(春へ)
……これを……姫さまに、お返しいたします。(定めの夜から数えて、十といく日か。“表”に現れるひとりの姫ぎみに、騎士はこれまで通り、影のように付き従っていた。ずっと忘れていたものをたった今思い出した、というふうに、そっと彼女の手へそれを握らせてみせたのも、なんら変わらぬ付きびとの顔をして、一日の務めを終える間際のこと。上等な作りに似つかわしくない、形のよれて崩れたレース飾り。この世にふたつとない真白い手巾は、そうして正しい持ち主のもとへとわたるだろう。そのかたく張りつめた、うつくしい指先が布地を広げるとき。そこに忍ばせた蔦の葉が一枚、符牒めいて舞い落ちる。――浅く吐き出す息が、薄闇を白く濁した。ひとも鳥もみな寄り添って、深く眠りに落ちるころ。冬の夜気は肌に染み入り、骨を冷たく撫でてゆく。手巾一枚、葉の一枚を託したほか、“表”の姫ぎみにはなにも語らなかった。それでよい、としながら、最後に交わすまなざしの奥には、遠く旅立つ子を送る親のような慈しみがたしかによぎった。あるいはそれは、大切に握る手のひらを無理やりに開かせねばならないと知る、懺悔の色であったかもしれない。今、半円の月をあおぐ瞳はただ凪いで、ささやかな光を映しこんでいる。小さな闘技場。みたび、この地に足を踏み入れた騎士は、常と代わり映えのしない姿で佇むばかり。白のサーコート。腰には細身の長剣。ただひとつ、革紐で高く結い上げた髪にだけ、いつかの遠い面影があった。円柱にかける指は、手慰みに蔦の葉へ触れ、その形をなぞる。乾いたつるが蛇のように這い下りる根もとに、古びたランタンをひとつ置いていた。楕円に広がる灯影のもと、近くに寄れば、互いの表情が難なく見て取れるほどにはなるはずだ。しかし騎士は蜜色の光に背を向けて、振り返らぬまま足音を聞く。顔をそちらへ向けずとも、誰のものかわかる。そのくらいの月日を共に過ごした。)――王命を、授かってまいりました。(情の一切を荒く削ぎ落とした声だった。その切り口一面に鋭い棘が立ち、触れようとした者を殊更に遠ざけんとするかのような、耳にざらつく響き。)姫さま。あなたには、お選びいただかねばなりません。
……これを……返す、と言ったの? ……あのひとが、(たくらみごとは、月夜の晩に交わされる。定めの日から十と数日、これまでの常とは明らかに異なることとして、“表”には姉のほうが多く出るようになっていた。今日もまた、つとめを終えて戻った片割れが、ふたつの小部屋を繋ぐ内扉を叩く。鍵のかからぬ、双子が自由に行き来をするための抜け道だ。もはやたがいの記憶を共有する必要もすでに失せた冬の宵、どこか固い表情で半身は言伝を口にする。折り目正しくたたまれた、見覚えのあるハンカチーフをこの掌に握らせながら。そう、切れ切れに確認したのち、妹の顔色は、夜空へ浮かぶ半円よりもにわかに青ざめた。――だって。この手巾は、単なる付き人に、親切心から貸し与えたものではけしてない。そんなこと、当然、彼とて重々承知だろう。だから。そのうえで、あえて告げるということは――血の気の引いた指先で、なかば震えるようにして布地を広げれば、はらりと落ちゆく蔦の葉が一枚。それを拾い上げる指先は、おのれのものとそろいのかたちをしていた。あたたかなぬくもりが、おののくこの手ごと、握りしめて言う。「わたしが行くわ」。符牒めいたそれにたしかな察しがついているわけでもないだろうに、そう言い張る片割れの、どこか怒りをあらわにする顔つきを前にして、ようやく少し笑えた気がした。)…………ふふっ。……だめよ。これだけは、“わたし”が。(独り占めしたがる子どもじみた欲を覗かせて、半身にはこう乞おう。)代わりに、支度を手伝って。レイ。ね、おねがい。(震えはもう落ち着いている。今度はこちらから指先を握り、支度のために手を引いた。身につける衣裳は、あの春の小さな秘密。灰色がかった青みのコート、ウエストコート、ブリーチズ。白い膝丈の絹靴下。いずれも、この時季にまとうにしてはいささか薄手で、凍てつく夜気をしのぐにはあまりに心もとないのだが、とはいえくだんの闘技場までの移動については、厚手の外套を羽織ることでどうとでもできよう。鏡台に腰を下ろし、姉の手ずから髪を梳いて結ってもらった。とくべつな髪型ではなにもない、変わり映えのしない男装姿。「介添人としてなら、ついていっても構わないでしょう?」――まるで、これから妹が、決闘に臨むとでも言いたげな食い下がりよう。腰に佩いた細剣の柄を撫ぜ、ちょっぴりおかしげにほほ笑んだ。)いいえ。わたしの愛しいおてんばさん。……どうか、お部屋で大人しくしていてね。(ついと背伸びをして、その額に口づけを捧ぐ。さてもかの場所へとみたび足を踏み入れると、そのひとは、振り返らずに、)いいわ。聞きましょう。(これまで聞いたことのない声音。すぐさま怯みそうになる内心を叱咤し、胸を張った。王命。――お父さまが、あなたに。きっと、この国の真実を。そそぐべき呪いを。呼気の白いもやが、薄く風にたなびいている。)
(うら寂しい闘技場にふたつの影が揃うと、紗幕を引くようなささやかさで障壁が閉じる。防音と人払いのためのまじない。高位の、たとえば王室が抱える術師の手によるような、精巧に編まれた術であると――彼女であれば判じられるだろうか。いずれにせよ、警告じみて明確に差し込まれる、他者の気配があった。鋭いまなざしに似たその違和を、騎士も感じ取って素早く視線をめぐらせたが――今は取るに足らぬものとして捨て置き、背を向けたまま語り始める。十七年前、すべての始まりから。生まれ落ちた双ツ子。父王の嘆き。呪われし血と穢れ。あがないの羊。王の回顧をなにひとつ取りこぼさず、彼女のもとへ運び届けるように。あるいは、おのれのうちへと深く刻みつけるように。)今が“その時”であると、陛下は仰せです。末姫の片方を処分せよ――王立騎士団所属、ジルベルト・ダニエリが、こたび、拝命つかまつりました。貴き御首を、卑しい刃になぞ晒せぬというのであれば――今、ここで自害なさいませ。(長台詞をそらんじるように朗々と響く、相手に言葉を挟ませぬ声づかい。日ごろそうした震わせかたをすることのない喉は乾いて、いく度も咳払いに満たない音を立て、最後に木の洞を通る風のような掠れた息へ変わった。