、生きてほしくない。国を守る唯一の立場に立つお方の本心はわからない、厳しいお方だ、親子といえど情に流されるようなひとではないのかもしれない。けれど――愛娘を頼むよと、託されたと思って生きていきたいのだ、自分が。この手は彼女を殺めるためではなく、守るためにあるのだと信じたい。そして、全てではないけれど僅かな光を見つけたような表情で前を向こうとする元あるじに問われれば、力強く頷こう。)先ほどお伝えしたように、陛下にあなたを託された日から、ずっとここを逃走する準備を重ねておりました。……まず、今からここを燃やします。その懐中時計をください。そして、階段を降りた先で待機していてもらえますか(ここからは時間勝負だ。彼女を階下へ避難させると、部屋に用意してあった油を撒き、隣室に隠しておいた魔獣の遺体を運び込む。ついでに自分の衣服と一振りの剣を放り込み、火を放つ。――彼女のいのちを奪った後、自分も火を放って自害した、という設定だ。詳しく調べられればすぐに事実とは異なるとわかる小細工だが――恐らく調べられることはなく、この塔ごとひっそりと歴史の闇に葬られるだろうと思う。火が移るのを確認すると、すぐに階下へ向かう。予想が正しければ、塔の入り口には見張りの一人もいない筈。一応先に出て周囲を確認するも、やはり人の姿はなく――呆気なく脱出に成功する。近くの木の茂みに隠してあった馬を二頭連れて帰れば、彼女の安堵した顔が見られるかもしれない。)さあ、ビビ、よかったね。お前のご主人様にまた会えた(これからひたすら走ってもらう予定の二頭は準備万端の筈。感動の再会が済めば、再び塔を見上げて彼女に問おう。)今からとりあえずは隣国を目指して走ります。――これが、この国との最後の別れです。残したことはありませんか?
* 2022/11/26 (Sat) 06:26 * No.79
(その瞳を見つめること叶えば、伝える声にも熱が滲む。つるぎから手を離すなり、さっきまでが嘘のように言葉を詰まらせる彼には「っふ、」と眉を下げ、)……どういたしまして?(と、疑問形の調子で返そう。――ただふたりで生まれてきただけで厭われ、隠され、亡いものとされた。国家ぐるみの隠匿。その中心にいた父を憎まずいたいなど、甘いのだろう。でも、その憎悪を生きてゆくためのよすがにしてゆけるような強さは、自分にはないと思ったから。たとえ都合のよい夢であっても愛したままでいたかった。そうして、彼が頷いてくれる。父を好きなままのあなたでよいのだと背中を押してくれる。ああ、騎士がこのひとでよかった、と、そう思うのは何度目か。伝えきれぬありがとうをこめて、しずかに頷き返した。)わかった。……気をつけてね。(追いつめられたことで咄嗟に逃げてと口にした自分とは異なり、彼は今日のために入念な準備を重ねてきたと言う。時計を、と求められれば外套の襟元に手を入れて、首から下げていた鎖とともに彼の掌へ載せるだろう。手を貸せることはなさそうだから、せめて邪魔にならないように。これから“騎士と姫”を殺す彼を残し、ひとりで部屋を出た。階段を降りてゆくさなか、焦げた臭いがして上を仰ぐ。ちらつく炎と黒煙に、目が染みるような心地があった。)――アルバート! 大丈夫だった……?(すぐに来てくれるとわかっていても、待つ時間は不安なものだ。彼の足音が聞こえてきたなら、階段のすぐ下まで駆け寄り、出迎えようとするだろう。かくしてふたりは脱出するが――身を強張らせ進んだ入口も、その先も人の気配はなく、あまりにも簡単だった。父の笑みが脳裏をよぎる。数舜ののち、きつく目を閉じ、名残惜しさを押し潰した。)……、(塔を離れ、次の段階とばかりに彼が茂みへ消える。わずかな荷物を詰めた鞄、その肩紐を両手で握りしめて、戻ってくるのを待っていたが――)……! ビビ!(青鹿毛の姿を見とめたなら、思わず声が出てしまった。は、と両手で口をふさぐ。それから馬たちに歩み寄ると、その体を優しく撫ぜた。ほんの数日会わなかっただけなのに、恋しくてたまらない。)ビビ……アイリーンも……一緒に、逃げてくれるの……?