新芽が甘く香る代わり、灯心の燃えるにおいが凍てつく風に乗ってながれゆく。一拍おいて石敷きの床に踵が鳴ると、結った髪が揺れて広がり、肩をすべった。遅れて振り向く双眸はなにものにも覆い隠されず、ランタンの火に明るく浮かびあがる。相手の心をただしく映しとろうとする、穏やかな湖面の静けさ。)……あなたの、呪いは……、(対峙する影に佩刀の形を認めてなお、騎士はおのれの柄に手をかけようとしない。今、翔ける鳥の速さで飛び込んでこられたなら、たやすく心の臓を明け渡してしまえる。そういった姿で、力を抜いて開いた両の手のひらを下ろし、ただ佇んでいる。)……あなた自身で、そそがねばならないのだと……私は、申しあげました。あなたのお心に、生み出されたものならば……たとえ、どこへ逃れようとも、あなたの手で、たしかに“打ち勝った”と……あかしを立てるまで、生涯消えぬもの、と……そう、考えたからです。(この場所で。燃ゆる黄昏のなかで。澄みきった瞳にこぼれる涙をぬぐいながら交わした、今はひどく遠い過日の。)……お聞かせください、姫さま。あなたが、そそぐべき“呪い”は……どこにあるのか。
(さながら窓辺にカーテンでも引くように、するすると、誰ぞの手によって垂れぎぬを下ろされる気配があった。子どもだましの目くらましとはわけが違う、王室おかかえの術師たちが織りなす精巧なわざ。――なればここは、さしずめ父の掌上だろう。真実を知った者の口から、おのれの知らぬ真実が語られる。十七年前、すべてのはじまり。国を脅かす忌まわしき双ツ子が、なにゆえ、今日まで生をゆるされたのか。)――……、(なにも言えない。頭のてっぺんから手足の先まで、しびれるような思いがした。姉が手ずから着せかけて、まじないを籠めてくれたぶあつい外套の内側で、しかし芯から冷えてゆく。顔色も表情もすっかり失くして、たとい「自害なさいませ」と勧められずとも、おもてはすでに死びとのよう。)ああ……、(げに掠れた音吐が、うわ言めいてくちびるを震わせる。)だから、わたしの名前、は、(あがないの羊。はじめから、ひとではなく、供物として生かされたのだといま、理解した。――ほんとうに、片割れを部屋にとどめておいて正解だ。聞かせたくない。聞かれたくない。だって、こんな、)…………、(思考のめぐりはひどく鈍い。そんな話もまあ、したことがあったかしらと、いっそ他人ごとじみて過ぎらせて、)……わからない。(かすかに笑った。いや、笑おうと、した。)わからないわ。もう。なにを「呪い」と見なしたのか、この手で……いったい、なにをそそごうとしたのかすら……。(騎士なれば察しただろう。外套に表れるわずかな起伏から、あるいは裾に出る影から、わが身が佩剣をしているということ。相手にもまだ、なにかを仕掛けようというそぶりは感じられない。おのが両手を水平に掲げて、そこへまなざしを落とす。)たぶん、そう……父上とて、なにがまことの「災い」であるのか――なにをもって見なすのか、真実、ご承知なされているわけでは、ない。(それは推定のかたちを借りた、断定。建国神話はもしもを語らず、されど決断は否応なく迫られる。そこで“時”を待つべし――と進言をした側近は、父を、なんとうまく口ぐるまに乗せたことだろう。かりに十全の忠心から、そそのかす意図はなかったとしてもだ。)誰にも、わからないものなのね。で、あるならば……いま、胸のうちにきざしたものから、考えましょうか。(ほんとうは、「わからない」ではないのかもしれない。ああ、それでも。ほほ笑みを刷いて息を吸う。)――……愚かなるキュクロスの王よ。考えはしなかったか。おまえの迷いが、この国に、また新たな呪いを生むのだと!(朗々と張り上げる声は、彼というより宙へと向かった。外套を脱ぎ捨て、抜剣する。晴れ晴れ、と喩えるにはほど遠い、いまにも雨の降り出しそうな曇り空。束の間ゆがめてすぐ戻そう。)さあ。ダニエリの子、ジルベルト。(抜きなさい、と言外に命じて。)あなたは、その剣で……(無粋な観客の目から逃れるには、おそらく、そう、)……双ツ首の、竜を討つのかしら?
(やはり、という思いがあった。彼女はなにひとつ、知らされていなかった。心身を一瞬で支配する、我を忘れるほどの怒りというものは、あの長い夜から時間をかけて噛み砕かれている。今はただ、暗く底の見えない水面を覗きこむような、空虚な哀しみばかりがこの身のうちにある。十七年もの歳月を、覆い隠され続けた“唯一”の真実。ひとりの細い肩に負わせるには、あまりにむごい。吹き荒れる風が、すべての息づかいを絶やそうとする冬。凍え、震えて耐えるひとに、けれど今、手をのべることは叶わない。与えられた時間はわずか。決断のときは否応なく迫る。)……そう、ですか……。(――わからない、と、そう返る答えに、騎士の口の端には少し、ほんのわずかに安堵がよぎった。生まれながらの罪。災い。呪い。そんなものの何たるかなど、この世の誰にも知り得ぬことだ。知らぬからこそ、その透明な脅威がいつか我が身に及ぶことを、みなが恐れる。独白のように紡がれる思いの移ろいを慎重に聞き取って、まぶたを伏せる。かつて、双ツ子の生を恐れのひとつと定めた王は――聞いているだろうか。高らかに鳴りわたるその声を。見ているだろうか。深く傷を負った心で、それでも剣をとる誇り貴き姿を。外套の下より現れる装いは、可憐にさえずる鳥。されど羽ばたきのひとつには限りない力が秘められているのだと、この手はたしかに知っている。いつかの問答をなぞる声が、輝く春の記憶を呼び起こした。“あなたは、その剣で――”)――……いいえ、姫さま。呪いを、そそぐのです。(静かに長剣を抜き放つ。肩を引き、中段に構えた右の手に、もう一方の指を添えた。水平に向ける切っ先が、揺れる灯影を弾いて光をまとう。踵がかすかに上がり、そのまま踏み込むかと思われた足はそこへしばし留まって、)……双ツ子として、生まれるさだめを授かった、民びとの……、(白く息を吐くたびに、声はやわらかく削れて丸みを帯びる。)……多くは、そのどちらもが……母の胎のなかで、命を絶たれます。(この期に及んで、語るまでもないことだろう。存在することすらゆるされぬその痛みを、彼女は誰よりもよく知っている。油断や動揺を誘おうという口ぶりではなかった。なにかを説こうとする声の色でも。向けるまなざしが、悲痛に翳る兆しはない。男の瞳は穏やかに、目の前のひとりだけを見ている。)……ですが、(言い置いて、軽く身を沈ませ、地を蹴った。矢で射止めんとするような刺突。重さの乗った一撃とは違う、かろやかに迫らせる軌道は、しかし、体格ゆえのずれを差し引いても大振りに、狙いは相手の肩よりもやや斜め上へと逸れる。剣筋は嘘をつけない。自身にもそうとわからない心の揺らぎが、無意識のうちに現れる。迷いや焦り。あるいは。)
(向かい合う騎士のくちびるが、少し、安堵のかたちにほほ笑んだ気がしてひとつ、まばたく。意外に思えたからだ。わからずとも、よいのか。そしてこうも思う。わからぬからこそ、めぐってゆくのか。災い。呪い。不可視の恐れ。――やがて、いつかの問答をなぞるように口を開けば、返るいらえもまた、同じ、)……そうね。ええ。……そう、だったわね……。(輝かしい春の日よ。相手の足もとで広がる蜜色に、うららかな陽だまりを想起した。懐かしむよう、愛おしむよう、ほんのわずか、まぶたを伏せてささやこう。斯くして、たがいの剣は抜き放たれ、いざ――と、動くかと思われた石床の影は、しかしながら。)…………?(まだ、ともし火を受けながら大人しく揺られていた。彼の声が、覚えのある響きに近づいてくる。切っ先は水平を保つかやや上向きに。まずは一手、こたびは受けようと構える姿勢のまま、その、語られる先へと耳をかたむけていたところ、)……、……!(ああ。それは、思いもよらぬ――とは言いたくなかったが、結果として、こちらの想像なんぞはるかに超えてもたらされた“現実”となる。あらためて考えれば当然のことだ。なにも建国史上、われらがはじめての双ツ子であったはずもあるまい。民びとのうち。いずれかを胎のなかで間引く医術とて、けして、たやすいことではなかろう。金もかかる。もろともに、否、ともするとその母体ごと――なに食わぬ顔で処分してしまったほうが、人倫にもとりはすれ営みとして“適して”いると、判断が下されることもあるのかもしれない。)産声すら上げられなかった命が……たしかに、ある……。(いまさらそれに気がついた顔をして、目を瞠り、息を呑んだ。そうであるならば、わが身がいまここに在るのは、ひとえに王族の血ゆえだろう。おのずと、みずからの足もとへと視線を落とす。油断や動揺を誘われたわけではない。ましてや、なにかを説かれたわけでもなかった。ただ、そこにある事実。凪いだ湖面のまなざしが、ごく穏やかに見つめていてくれるから、こちらもまた、静かな心地で受けとめられる。――“わたし”の生は、この国の、長く暗い夜の底に葬られてきた名もなき者たちの、連綿と続く円環の果て。それがわかると、死びとめく顔つきがふと、変わった。瞳にもまた、かすかに一点のひかりが戻ろう。たとえば、亡霊に足をとられて闇へ引きずり込まれるのではない。忘れないで。思い出して。この肩を、背を、さも励ますように軽く叩いては撫ぜてゆくあたたかさを、たしかにあずかる気がしたのだった。だから。)――……、(途中で言い置いた騎士の気配が、ふいに動く。肩上へと大きく逸れたために、その軌道は避けたはずみで跳ねるおくれ毛を数本ばかり宙へ舞わせたが、世に言われる女人の命よりも気がかりとなったのは、もちろん彼の剣筋だ。なにがその心を揺らがせ、煩わせるのか。あなたを知りたい。はじくよう打ち鳴らした剣戟の音が、そう聞こえていたらいい。)
(きらりと散った絹の髪が、糸遊めいて舞い落ちた。この寒さだというのに、近く対峙する男の額には大粒の汗が浮いている。すぐさま間合いを取り、構え直す切っ先に現れるもの、それもまた恐れだった。形なき呪いが、今にも伸びやかな翼を蝕んで。声の届かぬ水底へ、あなたを連れてゆくのが怖い。おのれの知らぬ間にはらわたに巣食い、気を惑わせる妄執のたぐい。だが、鳴り響いて語りかける剣戟の音が、かすかな光を取り戻して前を向こうとする瞳が。あの春の日が、男をここに引き留めている。またひとつ、薄煙のような息を吐くと、肩に残っていたこわばりが薄れて、両の足はしかと地を踏みしめた。産声ひとつ、懇願ひとつあげることすらゆるされなかった、幾多の命が眠る大地。滔々と継がれてきた円環の――その果ては、しかし。)――今は亡き、母ぎみが……あなたがたふたりを、みごもられたとき……、(国中が、たいへんな騒ぎになったという。男はまだほんの幼子であったから、当時の世情を知らない。どこか懐かしむような、やさしげな響きで紡ぎ出すのは、いつか、そうやって語ってくれたひとの声を、追憶のなかに辿るからだった。)間違いなどないはずの、貴き血に現れた、そのしるしが……卑しき我らのもとに、降りたとて。一体、なんの咎があろうと……生きることをゆるされた、双ツ子たちが……わずかばかり、いたそうです。(やがて、末姫は“半分”で生まれ落ちたと、そう公にされるまで。そしてそれからも。円環に生まれたひずみに、肩を、背をあたたかく撫ぜられ、励まされて、夜の底をからくも生き延びた人びと。彼らの目を借りて彼女を見つめるように、瞳はそっと細まる。)そうして、たしかに産声をあげた、小さな命が……あたたかな腕に抱かれて聞く、祝福は……それは、呪い、だったでしょうか? すこやかに育て、と生かされた……その子らが、背に負うものは……それとも、願い、だったでしょうか、姫さま。(――呪いだ、と、あるひとは言うだろう。いかに世間の目をごまかそうと、忌み子の行き着く先は知れている。焼けた石の上を裸足で歩ませようとする、それは呪いにほかならないと。願いだ、と、またあるひとは言うだろう。捨て置けばやがて潰える命を、束の間でもいい、今このときだけでも。生きなさい、とすくい上げる手。それこそが願いだと。因果が幾重にも絡んで育ち続ける円環に、まことの形などありはしない。まして、この剣で正すべきひずみなど。思いを確かめるように柄に触れて、構えは右手下段に。切っ先を静かに下ろして待ち受けよう。今ふたたび、剣戟が高く打ち鳴ったなら、斬り崩そうとも、受け流そうともしない。拮抗させる力で刃を噛み合わせ、重ねたまま逃すまいと。)