(なんて心強いのだろう。胸がいっぱいで、ありがと、と一言だけ声をふるわせた。これから足となる彼女たちに。再会させてくれた彼に。)……最後の……、……うん。ないわ。(問うひとの視線を追いかけるように、尖塔を見上げながら。あしただけを映した双眸で、凛と響かせ、伝えよう。ここから城は、王たる父のおわす場所は、見えるだろうか。見えずともその方角にからだを向け、景色をまなうらに焼く。それから胸元で手を重ねて、片足を軽く後ろに引いたなら、そっと顔をうつむけた。――さようなら。お父さま。リーナ。うつくしき真円のくに。それは姫だったはんぶんの見せる、最後のカーテシーだった。)
* 2022/11/26 (Sat) 13:11 * No.83
(部屋中に広がる炎をみつめながら、ああこれで本当にこの国との別れだと、“アルバート・オルタンシア・ヴェリテ”は死んだのだと、一瞬だけそんな感慨に浸った。父と母はきっと道を外れた息子を責めはしないだろう。ひとりの女の子のいのちを守り抜く選択を、きっと誇りに思ってくれるだろう。けれど――。階段の下で心配そうに出迎えてくれる華奢な手を引きながら、愛しい家族の顔を振り切る。いまは、まだ考えるべき時ではない。予想通り誰も見張りのない、まるで“さあお逃げ”とでも言わんばかりの状況に目を伏せる彼女も、きっとまた、自分と同じだ。“彼女”の存在が少しでも希望になればいいと、連れてきた賢い子は、いつもどおりに優しく撫でられ、相好を崩しているようにアルバートには見えた。一緒に逃げてくれるの、と問われた二頭が、勿論よ!と胸を張って答えたような気さえして、思わず肩を震わせて笑ってしまう。「むしろあなたが置いていったら、ビビは憤慨して追いかけてくると思いますよ」とからかえば、ビビが、当然ね、と言わんばかりに鼻を鳴らしたのに、また笑う。生きとし生けるものの温もりとは、なぜこんなにも愛しいのだろう。敷かれた道はもうない。明日眠る場所も、明後日どこにいるのかさえわからない。けれど、きっと生きていける、とアイリーンを撫でながら無条件に思う。最後に残すことは何もない、と言い切った彼女が見せるカーテシーは、――今までに見たどれよりも美しく、気高かった。きっと父王のことを、そして――片割れの末姫のことを、想っている。そちらが城の方角だと思って、アルバートも深く敬礼した。空はまだ闇に包まれたまま。塔が燃え落ちるにはきっともう少し時間がかかる。騒ぎになるのは明け方だろうか――彼女の顔がこちらを向けば、いつも通りに微笑もう。)――行きましょうか。(大丈夫。あなたの傍には、あなただけの騎士がついている。手を伸ばす。その手を取ってくれれば、ぎゅっと強く握ろう。生きとし生けるもののてのひらの温もりが、闇を行く元姫君の足許を照らす明かりのひとつに成り得ますように。)

(さすがに城の門は平常時と同数の兵が守っていたので、鞘から剣を抜かないまま手早く数人を気絶させると、城の門をくぐって先を急ぐ。小さくなってゆく王城を振り返る時間はない。追っ手はかからないと踏んでいるが、常に最悪の状況を想定しておくべきだ。空も明るくなって、道を行く人も増えてきた。このまま街道を行くのは危険が大きい。)お疲れだとは十分承知なのですが……もうひと頑張り、できますか?ここから森に入ります。父が狩りをするときに使っている家…というか小屋があるので、とりあえずそこまで走りたいのですが、……途中、魔獣の生息域を通らねばなりません。今度は馬車もなく、戦闘を目の当たりにするかもしれません。(過ぎるのは、数か月前の公務での出来事。きっと彼女の脳裏にも浮かんでいる筈――全身に返り血を浴びた男の姿を。)…怖い思いをさせるかもしれません。けれど――必ず、守ります。私を信じてついてきてくれますか?(今日この時だけではなく、きっとこれからだって何度だって起きる困難を、共に乗り越えてくれるか。答えを待つ間、きつく手を握り締めていた。)
* 2022/11/27 (Sun) 18:05 * No.97