(日没はとうに過ぎた冬の夜半。紗幕じみて引かれる障壁のうちとはいえ、身を切るような寒さがある。対峙する騎士の額へと浮かぶ大粒の汗。それをいま、拭うために手を伸べることはかなわないけれど、)国じゅうが……、(十と七年よりもう少しだけ前のこと。昔語りのうちにまたひとつ、新たな気づきを得た心地で復唱しよう。そうだ。間違いなんぞけして現れるはずのない貴なる血筋に、しかしたしかに降りたまぎれもない瑕疵。それは当時、あまねく世に広まり、みなをたいそうどよめかせたのだと、そういうことを伝え聞いている。意図せず暴かれたか、あるいは覚悟をして公としたか――されど思う。生きることをゆるされた、わずかばかりの双ツ子たち。あわや失墜かと思われた瀬戸際から、いまなお、人びとの畏敬を集め続ける王室。かつて、長兄は「玉座とは孤独なものだ」と末妹に教えた。ほかにも数点、聞き受けたことがある。家族としての縁には薄くとも、そのあたたかさは、祝福は。)それ、は……とても、むずかしい。呪い、でも、願い、でも……ときに受けとる側によって、はじめに託されたものからは、かたちを変えることさえ、……!(そこで、はっと息を呑む。もう幾度めだろう、なにかに気がついた顔をして、泣き笑いのようにほほ笑んだ。)――……“だから”、――そう。“めぐらせて”ゆけるのが、ひと、なのね……。(輝かしいのは、なにも、去りし春の日にかぎった話ではない。王領の端で迎えた秋の暮れ。あの牧地で聞いた言葉を、ようやく余さず受けとることができた気がして、こんなときなのにうれしかった。回想する。幼き日、長兄はこうも説いた。国に尽くし、民に尽くし、よき代を築けば、人心はおのずとついてくると。時の王妃が双ツ子を孕んだ大騒ぎの折には、すでに物心のついていた年長の王子王女たち。建国神話に深く根ざし、それを頼みとする権威のあやうさをいちはやくその肌で感じていたのは、彼ら彼女らであったのかもしれない。繰り返すばかりが円環ではないのだ。すべての息づかいを絶やさんとする、冬の、夜の底からでも、たしかに生まれきたる命がある。)思い出したわ。ううん……忘れたことなんて、なかったはずなのだけれど……あらためて。わたしが、わたしたちが、はじめて剣をとった日のこと。(血に宿る呪い。双ツ首の竜が今際に吐いた息の緒よ。ぐっと身を沈ませ、地を蹴る反動で、すばしっこく駆けてゆく。あなたのもとまで。)誰のゆるしも、いらない。われら“レイチェル”はふたりでひとり、ただ、剣とともに生きてゆこうと!(斬り崩さず、受け流さず――同じ力で拮抗させようというのなら、あとは純粋な得物のつくりの勝負になる。すぐそばで、亀裂の走る音が聞こえた。騎士の長剣がもろともにこの首を落とすがはやいか、)生きようとしたの。――……ジル。わたし、ね……、(折れる細剣から手を離して、彼の懐まで飛び込むがはやいか。ささやくような睦言が、くちびるを震わせる。)
(荒れ狂う風にどれほど翻弄され、打ちのめされようとも。最後にはきっとみずからの力で、立ち上がれるひとだと知っていた。それでも憂いをぬぐいきれず、心の奥底で恐れるのはひとえに男の弱さで、ひとたび過てば、これもいずれ呪いへと変わるものであったのかもしれない。そうした細々とした思いはほとんど意識の外にあって、今、男の胸を占めるのは、ひるがえる布地の温みのある青さ。それよりもっと明るい色の瞳に浮かぶ、涙の降る一歩手前のような、けれどたしかなほほ笑みだけだ。)……はい、姫さま。……わからない、ということは……選び取れると、いうことです。(同じいつかの秋の日を透かし見て、男もまなじりを解きほぐすように笑んだ。腹のふくらむ母羊をそっと撫でる横顔を、今も昨日のことのように思い出せる。厳しく閉ざされた冬を耐え忍び、待ちわびた春に生まれめぐる小さな命。その灯火にやさしく思いを馳せ、慈しんでいたまなざし。――闘技場に鳴り響く誓いが、凍える夜の底を凛と震わせる。地をすべるように駆けてくるひとつの影に、……レイチェルさま、と、そのひとの名を唇の形だけで呼んだ。王城の奥深くに息づく秘密。ふたりでひとり、小さな手を互いに固く握りしめ、寄り添い、支え、導き合って、生き抜いてきた気高き双剣。我が心の誇り。――きん、と澄んだ音が空に砕けた。白じろとした刃が光る牙に似て迫り、あわや柔肌を切り裂くかと思われたその瞬間、手首を鋭く返し切っ先を逆に跳ね上げて、折れた剣身を高く弾き飛ばす。)……、……ジルは……ここにおります。あなたの……おそばに、おりますよ。(押し殺すささやきに、吐息が熱く滲んだ。聞いている、とうながす形で、剣先を下げ、ぬくもりを胸に受け止める。霞のように淡く広がり、溶けきった影に境界はない。ランタンが投げかける蜜色の輪をいつしか離れて、今はふたりともぼんやりとした月明かりの下、薄闇のなかにいる。乱れる鼓動も、息づかいさえも、やがてひとつに混ざり合おうという近しさだ。わずかに残された隙間すら埋めたがって、おぼろげな輪郭を抱きすくめようとする片腕には、少しのあいだ、その細い身体が浮き上がるほどの力がこめられた。)
(刺突を旨とする細剣は、相手の攻撃を受けるようにはつくられていない。ましてや、柄であるならまだしも、その刃では。糸で引き寄せられるように噛み合い、拮抗するかと思われたのは数瞬のことで、たちまち圧し負けては罅が入る。それでも真正面から飛び込もうとした。この掌から、指先から、優美な曲線をえがく葉飾りのこしらえが離れるのとほとんど同じくして――はんぶんに折れた剣身が、高く、澄んだ音を立ててはじき飛ばされてゆく。遅れて石床を打つ音も、もはや意識の外にあって、)……、……ええ……。(爪先が少しのあいだ、浮き上がるほどの抱きすくめられかた。なにもかもすべてが、ひとつにとけて混ざり合い、還ってゆけたらどんなにか。そんな甘やかな誘惑さえ覚えるよう。その胸もとへ顔を埋めるようにして、騎士のサーコートにしがみつき、息をいっぱいに吸い込んだ。――“できない”と、理解している。これから口づかせる夢語りのことではなく、ふたりがとけてひとりに、ひとつに混ざり合うということ。双ツ子ですら、母の胎のうちで分かたれて、還ることもできずに生まれ落ちた。産声は、こうして上がる。赤子がはじめて、その胸腔を空気でいっぱいに満たし、みずからのたしかなあかしとするように。)――……手を。この手をね、伸べられるような……ひとで、ありたい。いかなるさだめのもとに、世に送り出される命であれ、たとえば、それが……この国の双ツ子であったと、してもよ。生きようと、生きてほしいと、そうして伸ばされる手があるのなら……その手をとって、握ってね、わたし、きっとこう言うわ。「大丈夫よ」と。「ともに、生きてゆきましょう」と。(ゆるしではない。そんなものは、いらない。夜の底で凍えゆく名もなき者たちの、その肩を、背を、ときに抱いては撫ぜながら、あたたかな励ましとするように。――わが身はまことの羊ではないゆえに、その毛皮や血肉で、長い冬を耐え忍ぶ人びとの糧となることはかなわない。けれど、ひとと、羊は違うから。)ふ、ふ。……愚かな夢物語だと、思う?(知っている。現実というのは、高き峰にかかる雪よりつめたくて、ときに無慈悲に吹きすさぶということ。)たやすいことでは、ないわ。そもそも、手を伸べる以前に石を投げられ、追われて、怨みを買うことのほうが多いのかもしれない。(建国神話に深く根ざす、この国のありようというのはそう変わるまい。おのれの代かぎりで遂げられるような話でも。他国へ逃れても結局、招かれざる客となる可能性は否定できない。しかしながら――連綿と繰り返すばかりが円環ではなく、たといそこからこぼれ落ちたとて、生きてゆこうとするならば。)……でも、不思議ね。わたし……ジルがそばに居てくれるなら……なんだって、できてしまえそうな気がするのよ。(あなたといつか見た世界。ひかり降る町を、はしゃいで駆けてゆくいとし子たち。)
(たしかなぬくもりを胸に抱きながら、束の間、まぶたを伏せ、思う。夜の底で懸命に手を伸ばし、けれどなにかを掴むことは叶わずに、沈んでいった幾多の命。)……その御手を、必要とする者が……そのお言葉に救われる心が、この世にはどれほどあるか……。想像もつかないほど、多くの……無辜の人びとが、苦しみ、痛みにあえぎ……それでも生きようと、もがいて……。(背に回した腕をほどき、持ち上げる手のひらでその面差しを上向かせたなら、柔い頰の輪郭を辿り、撫で上げる指で前髪へと触れる。生まれ落ちたいとし子に慈愛の心でもってそうするように、すべらかな額に口づけて。)愚か、だなどと……どうして思えましょう。お伝えした、はずです。あなたは……俺の、誇りだと。(唇は晴ればれと笑った。幼子をかかえる手つきで、ふたたび頭を胸もとへ抱き寄せる。それから空気の流れを探るように鼻先を上げ、)――……王よ、(男が虚空に呼びかけると、すべての生きものが死に絶えたかのような静寂をこえて、遠く、泣き荒ぶ風の音が聞こえた。障壁が解かれたのだ。男の声に応じたのではなく、それはやはり警告であるらしかった。たとえば不用意なひと言で、たちまち何十もの兵がなだれ込み、冒涜者の喉を貫く用意がある、と示唆するための。肌を刺す気配は変わらずそこにあり、天に浮かぶ巨大な眼球じみて、ふたりを監視していた。)……円環の外へ……このひとと、共にゆきます。私は……キュクロスの騎士では、いられません。……ひずみなき真円にこそ、大地の摂理があらわれるのだ、と示したくば……もう、その目で見たでしょう。古き英雄の血を引く、みずからの手で……信条を、明かすべきです。(諦念の滲まない、乾いた声で告げる。“片方”の姫もろとも男を葬り去ることなど、王室にかかれば無力な赤子を縊るようなものだろう。今もどこかに伏する術師の手によって、次の瞬きを待たずに首を落とされるかもしれない。それとも城の外へ踏み出して、半円の月をあおぐそのときに。または休まず馬を駆り、ゆく手に国境をのぞむ細い道で。もしくは遠い異国の地にて、ひととせ、ふたとせが過ぎたころ、新芽の匂いを嗅ぐ朝に。そうして暗がりに潜む影に、絶えずおびやかされる生であろうと、逃げも隠れもすまいが――あるいは。十七年の時を経て、今宵、響きわたった誓いの声が、玉座を震わせたなら。神話はもしもを語らず、しかし今を生きる人びとは、暗闇に一条の光を見いだせる。まなざしを胸もとへ戻して、)……あなたと共にあれるなら、俺は……。(ひと呼吸で言い終える短い言葉には、様々な意味が含まれた。なんだってできる、と応える頷きの仕草。これから進もうとする道に、迷いや恐れはない、と知らせるほほ笑み。)
(おのれを見下げてというよりは、いつかに吹きつけるであろう向かい風を見据えてのそなえとしたつもりだ。くじけぬよう。みずからの支えをしかと胸に刻むため。ゆえにこそ、)……ふふっ……! それが聞きたかったの。もういちど。(それがあれば、ひとりでも生きてゆけるとたしかに信じた。黄昏の記憶。慈愛の口づけを受けとめ、ふたたび抱き寄せられるままに身をまかせた相手のおもてが仰ぐようかしげられると、少し遅れて追いかける。王よ。冬の夜半に、玉座から、ふたつの生命をその掌上に載せては見下ろすこの国のあるじ。――肌や耳を凍てつかせるかのごとくなぶる風の嘆きが、障壁の消失をにわかに告げた。しかしながら、たとい垂れぎぬを落とすようこの囲いが解かれたところで、無粋な観客の目というのは変わらず注がれ、王命のゆくえを気にしている。しびれを切らした王城の中枢が、もろともに処分せよ、と兵をなだれ込ませる気配はまだない。ただ、警告じみて伏する牙の存在は、いつとて示されているのだろう。――円環の、外へ。上下する胸もとの、その身のうちに響きわたるしらべごと聞きとって、短い言葉へと頷き返した。あたたかく、励まされる心地となれば、)キュクロスの王よ。(「父上」とは、内心のみで呼びかける。頼れる腕のなかから身を起こし、半円の月あかりのもと、数歩ばかり進み出た。ちょうど、はんぶんに折れてくだけた細剣の、葉飾りの残骸が転がるあたりに。)……今宵をかぎりに、とわのお別れをいたします。……あがないの羊、は、(そこで宣言は掠れて震えるが、続きを紡ぐことを止めはしない。)ひずみなき真円の理を外れ、ただ、名もなき者のひとりとなり、この国の、夜の底へとまいりましょう。