ふふ、やだ。そうなの? ビビ。(熱烈ね、と眉を下げるけれど、当然まんざらでもない。馬たちの様子に笑う彼を見たならくすぐったいような気持ちで、少し肩の力も抜けた。この幾月かで育んだものがあるとはいえ、どちらも内気。彼女たちの存在はこれからも、何重もの意味でふたりの助けとなってくれることだろう。こうべを垂れるおのれの隣で、彼もまた、おなじように祖国に別れを告げる気配がした。一秒たりとも無駄にできぬ状況で、それを選べること。この弱くてちいさな魂に、そっと寄り添ってくれること。いつもと変わらぬやわらかな笑みで、未来へいざなってくれること。そのどれもがとても得難い、このひとの美点であると思う。そしてそれはきっと、ヴェリテの名を捨ててもけして失われない。)――ええ。行きましょう、アルバート。(伸べられた掌に手を重ね、こちらからもきつく握り返す。“サラヴィリーナ”の道は今日をかぎり、これからはおのれで道を敷く。名乗ることすら許されない。もしかしたら、ひなたを歩くことも。まっすぐ前を見据え目を凝らせど、なにも見えてきやしない。それでも――きっと大丈夫だ、と、むすめもまた思ったのだ。大丈夫。だってこんなにも、結んだ手と手があたたかい。わたしだけの騎士が、剣が、盾が、そばにいてくれるのだから。)

(騎乗は引けを取らぬつもりだが、戦闘が伴うなら別。さすがは王国騎士団の雄、見張りを気絶させる手技の鮮やかさに駆け抜けつつ舌を巻いた。気づけば空は白みはじめていて、ずいぶん走ったなと自覚した途端、疲労感を覚える。灰青の髪は乱れ、額には玉の汗が滲んでいた。)うん、わたしは大丈夫よ。このまま次の夜までだって行ける。(とは、さすがに強がりだが。身を削らずして果たせる逃亡劇であるとは思っていないし、多少の無理も覚悟の上。なにもできないなりに勇ましく、表情だけはあかるく在ろう。そう思えど――魔獣と聞いて、くちびるが戦慄いてしまったのは多分、隠しきれてはいない。地鳴りのような咆哮、ひどい臭い、返り血にまみれた騎士。それらが脳裏によみがえればどうしても言葉に詰まってしまうが、)……、 …アルバート……。(必ず、と誓うひたむきな声が、ともに越えたいと伝うから。その願いが怯えるこころを溶かし、戦う力を生むのだ。怖くないとは言えない。だけど、怖くたって目は逸らさない。ちゃんと一緒に乗り越えたいから。わたしを守ってくれる唯一を、ちゃんと見つめていたいから。あたらしい光を瞳に宿し、すこしの迷いもなく言おう。)もちろんよ。(勝ち気に眉を上げ、きっぱりと笑ってみせよう。そそいでもらった深い思いを、自分からも渡したかった。)だれよりあなたを信じてる。ついていくわ。(ずっと。どこへでも。)
* 2022/11/28 (Mon) 23:21 * No.109
(世界中を見ても恐らく稀有な、体力もあって騎馬に優れた姫ではあるが、さすがの彼女にも疲れの色が見え始める。夜通し寝ずに駆け抜けてきたのだ、休ませてあげたいとは思うが、未だ許される状況にない。そんな顔色で、それでも次の夜まででも大丈夫だと強がる姿を見て、肩の力が抜けたように頬を綻ばせる。)流石に次の夜までだと、俺が保ちません。休ませてください(明るく素直で、少々意地っ張り。逃げ続ける旅の連れが、彼女で本当に良かったと思う。こうやっていつのまにか、無理に背負った荷物をひとつ、自然に降ろしてもらっている。――ほら、こんなふうに。笑って、もちろん一緒に戦うのだと、何の憂いもない顔で。)…ありがとうございます。でも、もし俺に何かあれば、迷わず逃げてくださいね。(――幸か不幸か、魔獣には遭遇したものの、単体で、かつ先の公務の際に出会ったものよりも弱かったため、アルバートが血塗れになる前には事を終えることができた。幾らかの返り血は浴びたが、それでも彼女に何もなかったことには心底ほっとした。間もなく辿りついた古ぼけた小さな家は、台所と居室一つで終わってしまうようなそれで、けれどひとまず休息を取るのには十分だ。頑張り続けてくれた馬たちを小さな馬小屋に繋いで草をやり、暖炉に火を入れ、ほっと一息つく。