それは……あなたがたの言うところの「大地へ還す」と、ほとんど同義なのではありませんか。(十七年前、父王を口ぐるまに乗せた側近を笑えぬと、ほんの少しだけおかしく思う。円環より外れた者は、この国では存在しない亡霊となるのだ。ふたりの末姫が、その存在を秘され続けたのと同様に。)ですから、いまぞ――……わが身のあかしを、ここにおかえしいたします。(そう口にするやいなや、片膝をついては足もとの柄を拾い上げ、後ろ手におのが結い髪へと刃を当てた。布を断つような音がして、こうべがすっかり軽くなる。宝飾のあしらわれた細剣のこしらえごと、それは、呼応するよう現れた魔法陣の上、まるで焚べられるように消えてゆき――)“ひとり”ではない、というのは……ほんとうに、幸せなことですね。(指先を嘗めた炎に熱は感じなかった。そのささやきは、もう聞こえていないのかもしれない。剣をとる道を選んだわが子に、王が命じて打たせた、最初で最後の贈り物。ひとつ息を吐いてから、おもむろに、おそるおそる振り返ろう。少なからず勝手を働いた自覚はあったので、驚かせていないことを願いたかったが。)
(揺らぐ炎の影に、後ろ姿の輪郭が明るく浮かびあがる。目の奥に永遠に焼きつくかのように思えたそれも、すべてが終われば一瞬のこと。彼女が振り向く先で――男はまさしく、心底驚いた、という顔をしていた。とはいえ、この男をよく知る者が見るのでなければ、傍目には少し余計にまぶたと唇が開いたくらいの。ひとつふたつ瞬き、剣を握ったまま傍らに膝をつく。まず、片手にすくい上げる指先に火傷の痕がないことを確認して、軽く息を吐いた。それから、)……夜の、底へ……、(短くなった髪の、断たれたばかりの真新しい切り口へと触れる。女人の命と呼ばれる、その艶やかな絹糸を静かに撫ぜて。)……理の、外へ……地の、果てへ。……どこまでも、おともいたします。たとえ、すべてをなくしても……あなたの手を、離しはしません。このさき、ずっと……決して、ひとりにはしません、から……。(彼女が置き去らねばならなかった、あまりに多くのものたちの代わりにはなれない。けれど、手を重ねてぬくもりを分かち合い、偲ぶことはできようか。騎士としてではなく、ただ、共に生きる男として。ランタンの火が大きく揺れて、星々の最後のようにひときわまばゆい輝きを放ち、ふっとかき消えた。それを機に立ち上がり、拾い上げた外套を彼女の肩へ被せてから、手のひらを差し出そう。彼女がいつもそうしてくれたように。――闘技場を背にしても、まだ首は繋がっているようだった。進む回廊の先、抑え込まれた息づかいに似て張りつめる空気を感じたが、突如として現れる障壁や、幾多の刃にゆく手を塞がれる兆しはない。城内から、不自然なほどにひとけが失せている。遠巻きに息を潜める気配をたしかに気取らせておきながら、許容ではなく、明確な排斥の意図をもって視線を逸らしてみせるような。円環の外で、夜の底で、存在し得ぬ亡霊がこの国に生きるとは、そうした見えざる目に晒され続けることであるのだろう。床下から冷たく染み出す夜気に、ふたりぶんの足音だけが響く。手を引いて先導する男は急く様子を見せず、あるじの凱旋につき添う従者さながら、その歩みは堂々としてさえいた。まなざしだけは鋭利に辺りを窺い、影が濃く落ちる柱の間や、灯の届かぬ隅を何度も往復したが、それも傍らを見下ろすときには和らいでいる。同じくやわらかに開いた唇が、途中でふと動きを止めた。一度、反射的に口にしかけたものを、押し留めて迷うそぶりだった。)……、……“ねえさま”、と……いうわけには、まいりませんね。(呼び名のこと。これから共にする、未来の話でもある。片手に抜き身の剣を構えた局面には似合わない、日ごろの、起伏の少ない声の調子で。)
(清めの炎だ。供物というのはそうして捧げられ、灰となりて大地へ還る。そういう、いにしえのしきたりをなぞるものだろう。――どうやら、ひどく驚かせたらしいとは、振り向いた先の様相からありありと知れた。少しだけばつの悪いような心地で、指先を大人しくゆだねたのち、)…………ええ。ありがとう、ジル。……ありがとう。……あなたが居てくれるから、わたし胸を張って、これからも生きてゆける。(交わす言葉より、託す想いより、もっとたしかなよすが。末姫がふたり孤独に蝕まれず生きながらえたのは、半身たるたがいの存在があったからこそ。これからは、彼とともに。肩へと外套をかけてもらえば、差し出された掌を指先でたどり、いつかの秋の日と同じように繋いでゆこう。――不思議なことに、かがり火の焚かれる回廊をいくら進んでも、警備の兵にはただのひとりも出くわさない。ひとも鳥も、草木さえも眠りにつく、そんな真夜中のことではあるが――しかしながら、たしかに、いまもなお、けして眠らぬ誰ぞのまなざしが、ふたりには注がれ続けている。そこに存在しないものを見るときのような、ぬくもりのない、見えざる目。そうして油断なくあたりを警戒する相手の瞳が、ふと和らいでこちらを見下ろす。なにかを言いかけ、わずかに迷って押しとどめるような幾ばくかの空白。)…………あっ、(そういえば、そうだ。すっかり頭から抜け落ちていた未来の話に、手を引かれながら想像をめぐらせようとした、その刹那のこと。おもむろに、背後で火影がひとつ、風もないのにいきなり大きく揺らめこう。もっとも、それは突如として現れる障壁や、幾多の刃にゆく手を塞がれるきざしでは、なく――言うなれば、どこかで誰かと誰かが押し問答でもはじめたかのような、そんな気配の揺らぎかた。)――……!(知っている、と感じたときには、すでに“それ”は現れたあと。ぽんっ、と軽やかな音を立てて、なにもなかったはずの空間から、外套ひとつ、小さな荷袋がふたつ、こぼれ落ちる。ご丁寧に、片方の荷袋には見覚えのある白い手巾がくくりつけられていた。)……もう。部屋で大人しくしていて、と、言ったのに……。(口ぶりばかりは呆れていたが、声音にはしみじみとした愛情がにじんだ。いまごろ、王室おかかえの術師たちのもとへと乗り込んでいそうな姉の、悪戯なほほ笑みを思い浮かべる。もう、妹が、尻拭いをする必要もない。)……おんなじ名前だと、なにかと不便でしょう。だからね、ふたつの愛称で、生まれた順に呼び分けることにしたの。あちらが“レイ”。こちらが“シェリー”。(彼の手をいちど離れ、餞別を拾い上げつつ、そんな思い出話。)だから、呼んでもらうなら……だけれど、あのね。もうひとつ新しい音をつけ加えようと、いま思ったわ。あなたの名前から、ひとつ音をもらって、(白い手巾の結ばれたほうの荷袋と、外套を差し出し、緊張したあらたまった顔で。)――……「シェリル」と、どうか……そう、呼んで。(きょうだいでは、“ねえさま”ではない、あなたの。ゆいいつを乞う。)
(“ひとり”にさせてしまう、という思いがあった。片時も離れず固く握り合わされてきた、ふたつの手を無理やりに引き裂いて。もしも、この一夜がすべてを塗り替えることになるならば――と、手巾を託したそのときにも。だから――かすかに息を呑んだのは、驚きからではなかった。しっかりしろ、と背を叩かれたような心地で、宙から現れたそれを見る。)……、無茶を……なさっておいででなければ、よいのですが……。(揺れる火影に照らし出されて、男の双眸もまた親愛の情に満ち、灯火のあたたかさを帯びた。悪戯めいて輝く瞳を思い出す。もうあるじとは呼べないそのひとの、幸いを願う心は変わらない。これからもずっと。)……レイさま……シェリーさま……、(そうして、ふたつの音を順番に繰り返したのち。)――……シェリル。(“最愛”の意味を持つ、その響き。ゆいいつの名を舌にのせて、シェリル、ともう一度口のなかに転がし、まなじりを細めた。外套と荷袋を受け取って胸に抱き、頭を俯けて、手巾に唇を寄せる。)あなたの名を……もう、ほかの誰にも、呼ばせたくはないと……少し……少しだけ。考えて、しまいました。これは……罪深い、ことでしょうか……。(自制と、なにものかの狭間に迷うような声。けれどひっそりとささやく口の端に落ちる影は、ほほ笑みの形にたゆたった。――夜のしじまを連れ立って、やがてたどり着いたその場所も、ある意味では王城の“奥”だった。ただし、貴きかたがたの目にはまず触れないだろう一角である。この古い門扉をくぐるのは、主に死びとや罪人、不浄とされる荷のあれこれだが――後から与えられた役割の一切を取り払ってしまえば、ただのもの言わぬ鉄門。錆びついた落とし格子はなにを語るでも、糾弾するでもなく、ただ風に吹かれて軋んでいる。周囲は相変わらずの静けさで、振りあおぐ門塔にも、やはり灯りは見えない。跳ね橋を下ろして水堀を渡った先には、青毛の馬が一頭繋がれて、月明かりの届かぬ暗がりに溶けこんでいた。ふたつの袋を手早くまとめて、馬具にくくった荷のなかへと加え、最後の支度を整える。)――剣……、(ふと、つぶやくようにこぼしたのは、小さな靴の踵におのれの手のひらを踏ませ、軽々と鞍の上へ押し上げたときだ。外套の細腰を手のひらで支えて、しっかりと座らせたなら、馬上のひとを改めてあおぎ見る。)……代わりのものが、欲しいですか。(代わり、とは、供物を還す役割を担ったひと振り、そのものだけを指したのではなかった。もしも彼女がふたたび剣を携えて、たとえば身を守る術を学ぼうとするなら、多少のことは教えられる。あるいは、刃を鞘におさめ、別のなにかを手にとるというのであれば、それもまた、ひとつの道だろう。)
(城の奥深くに住まう秘されし姫君が、この短いあいだに用意できる荷など高が知れている。路銀の足しとなりそうな装身具や小物のたぐい、飲み水を入れるための革袋、火打石。洗いざらしの綿布は、身体を拭うでも、細かく裂いてなにかの固定に使うでも。わずかなそなえだが、なにより心づかいがありがたい。)……ふふ。そういう見きわめは、むか~~しからお得意よ。どちらかといえば、お気の毒なのは……振りまわされるお偉がたのほうね。(事実、遠巻きにこちらへ向けられ続けた気配というのも、いまとなっては薄れつつあるようだ。ふたり、同じ瞳を思い浮かべては笑みを交わそう。)――……、(産声を上げたゆいいつの名を呼ばれて、はじめに胸にきざした想いはなんだったか。手巾にくちびるを寄せるさまにも、はっとしたのちに目もとを染めて、)「少しだけ」?(と、からかいと、恥じらいのはざまにたゆたう復唱を落としたのだった。)いいえ。罪深い、などとは。(しかし途中から、ふと思い出したかのよう、口ぶりがあの春の日まで時を逆巻く。これまでのあらゆる物ごとが、ひと続きの道として、いま、この瞬間にまでようやく繋げられたかのような、そういう心地に打たれながら。)それでもあなたが気に病むなら、こうしましょう。……ゆるしますよ。ジルベルト。(まなざしは愛おしげに。)はじまりに、呼んで。これから、ほかの誰よりいちばん近くで、いちばん多く呼んでくれるのが、あなただもの。こんなにうれしいことはないわ。――ジル。(最愛のあなた。やがて、古びた門扉をくぐり、跳ね橋を渡るさなかに、肩越しに振り返っては姿を探す。開かずの尖塔。わが身が封ぜられるはずであったところ。見わたす視界のかぎりには見つけられず、そしてこの先も知ることはない。かつて、呪われし双ツ子が生まれ落ち、王妃の命のともし火が消えた場所。役目を失くした羊皮紙も、いずれは大地へ還るだろう。そうして、先に馬上へと押し上げてもらい――ふとした問いに、思案をめぐらせる。)そう、ねえ……。あらためて稽古をつけてもらう必要がありそうだけれど、身をまもるすべが道中あるに越したことはないだろうし……。(頷いて、新たな得物と未来図を思いえがいた。騎士団の稽古を見学した際、実戦の流れというのも多少なり目にした覚えはあるものの、みずから動くとなるとまた違う。そういうことと、)あとは、また、別の話なのだけれど――……わたしね、ゆくゆくは、医術や、助産のすべを学びたい。もちろん、いちど、この国を出る必要はあるのでしょう。ただ……この先、落ち着くところが見つけられたら……次は、弟子をとってくれるお師匠を探します。(付き合ってね、と言わんばかりにほほ笑んだ。剣のほか、たとえばへその緒を断つ小刀を携えて、夜の底の人びとへとこの手を伸べられるように。とはいえ、斯くも野望を語る前に、切りっぱなしのざんばら髪を整えるほうが先だろう。旅立ちはもう、きっと間もなく。)