身体が温まってくるとようやく空腹に気づいた。食器棚から皿を二枚、カップを二つとティーポット、そして持参した荷物からは――花の紅茶の茶葉と、ブルーベリーのスコーン。掲げて見せて、子どものように笑う)……侍女長のように完璧には淹れられませんが、これでもあなたの付き人でしたからね(彼女の好きな茶葉と甘い菓子。適温の湯を注げば、ふわりと開いた茶葉から花の香りが立ちのぼる)――如何でしょう、だいぶ上手になったでしょう?(自信満々に紅茶と菓子を並べて、恭しく暖炉前の小さなテーブルに彼女を誘う。小さな、小さなお茶会。古ぼけた家、皺一つないテーブルクロスも、選び抜かれた季節の花もないし、何ならこれが本日初の食事だという有様だけれど――ああ愛しいな、と思う。彼女が飲んでほっとしてくれたら、それだけで嬉しい。もしかしたら、懐かしさにか失ったものの大きさにか、涙が滲むかもしれないけれど、そうしたらその涙はそっと指で拭って差し上げよう。紅茶が喉を通って体の芯から温めてゆくのを感じながら、ゆっくりと口を開いた)……この後、どこへ行きましょうか?東の大国ソフスでは、白夜という一晩中明るいままの夜があるそうです。南のメッサジットには、石灰棚に温泉が湧き出て、青と白の棚田が美しいのだとか。…世界は広く、俺たちの知らないことだらけなのでしょうね(彼女にも行ってみたかった場所があるだろうか。未来の希望を指折り数えて、本来であれば一生行くことのなかったであろう国、景色を思う。それなのに、ふと――折る指が止まった。彼女を見て、目元を微かに緩めて、頷く)――そしていつか、何年後、何十年後になるかわかりませんが……キュクロスへ帰りましょうか。…紫陽花の咲く頃に(あの時交わした約束を、必ず実現させるために。「その前にリーナ様にもお会いしに行きましょう」と笑うのに、ようやく大切なことを思い出して「あ、」と目を見開いた)…名前。俺はあなたを、なんて呼べばいいですか?(「これから一緒にいるのに呼ぶ名がわからないのは不便です」と、以前教えてもらえなかったそれを再度強請ろう。教えてもらえた名は、宝物のように口の中で転がすだろう。これから何度でも、その名を呼ぶのだと笑って。)
* 2022/11/29 (Tue) 19:54 * No.120
(信じてる。よどみなく紡いで、ともに在ると笑ってみせた。その顔がふいに歪んだのは、彼が、ひどいことを言うからだ。)逃げない。(間髪入れずに返す。)約束したわ。わたしだけじゃなくて、あなた自身も守るって。(たとえ想定の話でも、“何か”があってほしくはない、と。あのとき彼が優しい嘘を吐いたことなど、むすめは知らない。駄々をこねる子どもに似た顔で「破ったら、きらい」と無茶を言う。――馬車と近衛に守られながら音だけで聞いた戦闘よりも、もっと近く、生々しいところから、つるぎを振るうさまを見る。飛び散る鮮血も騎士のまなざしも恐ろしかったけれど、でも、これが生きるということなんだ、と目が醒めるような心地だった。)……ひとまず城から出られてよかった。おつかれさま、アルバート。(これまでの恵まれた生活からすれば確かに殺風景だが、雨風を凌ぐ壁があり、暖を取るための炎まである。視界に収まる部屋の狭さも、彼を見失わずに済んでむしろ安心を覚えるのだった。脱出に護衛に暖炉に、なにからなにまで手際のよい彼に労いの言葉をかけて――ほがらかな笑みとともに掲げられたものに、瞳をまるめた。)! 紅茶とスコーン……持ってきてくれたの? わざわざ……?(王に背き国を捨てるという重くおおきな決断のなか。ともにゆくひとの好物を限られた荷物のひとつとして選べるひとが、どれほどいるだろう。侍女長に教えを乞う姿を偲べば自然と表情がゆるみ、「それは飲んでみるまでわからないわ」と得意げな彼を茶化した。涙はここでも出なかった。なにも、失っていないから。問う声に紅茶をひとくち含む。)白、夜……明るいの? 夜なのに? ふしぎね。行ってみたいわ。温泉も、棚田も見てみたい。溶けてしまいそうに暑いところも、睫毛が凍ってしまうくらい寒いところも、行ってみたいわ。