(男が人目をはばかって手配した旅の備えは、決して万全なものではない。贈られた品の数々が、道中の助けとなってくれるだろう。外套もそのひとつ。紋章を刻む白の衣に代わり、あたたかな餞別を羽織った男は、星をあおぐように目を細め、彼女を見上げる。)では、まず……よい鍛冶屋を、見つけましょう。それから……医伯や、治癒者、薬師に……広く、門戸をひらく街を。医学の道もまた、多岐にわたるもの、と……そう聞きます。人びとに……手をのべるすべを……あなたが思い描く、未来を……たしかに、探せるように。(つらい試練を耐えたばかりで、目を先へ向けさせようとするのは酷なことか、と思う。けれど彼女の瞳は道に惑わず、凛々しく未来を見つめていた。それがなによりうれしく、誇らしい。もしも凍える風が忍び入り、痛みを呼び覚まそうと吹き荒れる夜があれば、この身は隣で寄り添う盾となれる。そうした意識とはまた別のところで、)――……考えて、おりました。正直に、申しあげるべきか……。(鞍に跨り、彼女の頭をおのれの胸もとに寄りかからせたのち。ややあってから切り出すのは、先刻、からかいと恥じらいの色を交えて投げかけられた問いへの答え。季節を越えて与えられた、ふたたびの――ゆるしについて。不揃いに切られた髪へ指をさし入れて、そのひと房を吐息で湿らせる。)……この御髪が、整うまでの……ほんの、ひとときでよいのです。……俺は……あなたが欲しい。あなたの、すべてが……。(華奢な体躯に両腕を回し、逃さぬよう抱えこんだなら、ひんやりとした頰を触れ合わせて。)俺に、俺だけに……シェリル。……ゆるして、くださいますか?(ささやきを溶かし崩してねだる。シェリル。きっとたくさんの声に、親しみと、愛情をこめて呼ばれるようになる名だ。はじまりに呼んで、誰よりも近くで呼んで。このうえない栄誉を授けられ、それでもまだ足りぬ、とさらけ出す胸のうち。調子にのって、とお叱りを受けるのであれば神妙に姿勢を正しもするが、外気から遮るように囲った腕をゆるめる様子はない。呼気に笑みの気配をのせて、先ほどは愛らしく染まっていたまなじりの色を、今は確かめられないのが惜しい――と、そういうことを考えている。合間に手綱をとって歩を進め、軽くうながしてやると、馬は跑足に駆け始めた。一度振り返って眺めた王城は、半円の月を背に黙してそびえるばかり。長きにわたって積み重ねられた威容に比べ、風に吹かれてこぼれ落ちる葉のように離れゆく影は、あまりに小さく見えるだろう。高き峰々のふもとにうずもれ、いずれ歴史のうろに葬られるはずだったふたつの名、そのゆくえが正しく語られることはない。けれど、のべられる手のぬくもりを、めぐり来る春のよろこびを、あたりまえに誰もが知る、そんな日が――いつか、この国には必ず訪れる。外套の合わせを広げ、共にあるそのひとをくるむように懐へと抱いて、男はまた前を見据えた。道をひらく蹄の音が、夜のしじまを裂いてゆく。生ける命の熱を連れて。今もどこかで産声をあげる、かすかな息吹を探して。)
〆 * 2022/12/2 (Fri) 11:48 * No.137
(鞍の前方にて横向きに腰を下ろし、彼の胸もとへと寄りかからせてもらう体勢は、のどかな秋の暮れを懐かしく思い起こさせた。あのときの芦毛とはまた違う、暗がりにひっそりととけ込むような青毛の馬。どうぞよろしくの気持ちを籠めて、そのたてがみをやわく梳いていたところ、)~~~~ッ、(真新しい切り口をさらす後ろ髪の、その毛先から指を差し入れられてふと注意が引かれると、そのまま、ぐっと、強く、心ノ臓ごと手繰り寄せられる心地になる。耳朶を震わすささやきが、おのれの芯を揺さぶり、熱くした。こたびほとばしるしびれは、あの、わが身を凍てつかせるつめたさを連れてくるのではない。なんと甘やかで、この胸を打つ響きなのだろう。たちまち両腕がまわされて、かかえ込むように抱きしめられる。たがいの頬がひたと触れ合う、ふたりだけの、はざまの“世界”。これより未来に多くの人びとと出会い、別れ、それぞれがあまたのえにしを手にする掌のうちに、ああ――しかしながら、ひと筋のひかりが差す前の、その、ほんの、二度とは戻らぬ払暁のあわいに。)――……ゆるすわ。(身じろぎの代わり、つのる思慕とともに、頬や鼻筋をすり寄せたがった。)と、いうより……もっと言うと、ゆるす、ゆるさない、の話では、なくって、(愛おしさに溺れかけながら、あえぐように息を吸えば、)どうか、知ってね。ジル。ゆいいつのあなた。わたしも、また……同じように、どれだけ、あなたをのぞんで……焦がれているか。(どうか、知ってくれたらいい。お叱りだなんて、とんでもない。けして悲しくはないのに、まなじりには涙がにじんだ。――“できない”と、理解している。ふたりがとけてひとりに、ひとつに混ざり合うということ。誰しもが、どこかしらを欠いて生まれ、なにをうしなったのか思い出せずに求めて、埋めたがるのかもしれない。かなわずとも。だから、こんなふうに泣きたくなるのだ――と、そういうことを考えていた。手綱の合図に従って馬がやや速歩に駆けはじめると、半円を背にした王城は、たしかに少しずつ遠ざかってゆく。年輪を刻む大樹より、風に吹かれてこぼれ落ちるふたつの木の葉の姿は、もう見えない。いずれ大地に還るそのふたひらも、凍てつき震える小さな新芽をまもり、めぐり来る春へと送り出す、そんなあたたかな手のひとつとなろう。おのれの代かぎりで遂げられるような話ではないし、そも、ひとの身にはかぎりがある。それでも。)ジル。あの、ね。わたしね――……、(外套の内側で、ぬくもりを分かち合うよう寄り添って、鼓動に耳をかたむけていた。そうして、いくらか夢心地の口ぶりで語りはじめる、黄昏に覚えた羨望のこと。――いつか生まれるかわいい子に、おまえの父はかつて王城で姫君にお仕えしていたのだ、と昔話をひも解くとき。ちっとも信じるそぶりのないいとし子に、あなたはどんな顔を見せるだろう。そこへわたしは、お茶でも運んで、おかしげに笑ってとりなすのだ。それもまた、えがく未来図のうちのひとつ。わたしたちは、そうして生きてゆく。)
〆 * 2022/12/4 (Sun) 02:56 * No.143