民族音楽も聞きたいし、その国ならではのものも食べたい。(知らないことばかりの世界。それが嬉しくて、数える声はあどけなく弾んだけれど――最後に紡がれたその約束には、カップを持つ手が止まった。逆の手で胸元を撫ぜる。城から持ち出したたったひとつ、銀色の紫陽花が咲く場所を。)……うん。 ……っ、うん……(頷き、やわらかく細めた碧から、大粒の涙がこぼれる。とうとう、こぼれてしまう。ひとたび溢れれば止められなくて、ぽろぽろと頬を濡らした。手で顔を覆う。肩がふるえる。姉姫にも、と続いた声にも、頷くので精一杯。なにも言えずにしゃくりあげる自分に、彼は驚くだろうか。その指が涙を拭ってくれるなら、頼りないこの手を伸ばして、彼のおおきな手に重ねよう。想いを、伝えたがるように。)……わたしの、名前……(やがて落涙がおさまったのなら、ねだる言葉をくり返す。名前。姉と分けあわない、ただひとり、わたしだけの響き。それはきっと、ずっと、なによりも欲しかったものだ。だから――すこしだけ考える間を置き、けれど答えはもう決まっていた。一心に見つめて、告げよう。)アルバートが決めて。わたしに、…わたしだけの祝福を、ちょうだい。(どうか与えて。 うたって。 あなたのくちびるで、宝物を。それこそがなによりの幸いだと、この笑みで伝わりますように。)

(ああ。 たった今、生まれたのだ。)
* 2022/12/1 (Thu) 17:47 * No.132
(アルバートだけの姫君は厳しいひとだ。この身を犠牲にして彼女を庇うことさえ許してくれない。「…そうですね、必ず守ると、誓いましたしね。嫌われたくないし」と困ったように笑って、もう一度、今度は嘘偽りなく誓う。奪うためでなく、守るために剣を振るうこと。この手にはもう守るべきひとのいのちがかかっていて、おのれの代わりはないということ。その重責さえ心地よく感じるのは、きっとアルバート自身も生まれ変わったからだ。)

(子どものように輝く瞳で、弾む声で、羅列されるひとつひとつに小さく頷く。自分のいのちは自分で守り、自分の生活を自分で立てて、その代わりに、何処へ行くのも、何をするのも誰にも咎められない。そういう責任と自由を、彼女は初めて手にしたのだ。道の敷かれていない未来は不安も多いかもしれない。ならば自分は、彼女が本当に望むことをみつけるまで、安住の地を見つけるのか旅を続けるのかわからないが、安堵できる場所をみつけるまで――傍にいようと、思う。そして、いつか、“帰る”日には、一緒に教会に紫陽花を見に行きたい。胸元の指先がなにを撫でているか、わかっているから優しく微笑む。泣いていいんだ。これからのあなたは、たくさん泣いて、たくさん悔やんで、たくさん怒って――もっとたくさん笑って、幸せにならなければならない。涙を拭うために伸ばした手に、小さな手が重なる。確かにここに在る、小さなちいさな温もり。いつか、翼を羽ばたかせて大空を翔ける日までは、どうか俺の傍に。名前を聞いたのは、彼女の姉姫に固有の名前があったなら妹の彼女にもあったのだろうと、それを呼べばいいと、そんな単純な理由で。だから、彼女の言葉に息が止まるほど驚く。)……俺が、あなたの名前を……?(頭がくらりと揺れる。)……それは責任重大ですね………(と言ったきり頭を抱え込んでしまい、落ちる沈黙。すっかり紅茶が冷めた頃、「…すみません、緊張しすぎて簡単にはつけられそうにないので、お時間を頂いてもいいですか?」と宿題を持ち帰ること、数日もしくは数十日。その時彼らはどこにいただろう、穏やかな海を漂う船の中か、それとも果てなく広がる砂漠の真ん中か、冷たく銀に光る雪原か――何処であっても二人肩を寄せ合い、「思いつきました」と笑う元騎士の顔は、きっと満足げにくしゃくしゃに崩れて。きっと、元姫君も、聞く前からくしゃくしゃに笑ってくれるに違いないから。)

あなたの名前は……  

(それは、二人の育った国の言葉で“光”をあらわす。あなたは、永遠に、俺の光だ。)
* 2022/12/3 (Sat) 14:28 * No.139